第17話 どういうことよ!
「どういうことよ! お父様!」
ドンッ――、と天然木の机を叩きつけるミエコに、米次郎は僅かに躯を縮こませた。立派な髭は萎びた青菜のようにへたれ、トレードマークの銀糸は力無く揺れている。その表情には末席ながらも『財閥』の長たる威厳は微塵もない。
「…………」
「黙ってないで本当の事を仰ってッ!」
再びの衝撃に空のグラスが寂しげにコトコト音を立てている。
深夜――。
時計の針は2時を回っている。
金田製作所で起きた怪異現象――、天邪鬼の撃退劇から僅か1時間しか経っていない。未だ帝都は夜が明けるのを待つ丑三つ時、もうすぐ丑四つ時である。
興奮冷めやらぬ面持ちの儘、神妙な顔で俯くロイド眼鏡の志乃を連れて、暗闇蹲る玄関や廊下を抜け、電気の付いていた書斎に突撃したのだった。
――意味わかんないッ!
ミエコは心底、全力で叫んでいた。
この国を影ながら支える怪異討伐機関であるハズの『羅刹』が、神宮司財閥傘下の工場に怪異が現れただけでなく、メイドの県志乃が現れた。身近で最も頼れる優しき姉貴――、その事実が胸中狂わしく、情動止みがたく混乱の渦中に叩き落としていた。
――志乃が救ってくれた。
――でも、……どういうことよ!?
襲いかかる天邪鬼はミエコが見ぬ間に木っ端微塵に消し飛んだ。志乃が引き金を引いた対戦車ライフルから発射された銃弾。霹靂に混じった生々しい破裂音。迅雷一閃の果てに鬼は塵と消えた。
――何故?
志乃があの場所に。
志乃がどうしてそんな銃を。
ミエコは志乃に答えを求めなかった。いや、求めようとしても志乃は帰宅を勧める以外に頑なに口を噤んだ。その様子にそれ以上追及しなかったのである。
――答えはお父様から訊くわ。
混乱する中、必死に志乃を慮った。
分不相応な銃火器を背負ったメイドに答えを訊かず、主人たる父なら全てを知っているはず、と。気まずい帰還の鬱憤を晴らすように、今、感情を高ぶらせて机を叩いているのである。
僅かに潤んだ瞳を前にしても、米次郎は沈黙を守っている。普段絶対に見せることのない苦渋の表情を浮かべながら、グラスを手に取り目を瞑った。
「……沈黙は金ではありませんのよ、お父様」
言葉は万能ではないが意志を伝えることは出来る。
最低限の機能だけは全世界共通なのだ。それを怠る、或いは使わないというのはそれ自身が意思表示として捉えられる。米次郎が僅かに首を傾げている当たり、沈黙は拒絶ではなく逡巡の其れであった。
細やかな身体の変化を見たミエコは、叩きつけた掌をそのままに答えを迫った。
暫くして米次郎の口髭が静かに揺れ、たった一言。
「……そうか。姫はお前に目を付けたのか」
ぽつり、と呟いた。
不図――、米次郎は袖机の引き出しから|緑色のハーブリキュール《アブサン》をそそくさと取り出し、グラスに毒々しい緑をぶちまけ、勢いそのままに呷った。デカダン芸術家が好むような、アルコール度数七〇を越える強烈な酒である。
突然の出来事と漂う酒の臭いに、眉が急峻に峙った。
「お父様……」
米次郎が瞬時に顔を赤らめ、低い呻き声を漏らした。大きく息を吸い、項垂れながら息を吐いた。肚の中の全てを吐き出すような、深く重苦しい吐息を。
「……ご主人様、もう、宜しいのでは?」
ふと、後ろに立っていた志乃が口を開いた。今まで最大限の沈黙を守っていたメイドは、優しく諭すように言葉を掛ける。米次郎はチラリと志乃に視線を流すと、軽く肩を落とした。
だが落胆の其れではなく、諦観の其れであった。
「そうか……、そうだな」
電灯が壁面を覆う書棚を静々と照らす中、米次郎は総髪をゆっくりと一撫でに掻き上げると、真っ直ぐな瞳で見返した。先程までの惑乱気味の貌は既に無く、ミエコは漸く両の手を机から離した。
「今まで隠していて悪かったな。……長い間、あぁ、長い間だ。ミエコ、お前だけには秘密にしていたんだ。この、神宮司家の宿業――それをお前に負わせたくなかったのだよ」
静かに目を瞑る。
それは何かの想起か。
「神宮司家の、宿業……?」
「そうだ、宿業だ。財閥という近代の落とし子として産まれる以前、……遙か昔から続く、貌亡き者どもと因縁の家系だ」
――貌亡き者。
――怪異。
「まさか、羅刹の」
「あの工場でヒノエ君に会ったろう? いや、……もっと前か。伊沢君に同級生の命を助けて貰っているはずだ」
磯子の不純な願い。
大蝦蟇の舌をぶん殴って。
「お、お父様! まさか、お父様があの人達を……?」
米次郎は即座に首を横に振った。
「違う。話は後で彼ら自身から聞いたんだ。彼らが――、いや、彼らの姫が美映子、お前に目を付けていたんだ」
「姫……?」
ミエコが疑念を零す中、その後ろで志乃が僅かに俯いた。それを認めた米次郎は、僅かに頷き酒臭い溜め息をついた。
「姫は――、まったく意地の悪いお人だ。いくら人手不足だからって……」
「ご主人様」
志乃が釘を刺すように僅かに前に出た。
「お嬢様が欲しているのは、たった一言の事実でございます」
「……あぁ、すまない志乃。此を言うのは私の責務だろうからな」
気を取り直しているとは言え、一言が重い。逡巡し、懊悩する父の姿を見てミエコは唾を飲み込んだ。
「美映子……、我が神宮司家は代々『羅刹』を影ながら支えてきた一族なのだ。『羅刹』を構成する傍流――、そう、彼らを支えるのが一族の使命にして宿業なのだ」
ふと――、脳裏にヒノエと伊沢の顔が浮かんだ。




