第4話 奇蹟の輪郭
――私の所為だッ!
駆ける――。
駆け降りる――。
暗闇の中、僅かな月明かりに導かれながら。木製の階段を足音荒々しく踏みしめながら。何段も飛び越えながら駆け降りる。
頼れるのは僅かな月明かりと己の肉体感覚のみ。
でもそれだけ十分だ、――間に合うのなら。
――死なないで、お願い!
心の奥底で何度も何度も繰り返される謝罪は声にもならず、胸中を締め上げる焦燥感が涙となって溢れる。風を纏い頬を流れていく涙は、冷たさと共に譬えようのない孤独をミエコに突きつけた。
3階の高さから堕ちたら無事で済む訳がない。
当たり前だ。
落ちた人間は衝撃で無惨に砕けるように――。
嫌な想像ばかりが脳髄を満たしていく。悍ましい吐き気を押さえながら只管走る。
――それでも、それでも!
飛ぶように階段を駆け下り、1階に辿り着いたところで侵入用に開け放たれた窓が見えた。淡く光差す窓の向こう側に、――見えた。
「磯子ッ!」
勢いそのままに窓枠から身体を撃ち出す。
冷たい風が夜気と共に身を攫う。
砕け散った硝子片がキラキラと月光を纏い輝いている。その只中に――。
「そんな……」
その姿にミエコは息を呑んだ。
視界の端に入ったところで諦めていた。微動だにしない彼女を、彼女の身体を遠くに見て内心諦めていた。きっと闇を溶かし込んだような血だまりの中に倒れているに違いない。
残酷な現実を引き受ける僅かばかりの覚悟をしていたミエコは、眼前の光景を直視して戸惑った。
「嘘でしょ……」
傷一つない――。
赤みを帯びたサーブのセーラー服も、窓から宙に舞ったそのままの姿で。
地面に叩きつけられたであろうはずの身体には、傷も血の跡も、土汚れすらない。その顔はまるで赤子が母に抱かれ眠っているように、安らぎの中に穏やかな笑みを浮かべている。
――そんな馬鹿な!
立ち尽くすミエコは思わず校舎を振り向き仰いだ。見上げれば、月明かりに照らされた雲が悠然と校舎の端に掛かっているばかりで、割れた硝子窓が小さく小さく闇を湛えている。
――あの高さから堕ちたんだ。
なのに何故?
頭が混乱と不信感の渦に引き摺り込まれる。
――ううん、そうじゃない。
――私のすべきことは目の前にある。
「磯子、大丈夫!?」
ミエコは震える声を絞りながら磯子に駆け寄った。彼女の無事を確認すべく身体を抱え上げようと手を伸ばした。
その時だった。
「……無理に起こさないでください。折角、眠ってもらうように術を掛けたんですから」
突然、どこからともなく男の声が響いた。
「誰ッ!」
反射的にミエコは声を荒げた。
「まぁ……、そこの彼女を助けた者ですよ」
低く落ち着いた、バリトン声のような深みがあった。声は校舎の間で幾重にも反響し、音の輪郭すら曖昧だ。
「彼女は無事です。怪我一つありませんよ」
もはや人の声かも怪しいが、話しぶりは妙に人間味があり――、ミエコは僅かばかりの安堵の息を漏らした。
「……そう。確かにそのようね。でも、アナタは……?」
姿が見えない。
声の方角すら定かではない。
闇夜の鴉の風情に、ミエコは探るように視線を巡らせながら眉を顰めた。
「そうですねぇ、今は名乗らずにおきましょう」
やや芝居がかった穏やかな声色が闇夜に踊った。「ミエコさん、彼女は助かったんです。このまま帰ることにしませんか? 今ならそこの彼女も全て忘れてしまっています。硝子の方も適当に処理しておきますので何もなかったことに出来る。――そうでしょう?」と、捲し立てるように言い聞かせてきた。
滲み出る偽善的な響きと違和感。
その中でも、ある一点が殊更にミエコの警戒心を呼び起こした。
――私を知っている。
ミエコは僅かに首を振り、毅然と顔を上げた。
「……ご忠告どうも。でもね、私は嫌なの。何か分からないものが私を守ったり操ったりするのは、気味が悪くてしょうがないわ。そういうものは全部拳で明らかにするのが癖なのよ」
気に食わない者はぶん殴る。
それこそがミエコの矜持であり、変わらぬ魂の縁だった。
しかし。
「その蒙昧な判断が、彼女の命を奪いかけたのよ?」
短兵急に鋭く凜とした女の声が響き渡った。低く声を抑え、怒りを滲ませたその声が校舎の狭間に響き渡る中、男が「あぁ……」と不意に残念そうな溜め息を漏らした。
「何でも自分で解決できるなんて思わない事ね。……貴女の力は、それほど強くないわ」
「力? 力って……」
意味を質そうとした時、重ねて男の深い深い溜め息が聞こえた。
何か不味いことでもあったのだろうか、ミエコが訝しみながら虚空を見つめると、男の声が力無く響いた。
「――――仕方ないですねぇ。ミエコさん、貴女は吹聴はしないでしょうが、どうせ真実を知りたくて周りに大迷惑をかけてしまうことでしょう」
諦めの境地に達したような声が、三度溜め息交じりに響き渡った。
「だったら、さっさと謎なんて開示しちゃいましょう。……明日の放課後、銀座にある喫茶ロマネスクに来てください。来店すれば――まぁ、すぐに分かりますよ」
夜寒の風の如く、耳にこそばゆい残響を残して男の声は儚く消えていった。
残されたのは静寂――。
まるで最初から何も無かったかと錯覚するほどに、辺り一帯がシン――と水を打った静けさに包まれている。
張り詰めた空気が途切れる様に夜寒の風が頬を撫で、ミエコは僅かに震えた。
見渡せば砕け散った硝子片が冷たく輝いている。月光を湛え、今し方起きた現実と虚構の狭間の出来事を嘲笑うかのように、何も語らない。
ミエコは一人、静かに立ち上がった。
唇に痛みを覚えるほど固く噛みしめながら――、冷たい月を見上げた。不安と覚悟を綯い交ぜに、それでも尚、一片の曇りなき意志が宿った彼女の瞳は月光をいっぱいに受けて輝いていた。