毒の色彩
少女は軽快に地下へ続く階段を降りて、自宅のドアに鍵を差し込み、開けた。頭の上に乗った帽子のつばをつまんで、一人がけの椅子の中央に設置された髑髏の上に放り投げると、向かいの席にどかっと座った。帽子乗せになっている髑髏は少女自身の頭蓋骨を採寸して彫刻したものだ。
今日は珍しく気分が良くて、骸骨を彫るよりもカンバスに向かった。ここのところ興味を惹く事件がなくて筆が乗らなかったが、今朝のあのニュースを見てからインスピレーションの兆しを感じる。青、オレンジ、緑、ピンク、紫、黄と勢いにまかせて色彩をぶつけた。刷毛を浸した赤の染料は少女に燃え上がる火を連想させた。そうだ、Happy《楽しい》 holidays《休暇を》!だ!しかし――
「まったく!忌々しい4と5と20だ!」
少女は刷毛を床に捨てて、4、5、20!4、5、20!と毒づきながら、机に置かれた彫刻刀を掴んで髑髏の一つに突き立てた。しかたがない、あと3年――いや、11ヶ月!の辛抱だ。それまでは髑髏の代わりになる相手を探すしかない。かねてからの計画を実行に移す時が来た。目星は付けてある。パソコンのディスプレイに表示されたスーツ姿の金髪男を見て、少女はにやりと笑った。
この記録を残そうと思った理由は、彼女の活躍を世間の人々にも知って貰いたいと考えたからだ。彼女――今屋敷蜜は17歳の少女(こういうと彼女は怒るのだが、事実として記録しておかなければならない)でありながら、凶悪な犯罪者と渡り合うためのふてぶてしさと、明晰めいせきな頭脳と、鋭い観察と直感から発揮される並外れた洞察力を駆使して、もつれ合った謎を解きほぐすことで数多の事件を解決し、起きるはずだった悲劇を未然に防いだ。彼女自身が脅威にさらされることも幾度となくあったが、鍛錬によって身につけた射撃の腕前と護身術によってその度に危機を潜り抜けてきた(これに関しては、私が彼女を助けたことも、逆に助けられたこともあった)。にも関わらず、今屋敷蜜は自らの功績を誰にも語ろうとせず、得られるはずの感謝や名声をあえて避けていると感じることもある。それについて彼女に尋ねると、くだらないことに時間を割くのは勿体ないというように、ただ興味がないと答えるのであった。しかし、才気溢れるこの若き友人と行動を共にし、その活躍を最も近い距離で目の当たりにした証人として、私以上に記録者に適した者はいないはずだし、類稀なる才色を放つこの人物の輝かしい功績を時の流れにただ埋もれさせてしまうのは余りにも惜しい。本人は迷惑がるかもしれないが、才能ある者が受け入れなければならない宿命として、また、もしこの記録がきっかけとなって今屋敷蜜の名が世に広まることがあれば、彼女の趣味である犯罪捜査の一助となるかもしれない。
さて、記録を書き始めるにあたって、彼女の二つ名を決めたいと思う。少女探偵が真っ先に思い浮かんだもので、事実を的確に表してもいるが、聞くまでもなく彼女は却下する。次は諮問探偵ではどうかと尋ねたが、その呼び名は世界で唯一人のものだと彼女は言っていた。できるだけ本人の意向に沿う形で彼女を表する二つ名は何か考えた。彼女は創作が趣味で、事件を手掛けている間でもよく色がついた刷毛を持ってカンバスの前に立っていた。創作のためにわざわざ着替えることもしないから衣服に染料がついていることも度々だ。私が彼女と出会い、解決した最初の事件は、様々な色彩で鮮やかに彩られた舞台で決着を見た。そこで、才色兼備の色彩探偵、今屋敷蜜の、初登場となるロンドンで発見された焼死体にまつわる事件をこれから語ろうと思う。
約束の時間になって、事務員が私のいる面談室のドアを叩き相談者を連れて入室した。事務員の後ろにいたのはまだ少女と言ってもいいような日本人女性だったので、私は思わず手渡された相談票にすばやく目を通した。そこには相談者の属性と相談の概要が予め記入されているが、彼女の年齢は20歳、職業欄には専門職とだけ書かれていた。
「今屋敷蜜さんですね。初めまして、外国法事務弁護士のオリバー・オースティンです」近寄って右手を差し出すと、彼女はそれに応じた。
握手を終えると、彼女は面談室の内装に視線を動かしていたが、事務員に部屋を下がらせて椅子を勧めると、会釈して着席した。
これが彼女との出会いだった。この時は、弁護士とその依頼者以上の関係になるなんて考えようがなかったし、ただの友人の立場を超えた長い付き合いになるなんて夢にも思わなかった。この時の彼女といえば凛としたかわいらしいお嬢さんといった印象で、ただ、弁護士との面談となると気負って固くなる相談者も多いのに、彼女は、例えば、そこの本棚に置かれている本のタイトルを全て知っているかのように落ち着いていた。
「先生に依頼するのがベストだと判断しました」と彼女が切り出した。
「ほう、それはなぜですか?」
私はイギリスの法廷弁護士の資格を持っているが、日本の裁判所で代理をすることは認められていないし、それなら同僚の日本人弁護士が対応する。そのため依頼となると海外在住の日本人か外国人が多いのだが、彼女はわざわざ私を指名して予約をしたのだ。珍しいことだ。
「先生は専門用語の通訳も可能で、ヒンディー語も話せるし、現地の法律の知識もあるから後見人として申し分ない。それにまとまった時間を取って頂く必要があるし、危険も伴うから、身軽な人にしかお願いできない。全ての条件を満たすのは先生だけです」
初回の面談で、相談者の前で顔をしかめるようなことは避けるべきなので、私は意識して笑った。
「確かに、私は国際案件を中心に扱っているし、ヒンディー語も話せます。つまり、私に現地でどなたかの後見人になって欲しいという依頼でしょうか。しかし、こう見えて事務所の経営で忙しい身なので、ご希望に沿えそうにありません」
「いえ」彼女はすっと立ち上がって、じっと座っていられないというように部屋の中を歩いた。
「先生にお願いしたいのはあくまで通訳がメインで、後見人は形式的なものです。わたしはまだ年齢的に制限行為能力者にカテゴライズされているので一人では満足に旅行もさせてもらえない身分なんです。ただ私の行動にお墨付きを与えて下されば先生に迷惑はかかりません」
「しかし、先ほど記入頂いた相談票を見ると今屋敷いまやしきさんは20歳では?」私は相談票の生年月日欄をもう一度確認した。
「それは記入ミスです。わたしは17歳です」
私は驚いて彼女を見たが、彼女に慌てた様子はなかった。しかし未成年者からの相談は基本的には親権者の同席がないと受け付けられないことになっているのだ。
「先生、報酬の心配はいりません。わたし名義の特許のライセンス料と著書の印税があるので十分な額を払えます。万一の場合にも後見人として金銭的な負担を負うことはありません」
「いえ、今屋敷さん、そういうことではなく、あなたと委任契約を結ぶためにはまず親権者と会わせて頂く必要があります」
17歳でなんてふてぶてしいお嬢さんなんだろう。私は年齢も門前払いされないようにわざと間違えて記入したのではとの疑念を抱いた。このような依頼は当然受けることはできないが、私は彼女個人に興味を持った。わざわざ弁護士をからかいに会いに来たわけではないだろう。
すると彼女は笑顔を見せた。
「わたしがここに一人で来たのは、両親から完全に信頼されているからです。家庭は円満です。明日、先生の希望の時間を言って頂ければ両親に会えるようにします。それと」
彼女は小切手帳とペンを鞄から取り出して、机の上で私に見えるように金額欄に数字を記入した。その金額は私の弁護士としての2ヶ月分の収入だった。
「引き受けて頂けたら前払いでお支払いします。気が変わったら連絡して下さい」と告げて、彼女は面談室のドアノブに手をかけた。そこで、もう一度振り向いて、「先生、2日後の火曜にロンドンへ飛びます。9時45分羽田発ヒースロー行きの便です。今朝ロンドンで焼死体が見つかったのはご存知ですか?一緒に来て欲しいんです。Happy《楽しい》 holidays《休暇を》!」と言い残して出ていった。
私はその日最後の相談を終えて、一息ついた。面談室の椅子に寄りかかりながら、今屋敷蜜からの依頼について考えていた。要するに、彼女と行動を共にして通訳をして欲しいということだ。後見に関しては、彼女が法に違反したり、逆に問題に巻き込まれる前に私が対処すればよい。実のところ、私はしばらく休暇を取ろうと考えていた。妻との離婚調停が控えているし、イギリスの両親にも久しく顔を見せていないため、帰国して骨休みするのもいいだろう。その間の事務所経営はほかの社員に任せればいい。それに、今屋敷蜜のことが気にかかっていた。本人は家庭に問題はないと言っていたが、高校生が一人で法律事務所に相談に来るのは珍しい。親から虐待を受けている子がその事実を隠すという事例を聞いたことがある。そうでなくとも、別の理由で助けを必要としているのではないだろうか?
