第50話 乙女の溜め息はこの世の真理
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――」
夕方4時の下校時間。
銀座の片隅はまだまだ高い日の光を浴びて、街は真白く輝いている。いつもは来ない喫茶店の一角に、鈍く沈んだ声が響き渡った。人は疎らながらぼつぼつコーヒーを啜っているが、沈みきった乙女を誰も気にも止めていない。
目の前の黒き巫女を除いて――。
「あんた、まだ落ち込んでんの?」
ヒノエは紅茶を片手に、呆れたような口振りである。
「あれから3日経ってんのよ。いい加減立ち直りなさいよ」
失恋――。
勢い任せの告白。
即座に砕け散り、塵も残らない。
残ったのは、デービッドの引き笑いだけだった。
「いや……、私が馬鹿だったのよ。とてきな外見にスタンバイしたからって、……あんな場で、あんな」
「分かってるんだから、達が悪いわねぇ。頭と心が一致してないのって、私からしても気持ち悪いのよ。早くハッキリして」
眼前のコーヒーは湯気もすっかり消え、チラリと視線を流したミエコは、黒々とした水面に再びの溜息を漏らした。
「分かってるわよ。でもね……、こう、覗けない水底っていう感じなのよ。言葉は空虚に舞い、冷たい氷地獄、最下層ジュデッカに落ち込んだ乙女心は、ずっと春を待ってゐる――」
「ダンテじゃあるまいし、言語化出来てるなら尚更よ。ハッキリして」
何度もハッキリして、と言う理由もミエコには分かっていた。
「読心術で私の心読めるんでしょ? だったらこの苦しみ、この言葉でしか形容しようのない感覚だって、読み取れるんじゃないの?」
はぁ――、とヒノエも負けず劣らずの溜息を漏らした。
「そんな一字一句まで分かる訳ないでしょ。感情くらいなら簡単に読めるけど、――あぁ、もう、いい加減確りしなさい。変に見えるのよ!」
カップがキンと甲高い音を立てて皿の上に置かれた。千里眼に読心術。頭と心の不協和音が見える、とはどういうものだろう。ミエコは煩悶に頭を垂れながらも、ヒノエの苦労に漸く思い至った。
「――ごめんね」
「あ、あぁ、もう! アンタらしくないわ。もっとこうガサツでぶっきらぼうで、鉄砲玉みたいな昔に戻りなさいよ。それとも、……あっちの話に首突っ込みたい?」
「あっち?」
「そう。あっち」
頭を上げたミエコは、ヒノエの視線がミエコの後方、喫茶店の端に向けられているのを認めた。ツ――、と視線に沿い、首を後ろに向けると、
「ゲッ」
と乙女の呻きが漏れた。
「キミは僕の妻になるんだ。こんなに愛しているんだよ!」
「で、でも……」
絶望は目の前を暗くする。
そもそもこの喫茶店に入ったのも、気が入らないミエコに呆れたヒノエが、何の気なしに休憩場所として選んだに過ぎない。そこに運悪く、――あの男が居た。
「城戸――、なんであいつがここにいるのよ」
「さぁね。これも何かの巡り合わせでしょ。あっちも込み入った感情みたいだけど」
あの馬鹿の顔、声が瞭然と認識し出すと、ゆっくりミエコの表情が強張っていった。見れば、いつかの光景のままである。未だ残る顎の傷跡、ワカメ髪の城戸が前髪を無様に揺らしながら、小笠原香奈恵――、実直で物怖じしてしまう、ふるふると震えている彼女に。強引に言い寄っていた。
互いに背を向け合った座席位置故か、目の前の説得に熱心な故か、宿敵と同じ空間に居ることに、城戸はまるで気づいていないようだった。香奈恵も視線を落とすばかりである。
「あの野郎――」
ミエコの形相が歪みに歪む。
沸々と怒りが湧くように、身体が自然と椅子から立ち上がった。
しかし、ヒノエの細い指先がミエコの制服を引っ張った。
短く首を振り、
「やめなさい、ミエコ」
と口の端を沈めた。
「な、なんでよ。香奈恵が」
「分かってるでしょ、アンタにも」
心が読める。
感情を読み取れる。
複雑な、頭と心が離れている状態を、ヒノエは分かる。
「家と家の問題。ミエコ、分かっているのが分かるわ。アンタは理解している。自由な恋愛も、この国には存在しない。自由恋愛をしてる連中なんて鼻つまみ者。親が決めた事には逆らえないし、逆らったら勘当されて共同体から放り出される。たまには女の尻に敷かれる男も居るけれど、制度上、思想上、男が決めた事を、女は粛々と受け入れるしかない」
「厭よ、そんなのは!」
「私だって厭よ。でも、今首を突っ込んでみなさい。家の問題って斬り返されるだけよ。困るのは、――香奈恵さんでしょ?」
分かっていた。
残酷な大日本帝国の現実を。
否、きっと全世界そうなのだろう。
女性解放の声は、戦争を前に呻きに還った。戦時体制に組み込まれ、社会進出も、政治への参画も、全て総力戦の名の下に、限定された権利でしかない。どんなにバスガイドやタイプライター、家父長を軸にする家の制度は絶対に手を付けない。
家という重しがある以上、香奈恵は永遠に――。
「でも、香奈恵は」
子供の頃、輝いていたあの瞳も。
一緒に墓で遊び回った日々も。
全部が全部、家族制度の現実に塗りつぶされる。
たとえ、自分も神宮司家の因果に巻き込まれていたとしても、羅刹という闇の世界に身を投じていたとしても――、これだけは、これだけは譲れない。
「ごめん、ヒノエ。私には無理」
と、制服の裾は乱暴気味にヒノエの指を振り切った。
「いい加減にしなさいよ! この馬鹿!」
喫茶店に燻った乙女の咆哮が劈いた。




