第57話 惨禍の海に佇むまごころを
銃口をフードの人間に向けながら、ミエコの視線がたじろいだ。
故に見えてしまう。
――筆舌に尽くしがたい。少女の頭にあまりに不用意に言葉が浮かんだ。眼前の惨禍、水塗れ、血塗れ、人間だった肉塊と思しき赤や白のバラバラとした物体が、薄汚れた白熱灯に照らされて工場の床一面を覆う。
血肉の臭いは水のせいだろうか、鼻腔から脳髄に抜けることはあっても、意識を奪うほどの激臭ではなかった。それでも苦しい。
人だったもの、服装すら濡れて分からない。
そもそも頭や腕の形がない。
壁や床には巨象が踏みしだいた様な痕跡が。その踏み潰されたと思しきところに、ボロボロになった人間――、のようにしか見えない、赤や白、カーキ色があるばかりなのだ。
濁った空気。
分かってしまうからこそ、身体が震える。
酷い苦痛を伴う現実に瞳が震え、視線が自然と逸れてしまう。しかし視線の先、ヒノエの横顔を見たミエコはぞっとした。
冷たい澄まし顔のままであった。
「貴様ら……、か」
静寂を破り、声を発したローブ姿の男。
聞き違えることもない。アイツだ。『暗黒の知啓団』の首領――。
「止まれッ!」
流れる冷たい汗も気にならない。震える腕を必死に押さえ、二十六年式拳銃の銃口を男に向けた。男の顔は相変わらずフードの闇に塗れ、年も相貌も定かならず。ただ口元だけは瞭然と見え、十数米先からでも分かる。
口の端は、悔しそうに歪んでいた。
「やはり私ではこれが限界か。貴様らの接近に気づけないとはな」
口惜しそうに呟く様は、心の底からの悔恨と思わせながらも、どこか余裕を感じさせる外連味を滲ませていた。そして僅かに指先を少女――、目も虚ろの級長に再度伸ばそうとしたところで、
「動くなッ! 動けば撃つッ!」
と乙女は昂然と叫んだ。
「当たらん弾に何故怯えなければならぬ?」
威嚇は既に威嚇の体を成していない。最大限の侮蔑を吐いた男は、
「だが、もう遅い」
口の端を更に歪ませた。
志乃の自動小銃の銃口が、ヒノエの矢先が男を捉える。しかしあまりに近い。男のすぐ隣には――。
「中宮! 中宮! しっかりしなさいよ!」
顔は間違いない。なのに見たこともない表情を見せる。
ジリジリと歩み寄りながら、ミエコが悲痛な叫びをあげた。水音と血水の存在が、視界の端を埋め尽くすとも、乙女の激情は止まらない。
「あんた、あんなに私に突っかかってきた癖に、なによこのザマはッ!――良からぬことに首を突っ込んでいるのはあんたじゃない!!」
今や懐かし級長の煽りを思い出しながら、乙女は目頭に熱さを覚えた。人並みの世界で、辛口の窘めに口を尖らせる、そんな関係で良かった。憎んでなどいなかった。仲良い友達ではなかったけれど、こんな人の理を外れた場所にいて良い友達ではない。
ミエコの叫びを遮るように、男はほくそ笑んだ。
「無駄だ。この女にお前の声は届かない」
「五月蠅いッ!」
十米を越える巨大ロボットの眼前で、中宮の表情はぴくりとも動かない。男の言う通りだとしても、吠えなければならない。それこそがうら若き乙女の矜持なのだから。
「中宮、しっかりしなさいよ! アバンチュールに巻き込まれるなんて、アンタの一番嫌いなことでしょ! そんな怪しい男に操られるなんて、何してんのよ!」
銃口が徐に下がり、必死に叫ぶ。
催眠術か何か知らないが、友を助けるために出来るのは、今は声しかない。
それでも――。
「成る程。お転婆娘の評は正しいな」
思わぬ一言にミエコは目を見開いた。
「……読めないわね」
不図、黒衣の巫女が冷たい顔のまま呟いた。
「祟除でも邪払でもない。……術じゃないわね、この感じは。心を他人に読ませないように工夫してる癖に、それに人の手が加わった感じがしない」
――あんた、人間?
――それとも変なの憑いてる?
短弓の矢先が確りと男の眉間を捉える。男はやや口角を下げて「黙れ」とだけ感情を滲ませて呟いた。
「貴様のような下賤な輩には分かるまい。闇に埋もれてしか見えない、国も、歴史も、人間というくだらない生き物の葛藤すら越えた――、絶望の」
「御託は結構」
ぴしゃりと遮るヒノエにミエコも志乃も、驚きの視線を向けざるを得ない。
「付け焼き刃でしか術を熟せない人間。アンタ、ずぶの素人でしょ? こんな惨劇を起こせるとは思えないわ。アンタに憑いてるとしたら、碌でもない奴でしょうねぇ、きっと。木偶人形で人を踏み潰し、憐れな女学生を人質にする時点で人の道にはもう戻れないわよ、鬼畜野郎」
ヒュッ――、と音がささやかに響いた。
ギリギリと引き絞られた弦が甲高い音と共に放たれた音。ミエコが驚く暇も無く、矢は男に吸い込まれるように真っ直ぐと飛んでいく。その須臾の間は、乙女達の瞳が追いつかないほど短い間であったが、視線が漸く追いついた時に響いたのは、鈍い金属音と甲高い金属音であった。
乙女は目撃した。
矢は弾かれ既になく床に落ちている。それもそのはず。後ろに立ち尽くしていたロボットは前のめりに、――まるで男を庇うように灰色の巨腕を前に迫り出し、傷跡一つついていない鋼鉄の装甲が静かに白熱灯の光を帯びていた。
「依代は既に付け替えた」
酒樽の様な巨腕の影で、男の口角が上がる。
「さぁ、行くぞ。帝國の守護者ども。慈悲の水、転じて無慈悲に万物を断つ刃となれ。全ての資本家と、変わらぬ日々を打ち壊し、この大地を叫喚で埋め尽くせ。お前の望む通りに、全てを叩き潰せッ……!」
暗い声の高らかな宣言が響く。
両手を天に掲げた男に呼応し、ギシギシと音を立ててロボットが上半身を持ち上げていく。幾十の機械を切断し、恐らく幾人かの人間を無惨に踏み潰した、鋼鉄の獣が目を覚ます。
ぎょろりと赤く光る硝子玉である。
巨人の一眼が、銃口を向ける乙女達に向けられた。
怖気に歯がみする志乃が小銃を構え直し、澄まし顔ながら口を真一文字に結んだヒノエが新たに矢を番え、ミエコが怯えた瞳でロボットを見つめた、その時であった。
――ミエ、コ。
「なに……」
男が不意に後ろを振り向いた。
鋼鉄の巨獣は直立に立ち上がったかと思うと、突然左を向きあらぬ方向へ向かって歩き出した――。




