幼根=西属州にて
神官ジーノ・ホルニヒが、妻であるジョヴァンナからある噂話を聞いたのは、初夏に入ろうとした時期のことだった。
ジーノが王都から親類を頼り、妻のジョヴァンナと共にこの西属州にある第二都市であるマウレタニアに移住したのは二年前のことだった。
このマウレタニアの神祇局に勤めるジーノは、神官として極めて優秀であり、自らも驕ることもないため、市井の人々含め皆から信頼を集めていた。
そんな彼に、妻ジョヴァンナは食事中の会話の中で、市井で流れる不思議な噂を語り始めた。
「最近、自分のことを生まれ変わりだと言う人たちがいるようなの」
冷えた井戸水を飲みながら、ジョヴァンナは事の詳細を話し出す。
「この街にある公立学校である貴族階級の令嬢が、皆の前で話しているそうなの」
「なるほど」
ジーンは考え込む。
貴族階級から騎士階級まで、地位に関係なく学問を学ぶ公立学校に通う者から、そのような虚言を語る者が出ようとは信じられなかった。
ジーノは、その令嬢が何か妄想のようなものに囚われているのではと思った
。
「でも不思議なのはこの世界の生まれ変わりではなく、他の世界から来たと話しているそうよ」
「他の世界?」
他の世界、その単語をジーノは初めて聞いた。
「ええ。それが、私たちでは知り得ない場所のようなの」
「親はどうしているんだい?」
「親は、そのことを信じているようなの」
「まさか・・・」
貴族階級の親ともあろう方がと、ジーノは思った。
続けてジョヴァンナは令嬢の名前を伝える。
「その子、あのガゼル様なの」
「あのラサール家のかい?」
ジーノは、驚きを隠せなかった。
このラサール家は、古豪の男爵家でありユリウス王国の歴史や学問を長年に渡り管理してきた言わば、教育機関の重要な地位を戴いた貴族だった。
その令嬢であるガゼルが、なぜそのようなことを言うのかジーノには到底理解できなかった。
親も親である。
教育機関にいる者が娘を信じるのはわかる。
だが、この現実に有り得ないことを語るだけでも、親とて娘を矯正するべきであろう。
「公立学校に注意を勧告した方が良いかもしれない。明日、法務局の方に会ってそれとなく話しておこう」
「ええ。お願いするわ」
話のため冷めかけたスープを口にしながら、ジーノとジョヴァンナは食事を再開する。
ただ、二人には心の中で何か言い知れぬ不安が残っていたが、それがのちに形になろうとは想像もしなかった。
翌日、ジーノは法務局へ足を運んだ。
法務官は今で言う検察官と裁判官を兼ねており、さらに捜査権も受け持つ、まさに法の番人と言う立場を請け負う者たちである。
彼ら法務官は、常に公平であり揺るぎない正義を持たなければならない。
ジーノとしては神官の立場ではあるが、虚言をきたす者が現れたのなら、神に仕える者として現実に向き合うよう正さなければならない。
ジーノと面会をした法務官も、ガゼルの話を聞くと、すぐに公立学校へ注意を促すと言う。
「場合によっては、私がガゼル嬢と話をしても構いません」
ジーノとしても、彼女の矯正に対して手を貸すつもりでいる。
「わかりました。その際は、私たちも立ち合います」
法務局からの協力を得たジーノは、神祇局の支部長にも話を通しておく。
ジーノ自身、頭の中にある何かしらの不安が今でも離れていない。
何か、手を打っておくに越したことはなかった。
だが、その予想を遥かに超えた事件が、一か月後に起こった。
ガゼル嬢が主催パーティーで、婚約者であるモンターグ家の長子アミールに対して、婚約破棄を宣言したのだ。
その場にいた目撃者の証言では、婚約破棄の状況はこのような内容だった。
ラサール家の主催で行われたのは、生徒たちの交流の場として用意された学園パーティーだった。
開始の挨拶をガゼルが行った後、歓談が始まると、しばらくして、会場が騒がしくなったと目撃者は語る。
その場所へ歩み寄ると、そこには取り巻きと呼べる男性陣を背にしたガゼル嬢がおり、床には二人の男性に押さえ込まれているアミールがいた。
あまりの光景に絶句するのは、目撃者だけでなく周りの生徒たちも同様だった。
ガゼルの取り巻きたちは、アミールを糾弾する。
「貴様は、ガゼル様を差し置いて不義密通を働いた!罪を償え!」
しかし、アミールは否定する。
すると、今後はアミールの前に、同級生の騎士階級出身の少女が、他の取り巻きたちによって彼の前に突き出されたのだ。
彼らは、アミールと少女が不義密通を謀ったと言う。
アミールも少女も否定する。
一方で、ガゼルの取り巻きたちが執拗にただただ責め立てるばかりで、他の証拠を出さない。
これに疑問を抱いた他の生徒が、すぐに教師を呼ぶ。
その間にも、他の生徒たちが取り巻きたちに対して、糾弾するのを止めるよう促すのだが、取り巻きたちはもはや狂信的な態度で、アミールと少女を責め立てる。