間接的な救難信号という可能性に思い当たり、私は事務員の清水夢衣可に相談票のコピーを取らせて、今屋敷蜜のことをどう思ったか尋ねたが、特に変わった印象はないようだった。ついでに、先ほど浮かんだ考えについて意見を貰おうと、この後食事でもどうかと誘ったのだが、今日は予定があるからと断られてしまった。この件で同僚の弁護士に相談するのはためらわれた。私には仕事を抜きにして何でも相談できるような相手がいなかったので、この日は東京駅近くにあるパブのカウンターで、一人でイギリスのビターエールを飲みながら今後のことを考えた。酔うほどの量を飲むつもりはなかったのだが、離婚について考えがよぎる度に、しらずしらずジョッキを傾けて振り払った。とりあえず明日、今屋敷蜜の両親と会おう。そう結論を出して、携帯電話に番号を打ち込んだ。
「先生、一人で飲んでるんですか?」と電話越しに今屋敷蜜が言った。
そうだと答えると、「受付の女性に断られたんですね」と指摘されて面食らった。どちらもなぜ分かったのか聞くと、背後の騒音からパブだと分かると言い、続けて、20分後にそこにいくと一方的に告げて通話を切られた。ここに来ようにも店の名前を言ってなかったので、かけ直したが、コールするだけで繋がらない。向こうから連絡があるだろうと思って待っていたら、いつの間にかうとうとと寝てしまった。その後、今屋敷蜜に肩を叩かれて気がついた。
「わたしの両親は心配性なんです。あなたにしっかりしてもらわないと計画がおしゃかだ!」
私は笑って、このくらい何でもないと答えたが、彼女は酔っ払いを非難し、酒の効用を否定して、悪しき面について長々と語っていたが、詳しい内容は思い出せない。気づいたら髭が生えたタクシーの運転手にマンションの前で迷惑そうに起こされて、自宅のベッドにすべりこんだ。深夜になって酔いが醒めてから、今屋敷蜜の前で失態を演じたことがわかり自己嫌悪に陥った。携帯電話のメッセージには待ち合わせの時刻と住所が残されていた。
指定の時間に待ち合わせ場所に着くと、そこには石塀に囲まれた広い敷地があった。「今屋敷」と彫られた1メートルほどの重厚な一枚板の表札が立てかけられていて、その横に黒い金属性の門扉があって、反対側にインターホンが設置されていた。
「お待ちしておりました、お入りください」と温和な女性の声が出迎えた後で、門扉が自動で開いた。今屋敷蜜の両親は幸福な、同じ空間にいる者を安心させる魅力を持つ人達で、初対面の私を歓迎してくれた。夫婦間のとりとめのない会話を聞かされただけだが、家庭内に問題を抱えているとはとても想像できなかった。
「蜜さんは今日はいないんですか?」と尋ねたら、「あの子はめったに帰って来ないの」と母親が答えた。それでは心配ではないのかと聞くと、今屋敷蜜は自分に必要なことは全て自分でできるし、助けが必要な時は頼ってくるとのことだった。ただ、自分で稼ぐようになってからは頼られたことはないと。私が昨日彼女から依頼された内容を話すと、二人とも黙って聴いていたが、話を終えるとすぐに娘のことをよろしくお願いしますと両手で私の手を握った。
帰り際に、心配していないわけではないんだと父親が言ったので、私はつい、「それなら、一緒に住まれたらいかがですか。住所を決めることができるのは親権者です」と口にした。すると父親は少しうなってから、「したいようにさせるのが一番いい」と告げた。私は、娘さんのことは責任を持ってお預かりします、と答えて今屋敷宅を後にした。
こうして親権者の同意を得て、今屋敷蜜と私とは委任契約を締結した。契約を交わしたのはようやく寒さがやわらいだ3月19日、機内でのことだった。
単純なことだよオリバー、と彼女は言った。私をちらっと睨んでから(このことを後で彼女に指摘したら「睨んではないけど、教師ができの悪い生徒に教える心境だ」と言った)、なぜ私が事務員を食事に誘ったことがわかったのかを、次のように説明した。
「先生は一昨日、わたしから異質な、事件性を匂わせる相談を受けて、誰かの意見を聞きたいと思った。しかし、あの時点ではささいな疑問に過ぎないため、弁護士としては同僚に相談することはできない。一方で、先生は奥さんと離婚手続きを進めている(私は座席から跳び上がりそうになった)ので、女性を食事に誘うことに抵抗はなく、先生の視線からは受付の女性への好意が読み取れる。その後、電話越しの雑音からパブにいることと、食事の誘いを断られたこと、離婚のことで頭を悩ませてひどく酔っているとわかった」
「どうして離婚のことを?」
「左手の薬指の跡からつい最近まで結婚指輪をつけていた。また、今月になって二人とも引っ越して別居していることが法人の登記簿からわかる。あとは、不摂生が顔に出ているし、女性に対する視線からもわかる」
私は悲鳴を上げそうになったのを、どうにかこらえた。「それじゃあ、私がいるパブの場所はどうやってわかったんだ?」
「イギリス産のビターエールが旨い店として先生がSNSで写真をのせていたし、ついでに、2年以上イギリスに帰っていないこともつぶやいてた。ホームシックとはいかないまでも離婚の件もあって、休暇を取って帰郷したいと思っている」
「私がロンドンに帰るつもりだったこともわかってたのか!」
ヒースロー行きの便の中で、隣の座席に座る今屋敷蜜に、疑問に思っていたことを尋ねたところ今のような驚くべき答えが返ってきた。別に驚くことじゃないと彼女は言った。
「ところで、先生にはまだ、わたしがロンドンに行く理由を話してなかったね」彼女は英字で書かれた新聞を私の膝のうえに置いた。イギリスのデーリー・テレグラフ紙と死亡記事が書かれたタブロイド紙だ。私が手に取ると、彼女が事件の概要を説明した。
「火災が発生したのは17日未明。場所はロンドン東部のスタンフォールド・ル・ホープの民家。コリンガム消防局消防隊による鎮火後、現場からは焼死体が発見された。焼死体の身元は民家に住んでいた26歳男性と思われる。エセックス警察は、放火の疑いもあるとして捜査を開始した」
次に、タブロイド紙の記事。「捜査の結果、出火原因はガソリンが室内に撒かれた後、火がつけられたものと判明した。出火箇所は1階の居室で、焼死体は出火箇所付近にあおむけで倒れていた。そして、居室西側の壁紙には謎の文字が一面に書かれていた。放火した犯人が何らかのメッセージを残した可能性がある」
「放火とは、物騒だね」私は記事から目を離して彼女を見た。「謎の文字が書かれてたというのは本当だろうか?」
「うん、焼け跡からかろうじで読み取れたのは、大文字で、H・A・P・P・H・Lの6文字らしい。PとH、HとL、の間にスペースがあって一文字ずつ文字が入ると思われる。また、Lの後にも文字が書かれていた形跡があって、Iのような縦線がうっすらと残っている」
