第10話 思い出とクソ野郎
「どうしたの、ミエコ?」
「あぁ……、うん。なんでもないわ」
放課後。
純喫茶『黒猫』でミエコは静々と溜息をついていた。店内の雰囲気は頗るシックで、華の乙女が嬉々として通うには分不相応であるが――、その事を良い事に、ミエコ達は偶にここで乙女の噂話に花を咲かせていた。
初江、磯子と共にテーブルを囲んでコーヒーと紅茶と洒落込む。
あの教師はハンサムだ、あの舎監は気に食わない、この間デビュウした銀幕女優の李香蘭が格好良かったなど――、愚痴と恍惚が入り混じる乙女の密談に、ミエコは形だけ耳を傾けていた。
飛び交う雑談。
背景には耳に染みこむ軽快なグレン・ミラーのダンスミュージック。それでも、この喫茶の雰囲気こそが脳裏にあの日のことを思い出させる。
――羅刹。
その事がどうしても頭から離れず、半ば放心したように溜め息が漏れるばかりだった。
「またまた~、アンニュイな感じ出してぇ。誰かにスタンバイなの? エルなの? エルなの? キュッセン手前?」
初江がいつものように頬をたぷたぷ揺らしながら、無邪気な子どものような笑顔で揶揄ってくる。
「そ……、そんなんじゃないわよ!」
「もののあわれは私達の特権だもの、相手が誰か分かったら教えてねぇ」
磯子もニヤけ顔でコーヒーを啜っている。
「だーかーらー」
ケラケラと笑う初江と磯子に、ミエコは頬を膨らませながら肩を落とした。
磯子はあの日、闇夜に舞った事を微塵も覚えていない。
彼女を救った『羅刹』は私を監視している。
あの伊沢も、お父様も同じように今すぐに答えを出す必要はない、という。
――そうは言ってもネェ。
初江達の冗談に反論する気力も起きず、ミエコが口角を下げながらティーカップに口を付けようとした、その時だった。
「あ、あれ……? ミエ、コ?」
――不図、声を掛けられた。
女の声音に振り向くと、そこには青いセーラー服を着た、同い年くらいの少女が佇んでいた。ややカールが掛かった前髪。後ろ髪は三つ編み一本のお下げ髪が腰まで伸び、端に結ばれた赤いリボンが一際に輝いている。その姿にミエコは思わず声を上げた。
「え――、か、香奈恵?」
即座に立ち上がり、彼女の肩に手を掛けた。
「久しぶりじゃない! 元気だった?」
「う、うん。ミエコも?」
勿論よ! とミエコは破顔して僅かに跳ねた。
小笠原香奈恵――。
その名前と共に、ミエコの脳裏に幼い頃の思い出が目眩く蘇った。
「尋常小学校の頃までよく一緒に遊んでたわね! どう? そっちの学校は面白い?」
「え……、あ、う、うん」
引っ込みがちな所も昔から。
年経ても変わらぬ彼女の様を見て、ミエコは再び破顔した。
「ミエコ? この人は?」
初江が興味津々そうに香奈恵を眺めた。
「えぇ、紹介するわね。小学校の頃、良く一緒に遊んだ小笠原香奈恵よ。私がお父様の都合で青山に良く来てたんだけど、その時に出会って、――ね?」
童心に帰ったミエコが曇りない笑顔を向け、香奈恵は僅かに紅潮しながらこくりと頷いた。
「う、うん。学校の放課後、色々遊んでたの」
「明治神宮外苑のブランコとか、青山霊園の乃木大将のお墓前でかくれんぼとか良くやったわね~! 一緒に市電のレールに釘置いたりもしてたわ」
「そ、そうだっけ……?」
「ミエコ……、あんたネェ」
「腕白小僧か何かかしら?」
アハハハと小気味よく笑うミエコに皆が呆れかえる。
「表参道も原宿も静かすぎるのよ。だから少しは元気が良いのがいても良いじゃない!」
少しも悪びれる様子もないミエコに、香奈恵が困ったような笑顔を向けた。
「それにしても香奈恵、どうしてここへ? こんな大人びた喫茶なんて――」
言葉を続けようとした時、香奈恵の背後から男の声が聞こえてきた。
「――香奈恵君、どうしたんだい?」
その声を聞いた途端。
ミエコの全身の毛という毛が瞬く間に逆立った。
無意識、或いは反射的と言っていい程に、一刹那、身体がびくりと硬直した。
「……ゲッ!」
「……うぇ!」
互いに呻き声にも似た息が漏れた。
ミエコの視線の先には、許せないクソ野郎があの時と変わらない姿で立っていた。
つい先日、級長の中宮冴子に小言を言われた一件の男――、モヘア混の茶色いスーツに身を固め、青いネクタイが輝く、ワカメ髪の優男だ。
切れ長の目は一見涼しげに見えるが、どこか無思慮で執拗な視線を感じさせ、ミエコはその瞳を見た瞬間、赫と顔が熱くなり、右手拳に力を入れて大きく振りかぶった。
「あんた……! まだ懲りてないの!」
「ひ、ひぇッ!」
――こんな奴がお見合い相手だったなんて!
