第55話 良くない薬
人の声なく、街の喧騒もやや遠く。
夜の闇が深々と蹲っている片隅である。
人間の本能が、脳味噌が闇を怖いものとして拒絶するのは命の危険――、いつ何に襲われるか分からないという根源的恐怖に由来している。寝静まる夜を引き裂き、突然獣が襲ってくるかも知れない。人類の進化の過程で獲得した「恐怖」という感情こそが、命の危機を遠ざける。
しかし、その闇に飛び込んでいかねばなし得ないこともある。
ミエコはジャケットを膨らませているホルスター、二十六年式拳銃の重みを確りと意識しながら壁にもたれ掛かった。まだエンジンが熱を帯びる英国製自動二輪を尻目に、辺りを見渡せばモルタル、トタン、煉瓦、様々な倉庫が並んでいる。闇の帳を透かして見ると、どれも同じ面構えである。晩夏の夜は殊更に秋の気配を感じさせ、ひんやりと肌を滑る空気が冷静さを優しく引き留めている。
顔を壁際からほんの少しだけ覗かせる。
目的の工場を視認した。
『配置についたわ』
『こっちもよ』
『こちらもです、お嬢様』
それぞれの位置と方向、存在を思い浮かべながら念話を重ねる。ミエコの位置は一番近い角に着いた。それぞれ倉庫一つ二つ挟んだ程度の距離である。この程度の距離であれば誰彼構わず念話で叫ぶことも、特定の人間とのみ話すことも出来る。
しかし、廃ビルヂングで向けられた十四年式拳銃を思い出し、ミエコは僅かに首を振った。
『私達以外に誰か居そう? マスター、大丈夫?』
『えぇ、大丈夫そうです。目的の工場以外は寝静まっておりますよ』
近堂知三郎の運転する『カガチ』は、周囲の警戒を厳としつつも、怪異に即応出来るようエンジンは回したままである。軍需工場は増産の勢いに工場を回しているところもあるだろうが、この辺りの倉庫街は静かなもので、居並ぶ匣の片隅から、ミエコ達を援護できる位置に陣取って闇を纏っている。
『近堂様。念のため、舌の準備もお願いします』
『勿論で御座います、志乃様。いつでもいけますよ』
カガチの舌――、姿が見えないながらも容易に想像がつく。ミエコは肩を竦めながら突入準備を窺った。それぞれが持ち場に着き、後は歩を進めるばかりである。
『今日は伊沢も丸島さんもいないけど、術式周りは大丈夫? ヒノエ』
『問題ないわ。結界と迷妄術式を辺りに置いておいたわ。後で回収するのは面倒だけど』
『お二人は別のご用事――、ございましたか』
『まぁね』
まるで溜め息すら念話で聞こえてきそうなくらい、ヒノエは調子を落とした。
『支部長揃って、しかも二人だけで調査なんて「隠し事してます」って言ってるようなもんじゃない。まったく』
もう少しうまくやりなさいよ、とくだを巻いた。
『しかもこっちの案件より重要、って判断よねぇ』
不図、ミエコは空を見上げて鈍い輝きの星々を見つめた。都会の夜空は鈍い輝きに満たされ、天の川を見ることは難しい。幾ら風紀取締でネオン街が消滅したとしても、人の営みが織りなす帝都の煌めきである。眼前は暗くとも、夜空は厭にボンヤリと明るい。
『天の采配――、ってワケじゃないけど、姫のご意向なら仕方ないわ。……それよりミエコ、この話も本当でしょうね』
『さっきも言ったけど、お猿さんの情報よ』
『だから信用なんないんじゃない。……本当に信用できる?』
『――多分、ね』
中宮が目撃されたという事実は伏せて。
乙女の矜持と国家権力の狭間に揺れ動く、いてはならない、あってはならない女性。それこそ父の言う『人並みの世界』に居るべきなのに。ミエコは改めてヒノエ達に猿渡の情報を伝え直した。
――如何にも焦臭いものだった。
世界を席巻するドイツ帝国からの輸入品。
前線の兵士達にも使われ始めているという、「疲労の防止と恢復」に効果があり、「集中力を高め眠気解消」もしてくれる便利な薬「ペルビチン」。同様の薬が既にアメリカでは喘息薬「ベンゼドリン」として市販化され、その後は鬱用の薬として錠剤としても流通しているらしい。麻薬は国際条約に併せて取締対象となっているが、この薬の効用、運用に問題がないか、内務省内部で一部検討と検証が始まった、と猿は唇を曲げながら語っていた。
そんな魔法のような薬があれば、誰だって欲しい。
コーヒーを何杯も飲まなくたって済む。
だけど、絶対いい話じゃない。
幸せな話なら、特高や羅刹が絡むような案件じゃないから。
猿に曰く。「麻薬は阿片だからよ、治安管理っつー考えから切り込めるんだけどよ、今回のこれは衛生局やら製薬業界のスジだからよ、ウチらはあんま突っ込めねぇんだよ」
続けて曰く。「内モンゴル経由で製造方法を手に入れて密造してるらしいんだわ。価格をつり上げて、金持ちに売ってるらしいだけどな。もしこれが阿片みてぇなもんでよ。使っていく内に抜け出せねぇようになっちまったら」――、しかも今は戦争中、ときた。
需要はたんまり。金持ちだけじゃない。もし謳い文句通りなら、軍が真っ先に手を付けるだろう。実際ドイツ軍では既に使われているため、日本での流通も時間の問題――。
『――で、寄りにも依って、そこに『暗黒の知啓団』が絡んでくると』
随分と倦んだ声色であった。
『「暗黒の知啓団」の金の筋を追っていったら、秘密工場と軍部の繋がりがあるらしいと。その薬の是非はどうでも良いわ。金の行き先がアレなら、ウチの案件でしょ。……でも、どう絡むか猿は言ってた?』
一瞬の沈黙を挟まざるを得なかった。
『……うぅん』
『そう。まぁ、いいわ』
ヒノエは聡い。
それは父の評に限らず、接していて分かる。
だから、中宮のことを言わなくても――、全部察しているかも知れない。態々言わないのも彼女の優しさなのだろう、とミエコは申し訳なさに、誰に見られるでもなく僅かに頭を垂れた。
『それじゃ、行きましょ』
あの死斑のような黒が登り立つ匣へ――。
ヒノエの一言に応じて、ミエコは拳銃を抜いた。