「しかし、タブロイド紙に書かれていることだし、真に受けない方がよさそうだ」と私は率直に感想を述べたが、彼女はこの事件について真剣に考えているようだった。「まさか、この事件に興味を持ってロンドンへ向かってるのかい?」
「わたしは、ニュー・スコットランドヤード本部に知り合いがいて、HOLMES2のデータベースを閲覧できるんだ」
「ホームズ?」
「HOLMESは、イギリス警察が使用する情報技術システム(Home Office Large Major Enquiry System)の通称名で、いうまでもなく名探偵シャーロック・ホームズに因んで付けられたバクロニムだよ」
彼女の話はにわかには信じられなかったが、私は口にせず黙っていた。しかし、この事件を調べるためにロンドンへ行くのは本当のようだ。端正な横顔をさらして物思いにふける少女を見ながら、今屋敷蜜とはいったい何者だろうか?と、私も考えずにいられなかった。
私はここで、彼女についてわかっていることを整理してみた。
・17歳
・容姿端麗
・一人で暮らしている
・家庭環境に問題なし
・親が資産家
・特許と著書による収入がある(?)
・観察と洞察が鋭い
・豪胆で行動力がある
・ロンドン警視庁とコネクションがある(?)
・ロンドンで発生した焼死事件を調査している
逆に気になる点も書き出した。
・高校には通っているのか?
・なぜ事件を調査するのか?
ロンドンへ移動中の約半日間、彼女は主にネットで調べものをしていたが、調べ終わると、イヤホンをして音楽を聴いたり、睡眠を取ったり、本を読んだりゲームをして時間を潰していた。一緒に過ごして彼女について新しくわかったことは、音楽はクラシックを聞くということ、高校にはちゃんと通っていて(たまにさぼるが)、今は春休みということ、休日に趣味で犯罪捜査をしているということだ。「どうして犯罪捜査なのか?」と尋ねたら、「こんなに刺激的で興味をそそるものは他にない」と答えた。
私はというと、彼女を観察する以外には、離婚調停の準備を進めていた。私個人の話で恐縮だが、誤解無きようにここで言っておきたいのだが、離婚の非が私にあるわけではない。愛し合って、生涯を誓い合い、結ばれたはずの二人が、公の法廷で互いの不実をなじり合う姿ほど悲しいものがあるだろうか?そのような醜態を晒すくらいなら、いっそのこと調停で相手の要求を丸ごとのんでしまった方がまだましかもしれない。
機内ではこのようにして過ごしていたが、時間はたっぷりあったので、さして興味があったわけでもないが、これから調査しようとしている事件について彼女の考えを聞いてみた。しかし、「情報が揃っていない段階で推理しようとすると、先入観を生んでかえって捜査の妨げになる」との答えが返ってきただけだった。ただ、事故ではないのは確かだと。それと、明日にはインドへ飛ぶことになるだろうから、と言われた。ヒンディー語の通訳を頼まれていたので用意はしていたが、せわしない話である。インドでも気になる事件があるのだろうか?
ヒースロー空港に到着したのは、現地時間で13時35分。12時間50分のフライトだった。
「さて、久しぶりの故郷で色々と寄りたいところもあるだろうけど、わたしに付き合ってもらうよ、オリバー」
第5ターミナル到着ゲート前のコスタで眠気覚ましのコーヒーを買って、今屋敷蜜は機内で凝り固まった身体をぐーっと伸ばした。彼女の身長は17歳の日本人女性としては平均だが、イギリス人の同年代と比べると5cmほど低く、かなり幼く見える。しかし、彼女の意気揚々とした態度には異国の地に対する気負いのようなものは感じさせなかった。
「もちろんオーケーだよ。まずはどこに行くんだい?」
「まず、スコットランドヤードに挨拶に行く。渋滞につかまるかもしれないけど、タクシーで行こうか」そう言って、彼女はブラックコーヒーを片手にスーツケースを転がした。
タクシースタンドでブラック・キャブに乗って、ロンドン市内に向かった。移動中、彼女は運転手と、最近主流になっているウーバータクシーは質が落ちるからあまり使いたくない。最近、タクシーに人気ひとけのないところに連れていかれて殺される映画を見たが、わたしなら走行中に後部座席から首を締めてやる、という話を笑いながらしていた。彼女の英語は通訳が必要ないほど達者だったので、私は感心して聞いていた。40分ほど走るとビッグベンが見えた。ウェストミンスター宮殿を右手に左折すると、すぐロンドン警視庁に到着した。
タクシーを待たせて、私たちは「NEW SCOTLAND YARD」と書かれた回転式看板の横を通って、白い石造りの庁舎へ入った。今屋敷蜜はそのままエレベーターに乗って行先階を押したので、私は急いで彼女の後に続いた。向かった先は専門刑事・業務部と案内が表示されている一画で、彼女は近くの職員に「ヘイミッシュ」と名乗った(後で尋ねたところ、秘匿捜査員を表す隠語だと彼女は言った)。すると個室に通されて、ふくやかで肌が浅黒い、豊かな毛量をライオンのたてがみのように撫で付けた中年女性が現れた。
「ステファニー・ギャラン副長官補」今屋敷蜜が笑顔で手を差し出すと、「ステフィーでいいわ」と、ギャランは親しみを込めて彼女にハグをした。私は事の成り行きに戸惑っていたが、彼女の顧問弁護士ですと名乗って握手を交わした。今屋敷蜜がスコットランドヤードに知り合いがいるとの言葉は半信半疑だったのだが、こうなると信じないわけにはいかなかった。
「クレシダ長官はお元気ですか?」
「あなたが来ると聞いて、会いたがってたわ。彼女はあなたを気に入ってるから」
「わたしも会えないのが残念です。それで、今回来たのはスタンフォールド・ル・ホープの焼死体の件でして」と今屋敷蜜が切り出した。
「すると、エセックスのハリントン巡査長ね。堅物よ」と言って、片眉を持ち上げると、手を振ってギャランは去っていった。
「よし、次はエセックス警察だ。詳しい話は巡査長から聞く」
私は彼女の後に続いて慌ただしくスコットランドヤードを出て、再びタクシーに乗った。
エセックス警察は、イギリスで最大の地方警察の一つであり、スタンフォールド・ル・ホープはここの管轄だ。私たちは、事件現場から35キロほど北に位置する、チェルムスフォードのエセックス警察本部へ向かった。
巡査長のスティーブン・ハリントンは、痩せて背が高く、面長で額の広い男だった。人を食ったような笑みを浮かべながら私たちを出迎えた。私はひと目見たときからこの男のことが気に入らなかったが、分別ある大人としてそれを表には出さなかった。
ハリントンは、私たちとは執務机を挟んで、「スコットランドヤードから話は聞いている」と言って椅子から立ち上がった。彼がもったいぶった態度をとっている間、今屋敷蜜は何も言わずに、彼が続きを話すのを待った。
「しかし、彼女は私の上司というわけではない」彼は肩に飾られた記章(月桂樹の花輪の上に赤色の王冠)を指差して、私たちに威圧するような視線を向けた。
