第7話 原石は輝く
「私立聖ウルスラ高等女学校。元々は、島根のさる素封家の土地だったというのは……、ご存じですか?」
――知らなかった。
そもそもお父様の勧めで半ば嫌々ながら入学した空間でしかない。愛着も興味も、思い入れのおの字もない。ミエコは無意識的に首を振っていた。
「かつてあそこに建っていた屋敷は、それは大層なものだったようですね。島根から出てきて才覚豊かに商いを成功させていった……、とここまでは良いのですが、ねぇ」
「――手短に」
無惨に話を叩っ切る。
ヒノエの冷たい冷たい楔が、得意げな伊沢の言に突き刺さった。急峻なまでに口角を下げた伊沢が、渋々と言葉を進めた。
「この五十殿金彦さん、まぁ珍しい名字ですが、彼は明治の御一新の折に上京し、商業で身を起こした訳でして、……要は神仏の力を借りたんですよ。この世の多く、いえ、人の世の多くを知る多邇具久神の力を借りて」
ミエコの脳裏をあの舌が過る。
「多邇具久神は蟇蛙の神様です。古事記の――大国主命の国づくりにも描かれる古い神様でしてね。この天地のことは広く知っている神様なんですよ。御身を奉り、天啓を得て商いの機転に活かしたんですねぇ」
「――ただのズルよ」ヒノエの言は相変わらず鋭い。「……と、ともかくも、五十殿氏は立身出世を果たした訳ですが、全ては無為に転じた訳です。あの関東大震災で」
ああ――、ミエコは得心した。
「なるほどね。屋敷も会社も全て崩れ落ち、資産を失った素封家が売れるのは土地だけ。広大な屋敷跡、二束三文の地――、そういうこと?」
「そうです。しかも、まぁご丁寧に神様をお迎え出来るよう、池を造り蛙を放ち祠を建てた訳ですね」
「……朽ちた祠」
「宜なるかな、人の子の都合ですよ。今の学校の創設者は異教だとはいえ、信心深い御仁のようですねぇ。古き祠を潰す遷すも憚られたのでしょう。そのままに――池も蛙も、しかも五十殿さんが所有していた大鏡まで、そのままに」
さも当たり前のように伊沢が胸元から扇子を取り出し、パチンと乾いた音を響かせた。
「打ち捨てられ、奉る者も居なくなり、挙げ句の果てに異教の神を奉戴する学び舎が造られれば――、そりゃ人間だって怒りますよ」とは言えねぇ、零落した訳じゃないんだから、と伊沢は続け様に嘆いた。
「まぁ恨み辛みを持つのも神様ですからね。蛙の神様の悪意が転じて妖怪となり、精気を吸う大蝦蟇となって現れたのでしょう」
精気を吸う。
確かに「寄越せ」と言っていた。
「でも、どうしてあそこに」
「そりゃあ……、ねぇ」
饒舌な伊沢が僅かに言い澱み、チラリとヒノエに視線を移した。その事に気づいたヒノエは、溜め息一つに言葉を続けた。
「処女伝説のある聖人を奉る館で、うら若き乙女が夜な夜な表に出せない様な願いをほざいてるんだから、そういう気も起きるってものよ」と酷く倦んだように吐き捨てた。
滲み出る敵意にミエコは眉を顰めた。
「でも、願ってる本人達は一生懸命なのよ」
「――それが何か?」
情け容赦の欠片もない。
身を切る冷たい言葉が返ってきた。
「元いた神様も知らずに、どうせ現世利益に縋ったり、恋愛を切望したり、誰かを呪詛していたんでしょう? 邪な気は邪な気を集めるもの。多邇具久神の現し身が穢され、邪なものになったのも、貴女達の所為かもしれないのよ」
「あ……、あなたねぇ……!」
語気を荒げかけた所で、伊沢が「まぁまぁ、落ち着いて」と軽やかに仲裁に入った。いつの間にか体の良い位置に居るのも処世術の一つだとしたら、そちらは舌を巻く程だ。
「――さて、とりあえず怪異はそういう事情です。鏡はあくまで怪異の表象の一つに過ぎませんから、多邇具久神の祠は我らの方で手を打っておきます。……あぁ、壊す訳じゃありませんので、そこはご安心を」
慇懃、余計に弁を重ねる伊沢に辟易しながらも、ミエコは僅かに得心し、もう一つの謎に話を振った。
「じゃあ、……その、国を影ながら支える怪異対処機関たる貴方達が、なんで私達を助けたの?」
――磯子は宙に舞って落ちたはず。
どう救ったかはこの際置いておいても、救出は絶対偶然ではない。私を監視していなければ即応なんて出来ないはずだ。胸中に広がる警戒心が、僅かばかりの敵意となってミエコの視線に滲み出た。
伊沢は冷めきったコーヒーを音も立てずに啜ると、僅かに目を細めてミエコを睨んだ。
「スカウトですよ、ミエコさん」
「……え?」
片目を瞑り、ミエコを視る。
「貴女のその力。見えない怪異を目にして、掴めない怪異を掴んで、殴りつけた――その力ですよ」
芝居がかった響きながらも念を押す。隣の少女――ヒノエが「強くない」と言っていた、この力。ミエコは不思議そうに自分の掌を見つめた。
「私達『羅刹』は異能を持つ者達の集まりです。陰日向に動き、怪異の害から人々を守る。しかしその為には、怪異と戦える人を増やさなければなりません」
――怪異と戦う。
「ヒノエさんは千里眼の持ち主でしてね、まぁ簡単に言えば、人の気や念、力といったものを見て感じ取る事が出来るんですよ。まぁ、私もそのクチではありますが……、それで貴女を監視していた――という次第です」
まぁ、監視を始めたのはつい最近の出来事ですがね、と補足気味に伊沢は頭を掻いた。
「ですからね――、今すぐに答えを出す必要なんてありませんが、……我々は貴女を迎える準備は出来ている、とだけ伝えておきましょう。もし今答えを出さなくても、いずれまた会うこととなるでしょう。力が顕現した以上――遠くない未来にね」
ミエコは呆然と二人の顔を見つめた。
――冗談じゃないの?
――でも、確かに見て、殴った。
――その力が求められている?
努めて冷静を保ちながらも、ミエコの心の奥底、誰も知らない乙女の衝動が密かに揺らぎつつあった。




