第15話 どっちが天邪鬼よ?
「元は女神。いつからか水鬼。神仏習合、光陰虚しく度り、閑却の果てに――、人心を惑わせる悪鬼となった成れの果てよ」
ヒノエは相も変わら淡々と言い放つ女だ。ミエコは彼女に驚きの表情を向けた後、怪異の声が響いてきた方向――、正面2階部分にある手摺りの付いたキャット・ウォークを見上げた。
――其処に其奴は居た。
『フヘヘッヘエ! 紹介なんてしてるんじゃねぇええ! 照れるぜぇぇぇッ!』
光陰激しく瞬く中、断続的に照らし出されたのは――確かに鬼だ。
黄土色にくすんだ肌、ゴツゴツと異様に隆起した筋肉。酷く均衡を欠いたその躯は、人間的な美など微塵もない。剥き出しの長い犬歯は上下とも鋭く、人の言う白目は真ッ黒に塗り潰されている。これでは瞳の奥に意志など読めようはずもない。
鬼は、天井から落ちた巻上機の上でしゃがみ込み、猿のように手を叩いてはけたたましく笑い続けている。
「――鬼、ね」
「そうよ」
「そのまんまね」
『俺は元女神だぁ! いや、お前も女かぁ! ヒヒヒヒ!』
――戯れ言を。
ヒノエが唇を僅かに歪め吐き捨てるように呟くと、錫杖を凛と鳴らした。
「許しを請う機会は与えたわ。それでもあんたが元いた寺に戻る気が無いのなら……、仕方ないわね」
ヒノエが不意に右手を唇の前へ翳し、何事かを呟き始めた。
――念仏?
ミエコの眉が吊り上がり視線がヒノエに向けられた。しかしヒノエは毫も動じず、呼吸の間も分からぬ程に言葉を紡ぎ続けている。
それを見ていた天邪鬼は一際高く飛び上がり、器用に手摺りの上で諸手を挙げて喜び嗤った。
『ヒッヒヒヒヒヒヒ! 懲らしめようったって無駄だぜぇッ! 寺の坊主共から聞かされて耳に烏賊だぜぇ! へーへっへへへ!』
態とであろう言い間違いも耳障りだ。躯を揺らし手摺りの上で跳ね回る様は、酷く挑発的で気色悪い人形芝居じみている。
だがそれでも――。
ヒノエは全く動じない。
細くしなやかな指は口元に添えられ、低くぶつぶつと、――ミエコにとっては意味不明な譫言を連綿と呟き続けている。
――念仏なんてなんの意味が?
葬式の読経など眠くて聴き終えたこともない。
退屈な音律に込められた意味など考えたこともない。
記憶に残る呪言の数々は空虚な空言葉でしかなかったとしても、――この場で口から漏れるからには意味があるはずだ。ミエコは神妙な顔付きでヒノエを見つめた。
それに――、これは違う。
漂う呪い言葉に自然と片眉が釣り上がった。
これは――神社で聴く祝詞じゃない。
ソワカ、オン、……と耳に残る語感は確かに寺のそれである。
「ひ、ヒノエ……」
呪文を唱え続けるヒノエに声を掛けるが、凛とした背中に返答は期待すべきではない。ミエコは焦燥を押し殺し、不安げに天邪鬼の姿を仰いだ――、すると思いも寄らぬ光景が目に飛び込んで来た。
『……が、ガガガガ、グァ……!』
ついさっきまでの滑稽な高笑いは止み、代わりに聞き苦しい嗚咽を漏らしながらその身を捩らせている。ミエコが「えっ」と素っ頓狂に声を漏らすほど、天邪鬼は異常な振る舞いに身悶えている。首筋や側頭部、上半身をガリガリと掻き毟りながら舌を出して声を漏らしている。
「な、なんで?」
『……お、……俺を……、祝うんじゃねぇぇぇぇぇ!!』
間抜けな断末魔の叫びをホールに轟かせながら、天邪鬼が2階の手摺りからミエコ達に向かって身を投げた。襲撃のそれではない。業火から逃れ飛び降りる憐れな人間の様である。
僅か10尺先、激しい音を伴って墜落した天邪鬼は、尚も苦悶の表情を浮かべている。全身を絞るように身悶えながら、なおもヒノエを恨めしそうに睨んでいる。
「ホント、天邪鬼ね」
乙女の瞳は身も凍るほどに冷たい。
「な、何をしたの?」
「――コイツが言ってたじゃない。祝ってやったのよ。コイツに呪詛なんて意味ないわ。コイツが元いた寺の僧たちはコイツを祓おうと怨敵降伏、調伏、魔界偈と――宗派に囚われず色々手を尽くしたみたいだけどね」
ヒノエはミエコに視線を流しつつ、再び天邪鬼を見下して「息災、敬愛、増益、福壽――、御仏の加護よ。修行僧の邪魔をする輩にはちょうど良い薬ね」と吐き捨てた。
僅かな笑みを浮かべるヒノエに、ミエコは感嘆の声を漏らさずにはいられなかった。
「凄いわね、ヒノエ――、さん」
ミエコがぎこちなく彼女の名前を呼ぶと、ヒノエはほんの僅かに身を震わせて振り返った。明滅する闇に艶やかな黒髪がふわりと揺れ、目を見開きながらも視線を数瞬揺蕩わせたその表情に、ミエコも目を見開いた。
しかし、ヒノエはすぐに背を向ける。
「わ、――分かった? アナタはここに居ても足手纏いなの。コイツが弱っているウチにサッサと帰りなさい」
毅然と律するヒノエの姿に、もんどり打っている天邪鬼が息を荒げながら嗤った。
『ぜ、ぜはは……、あ、天邪鬼はぁ……、お前だァッ!』
苦痛に歪む顔で、天邪鬼の震える指がヒノエを差す。
『お前は嫉妬しているゥ! その女にィ! ヒヒヒ!』
揺れる指先はヒノエを、そしてミエコへ。
「なッ――、何よ」
ヒノエが一瞬、身を震わせた。
『自分に嘘つくなよぅ! アマショク友達がいる女に憧れてるんだるおぉぉ?!』
「そ……、そんな訳ないでしょ!」
『ホントは同い年の仲間が増えて嬉しいクセにィ! 褒められて女同士でスタンバイなんだるおぉぉ!』
「あーッ! もう! 本当に五月蠅いわねッ!」
ヒノエの調子がおかしい。
粛然、冷然たる淑女の面影が最早微塵もない。ミエコは半ば呆然とヒノエの慌てふためく様を見ているしかなかった。
――取り乱した風は私達と変わらないじゃない。内心そう呟いたその時、ヒノエがくるりとミエコを振り返った。見る者の肝を冷やす、鬼のような形相で――。
「ミエコ! アナタがこの糞鬼にトドメを刺しなさい!」
真っ黒い千早をハラリと靡かせ、黒衣の巫女は帯に差していた短刀を乱暴にミエコに投げつけた。明滅する光の中、器用に受け取ったミエコであったが、両の手が沈み込んだ事に驚きの声を漏らした。
見れば――、ハッキリと分かる合口拵えの『鎧通し』である。
――こ、腰刀じゃないの⁈
どう見ても10尺近い。
演劇や映画の町娘が持っている代物ではない。想像以上の重量感に眉を顰めながらヒノエを見ると、相変わらず子どもなら泣いてしまいそうな悪鬼の如き形相である。
――これじゃ、どっちも天邪鬼ね。
ミエコは溜め息交じりに鞘を払い、刀を握り締めた。