今屋敷蜜は、「もちろん理解しています、ハリントン巡査長。そしてあなたもわたしの上司ではない」と、私の隣で背をまっすぐに伸ばして、彼女よりも40センチは長身の巡査長を見上げて答えた。一見すると、いい大人が厳いかめしい面をして子どもを虐めているようで、私は、彼の態度を改めるよう抗議しようと口を開きかけたが、その前に、巡査長は鼻を鳴らしてどさりと椅子に座り、時間がないから手短に済ませるように告げた。
この記録を読まれている読者に補足すると、警視庁長官がイギリスの警察内でよく最高ランクだとみなされることがあるが、実際には、エセックス警察を含めた地方警察の長である巡査長はそれぞれの管轄区域において最高責任者であり、比較することは暗黙のうちに制限されている。
「では、事前に依頼しておいた調査の報告を聞かせて下さい」
彼女の言葉を聞くと、巡査長は机に置かれたファイルを手元に寄せ、「焼死体の身元は、ハリー・モリス、26歳無職。火災現場になった借家の住人だ。同居人はいない」と言って眼鏡をかけた後、おっと、記録済みの捜査情報は知っているんだったなと含みのある言い方をした。
「あー、壁の文字が書かれた時期だが、正確には不明だ。前日の土曜に事件現場を配達に訪れた郵便局員は書かれていなかったと言っている。内開きの玄関から問題の壁は丸見えだが、一面に文字が書かれていたら気づいたはずだとも。それと、前の週に被害者の友人が訪問しているが、そんな文字はなかったと証言した」
彼女はその友人の住所を聞いて、メモに取った。
「文字に使われた塗料の種類はわかりましたか?」
「木材由来の染料のようだ」巡査長はファイルに書かれた内容を読み上げた。「なぜそんなことを気にするのかわからんね」
「わたしの指示した方法で文字の復元をしてくれましたか?」
「君の指示した方法?」ハリントンは眼鏡を持ち上げてから、彼女をちろりと見て、ファイルに視線を戻した。
「君の指示かは知らんが、M式グロス検査法というものを使って復元している。その結果、YとOとIが読み取れた。Iより後の10文字目以降は復元できなかった。つまり、HAPPYHOLIまで読めたわけだな。誰かが壁にHappy holidays(楽しい休暇を)とでも書いたのか?くだらん!こんなもの解決の手がかりにはならん」
あとになって今屋敷蜜が教えてくれたのだが、このM式グロス検査法は、燃えた手紙を読むための手法に彼女が改良を重ねたものだ。ジョン・ディクスン・カーの小説にも登場していて、彼女はそれを基にして実験をしたそうだ。聞かされた詳細は割愛するが、焦げた紙をしけらせる際に、彼女の発明した薬品を使うことで、大幅に精度が高まったのだという。
以上だ、もういいだろうと言って、ハリントンはため息をついてファイルを閉じた。現場を見せてくれという彼女の言葉に、時間の無駄だと言いたげに「好きにしろ、担当のバジルトン署には伝えておく」と応じた。
話を切り上げて、退室をしようと私がドアを開けたところで、今屋敷蜜が足を止めて、「最後にひとつ、巡査長はこの事件をどう思いますか?」と質問した。
彼は視線を上げずに、「私は詳しい捜査情報は把握してないが、事故ではない。おそらく自殺だな」と答えた。手には既に別の書類を持っていた。
もう一度ハリントン巡査長に礼を言ってから、私たちは退室した。
事件現場となった建物は、外壁が薄茶色の土壁でできた、周囲のほかの建物と比べるとこじんまりとした2階建ての民家だった。砂利が敷かれた15平方メートルほどの庭と歩道との間には1メートルほどの高さの煉瓦塀が立てられていて、1階と2階に突き出たゆるやかな曲線の出窓が特徴的だ。2階の窓には白いシャッターが降りているが、1階内部の様子は割られた窓越しにうかがえる。しかし、歩道からだと問題の文字が書かれた壁は確認できない。建物の東側には裏手へ続く道が走っていて、建物の裏口は同じく1メートルほどのフェンスで囲まれていた。表の玄関には煉瓦のアーチがあって、白い木製のドアは窓と同様に消防隊によって消火のために壊されていた。しかしそれを除けば、建物の外観からは火事があったことをにわかには判断できない。
今屋敷蜜は手始めに、玄関アーチの下でしゃがんで、破壊されたドアを調べた。
「うん、破壊された時に鍵がかかってたことは間違いない」彼女は独り言のようにつぶやいてから、1階の窓についても割られる前に施錠がされていたことを確認した。裏口と2階の窓は、私たちが調査に訪れた時点でも施錠されていたのであるから、消防隊が駆けつけた際には、この建物は密室だったことになる。この点、警察の捜査記録にも、裏口は施錠されていたとあった。また、建物の鍵は遠方に住む家主が持つものを除いて、全て中で発見されたのだ。
「これは留意すべき点だよ、オリバー」と彼女は言った。
事件現場を調査している時の彼女は、黒髪をまとめてキャップにしまっていたのだが、その目はらんらんと輝き、さながら獲物を前にした野生の狼だった。
次に彼女は、建物の中に残された物を素早く順番に確認していった。私には、彼女には何か目的としているものがあるように感じられた。彼女は警察の捜査情報をデータベースで確認できるのであるから、警察が見落としているものを捜しているということになるはずだ。
一階奥にあるキッチンの戸棚に、赤茶色の粉末があるのを見つけ、彼女は軽く声を上げた。それは何かと私が尋ねると、「レッドサンダルウッドだ、壁の文字はこれを溶かした染料で書かれた」と答えた。
二階では、また興味深い物を発見したようだった。雑然とした部屋の中できれいに片付けられた広い机があり、誰かがそこで何らかの作業をしていたように感じられる。もし他殺だとしたら、ここにあったものは殺された際に持ち去られたのだろうか?床には空っぽのビンが転がっていた。他に変わったものといえば、小型の冷凍庫が近くに置かれていたのが気になった。
最後に、謎の文字が書かれた1階居室西側の壁を調べた。聞いていたとおり、大文字で大きく、「H、A、P、P、(Y)、H、(O)、L、(I)」(ただし括弧内は復元でわかった文字である)と灰色のかすれた跡が焦げた壁紙一面を使って残っていた。彼女は文字の書かれた高さを正確に測っていたが、その様子からして新たな収穫はなさそうだった。
こうして、今屋敷蜜の現場調査は終わった。
「もうすぐ暗くなる時間だ」
壊されたドアをまたいで焼け落ちた部屋を出て、東西を走るコリンガムロードに沿って空を見上げると、だいぶ日が傾いていた。
「わたしは焼死したハリー・モリスの友人に話を聞きに行く。その前に、インドに国際電話かメールを出す必要があるけど、わたしのつたないヒンディー語でもなんとかなるだろうから、君はロンドンの家族に会ってくるといいよ」
彼女は2年ぶりに帰国した私に気を使ってそう提案してくれた。しかし、口にすると彼女は気を悪くするだろうけれど、通訳は必要ないとはいえ異国の地で未成年の彼女を一人にするのはためらわれた。