その中心にいる、ガゼルの様子はただ泣いているだけだった。
この光景には、生徒たちの誰もがガゼルの態度が異様なものにしか見えなかった。
やがて、教師たちが駆け付け、すぐにパーティーは解散となった。
教師たちは、学園長に今回の件を報告する。
学園長はすぐさまガゼルの両親、取り巻きたちの両親、アミールと少女の両親、そして、法務局の支部長とジーノを呼び出した。
学園長としては法務局からの勧告を受けており、ガゼルとその両親に指導をしていたが、それも無駄になってしまった。
このままでは、学園の秩序が守れないと判断した結果、学園長はジーノたちに助けを求めることになった。
翌日、支部長とジーノはガゼルを中心に聞き取りを行った。
だが、彼らにはまったく反省の色が見られなかった。
取り巻きたちは、全員がアミールが不義を行ったと考えていた。
支部長は、彼にその証拠はどこにあるのかと聞いてもガゼルが言ってる、彼女が嘘をついていないと話すのみだった。
これには、取り巻きたちの親も呆れてしまうばかりだった。
そして、この騒ぎの張本人であるガゼルはと言うと・・・
「アミールがあの子と浮気したの!あの子は私を突き飛ばしたり物を隠したりしたの!!」
だが、そのような事実はまったくなかったのだ。
聞き取りの後に学園内での調査の結果、アミールは少女と数回会っただけで、それ以外は家の都合で学園を休んでおり、到底不義を働く環境ではなかったのだ。
少女の方も、騎士階級である実家での事業の手伝いがあるため、ガゼルが言う日時には、彼女は学園にいないことも判明していた。
・・・まさに虚言癖ではないか。
ジーノは、そう思うしかなった。
その後、ガゼルたちに事実を突きつけてみると、信じられない事実が発覚した。
なんと、ガゼルは取り巻きたちと伽を共にしていたのだ。
つまり、全員と性交渉を行っていた。
これには、誰もが言葉を失った。
では、なぜガゼルはこのようなことを行ったのか。
それは、ガゼルが男たちを側に侍らせたいとの想いからだった。
「住んでた世界では、みんな、<逆ハーレム>に憧れているのよ」
ガゼルは、ジーノの前で自分が転生した者だと語り始めた。
<転生>や<逆ハーレム>とは、一体、そもそも何なのか?
ジーノ含め、皆が理解できなかった。
「あなたのいた世界では、そのようなものがあるのですか?」
ジーノはあえて、ガゼルの世界に踏み込んだ形で質問をすることにした。
「そうよ、私がいた世界だと、ここは私が好きだった小説の世界と同じなの」
ジーノは、最初はガゼルが狂人かと考えていた。
だが、ガゼルが澱みなく答えるので、彼女は正気なのだとジーノは思った。
「だから、アミールは邪魔だったの」
「だから、婚約破棄を考えたのですね?」
「そうよ。それに、あの女の子も私の好きな取り巻きの恋敵だから邪魔だったし」
つまりは、ガゼルは小説の中のヒロインであり、邪魔となるアミールと少女を害しようとしたのだ。
さらに、ガゼルの両親たちも、娘が異世界から転生したのだと信じており、娘は悪くないと話す始末だった。
何故そう思えるのか、ジーノさえ理解できなかった。
「ガゼル嬢と取り巻きの方々には、自宅にて謹慎処分とします。審問は、改めて別日にて行います」
法務局の支部長はそのように伝えると、彼らはマウレタニアにある旅団から派遣された騎士たちに監視されながら自宅に戻った。
「まさか・・・全員と関係を持っていたとは・・・」
支部長は頭を抱える。
「貞操概念が薄いようですね」
「なぜ、貴族階級の令嬢が・・・」
さすがに、全員と肉体関係を結ぶなど正気の沙汰ではない。
しかも、どこぞの世界からの生まれ変わりだと言う。
狂人でなければ、一体、彼女は何者なのか。
皆が、答えなど出せるはずはなかった。
「本人の言う異世界では、そのようなことが許されるのでしょうか。ですが、それは本当に存在するかわかりません。ですので、今は引き続き聴取を続ける方が良いかと」
「はい。場合によっては、王都から終身法務官様を派遣して頂きましょう」
終身法務官の言葉に、ジーノは一人の法務官を思い出す。
その法務官は、どんな時でも公平に人を見据え、どんな時でも法に準じながら、自分の意志を元に罪を裁く。
もし、彼が来るのならどんなに助かることだろうか。
そう思いながら、ジーノはその法務官の名前を呟くのだった。
「ビョルン・トゥーリ」と。
主な登場人物
ジーノ・ホルニヒ・・・西属州にある第二都市であるマウレタニアの神官。
ジョヴァンナ・カルディナー・・・ジーノの妻。治癒院に勤める。
ガゼル・ラサール・・・貴族階級の令嬢。自ら転生者だと名乗る。
アミール・モンターグ・・・ガゼルの婚約者。ガゼルに突然婚約破棄を言い渡される。