第2話 不純な願い
「……ほ、本当にやるの?」
「言い出しっぺは磯子でしょ? 大丈夫よ、この時間なら舎監はいないわ」
夜半の刻。
外から蛙の濁声が聞こえてくる中、静謐なる闇が寄宿舎に蹲っている。
磯子の部屋の前で、ミエコは灯りも持たずに制服で待っていた。左右を見張れば、毎日朝から割り当てられた清掃班が掃き清めているおかげだろう、通路はスケエトリンクのように輝き艶めいている。
遠方から通う生徒の為にある寄宿舎は自治と規制のアマルガムだ。遠方の女学生が自らアパートメントを借りるなど非常に稀で、ここに身を寄せる女学生は遠方住まいか、共同生活でしごかれるために入れられた者達だ。一方で、一室一人住まいが許されているのは私立の財力故であり、そのアンバランスさが特色の一つでもあった。
「で、でも時間外に出るのって……」
勿論、寮内の規則違反だ。
それどころか校則にも背く行為だ。
ミエコに唆されて制服を着ていた磯子は、お下げ髪も総髪で簡単に纏めてはいたが、それでも戸惑っている様子だった。
「大丈夫だって。私だって何度も外に出てるけどバレていないんだから、ね? この白足袋もあげるわ」
そう言って背中に隠し持っていた白足袋を磯子に渡した。ここまで来ては致し方ない――「わ、分かったわ」と磯子が観念したように小声で応じた。
寄宿舎は学校敷地内に在り、件の鏡がある「ヴァージン館」はすぐ隣だった。
「ウルスラ館の方じゃなくて良かったわね。あっちだと結構歩くから」
「そ、そうね。こ、怖いから……近い方が良かった」
小声でぼそぼそと呟きながら慎重に歩く磯子の横を、扇動するようにミエコが滑りながら歩く。「ほらほら、初江が言ってたじゃない。何人か抜け出してやってるって。大丈夫大丈夫」と磯子を宥め続けると、磯子も漸く心が落ち着いてきたようだった。
寄宿舎の玄関から靴を取り、そのまま滑るように御不浄近くの窓まで進む。腰くらいの高さにある窓は鍵が馬鹿になってて掛からない。そう得意げに説明するミエコに、磯子はただ苦笑いを浮かべるばかりだった。
――自由。
多少緩いとは言え、見えない規律と見えない空気、堅固に作られた建物に区切られた世界からするりと脚を出す。4月の夜寒は中々だが、その冷たさが自由を得るための対価ならば、悪いものではなかった。
「ね? 大丈夫でしょう?」
上弦の月が柔らかく輝き、都市の灯りが雲を淡くぼんやりと浮かばせる。街灯などなくとも十二分に見通せる。
月明かりを浴びて輝く白亜の城は、日常の退屈という磨り硝子越しのバイアスを抜かせば――幻想的な美しさである。校舎と寄宿舎の間で、くるくると回りながら夜風に戯れて自由を謳歌するミエコを見て、磯子がぽつりとと呟いた。
「いいなぁ、ミエコは」
「え?」
「ウルトラ自由なんですもの。テニスも乗馬も上手いし、成績も凄く良い。けど威張らないし、規律に囚われていないもの。……私も、お金があったらそうなれるかな?」
ヴァージン館1階の廊下窓に手を掛けたところで、ミエコが驚いたように振り返った。
「い、磯子。もしかして『願い』って……」
「うん」
「お金持ちになること?」
コクリ、と頷く少女にミエコは肩が抜けそうになった。
「わ、私はお金持ちじゃなくても私だと思うけど……」
――そうだろうか?
瞬く間に自問が脳裏を駆け巡る。私が自由と思っている振る舞いの代償が、鼻つまみ者の烙印だとしても、退学を免れているのは……。
「私ね……、家が裕福じゃないの」
磯子の声は重い。
「少しでも良い学校に、ってお父さんが無理して学費を稼いでくれたの。お母さんも女給で……」
そこで言葉が絶えた。数瞬の沈黙が二人の間に静かに舞い降りた。窓を開けきったミエコは磯子に優しく声を掛けた。
「みなまで言わなくて大丈夫よ、磯子」
不純な願い。
守護聖人ウルスラだったら、絶対叶えてくれなさそうな直接的現世利益。しかし、いつ如何なる時代であれ当事者は、願う者は常に切実なものだ。
「ざくばらに話してくれてありがとう。私への当てつけって思っちゃったんでしょ? ……いいわ、その願いをぶつけてみましょ」
腰の高さの窓枠をひょいと乗り越えて、磯子に手を差し伸べる。
「貴女の言う通り、ただの怪談噺かも知れない。でも――、それで気持ちが楽になるならダンゼンするべきよ。気持ちが塞ぐくらいなら、身体を動かした方がマシ。たとい規則や社会とちょっとぐらい衝突したとしても、ね」
――皆、それを『無鉄砲』とか言うのよねぇ。
ミエコが少しだけ寂しげな笑顔を浮かべた。磯子は僅かに頷きながらミエコの手を取り、ヴァージン館に侵入した。