「君が心置きなく帰省できるように、わたしはその友人宅を訪問したあとは、おとなしくホテルの部屋で今日の成果を整理していると約束するよ。明日はまたインドに付き合ってもらうことになるからね」
私の考えを読み取って、自分のことは気にしなくていいという彼女だったが、私はせっかくの彼女の申し出を断った。
「実家にはまたいつでも戻れるし、君には無用な心配だろうけど、ご両親に君のことを頼まれてるからね」
なら、君の好きにするといいと、彼女はそれ以上は言わなかった。すまないけど、急いでインドへ連絡する必要があるからと私をその場で待たせて、5メートルほど先の歩道で携帯電話を耳にあてて通話をしていた。私はその間、煉瓦塀にもたれかかってぼんやりと考えごとをした。彼女の背中を見ていると、なぜか妻と出会った頃のことを思い出した。妻と今屋敷蜜は容姿も性格も似ていないが、気が強く行動力があるところは同じだった。
コリンガムロードに強い風が吹いて、私はコートの襟を立てた。空はオレンジ色に染まっていた。
15分ほどして、彼女が通話を終えてこちらに歩いて来た。
「奥さんのことを考えていたんだね、オリバー」私の顔を見て、彼女が言った。「君は今、どんなことも離婚に結びつけて考えてしまう」
私の隣で塀に寄りかかって、彼女も空を見た。
「ほら、燃えるような夕日だ!今回の休暇が、君にとってもいい刺激になればいいんだけど」
「焼死事件の調査なのに?」と私が聞くと、「ショック療法だよ、オリバー、死体を見る時間がないのが残念だね!」と笑った。
私たちはまたタクシーを拾い、メモに書かれた住所を運転手につたえて、ハリー・モリスの友人エリオット・エルフィンストンに会いに行った。
「ハリー・モリスの件でスコットランドヤードから来ました」
少しお待ちをと男性の声が聞こえて、開いたドアの前に立っていたのは肥満体型で中背の男だった。エリオットは警戒心の薄いタイプのようで、今屋敷蜜を見てから私に視線を向けたが、何も不審は抱かなかったようだ。彼女は後で、身分を説明する手間が省けて助かったと話した。
「聞き忘れたことがあったもので」と彼女が切り出すと、エリオットはどんなことですか、と応じた。
「今回の事件が起こる前のモリスさんの様子を詳しく聞きたいのです」
男は数度瞬きをして、「非常に不安定でした」と答えた。その後、彼女が聞き取った内容はこうだ。
2年前にあんな事件があって(この事件の詳細は彼女が教えてくれた)恋人を亡くしてから、ハリー・モリスは精神的に非常に不安定になり、カウンセリングも受けていたが、仕事を辞めて家にこもりぎみになり、人前に姿を見せなくなった。しかし、事件から時間が経ってからは度々どこかに外出していたようで、エリオットがモリスのことが気がかりで訪ねても留守にしていることがあった。どこに出掛けていたかモリスは話さなかったが、一度に長期間家を開けていることもあったようだ。
モリスの精神状態について、今屋敷蜜は強く関心を抱いていた。彼女の分析によると、恋人を助けられなかった事に対しての罪悪感と自責感、加害者に対する殺したいほどの激しい怒り、加害者を正当に裁けない警察と司法、社会全体に対する不信感と怒り。慢性期における遺族の心理は様々だが、モリスは自他に対する怒りの傾向が強いと指摘した。
「馬鹿なことを言っていると思われるかもしれませんが、ハリーを殺したのはあいつです」
ドアに手をついてぜえぜえと息を吐きながら、興奮に胸を震わせ、額を汗で濡らしながらエリオットは告げた。「あのインドの殺人鬼です」
亡きハリー・モリスの怒りを一部でも理解してもらうためには、簡単にではあるが、インドの司法制度の現状を説明する必要がある。そのために、一つ事例をあげよう。
5年前、14歳のアイルランド人少女がインド南部のゴア州で暴行を受けたのち殺害され、インド人の男2人が強姦罪と過失致死罪で起訴された。検視の結果、警察は当初死因を水死と発表していたが、遺族が再度の司法解剖を求めた結果、薬物を投与されてレイプされていたことが判明した。少女の体には50ヶ所以上の傷があった。インド当局が事件を隠蔽しようとしていると考えた遺族は、アイルランドで検視を行うことを強く求め、3度目の検視が行われたが、その際に、子宮が行方不明になっていることが判明した。裁判では、犯行を目撃したはずの証人が次々と証言を拒否し、男2人には無罪判決が言い渡された。遺族は沈黙し、ついに上訴されることはなかった。無罪放免となったインド人の名前は、ビシュヌ・パリカール。
次に、司法体制について、今回の事件を追うにあたって最低限必要と思われる知識を列挙する。
・インドの下位裁判所判事は各州知事によって任命される。
・下位裁判所は一般的に全ての刑事事件につき原審となる。
・高等裁判所は管轄内の下位裁判所について上訴管轄権を有し、監督する。
・高等裁判所は事件の一部が管轄内で発生していれば司法権が及ぶ。
・州政府が一定の独立性を持っており、各州に政府があり大臣がいる。
・州法案は州知事の同意がなければ成立しない。
・農村部ではカーストによる差別が残っている。
・ゴア州はインドで最も面積が小さく、小規模の農村部自治体である。
他にも耳に入れるべき事柄はあるが、ざっとこんなところである。
最後に、今屋敷蜜から聞かされた特筆すべき事項として、ハリー・モリスの恋人を強姦ののち殺害した罪で起訴されている男の名は、ビシュヌ・パリカールであり、ゴア州知事アキレシュ・パリカールの実子であることをここに記す。
焼死したハリー・モリスの友人、エリオットからの話を聞いて、今屋敷蜜はインド行きの予定を早めることにした。急がないともしかしたら手遅れになるかもしれない、と彼女から言われて私は同意しないわけにはいかなかったのだが、手遅れとはいったい何のことか?と尋ねても、今の時点ではなんとも言えないし取り越し苦労かもしれないとだけで、彼女が考えていることを教えてはもらえなかった。私はこの頃からこの今屋敷蜜の悪癖とでも呼ぶべき習性に気づいていた。まるで、期が熟す前に思考を外に漏らしてしまうことによって推理が破綻してしまうとでもいうように決して披露しないのだ。いったい、エリオットの発言のどの部分が彼女の計画を乱すことになったのだろうか?私にはわからなかった。
私たちは、ヒースロー空港へ直行して、19時35分発インディラ・ガンディー国際空港行の便に跳び乗った。
「オリバー、せっかくの休暇なのに、弾丸ツアーになってしまったね!航行している間は腐るほど時間がある。デリーで乗り継ぎだから、寝るにはまだ早いけど、しっかり休もう。ほらリクライニングだから少しはましだ」と、どうにか搭乗が間に合って、胸をなでおろして彼女は言った。
