第38話 八尺の鬼、五尺の怪異
ギチギチ。
ギチギチ――。
聞くに堪えない耳障りな音にミエコは眉を顰めた。
眼前に佇むよく分からない何か――、黒々とした甲殻、菌類じみたぬらりとした皮膚、のっぺらぼうの大きな蟷螂が異物を認識したのだろう、ピクリと管が動いた。吸気か排気かも分からぬ管は漫ろに靡き、両手に相当するであろう鎌に似た脚部が大きく迫り上がった。
――威嚇。
違いないだろう。
鋭い鎌は、人を切り刻まんとするか。
『……念話の問いかけに反応無し。黒い気はそのままに敵意を向けてるわ』
何の抑揚もないヒノエの報告は「調査」という残された客観的理性の遊び。念話の余韻を噛みしめるまでもなく、怪異が動いた。
俄な屈み。
即座に来るであろうバネ仕掛けのような弾みを予測し、乙女は小型拳銃の引き鉄を強く引いた。パンッ――と乾いた銃声は始まりの号砲。畳み掛ける様に黒き巫女の短弓から放たれた矢が、一閃の輝きとなって顔面に突き刺さった。
ギギギ、キキキ――!
甲高い絶叫が狭い部屋に劈く。
金属片が擦れ、削れる様な音は頭蓋を貫かんばかり。怪異が仰け反る度にひり出される金切り音に、耳を塞ぎたい衝動を抑えながら乙女達と男は一人、射線が被らぬよう半円状に距離を取った。背を預ける薬品棚がカタカタと揺れている。
『おかしいわ』
乾いた銃声を響かせながら、浮かんだ疑義は揺蕩う暇も無く共有される。
『清祓の光環が出ませんねぇ』
『……珍しいわね。でもやることは変わらないわ』
『それでは私が』
伊沢の倦んだ了承を聞くまでもなく、ヒノエは立て続けに矢を変え、鋭い鏃附きの破魔矢が放たれた。ヒュッ――と薄暗い室内を切り裂く破魔の閃光は、吸い込まれるように頭部らしき箇所に刺さった。
のっぺらぼうには既に幾つもの弾痕と矢が2本突き刺さり、怪異の絶叫と仰け反る姿に戦慄こそすれ、慈悲の思いはない。
『ドウジ、出なさい』
呪い言葉は深淵からの囁き。
胸元から滑り出された人形が、風もないのにひらひらと舞った。すると、そのまま虚空でピタリと静止したかと思うと――、もこもこと腕が、脚が、頭部が――爆発的に盛り上がっていく。
――相変わらず気味悪いわね。
流し目で伊沢の召喚術を評する。
まじまじと見たのはつい最近だ。羅刹に入ると必然、互いに何が出来るか、戦う時に何が起きるかを理解しなければならない。嘗て見せられたのは前鬼・後鬼という役小角が使役した鬼であったが――、基本は何も変わらない。
依代は人形。
かの鬼は紙から生えるのだ。
虚空から勢いよく生えた腕――、片腕だけがないが、それ以外は正しく『鬼』である。嘗て志乃が対戦車銃で撃ち抜いた天邪鬼が子鬼に見える程、天井すれすれまで八尺を越える大鬼、茨木童子が其処に立っていた。
『やりなさい』
『――応』
五尺の怪異、八尺の鬼。
ゴツゴツとした灰色の巨躯は、かつて酒呑童子の家来としてあらん限りの乱暴狼藉を働いた伝説ありのままであり、ミエコは鬼の姿を尻目に唇を噛んだ。地鳴りのように低い声色で応じた童子が、右腕を天井すれすれに振り上げる。
そそり立つ巨腕。
大人と子供の体格差から繰り出される手刀打ち――。
ミエコが眼を細める間もなく、怪異が回避動作を取る暇など微塵もなく、白い蛍光を浴び恐るべき光陣となる。
振り落とされたのは巨大なギロチン刃。
遮るものなく、真っ直ぐに怪異の上半身に吸い込まれた。
甲羅が砕け、肉が散る。
醜い破裂音が鼓膜を叩きつける。
大太鼓を突き破るような鈍い音に、甲高い怪異の絶叫が混じり合う不快な共鳴は、最早地獄の何か――である。
「ウッ――」
惨状を表現する余裕は無かった。
眼前、見たこともない怪異は上半身を一刀両断され、無惨に砕けた身体の暈けた輪郭が蛍光を浴び視界を歪ませ、血とも思えぬ体液が虚空に弾けた。
液体循環系を有する有機体の一種なのであろうが――、灰色がかった薄黄緑の飛沫は、強烈な腐敗臭を伴って部屋中に広がった。
『……鼻がもげますねぇ。まったく』
いつの間にか取り出していた扇子で口元を覆う弁士崩れとは異なり、ヒノエは臭いなど全く感じていないのか微動だにしていない。それどころか怪異に向けられるのは、まるで塵を見るような冷たい視線であった。
ミエコは背筋に走る怖気を振り払い、古強者の余裕を尻目に怪異に目を移した。無惨に砕けた怪異はそのまま萎れへたり込み、キィィ……と嘆きにも似た音を漏らすばかりである。叫喚後の嗄れた声に似た、寂しげな呻きが脳髄の裏側にこびり付く。
ところが。
「え、う、嘘ッ!」
ミエコが叫んだ。
「……面白いですねぇ」
伊沢がパチンと扇子を閉じ、不敵な笑みを浮かべた。
暈けた肉体、輪郭だけが明瞭ならぬ不可思議な生き物だった。それが今、言語の断片とも受け取れる嘆きを漏らしながら――、身体が透けていく。
透明という優しさはない。
暈け、滲み、空間に侵食されるように、怪異は乙女達の瞬きを重ねる間もなく、影の一片も残さずに消え去った。散ったはずの体液も甲殻もなく、鼻腔をひん曲げた腐敗臭すら残さず――。
「ど、どうなってんの?!」
脳髄に刻み込まれた悲鳴。
――確かに居た。居たはずなのだ。
なのに眼前広がる光景は、最初から何もなかったように整然と静まりかえっている。
『……慌てないでミエコ。何処に消えたか分からないけど、手応えはあったわ』
『そうです。姿を消す怪異など山のように居ますが、あの感じなら大丈夫でしょう』
――殺したはず。
全てを語らぬ大人の余裕。
言い知れぬ不安に少女は顔を曇らせるが、やはり古強者達は動じない。『それより探しましょ』といつもの声音、仏頂面で辺りを見回すヒノエから目を背けるように、ミエコは部屋を見渡した。
机。
棚。
全てに文字がない。
人間が使うであろう分類記号も、煤けた紙片も、手垢にまみれた本も――、何もない。生活という言葉が成り立たない。物はあるのに何もないのだ。
天井に埋め込まれた棒状の白色灯に照らされて、少女の目に映る輝きが一つだけあった。
机の下、戦いの最中に全く気づかなかったが、小さな『金属片』が確かに在った。目を擦ってよく観察し、伸ばした指先が『金属片』に触れた時、電流が走った様な衝撃が少女の全身を駆け抜けていった。
唯一人間らしさを謳歌する『金属片』――。
「これ……、中宮のブローチ……」
溢れた言葉は死んだ光に包まれて、虚しく空に漂うばかりであった。