嗚呼、思い出したくもない!
顎の傷跡が生々しい面に、有無も言わせず拳をお見舞いしてやろうとしたところで「待って、ミエコ!」と香奈恵が間に入った。
「あの、この人、この人ね……」
――許婚なの。
「は――、……はぁッ?!」
辿辿しく言葉を紡ぐ香奈恵の姿に、ミエコは目を丸くして驚いた。
何を、そんな……。
二の句が継げず開いた口が塞がらない。
呆然とするミエコを他所に、身長5尺しかない香奈恵の後ろで、5尺5寸の男は、スーツの襟を正して鼻を鳴らした。
「――そういうことだ。神宮司ミエコ。私こと城戸太一郎は、小笠原香奈恵さんと、この度婚約することになったんだ。……ま、キミにはちっとも関係ない話だがね」
伊沢とは違ったベクトルで気障ったらしく嫌味を言う、その言動もミエコにとって頗る癪に障った。
「ふ、巫山戯んじゃないわ!」
「み、ミエコ! 待った待った!」
磯子と初江が殴りかかりそうなミエコを慌てて制止する。猟犬に吠え立てられたように、城戸は怯えたように背筋を丸めるが、香奈恵の後ろで再びふんぞり返った。
「まったく、恐ろしい女だ。……ボデースタイルと脚線美は素晴らしいんだがなぁ」
「あ……、あんたねぇ……!」
――その眼!
――その眼だ!
女を見下し、肉体を舐め回す、その眼だ!
お見合いが終わった直後に身体を求めようとした、このクズ野郎がッ!
「もう一遍、その顎砕いてやるわッ!」
「や、やめてミエコ!」
ミエコと城戸の間に立った香奈恵が、振り絞るように叫んだ。
「…………お父様が決めたことなの」
「香奈恵……」
今にも泣きそうな顔で、怯える子犬のような声を漏らす香奈恵に、ミエコは寸時、自然と拳を鎮めた。僅かな変化を目聡く見抜くように、城戸は香奈恵の肩に手を掛け、すすす――と出口に向かって身体を引っ張っていく。
「さぁ行こう、香奈恵君。こんな御侠なフラッパァとは距離を起きたまえ。乱暴な性がインフルエンスしてしまうぞ」
ワカメのような前髪を揺らしながら、玄関に向かって退散する城戸に連れられる中、香奈恵は僅かに振り返り「ゴメン、ミエコ……」と寂しげに呟いた。
カランコロンとドアベルが儚げに鳴り響く中、ミエコは憤懣遣る瀬なく、両手が割れんばかりに拳を握った。
――あの野郎、次会ったらタダじゃ置かネェ。
凶悪な、悪魔すら逃げてしまいそうな程に凶悪な表情を浮かべるミエコに、磯子達は掛ける言葉を失っていた。
■後書き