デリーへは快適とはいえない旅路だったが、彼女は工夫を凝らしてできるだけリラックスできる空間をこしらえて過ごしていた。私はというと、彼女のいうように寝るにはまだ早かったので、ハリー・モリスの事件について考えた。
まず、事件現場の壁に書かれた文字だが、復元されたのは「HAPPYHOLI」の9文字だ。HAPPYはそれでいいとして、HOLIの4文字で、実はインドの豊作を祝う祭りホーリー祭を意味する(エセックス警察のハリントン巡査長は知らなかった)。その祭りでは、色のついた粉を投げ合うのだが、その時のかけ声が「ハッピーホーリー」なのだ。その他に思いつく解釈としては、「HOLIDAYS(休暇)」か「HOLIC(中毒)」、「HOLISTIC(全体的な)」などいくつかあるが、文字は壁一面を使って書かれていたし、文字の復元に使われた検査法に今屋敷蜜は自信を持っているようだった。今飛行機でインドに向かっていることを考えても、彼女は文字は「ハッピーホーリー」を意味すると考えている可能性が高い。
「インドのホーリー祭とモリスがどう関係するんだろうか?」と彼女に問いかけたところ、ハリー・モリスの恋人は2年前のホーリー祭で殺されたんだよ、と教えてくれた。これで、壁の文字について一歩前進した。しかし、誰が、どんな目的で書いたのかは謎のままだ。私は何か手がかりになる情報があるかと思い、検索してみたら、地域によっては違う場合もあるが今年のホーリー祭は明日から2日間の開催だった!ホーリー祭に行けば何かがわかるのだろうか。
彼女の考えを聞こうと、ちらりと隣を見たら、イヤホンをして音楽を聞きながら、微笑を浮かべて私を観察していたようだったので、なんだい?と聞いたら、何も言わずにこちら側から顔を背けてしまった(この時彼女は、私が離婚から頭が離れていることをいい傾向だと感じていたようだ)。
2年前にホーリー祭で殺された恋人、炎に包まれたモリス、インドの殺人鬼、壁の文字、密室、レッドサンダルウッドの粉末、2階の作業机と冷凍庫、パズルのピースが頭の中でぐるぐると回っていた。情報が揃っていない段階で推理しようとするとかえって捜査の妨げになると彼女が言っていた。それを思い出して、私は寝ることにした。
デリーに到着したのは8時20分。ゴア国際空港行の乗り継ぎまでに3時間ほど時間があったので、国際線第3ターミナルのフロアにあるラウンジでシャワーと朝食をとってリフレッシュした。朝食のサンドイッチを食べている間、今屋敷蜜の携帯電話にスコットランドヤードから着信があって、彼女が警察に依頼していた毒物検査の結果報告を受けた(昨日、スタンフォールドの事件現場を調査したあとに依頼していたらしい)。
「ハリー・モリスの死体から致死性のタンパク質性毒素が検出されたよ」と彼女は神妙な面持ちでハムサンドをほおばりながら教えてくれた。
その新たに判明した事実は私にとっては晴天の霹靂だったが、横で美味そうにコーヒーを飲む彼女に驚いた様子はなかった。「すると、どういうことだろう。モリスは毒を飲まされたあとに、さらにガソリンを撒いて焼き殺されたっていうのかい?もしくは自分で毒を飲んだあとに焼身自殺を?」私の言葉に今屋敷蜜はただ首を振って、「これで、どうやら犯行の動機がわかったよ、それに、悪い予感が当たったようだ」とつぶやいてタマゴサンドに手を伸ばした。
その後、彼女はラウンジの隅っこのソファに陣取って宙の一点をうつろな目をして見つめながら膝をかかえて考え事をしていたが、ここでは集中できないと言って、2500インドルピーをクレジットで払って個室を取った。乗り継ぎの時間が来るまで個室にいるのかと思ったが、私がラウンジで新聞を読んでいると、わりとすぐに彼女が戻ってきてどこかに2度電話をかけた。
「人手がいるからスコットランドヤードに頼んでインド警察を動かしてもらう」と通話を終えてから私に説明した。「それとゴア行きのフライトは取りやめだ。デリーにいる保釈中のビシュヌ・パリカールに会いに行く。ところで、前々から思っていたんだけどね、オリバー」と、彼女はそこで一度言葉を区切ってからサンドイッチとコーヒーの組み合わせは最高だと思わないか?と言ったので、私は同意した。ただし紅茶には劣るが――しかし、私はサンドイッチのことよりも、今の彼女の発言について、どう対応するべきか逡巡した。裁判で無罪になったとはいえ、おそらくはアイルランドの少女を強姦して死なせたビシュヌ・パリカール。この男はモリスの恋人についても強姦殺人の罪で公判が行われている最中だ。そんな危険な人物に会いに行くと彼女は言っている。止めるべきだと思われたが、しかし、危険だからよすようにと言ったところで無駄なのはこれまでの彼女の行動から予想できる。
「まさか、危険だからやめろとは言わないだろうね。ただ話をするだけだよ、パリカールの自宅で会うことにはなるだろうけど、インド警察に話は通すし、君が一緒にいてくれれば安心だ」
彼女の言う通り、警察と私が同席のもとで話をするだけなら、たとえ凶悪な殺人犯といえども危険はないだろう。ビシュヌ・パリカールは保釈中の身で、裁判が終わるまでは法を犯すようなことはしないはずだ。しかし私は、飄々とした態度で電話をしている今屋敷蜜を見ていると、なぜか一抹の不安を拭えなかった。
「オリバーは銃を扱えるかい?」パリカールに会うのであればできるだけ用心したほうがいい、と私が考えていると彼女からそう質問された。
「何度か撃ったことはあるよ、でもイギリスは日本と同じで銃規制が厳しいからね。それに、どの国でも在留資格のない外国人はライセンスを取るのが難しいし」
「わたしの射撃の腕は相当なものだよ、君と同じで実弾はあまり撃ったことはないけど」と彼女がおかしなことを言うものだから、私はつい笑ってしまった。むっとした表情を見せた彼女に私は「あまり撃ったことがないのに腕がいいっていうのかい?」と尋ねたら、「実弾を撃てなくても腕を磨くことはできるよ、空気銃だって馬鹿にしてはいけない」と真剣に答えた。半信半疑だったが、彼女がそう言うのならそうなのかもしれない。
いずれにしても私たちがここで銃を所持することはできないだろう。インドでは銃の専門店が街中にいくつもあるが、ライセンスがなければ購入できないし、観光客にはまず売ってくれない。
「観光でも銃を手にする方法はあるものだよ、非合法だけれどね。しかし、君は反対するだろうね」
私は彼女のこの言葉には即答はできなかった。命の危険があるとなれば身を守る手段が必要だ。インドでは女性用の銃も販売されているし、銃を扱えるのであれば万が一の事態に備えて彼女には護身用の銃を持っていてもらいたいのが正直な気持ちだった。とはいえ、違法なことをおおっぴらに認めるわけにもいかないし、インドでは許可無しで銃を所持していると最大で終身刑が法律で科されている。
私たちは空港の両替カウンターでいくらかインドルピーに替えた後、ターミナルでメータータクシーに乗った。目的地を私が運転手に伝えて、20分ほどニューデリーの雑然とした景色を見ながら車に揺られた。この時期のデリーは乾季と暑季の間でもう少しすると気温がぐっと上がるがまだ過ごしやすい季節だ。
