第36話 猿の渡世は茨道
察する――。
言葉を交えずとも人は意を通ずることが出来る。鈍い聡いの程度はあれど――、猿渡の口角が瞬くように上がっては下がったいた。
「一歩遅かったな。もう制圧済みだぜ」
闇に差し込む人工灯に照らされた得意気な猿顔である。
「お久しぶりですねぇ、猿渡さん」
「おぅ、伊沢の旦那じゃないか。……へぇ、両手に花とは旦那もやるねぇ」
猿の軽口に伊沢が呟いた。
「気難しい花ですがね」
「――あぁん?」
「何か言った?」
少女二人、釣り眉に苦虫をかみつぶしたような貌を伊沢に向けると、猿渡がけらけらと笑った。
「まぁ、触らぬ神に祟りなし。これ以上は何も言わねぇ。――だけどよ、よぉく此処が分かったなぁ。捜査は極秘裏に少数精鋭で固めたんだけどよ」
――精鋭の一人が猿なのか?
思わず口から零れそうになったところで、しっかと口を閉じた。
「まだ目的を言ってませんよ。まぁ、特高が出ている時点で察しは付きますが――」
伊沢の弁士崩れは相変わらず少なく、猿渡も見張りの役割を遵守しているお陰でトントンと話が進んだ。ひそひそとビルヂングの狭間でおどろおどろしい話が咲く。
「『そうですか。そちらは工場への破壊工作疑惑から追っていたんですねぇ。で、アジトに踏み込んだと。――成果は?』」
「それがよぅ」
猿が肩を落とした。
「肩透かしも肩透かし。蛻の殻らしいぜ」
猿渡が現場を見た訳ではない。
肝心の突入は別の人間で、見張りの交代による又聞きでしかない。それでも人が居ないという厳然たる事実を猿渡は嘆いた。
「なーんにも物証がねぇ。銃の一つや二つあればと思ったが、それすらネェ。破壊工作、騒乱罪でしょっ引こうとしてもよ、人も物もいねぇんだから罪も作れねぇ」
「なんで罪を作る前提なのよ、まったく……」
ヒノエの嘆息は、令嬢であるミエコですら分からない訳ではなかった。全国警察組織に組み込まれ、或いは花形出世街道である特別高等警察は、同時に拷問をいとわぬ強権的な捜査で歴史に名を刻んでいた。
新聞報道は誤魔化していても、人の噂は千里を走る。治安維持法然り、共産主義を信奉することは、この国では死と輪舞を踊るに等しい。罪刑法定主義とはいえ、証拠の捏造、恫喝、スパイ、何でも御座れに強制的道徳律を押しつけてくる組織なのだから、世の評価は須く「恐怖」の二文字で表すことが出来た。
「でもみーんなやる気満々、天下国家に奉仕できてるって事でうっきうきなんだぜ、これでも。……俺は納得いかねぇけどな」
猿渡の不満は根深い。
「けっ! この現場見つけたの俺なのによぉ! あいつらいっつも手柄を掻っ攫いやがる。嘱託職員まで馬鹿にしやがって……」
「まぁ、猿渡さんの鼻が利くのを疎んでいるんでしょう。ご苦労お察し申し上げます」
飄々と伊沢が肩を竦めると、猿渡は殊の外喜んでいた。
「然う言ってくれるのは伊沢の旦那だけだぜ! ……だからよ、良い事教えてやるぜ。係の中じゃ、宗教、共産主義の両面で捜査が進められてるけどよ、奴らの目的は只の終末論やら革命じゃなさそうだぜ」
「最後の審判や基督の復活でも、共産主義革命でもないのは分かるわよ」
ミエコは憮然と息を吐いた。ミッション系の母校故に、教義は散々ぱら飽きるほどに聴いている。教派,新宗教の違いはあれど、この世は終末を迎え、基督は再臨する。死者は悉く復活し、すべての魂は『最後の審判』に召され、基督による審判――義と悪は別たれ、永遠の命と地獄に落ちる者に分けられる――と聖書はかく語る。
「今が嫌だから救済を求める。苦難はいつか終わり、自分達が報われて新たな時代がやってくる。その意味じゃ共産主義も宗教よ。――でも、そいつらは違うんでしょ?」
「……へぇ、御転婆娘かと聞いてたが、しっかりしてるんだなぁ」
「お世辞はいいわ。奴らの目的は?」
ミエコは急いていた。
物を盗み、人を殺した秘密教団に、万が一でも級長の中宮が関わっているとしたら――。その一心が一筋の汗となって流れ出た。
「へーへー。確たる証拠なんぞねぇけどよ、奴さんの目的は『超科学による最終戦争』じゃねぇかって話だ」
「――は?」
思わぬ言葉にぽかんと口から零れた。
「……何よそれ」
詳細を訊ねようとしたところで、遠くから「おい! 猿! 撤収するぞッ!」と怒号にも似た叫び声が静まりかえった街並みに響き渡った。
「へ、へーいッ! ……悪いな! また今度ッ!」
猿渡はミエコ達を掻き分けるようにビルヂングの狭間から飛び出した。まるで調教師に躾けられた猿のように、ぴょこぴょこと撥ねながら走って行く様を尻目に、ヒノエが肩を竦めた。
「お猿さんも大変なようね」
「猿渡さん、出世は目指してないんですが不憫ですねぇ。異能とお目掛けがあるせいで、余計に疎まれてしまうんですよねぇ」
「……あの猿男、なんなの?」
「詳しくは追々話しますよ。しかし――」
伊沢が扇子を取り出しパチリと手で叩いた。
『運良く彼らが撤収してくれるようですねぇ』
『私達も帰るべき?』
『そんな訳ないじゃない』
冗談に真面目に返された。
ヒノエの瞳はまんじりともせずアジトに向けられる。間もなく特高警察も去り、往来もなく、あるのは闇に溶け込んだ家屋のみだ。
『……まだいるわ、何かが』
恐らく怪異が。
言葉を紡がなくとも肌で感じ合う。
ミエコはバタバタと撤収していく特高を尻目に、ポケットから静かに小型拳銃を抜いた。スライドから銃口にかけて鈍い光が滑る。
向かう先は闇。
その只中に居る何かを思いながら、少女達はゆっくりと歩き出した。




