第51話 お家が大事な時代
「いッ⁈」
肩を撥ねるように竦ませた城戸は素っ頓狂な声を漏らした。
ミエコの罵声は高低織り交ぜ良く耳に響く。即座に振り返ることも出来ない。蛇に睨まれた蛙か、或いは全身の毛が逆立つ猫のようであった。
店内は一瞬にして静寂に包まれ、疎らな客のうち何人かは息を呑んだが、他数人は直ぐさま己の雑談に戻った。
「み、ミエコ……?」
香奈恵のややカールがかった前髪が揺れた。背中を向けて固まる大馬鹿野郎の頭ごなしに彼女を見下ろすと、瞳を僅かに潤ませているのが見て取れた。
余程怖かったのだろう。
ヒノエのように心が読めずとも、声と瞳だけで十分だ。
「香奈恵が嫌がってるじゃない! この変態野郎が!」
ミッション系スクールじゃ絶対言えないような暴言が、スルスル吐き出される。今までの燻りが形を得て吐き出される。ミエコ自身、口と頭が明晰に離れる感覚に、罵りながら驚きを隠せなかった。
脂汗を流して固まっていた城戸は、バネ仕掛けのように椅子から立ち上がり、距離を取りながらくるりとミエコに相対した。前のめりの腕は恐れに固まり、顔は積み木細工のように口や目、眉があべこべに歪んでいた。
「じ、神宮司ミエコ……! 何故ここに!」
「偶然よ、このアブノーマル野郎。これ以上香奈恵を困らせたら、のすわよ」
ドスの利いた声で、ミエコは右拳を眼前に掲げた。
細くしなやかなれど頑強な拳に「ひっ」と声を上げた城戸であったが、ワカメじみた前髪を必死に弄りながら虚勢を張った。
「う、うるさいな! か、香奈恵君は父が決めた許婚なんだ! 外野に言われる、す、筋合いはない!」
ヒノエが指摘したような論理である。
故に反論の余地は、家族主義、家父長制においては存在しない。
しかし――。
「いーえ、外野だからこそ言わなきゃならねぇのよ」
べらんめえ口調に感情が上乗せされる。
「許婚だからって何よ。気にする必要なんてないわ。モダンで、デカダンで、クソみたいな戦争が自由を締め付けてくる、この今でも――、よ。最後に残っている自由は個人と個人の意志なの。好きじゃない人と結婚なんて真っ平ごめんよ。自由な恋愛じゃないと、幾ら親が決めたって絶対上手く行かないわ。幸せになるかならないかは、その人の心の有り様だもの。――香奈恵は、コイツを心の底から好き?」
ミエコの強引な口上に、反射的に香奈恵は首を振った。
熟考する間もない、本音の反応。城戸の積み木がガラリと入れ替わり、口角が地に着くほど下がった。
「か、かかか、香奈恵君! それじゃ、君のお父さんの意志を反故にする事になるぞ! 親不孝だぞ!」
香奈恵の親は親で、金持ちである城戸との見合いを喜んだんだろう。頭ごなしに振り翳されるのは男の論理と家の論理に過ぎない。反抗することが出来ない国の空気。それでも生きとし生けるもの、最後に残るのは人間の心だ。
「親不孝が何よ。娘の気持ちも考えない親に、何の価値があるのよ。――大体何で香奈恵なのよ? あんた、この間はその父親経由で私にお見合い吹っ掛けて病院送りになったばかりじゃない。なんで香奈恵なのよ」
「うっ――、そ、それは」
狼狽して声が漏れる。
分かりやすい男だ、と改めてミエコは思った。だからこそ、お見合いついでに身体を求めようとしてきたのだろうが――、と昔日の怒りを思い出し、前に出した拳に自然と力が込められた。
「ふーん」
気が付けば、黒き巫女もミエコのすぐ後ろに立っていた。
背中越しに小さく頷く声が聞こえて振り返ると、喜色とも悲哀ともつかぬ表情を浮かべている。
『どうしたの?』
『コイツがお見合いだ、許婚だって騒ぐ理由が分かったわ。これなら首突っ込んでも問題ないわね』
ミエコは片眉を釣り上げた。
『読めたの?』
『大まかにね。それに城戸家というか城戸商事の話は、別に聞いてるわ』
『そう。ならそれでこの馬鹿を――』
と念話で返そうとした時であった。
狼狽しながらも城戸が声を荒げた。
「うっ、うるさい! うるさい! まったくうるさい女だ! ――自由な恋愛? そんなものがある訳ないだろう! 親が決めた事の何が悪い! 私だって親の言いつけでなければ、お前みたいな化け物女と、お見合いな――」
化け物女、という言葉が耳に入った時点で。
ミエコの拳が反射的に、砲身から飛び出す超音速砲弾の如く繰り出された。頬肉の弾ける音と、骨身に染みる鈍い音が店内に響き渡り、物の見事に城戸の頬に吸い込まれた。
城戸の身体は糸の切れたマリオネットのように、ぐるりと身体を一回転させ、仰向けに倒れ込んでしまった。
「あーあ」
ヒノエが呆れた声を漏らした。
それでも何処か嬉しそうである。
「み、ミエコ! 流石にやりすぎじゃ……」
香奈恵が眼前の惨事に狼狽えていると、「いいのよ、香奈恵」とミエコが鼻を鳴らした。
「ヒノエ、コイツが私や香奈恵を狙った理由を教えて。香奈恵にも、この馬鹿にも分かるように」
仰向けに呻いているから気を失ってない。聞こえるように大きな声で――、との願いに、黒き巫女は溜め息一つ、咳払いに声調を整えた。
「……いいですか、香奈恵さん。この城戸という男、城戸商事の御曹司ですけどね、目当ては香奈恵さん、あなたじゃないんですよ。あなたのお家のお金でもない」
前々から疑問に思っていたことであった。
神宮司家と結ばれる。
それは畢竟、金や権威というあからさまな名目がくっついて回る。財閥令嬢とくっつく一企業の御曹司など、傍目に見ても恋愛の故では絶対にない。
一方で小笠原香奈恵の家は、財閥でもなければ大きな会社でもない。ただの――、僅かばかりに裕福な小市民でしかない。ミエコのそれに比べ、経済的事由など微塵もない。なのにしつこく城戸が――、否、親が狙っているのには別の理由がある。直感的に覚えた違和感を、黒き巫女は冷たく言い放った。
「本当の目当ては、香奈恵さん、あなたの家にある金霊よ」




