第9話 全部あべこべ
「今日は本当に――、まぁ、疲れたな」
食事の細やかな喧騒が波のように引き、コックとキッチンメイド、さらに志乃が食器を片付ける中、米次郎が立派な口髭を撫でながら零した。黒い総髪の真ん中を走る一筋の銀糸が、その疲れを表すかのように力無く揺れていた。
如何に食後の高級茶に舌鼓を打っていても、『仕事帰りの愚痴』というのは貴賤に拘わらない。ミエコは心底で微笑みながら、父の米次郎を労った。
「総会と視察、でしたかしら? 本当にお疲れ様でございました」
「あぁ、ありがとう。しかし、まぁ、風当たりは強いなぁ。やれ国策への追従、やれ産業転換は急務だ、とな。まったく肩身が狭いよ」
既に事変が始まって3年――。
大陸で繰り広げられる激戦の様子は、新聞に映画にラヂオに延々と繰り返されている。連戦連勝――のハズなのだが、配給制は勿論、産業の転換まで強いられているのが帝國の現状であった。
銃弾を、砲弾を、砲身を、飛行機を。
戦時体制への適応と兵器生産の受注。
財閥と言っても下から数えた方が圧倒的に早い軽工業主体の斜陽産業を抱える神宮司財閥を切り盛りする米次郎は、秘書達の苦労を労いながらも国策という重圧への不満を隠せなかった。
「お父様、お兄様はお戻しになりませんの?」
ミエコは現在英国へ留学中の兄、神宮司兼平の話を振った。今は海外大学へ留学中だが、長男として神宮司財閥を引き継ぐ宿命を背負わされた身である。
ミエコの提案に、米次郎は首元のクラヴァットを僅かに緩めた。
「アイツは――、まだ少しだけ苦労が必要だ。ただ英国からは早急に引き上げさせた方が良いかもしれんな。米国本土であれば如何に独逸軍と言えどまともな攻撃はできまい」
つい先日の出来事――。
独逸軍が巴里に無血入城し、仏蘭西は休戦を申し込んだ。
騙し合いの一年。やっと始まった本格的な戦闘開始後、僅か数十日で世界に冠たる列強国の仏蘭西は降伏した。第一次世界大戦で何年も激戦を繰り広げた、あの西部戦線を電光石火の『電撃作戦』で突破し、打ち破り……欧州の趨勢は決した。
世界史の大転換点。
これからの欧州がどうなっていくのか。
日本人だけじゃなく、きっと欧州に住む全員が皆目見当も付いていないのだろう。家族が留学しているケンブリッジ大学にも、いつ戦火が及ぶか知れない。ミエコ、米次郎ともに払うに払えない気苦労の種であった。
「――まぁ、それは追々だ。それより今日は別の件で頭を悩ましたものだよ」
「別の件?」
「あぁ。傘下企業が有している工場でおかしな事が起きていてな、稼働に影響がある分、こっちの方が国策より急務だ」
「何ですの? おかしな事って」
一瞬、米次郎が言い淀み数瞬沈黙した。何か逡巡している様子であったが、チラリと志乃の姿を見てから言葉を紡いだ。
「いやなぁ、ミエコは知らないと思うが、傘下企業の一つに金田製作所という企業があってな。そこでおかしな事ばかり起きるんだ」
「おかしなこと?」
「そう。色々とあべこべなんだ」
米次郎は、その工場で起きた異常現象を淡々と語った。
曰く、始業時刻と終業時刻を知らせる鐘が逆に鳴る。
曰く、時計の針が極端に進んだり戻ったりする。
曰く、ベルトコンベアが逆走する。
曰く、社員が出社と退社時間を間違う。
曰く、誰も発していない掛け声が聞こえる。
訥訥と語る米次郎の顔を、ミエコは凝視ししながら首を傾げた。
「そんなことがある訳……」
――怪談話みたい。
喉の奥から出かかった言葉をぐっと飲み込み、ミエコは息を詰まらせた。
つい先日の事だ。
そういう事態に直面したのだ。
月夜に舞う磯子、不気味な舌、姿形の見えない闇。
怖気にも似た感覚が背筋を走った。
「あぁ、ある訳ないんだよ。最初は変則的なストライキの一種かと工場長は疑ったようだが、出社と退社を間違うのは意味が分からないだろう?」
気を確かに首を振ったミエコだが、父の疑念を払底するほどの論拠が浮かばなかった。
――確かに可笑しい。
あまりに不思議だ。
「でも……、やっぱり労働環境の悪化じゃありませんの? 4月から給与からの源泉徴収だって始まりましたし、熟練工だって関係なく徴兵の対象ですもの。それに、物価統制で各種の闇市が出来るくらいインフレエションが進んでるのでしょう? 娯楽も制限されれば、憂さ晴らしも出来ませんもの」
あくまで理知的に。
あくまで科学的に。
そうしなければ弱みにつけ込み魔が忍び寄る。ミエコは直感を掻き消すように現実に答えを求めた。
「九分九厘そうだろうなぁ。1厘の可能性は無視しても問題はあるまい。お前の言う通り、工場長にその辺を確認させよう。……それにしても、しっかり世の中を見てるじゃないか、美映子」
米次郎は少しばかり意外そうに声を上擦らせた。
「失礼ですわ、お父様。私だってちゃんと考えておりますのよ」
「ふーむ、それじゃあ卒業後の進路はどうするつもりだい?」
「それは…………」
米次郎は紅茶を音もなく啜った。いつもながらの柔和な笑顔。しかし瞳は真剣そのもの、期待にも窘めにも似た問いのようである。そして答えは――出せない。
色んな事をしたい。
街に出て働いてみたい。
学術の道にも飛び込んでみたい。
海外に行って世界の見聞を広げるだけ広めてみたい。
だが人生、青信号だけではない。
赤信号が灯っているのだ。
「世相は自由を許してくれない。世界の彼方此方で戦火が燃え広がり、我々のような資本家や、有閑階級の居場所は狭くなっていく。……戦争が終われば何でも出来るだろう。だが今はそうじゃない。だから、秘書として私の傍に居た方が良いよ」
「でも……」
――我が儘なのは分かっている。
父の温情を無碍にするのは忍びない。
それでも、それでも、と反論を重ねようと胸中深く弁を重ねても、決意という言葉に結実しない。
「今すぐに答えを出す必要なんてないよ、美映子。まだ時間はあるからね」
父の優しい言葉。
しかしその言葉は――。
真っ先に脳裏を過る、芝居がかった芥川風の男、伊沢。
瞼に浮かぶ舌鋒鋭い黒い巫女、ヒノエ。
――私は。
ミエコは押し黙ったまま、志乃が用意してくれた紅茶の水面を見つめるしかなかった。




