第1話 乙女の噂話
「それホントなの?」
「モチよ、モチ。モチコースよ」
くすくすと笑みを浮かべる兼島初江の頬が、たぷんたぷんと揺れた。正面に座るこの女友達の頬はまさしくの餅肌で、ミエコは思わず微笑みで返した。
「たまに何人か抜け出してヤッテるみたいよぅ。勿論、舎監に見つかったらただじゃ済まないでしょうけどね、ほほほ」
イントネーシヨンを変なところに置くから、より一層秘密が神秘に、或いは下卑たナニかに聞こえてしょうがない。「いやぁネェ、信じられないわ」と右隣で頬杖をついた加納磯子が溜め息交じりに呟いた。
「たいていただの怪談噺よねぇ。女学校の時も似た話があったけれど、ただの汚れた鏡だったわよぅ」
初江に比べると貧相にも見えてしまう僅かに痩けた頬に手を添えながら、磯子が天井を仰いだ。貧相じゃない、初江がふくよかなだけだ。ミエコは改めて彼女達にさらりと視線を流した。
赤みがかったサージのセーラー服の下、体格差が誰の目にも明らかだ。別に誰も悪くないのに二人が揃い、自分が座れば自然と『大中小』になってしまう。
「でも磯子さん、ここはただの学校ではなくて? 天主様のご加護があるのよ。……そういう所で夜な夜な鏡でお化けが出るのよ」
「お化け、ねぇ」
疑念と呆れを綯い交ぜにした溜め息を漏らす磯子を尻目に、ミエコは微かに鼻を鳴らした。
「――面白いわね、それ」
僅かに姿勢を直し前のめりになった。
「少なくとも退屈な学校生活には、そういうのがあって然るべきね」
――私立聖ウルスラ高等女学校。
東京府内の伝道団体により設立された基督教系、天主教のミッションスクール。まだ設立20年も経っていないこの学校は、ミエコの眼には狭い監獄、或いは拷問部屋のように映っていた。
噂に聞けば、他の私立学校では全寮制に厳格な規律を課しているようだが、それに比べればまだまだ此処は自由な世界に違いない。「退屈って言っても、外に自由に出られるだけ全然良いじゃないのぅ。お陰で外交官の友達が沢山いるけどねぇ」と初江が苦笑交じりに笑った。
――そう。
それはそうなのだ。
でも、足りない。
自由が足りない。
「男友達って言っても、もうホント変わったよねぇ。皆是が非でも大学に進学しようと必死だもの。外に出ても遊ぶ感じじゃなくなってるもん」
世相は厳しい。
自由の風はいつの頃から空っ風に変わってしまった。
耳目を集めるのは熱狂と倦怠の戦果報道。戦争に行きたくなくて、徴兵猶予の大特権欲しさに死に物狂いで勉強する男も多いと聞く。
肝心の学校にも戦争の影が伸びる。
御真影を置くのか置かないのか。この国の原理とかの国の原理が大きく音を立てながら軋み、歪み、私達を束縛する。学校の規律は破壊されようとしている。でも、壊されても自由にはならない。戦時という新たな規律者が土足で入り込んでくるだけだ。
「だからこそ――、よ」
ミエコの丸みを帯びた断髪が得意げに揺れた。
「こんな時代だからこそ、そういう面白そうな噺が必要でしょ? 外は戦争で忙しいけど、私達は華のモダン女学生よ。噂話は蜜の味、年老いていくのなんて嫌。今しかできないアヴァンチュールを楽しむのが特権でしょ?」
――楽しみすぎると怪我だけじゃ済みませんのよ。
盛り上がる3人の会話に冷たいメスがさくりと刺さる。切り開かれたのは乙女の情熱。切り裂いたのは、ミエコ達のウィジャボードを見下ろす、級長の中宮冴子だった。
「何をお話になってたのか存じ上げませんけれど、――どうせ良からぬなにかでしょう?」
釣り上がった目尻に鋭い眼光。冷たい視線が彼女の矜持。
一体いつからだろうか――、最初からだったか。
冷たい物言いと丁寧に侮蔑するその言葉遣いから、気がつけば彼女は自他共に認める規律の守護者となっていた。彼女の胸元に光る銀翼のブローチが、尚更に天の御使いを思わせる。
だが、それ故に。
「大きなお世話よ。退屈こそが私達女学生の敵なのよ。だから少しは派手にしたって、天罰が下ることはないはずよ」
ミエコが投げつけるように意趣を返すと、冴子が眉を顰め肩を怒らせた。
「だいたい貴女という人は……!」
ここからは定型文だ。
何度も面と向かって聞かされているミエコは、露骨に倦んだ表情を冴子に見せつけた。
――ピアノも舞踊も生け花も、女の嗜みらしいことを全くしない。
――校庭でキャンプ・ファイアをする。
――学外から車を持ち込んで暴走させる。
――謝肉祭で花火を大量に爆発させる。
――街の愚連隊を素手で完膚なきまでに叩き潰す。
全部事実だ。
何も恥じることはない。
窮屈で猜疑に満ちた灰色の世界に、少しでも華を彩ってやろうとしただけだ。だからミエコには一つも感じ入る所はない。それに街の愚連隊共は、同じ学校の女生徒に手を出そうとしていた所を救っただけだ。何なら誇っても良いくらいだ。
「それに……、神宮司財閥のご息女にも拘わらず、お見合い相手の顎を蹴り上げて病院送りにするわ、まったく何なんですか!」
最後のそれが最近追加された事実だ。
――お父様には悪いけど、あの腐った野郎はあれくらいされてちょうど良いのよ。
これも全く批難の的にはならない。ミエコが余りにもアッケラカンとしている様子を見てか、冴子が井戸の底より深い溜息を吐いた。
「……貴女はいつも、……全く」
言葉が通じないと分かると、肩を落として元気なく去って行くのも、やはり定型通りだった。
冴子の背中を見送った所で鐘が鳴る。
始業の――、そして退屈な日常の。
「それにしても……、願いを叶える鏡、ねぇ」
机を元に戻しながら磯子が呟いた。乙女の溜め息には何かが秘められている。その事実が身に染みている初江が興味ありそうに尋ねる。
「なに、イミシンねぇ。アミかしら?」
「そ、そんなんじゃないわよぅ。ただね……、私、」
――やってみようかしら。
磯子の不安な呟きに、マネキンのように整った神宮司ミエコの顔は俄に喜色を浮かべ、その瞳が爛爛と輝いていた。