第26話 可愛いけど潰したい
熱い濃霧に汗が滝のように頬を伝う。
左右の音がする深林に視線が流れるが、其れが奴かどうかは分からない。汗を拭う余裕もない。御影が振るった白刃が鈍く輝き、来るべき襲撃に備える。
「――――!」
不図、近くでガサリと音がした。ミエコの銃口がすぐ近くの草叢に向けられる。
魃と呼ばれた怪異。
毛むくじゃらの大きな狒々。
強烈な熱光線、熱波を放つ恐るべき怪異の影に怯えて生唾を飲んだ。草葉がサワサワと揺らめき、愈々来たか――と引き鉄にかける細い指先に自然と力が加わる。
僅かに揺れる草葉。
だが、葉を退かすように現れたのは、見るも小さな小さな、白い紙切れだった。
「な、なに? これ」
間抜けな声に志乃と御影が視線を送った、その時だった。
「いやー、苦戦してるようですねぇ」
気の抜けた声が耳に響く。同時に志乃がふぅ、と溜息を漏らした。
「……伊沢様、ですね?」
首と銃は虚空に向けたまま、志乃が訊ねた。小さな紙切れはヒラヒラと頼りなく揺れ動きながらも、――人形だろう、頭と裾の広い人間を象った姿で、不器用に、ちょぼちょぼとミエコ達に向かって歩き出した。
「依代なんて此で十分ですよ。直に出向かなくとも用件は済みますよ」
「しゃ、喋った?」
神社でしか見ないそれが、伊沢の言葉に合わせて当たり前のように動く様に、ミエコは驚いた。
「あぁ、ミエコさんには珍しいですかね。私にはこういう術も使えるんですよ」
まるで生きているかのように、掌程度の小さい人形がぴょこぴょこと撥ねる。
――可愛いわね。
内心の呟きは口からは漏れなかった。
人形が、ぺこりと頭を下げた。
「お久しぶりです、御影大佐殿」
「あぁ――、東京支部の伊沢君か。今日は随分と面白い姿で現れるんだな」
「直接お目にかかれず申し訳ありませんね。その分と言っては何ですが、お手伝いをさせていただこうかと思いましてね」
日本刀を構えたまま視線を寄越さない。思わぬ訪問者であったが、警戒を解くような状況には全くない。人形は再び歩み出すと、ミエコ達の先頭に立った。
「此処には事前調査の折、埋火を施しておきました」
ペタペタと人形が地を撫でる。
「まぁ、本来なら前鬼・後鬼など暴力で解決するのが一番楽なのですが、それではミエコさんの為にもなりませんからねぇ」
紙になっても饒舌は変わらない。
「また、本来であれば埋火は念やら火やらを用いるのですが、――今回は後で楽を出来るように一工夫しておきましたので、後は結果をご覧じろう」
嬉々として語る人形に、御影も志乃もミエコも口角を下げた。
――やっぱり踏んづけてやろうかしら。
愛くるしい姿に透いて、弁士崩れの貌が浮かぶ。悪戯心がくすくすと胸中で踊ったが、流石に首を振った。
「……それで、何を張ったのかね」
御影がジロリと人形を睨んだ。
「お察しの通りですよ、大佐。五芒星の結界です。五行の相克を反転させ、怪異の意気を削ぎ落とし、然も目を眩ませる迷妄の一種を隠し味に、ね」
「それでは――」
「然う。我々は霧の中でも、相手も霧の中なのです。その証拠に、――ほら」
人形が躯を振ると、池の畔から何者かがのそのそと歩いてくる気配がする。熱い霧が僅かに晴れる気配を覗かせる中、獣の姿が一つ。赤黒い巨眼がぼんやりと浮かび上がる。
――成る程ね。
怪異の姿を見て、思わず舌を巻いた。
赤い眼は確かに赤い。だが先程までの勢いは何処へやら、見るからに黒くくすみ、まさしく猩々緋の色合いである。湿気が満つる霧に辟易しているようだ。
とぼとぼと此方に向かって歩いてきているが、――どうやら気づいていない。乾いた泥の地面を、足を引きずりながら息を切らせている。
「確かに、其処のお嬢さんでも倒せそうではあるな。……ならば、私が囮になってやろう」
「え――?」
不図。
御影が思わぬことを言い出した。
「……どういうおつもりですか、御影大佐」
「然う怖い貌をするな、志乃君。お膳立てはいくら多くてもいいものだろう。……私は気になるのだよ。アレが黄帝の娘なのか、ただの猿なのか、ね」
醒めながら狂気を孕む。古代伝承に息づく怪異の本質を理解したくてしょうがない。その為には己の身を挺する意気を瞳に発してミエコに視線を送る。
「本気なのね」
「勿論。だが一つだけ条件がある。トドメは君が刺せ。姫の好意を無駄にするな。奴の首から上は私が貰う」
其れが大事なのだろうか。
ミエコは誰にも了解を得る訳でもなく、静かに頷いた。
「決まりだ。ならば私が斬りかかる。志乃君は引き続き神聖化弾頭で援護を。最後はミエコ君。君が念じて撃ち給え。極力近くからな」
――コイツ。
初めから何もかも知っていたんじゃ?
内心に生じた疑義も無理からぬ事だった。ミエコの射撃精度は志乃が溜め息を漏らすほどで、清祓の力も志乃曰く「一隅を照らす」と評されるほどであった。
その情報は志乃しか知らなかったハズ。
なのに――。
ミエコの疑念は視線に乗せられて御影に刺さった。しかし、彼の人は動じない。
「……言いたいことはあるだろう。だが、聡明な君なら分かるはず。選択の余地はない……だろう?」
「――分かってるわよッ!」
「ならばよし」
応と応えるまでもなく、御影は接近していた怪異に果敢に斬りかかった。