政府機関が密集するニューデリー中心部へ来ると、街並みは広く整然として厳粛とした趣の建築が立ち並ぶ。目的地のデリー警察本部はその中でもひときわ目を引く近代的な二棟の高層ビルで、その中心を連絡する高層の通路と合わせてビル全体を俯瞰するとまさにインド首都圏を守る城壁を思わせた。このインド警察が敵に回ったとしたら?と考えただけで陰鬱な気分になったが、私の隣で見るともなく景色を眺めている今屋敷蜜の表情からは、露ほどの不安も読み取れなかった。それはこの少女が、我らが誇り高きスコットランドヤードの使者として大義を帯びて今ここにいることの何よりの証だった。
「でっかい建物だね!あの壁に描かれているおじいちゃんは誰だろう?」と、デリー警察署の壁に描かれたマハトマ・ガンディーの巨大壁画を見て彼女は歓声を上げた。
デリー警察長官のアクシャイ・シュリヴァスタヴァはその表情から感情を読み取れない男だった。褐色の肌に白い髪と口ひげを生やして、インド警察のクリーム色の制服と警帽を身につけ、その肩には、インド連邦直轄領の要所であるデリー警察で最高ランクであることを表す記章(交差した剣と国章であるアショーカの獅子柱頭)がつけられていた。くぼんだ黒い大きな瞳がやけに印象に残った。
「ご協力感謝します」
シュリヴァシュタヴァ長官はスコットランドヤードから派遣された少女、つまり今屋敷蜜を見ると動じた様子もなく敬礼した。「あなたがテロを事前に察知されたとうかがっています。助言いただいた通り、各署には警戒に当たらせている」
この時の私の驚きようと言えば、きっと顔に出てしまっていたに違いない。彼女はスコットランドヤードを通してインド警察を動かすためにテロを口実としていたのだ。私の知らない事実を彼女が掴んでいるのか、それとも口からでまかせなのか、私には判断が付かなかった。
「わたしもできるだけのことをします」と言って彼女は敬礼を返した。「それで、ビシュヌ・パリカールと話をしたいのですが」
「保釈中の身なので今は自宅にいるでしょう。やつは危険な男です、特にあなたのような若い女性は格好のターゲットだ。念のため付き添いをつけましょう」
すると、長官の後ろに立っていた若いインド人の男が勢いよく敬礼した。「マドハヴァディティア・パドゥコーネ巡査であります、以後お見知りおきを!」
ちなみにここまでの会話はすべて英語で行われている。インドはヒンディー語が公用語であるが英語も準公用語となっているため、専門的な会話を除いて、大体の場合において今屋敷蜜にも英語で意思疎通が可能だった。結局、今回の旅において私の通訳としての役割はなかったのだった。
私たちはマドハヴァディティア巡査とともに、高級住宅街の一つであるディフェンスコロニーにあるパリカール邸へ向かった。名前が長く呼びにくかったため、巡査の許しを得て、私たちは彼のことをディティ巡査と呼ぶことにした。
デリー警察本部からディフェンスコロニーまでは15分足らずの距離だったが、その道中車内でディティ巡査から興味深い話を聞かせてもらった。今回の事件と因縁が深いホーリー祭の由来となるインド神話についてだ。
「自分のことを神様だと思い込んでいたある傲慢な王様が、ヴィシュヌ神に傾倒し熱心に崇拝する息子のことを妬み、殺害計画を立てました。そこで、王様は魔女であり決して燃えることのない妹のホリカと息子を火の中に誘惑し、息子だけ焼き殺そうと計画を立てました。しかし、その計画は失敗。息子はやけど一つしませんでしたが、ホリカは焼け死んでしまったのです。息子はホリカの死を悔やみ、その年の収穫物を燃やして出た灰をホリカの死体に振りかけたといわれています。その伝説が、体に色の粉をかけ、魔を追い払い、春の到来と収穫を祝福する現在のホーリー祭の風習に繋がったのです」
ディティ巡査はそこで一呼吸おいて、「ビシュヌ・パリカールは神話に出てくる息子みたいなやつだ。悪事を働いても権力に守られ、運もビシュヌに味方して毒物からも助かった。たとえ王様だろうとやつを裁くことはできないんだ」と淡々と語った。
「そのビシュヌ・パリカールを狙った毒物というのは、警察で分析をしたのかい?ディティ巡査」今屋敷蜜からのこの質問は、しかし、ディティ巡査からの回答を得られなかった。つい今まで上機嫌に話していた彼はミスを犯したというように顔を大きく歪めて、うつむいたまま黙りこくってしまったのだ。「ビシュヌ・パリカールは聞くところによるとかなりの悪人らしいじゃないか。命を狙われたって不思議はない」と彼女が誰にともなく言った。
毒と聞いて、私は思い出した。ハリー・モリスの焼死体からタンパク質性毒素が検出されたというロンドンからの報告だ。なにか関連があるのだろうか。ビシュヌが恨まれているのはわかるが、モリスにも狙われる理由があったのだろうか。いや、ビシュヌはモリスの恋人を殺した罪で裁判にかけられているのだから、証人を消すためにモリスを殺したということは考えられるのではないか?友人のエリオットもその考えが頭にあったに違いない。そうだとすると、ビシュヌを狙った毒というのはたまたまで、両者に関連はないと考えられる。それにしても、ディティ巡査のこの様子、毒のことを聞かれて急に口をつぐんだのはなぜだろうか。そのような考えを巡らせているうちに、車はディフェンスコロニーのパリカール邸へ到着した。
インドの殺人鬼と評された男は、その二つ名に恥じぬ粗暴な風体をしていたがその黒い激情は表に出さず内に留めていた。まずは静かに色付きの眼鏡で覆い隠した視線で来訪者を観察していたが、今屋敷蜜が部屋に入ると同時に男の意識にわずかに変化が生じたことが私には感じられた。部屋には無造作に拳銃が転がっていて、部屋の中に不吉を放っていた。ビシュヌ・パリカールはこの予期せぬ訪問に興味を持った様子で、一言、「何の用だ」と告げた。
今屋敷蜜が名乗ったあとで、「毒物が入った封筒があなたに送られてきた件について、詳しく話を聞こうと思いまして」と口にすると、男は黙って青ざめた顔をしたディティ巡査に顔を向けた。数秒、沈黙が部屋を漂った。彼女は毒が封筒で送られたと言ったが、巡査は車内で押し黙っていたため彼から聞いたわけではない。
「毒なんかよりもっといいものがあるぜ。あんた日本人だろ?これまでにない快感が味わえるぜ、どうだ、試してみるか」ぞっとするような柔らかい声で誘惑するビシュヌに対して、私は嫌悪感が溢れるのが抑えきれなかった。
「いえ、いえ!わたしは毒物に興奮するたちで、低俗な麻薬には興味ありません」彼女はそう断って、ビシュヌ・パリカールの向かいのソファに腰を下ろした。男はそれを興味深そうに眺めていた。「送られてきた毒をちょうだいして、科学的な分析ができればと思ってお邪魔したのですが。あなたには必要ないようですし」
