第8話 令嬢の憂鬱
「やっぱり我が家が一番落ち着くわね」
「それは宜しゅうございましたねぇ、お嬢様」
神宮司ミエコは紅茶を湛えたカップにそっと唇を寄せた。淡い黄櫨染の色合いに、ふぅと幽かに息つけば、香り華やいで天上の心持ちである。
週に一度の帰宅。
掛け値なしの安息の時間である。本館2階、洋風を基調とするアール・デコ調の広い居間は、モノトーンを基調とした厳かな壁紙で囲まれていた。彫り深き丁寧な意匠、見渡す限りに無骨なる物を極力に排した異国気配の満ちる部屋。その只中、繭で包み込まれるように柔らかいソファーに身体を委ねて、ミエコは天井を静かに見上げた。
「これも我が儘なのかしら……」
磯子の切実な願い――。
残影が脳裏を掠め、誰ともなしに溜息をついた。
「どうかしました? お嬢様」と、丸いロイド眼鏡を掛けたハウスメイドの県志乃が不思議そうにミエコを覗き込んだ。
「ううん、なんでもないわ」
「ふふ……、お嬢様もお年頃のお悩みでございますか?」
「なッ――、そ、そんなんじゃないわ」
慌てて否定に入ったミエコの姿に、志乃はくすくすと笑いを零している。調子良い彼女の態度に肩を竦めながらも、ミエコは学校でも滅多に見せない楚々とした笑顔を志乃に向けた。
――志乃がいてくれてホント助かる。
ミエコはこの八つ程齢の離れたハウスメイド、志乃に胸襟を開いていた。おっとりとした風情のメイドである。にも拘わらず、藍色のメイド服に身を包み、三つ編みの長髪を揺らしながら手際よく他の使用人を束ねる姿は尊敬するばかりであった。学業、友達付き合い――悩みごとには何でも親身になって相談に乗ってくれた。
神宮司家には執事やハウスキーパー、コック、ガーデナーなど様々な使用人がいた。「お手伝いさん」や「小間使い」「女中」とは決して言わず、西洋かぶれと笑われようと「メイド」と昔から呼び続けてきた。
ミエコも多分に漏れず、何の気なしにメイドと呼ぶ使用人であるが、欧州流のカントリーハウスを維持する程の人員は必要とされていなかった。
屋敷は広大であっても、ゲストを持て成す本館を除けば、2つある別館の規模も意匠も質素なものであり、資産はあれど、両手で数えられない程の使用人を雇う理由も必要性もなかったのである。
畢竟、ハウスメイドの志乃は『|メイド・オブ・オールワーク《何でも屋》』を体現した存在として貴重な労働力であり、そんな志乃の背中をミエコは小さい頃から間近で見ていた。
良いお姉さん――。
ずっとそう思って来た。
そしてそれはこれからも変わらないだろう。
他の使用人も良い人だけど、志乃はこれからもずっと特別な存在に違いない。ミエコは紅茶を飲み干すと、ソファーから起き上がり、おっとりとした志乃にさも当然のように抱きついた。
「お、お嬢様?」
「……やっぱり、志乃はあったかいなぁ」
志乃は背が高い。ミエコは志乃の豊満で暖かい胸に顔を深く埋め、再び息を吐いた。
――怪異。
――大蝦蟇。
――羅刹。
脳裏を過る不穏な影達を、何とか振り払おうと更に顔を埋めようとすると「お、おお、お嬢様!」と志乃があられもない声を上げ、ミエコは我に返った。
「ご、ごめんね志乃。苦しかった?」
「い、いえ……擽ったかったので」
見上げた志乃の顔は紅潮し、家族の距離と言うより恋人のそれである。ミエコも恥ずかしげに身体を離し、拳で己の額を小突いた。
「ごめんね、ちょっと考え事してたの」
「あらあらあら、やっぱりお年頃のお悩みでございますか? もしまたお悩みのようでしたら、この胸なんて何度でも貸しますので」と大きく豊満な胸を張る。
――やっぱり志乃は志乃だ。
――彼女に変な悩みなんて相談できない。
ミエコは顔に出さぬよう、静かに心底深く悩みを沈めた。志乃も含めた家族の前では出さぬよう、強く強く噛みしめながら封印した。
志乃は空いた食器を静々と片付けていると、ふと顔を上げてミエコに声を掛けた。
「お嬢様、そろそろ旦那様がお戻りになりますわ」
壁掛け時計を仰げば、もう針が4時半を回ろうとしていた。
「そう――、なら手でも振ってあげようかしら」
リビングに繋がる目の前の大窓を開け放つ。
幾何学模様と直線的デザインが目を引くベランダの手摺り、その向こう側の景色を見るのがミエコには楽しみだった。
英仏の庭園や金沢兼六園のように意匠を凝らした庭園では決してない。それどころか、だだっ広い芝生だけが整然と広がる簡素に過ぎる風景だ。だが、遠くより来訪者を見ることが出来るのは便利であったし、街中では味わえない解放感は唯一無二であった。
日は燦々と斜に差し込み、薄い茜色に染まりつつある空は、まだまだ夜の帳を降ろす気配はない。ミエコはぐるりと敷地を見渡し、別館『黄金虫』と別館『バウハウス』を見渡した。
本館は迎賓館を兼ねるため華麗で豪華な造りなのは当然としても、『黄金虫』は疑似和風的あるいはエキゾチックな赤煉瓦やモチーフに館全体が飾られており、『バウハウス』の方はと言えば、機能主義と合理主義という装飾を排除したシンプルな佇まいのインターナショナル様式をベースにしているという、館の中で三者三様のデザインを特徴としいた。
統一性に欠ける――。
小さく見える『バウハウス』の天井には、金属製のヴェンチレーターがいくつも聳え立ち、暢気にくるくる回る様など、凡そ貴族的邸宅らしからぬ趣も、ミエコは唯一無二の意匠として気に入っていた。
「あら、――来たようね」
通りに接する正門の方。
木々のトンネルを抜けてスーツを着こなした黒髪の中年男性と、銀髪が眩しい壮年の執事が歩いてくるのが見えた。真っ白に敷き詰められた玉砂利が、芝生の端を真っ直ぐに囲い込むように伸び、その上をとぼとぼと歩いている。
「お父様ぁ!」
ベランダから乗り出し、大きく手を振る。
洋服の裾がヒラヒラと揺れ、その姿を視認した男が細やかに手を挙げて応えた。
神宮司財閥総帥、神宮司米次郎の帰宅であった。




