第24話 科学万能万々歳
「――誰ッ!」
やや遅れてミエコが驚嘆の声を上げ、辿辿しく銃口を男に向けた。
「おやおや。初対面の男に銃口を向けるものではないよ、御転婆お嬢さん。……まぁ、初対面ではないがね」
泰然自若――。
だが男の姿を視認し、然もありなん、と何となく得心していた。
カーキ色の布地に赤が映える軍帽、輝く金の帽章。夏だというのに折襟の軍衣を締める負い紐、そして弾帯が見るからに暑苦しい。それどころか日除けだろうか――、かなり薄手ではあるが外套を翻してすらいる。――軍服だ。
南方ではないとは言え、夏の盛りである。
夏の光線が降り注ぎ陽炎立ち昇る、この夏に。
男の肌はさらりと乾燥し、滲み汗の気配すらない。気色悪いほどに涼やかである。
「……軍人?」
銃口を僅かに下げてミエコが呟いた。
切れ長の眦は吊り上がり、眉には意気が宿る。眼光の鋭さも相まって、鷹が獲物を射貫く様である。通った鼻筋は西洋的ファッショモデルと言うより、ある種天狗の其れかも知れない。
ぬるりと現れた六尺ほどもある大柄の男は、冷たい含み笑みを浮かべ彼女を一瞥した後、志乃に視線を流した。
「やぁ志乃君。今日は子守かね」
「……御影中佐もお元気そうで」
「フ、今は大佐だよ、志乃君」
知人――。
何時もは見せない凛とした貌をした志乃に、ミエコが唸った。
細長の面にやや迫り上がった頬骨。全く似合わない笑みを浮かべ、御影と呼ばれた男は、腰に差した日本刀の柄に手をかけて肩の力を抜いた。
「それにしても、どうしてこんな所に……」
自動小銃の銃口を下げた志乃が眉を顰めた。
「なぁに、京都の第十六師団長殿に用があってね。満州、上海、呉、京都をぶらり旅さ」
「そういうことを聞いてるのではありません」
ぴしゃり、と。
「姫から聞かない限り、此処に来ることはないはずです。聞いていたとしても、態々来るなんて」
「……挨拶だよ、志乃君。そこの神宮司氏のご息女に、ね」
「わ、私?」
突然話題に上り、素っ頓狂な声を上げた。
「志乃君と言い、神宮司家と言い、我が軍とは昔から縁があってね。君が人の理を半歩ばかり踏み越える、その門出祝いだよ」と飄々と語る大佐に志乃は沈黙した。男の意を見計らえず、ミエコの視線は二人の間を当てもなく泳いだ。
「志乃、この人は……」
目的を言っておきながら、今の今まで挨拶も無ければ自己紹介すらない。
「――御影篁大佐殿、です。陸軍工科学校所属――でしたね。その昔は満州の方で色々為さっていた御方で、今も昔も、陸軍と『羅刹』の折衝役でございます。多種多様な実験を為さって、今の『晦在しの術』のようなのも使えるようになったと伺っています。――今もおかわりはなく?」
ロイド眼鏡も仕舞い、可愛らしかった前髪を下げ、縷々長髪が風に靡く中、粛々と感情の抑揚のない紹介に、御影と呼ばれた男はらしからぬ怡然とした顔を浮かべた。
「変わりない。肩の星が増えただけだ。しかし、――実験、あぁ、迚も良い響きだ。実に良いではないか。科学万能万々歳だ。怪異に対抗する為、我々人間も旧習に固執することなく、赫々たる科学の恩恵を手にしなければならぬ。――科学の進歩には様々な実験も必要。多少の犠牲は付きものだ。決して無駄にせず、人類普遍の血肉と為さねば――な」
飄然と。
もはや閑雅な風に、怖ろしい事を言っている気がする。
背筋を走る寒気に軽く身震いした。
「しかしまぁ、説明は毫も違わず、それでいてちゃんと慮る辺り、やはり志乃君は志乃君だな。昔のことを語ってやっても良いが、ご令嬢には不要だろう」
――舐め腐っているわね。
眉間を寄せながら唇を噛んだ。
あのクソ野郎とも、弁士崩れとも、父とも違う異性。殊更にこういう輩は苦手だ。
「アナタの半生を詳しく訊く気にはなれませんので。きっと思うだに口に憚られることでしょう?」
銃口を下げながらも、口撃は出来る。
「はは。――愉快なお嬢さんだ。成る程成る程。これは志乃君が子守をしなければ、な」
小馬鹿にしたと思うと、突然に御影はくるりと踵を返した。ミエコ達に背を向け、乾いた池の方を熟と見つめている。
「――なに?」
ミエコが疑問を零したのと時同じくして、志乃が颯と躯を翻し、流れるように自動小銃を構えた。銃口の先は――、涸れた池に残された僅かな水面。その奥にある大きな岩のようだ。
異常気象がなければ、滾々と清浄な水を湛えていたハズ。今は唯々茶色の泥水が汚らしく、寂しげに大岩の前で乾くのを待つばかりである。
だが――。
「此処は溜池、人の手で造ったものだ。そのド真ん中に、あんな大岩があるのは可笑しいなぁ」
「……まさか」
口が呆と開いた。
「お嬢様! 私の後ろへ!」
志乃がミエコを庇うように後退った。端然と射撃姿勢を取る志乃の背中越しに、ミエコも右後ろから小型拳銃を腰脇に構える。その様子をチラリと流し見た御影は、くく――と引き攣ったような笑い声を上げた。
「フン、やはり子守ではないか。しかし――、度胸試しとは、あの姫も酔狂なことをするものだ」
刹那。
開けた池の畔には似つかわしくない、雷鳴の如き咆哮が響き渡った。
怒声にも、哀叫、慟哭にも似た――獣の声。
――いや、獣じゃない。
直感的に悟る。脳髄に染みこむような響き方をする、独特すぎる非人間的な音声。
あの牛のような、あの鬼のような。
だからこそ、覚えた恐怖を胸に刻んでいたミエコは、眼に飛び込んで来た光景を、静かに咀嚼し、構えた。
赤く光る目。
爛爛と深紅に輝く禍々しさ。
額を割れんばかりに見開く巨大な単眼である。
大岩の上。
いや、よく見ると岩ではない。山積みの泥、その表面が焼け爛れている。焦げた泥岩の上で、大きな狒々に似た異形が水面から躯を起こし、熟と此方を見つめていた。