ビシュヌはわずかに笑みを浮かべて、「もう捨てたよ」と正面を見据えて舐めるように顔を上下に動かした。「あんた、俺の妻にならないか。いい暮らしができるぜ。あんたみたいな女は初めてだ」
今屋敷蜜はさっと立ち上がって、「わたしはあなたみたいな人間を大勢知っている」と冷ややかな視線を向けた。「ところで、数日前にハリー・モリスというイギリス人と会いませんでしたか?」
ビシュヌは、動じる様子もなく知らねえなそいつがどうかしたか、と答えて、今屋敷蜜は彼の足跡を追っているんです、もし思い当たることがあったら連絡をと言って、インド国内のどこかの住所を書いた紙を渡した。こうして、ビシュヌ・パリカールとの短い面会は何事もなく終了した。
「このあとはどうするんだい?」と私が聞くと、彼女は「ホテルに行く」と答えた。
「でも、急がないとまずいんじゃないのかい?」
「人事は尽くした。あとは報告待ちさ」とりあえず空港へ、と運転席にいるディティ巡査に今屋敷蜜は指示をした。
私にはわからないことだらけだったが、ビシュヌに渡した紙には何が書いてあったのか尋ねると、「あの紙にはでたらめな住所が書いてあるだけだよ、どうせあの男から連絡は来ない」と彼女は答えた。
「空港からどこに飛ぶんだい?報告を待つだけだったら、デリーのホテルでも構わないと思うけど」
「ここにはもう用事はないし、デリーからは離れよう。当初の予定通りゴアへ行こうか、ビーチもあるし帰りにヴァスコ・ダ・ガマが見れるよ」
そうして私たちは、当初乗る予定だった飛行機に乗ってゴア国際空港に向かったのだった。私は事件の調査がどのように進んでいるのか気になって仕方なかったのだが、彼女はもうすっかり旅行を楽しむ準備に入っていて、嬉しそうに今夜泊まるホテルを吟味して予約していた。ただ、ゴア国際空港に着いてからは、タクシーに乗って寄り道せずにまっすぐホテルに向かった。昨夜はデリー行きの機内で十分な睡眠が取れていなかったため、私はタクシーの中でぐっすりと眠ってしまい、起きたのは夕方近くなってホテルに到着してからだった。彼女は空港からかなり離れたホテルを選んでいたようだ。
そこは観光客向けの色とりどりの優雅な装飾が施されていて、特別豪華なわけではないが緑に囲まれて居心地のいい歴史を感じさせる独特な建築だった。客室係がもともとポルトガルの砦だったものを改装して使っていると教えてくれた。解放的な部屋のほぼ全ての窓からアラビア海の素晴らしい雄大な景色を眺めることができた。私はこの美しい場所がすぐに気に入った。
「部屋はひとつだけなのかい?」と私が聞くと、「せっかくのこの素晴らしい部屋も一人で過ごしたら魅力が半減してしまう」と彼女は答えた。
「まさかオリバーは、わたしに手を出したりしないだろう?」というから、私は笑ってはっきりと否定した。そこで、以前から気になっていたことを彼女に聞いてみた。つまり、交際相手がいるかどうかだ。彼女の年齢ならむしろ恋愛に興味津々というのが普通だと思ったが、今屋敷蜜はそうではなくきっぱりと恋愛には興味がないと答えた。
今屋敷蜜はキングサイズの天蓋付きのベッドを独り占めにして気持ちよさそうに寝転んで、私は窓からアラビア海の絶景を楽しんでいた。すると、私たちがホテルについて落ち着いた頃合いになって見計らったように彼女の携帯電話が鳴った。「はい、こちら今屋敷蜜」、何度か相槌を打ってから、彼女はむくりと上体を起こした。
「オリバー、ついにこの休暇の終着点に着いたようだよ」
「終着点?」
彼女は頷いて、すべて解決した、と言った。「オリバー、君は真相を知りたいだろうね?」
「もちろんだよ。正直に言って、私には何がなんだかわからない」
「君の持っていないパズルの最後の1ピースを教えてあげるよ。それは、焼死したハリ―・モリスが度々家を空けてどこに行っていたかということだ。実は、今朝ロンドンからの電話でわたしも知らされたんだけどね。スコットランドヤードには、毒物検査と一緒にモリスの足取りを調べるように依頼していたんだ」
「なんでもっと早く教えてくれなかったんだ!それで、モリスはどこに?」
「ここさ」と彼女は答えた。「モリスは恋人が殺されてしばらく経ってから、頻繁にインドを訪れるようになっていた。友人にも内緒でね。ちょうど一年前のホーリー祭の時期にも訪れている。しかし、祭りには参加せずに前日に帰国した」
「一体なぜモリスはそんな行動を?」
「それが、この事件の核心なんだ」それはそうと、と彼女は私の隣に来て、窓枠に腕をついてアラビア海を眺めた。「オリバー、君は、モリスの焼死についてどう考えている?」
私は、自分でも納得の行く考えを持っていなかったが、「あのビシュヌ・パリカールが証人を消すために、手下を使って殺したんじゃないかい」と一番ありそうな答えを返した。「まず、毒を飲ませて、しかし殺すのに十分な量ではなかったから、苦しんでいるモリスにガソリンをかけて火をつけた、どうかな?」
彼女は首を振った。「違うよ、オリバー、現場は密室だったんだ。不可能を除外して残ったものがたとえ有り得そうになくても真実だ。モリスは自殺だ」
「自殺?」私も当然その可能性については考えた。「壁に文字を書いて、自分で毒を飲んで、自分で火をつけたってことかい?なんでそんな」
「有り得そうもない事柄。そこに説明をつけられるか、やってみよう」彼女はくるりと体を反転して、窓枠に寄りかかった。「モリスは恋人を殺された。そして、彼の精神は怒りに支配されていた。彼は復讐を計画した。ビシュヌに送られた毒物はモリスがやったことなんだよ」彼女は、実はビシュヌに毒物が送られたことを一週間前に知っていたと話した。ビシュヌは隠そうとしたがSNSで情報が漏れていた。多分、ディティ巡査だ、と言った。「送られたのはリシンだ。トウゴマから抽出されるタンパク質性の猛毒だよ」
「たしか、モリスの死体から検出されたのもタンパク質性の毒素」私の言葉に、彼女は同じ毒物だよと頷いた。
「しかし暗殺は失敗した。リシンは猛毒だが、血液へ投与するか、肺から吸引しないと十分な効果を発揮しないんだ」ところが、と彼女は続けた。「モリスは発症した。神様は残酷だね。リシンによる毒には治療法がない。毒は体内のタンパク質合成を停止させ、3日程で死に至る」恋人を殺した男は助かり、自分は死ぬ。「絶望したモリスは自分に火をつけた。壁に字を残したのは、誰かに伝えたかったのかもしれない」
これが、今屋敷蜜の話すハリ―・モリス焼死の真相だった。
「すると、ビシュヌはモリスの死には関わってないんだね?」
「残念ながら。ビシュヌ・パリカールはいつか報いを受けるだろう。でも、モリスは自殺だ」
私は、窓の外に視線を向けながら、ハリ―・モリスの無念を想った。
「いつから、モリスが自殺だってわかってたんだい?」
「焼死体になった人物が恋人を殺したインドの殺人犯にリシンを送ったあとで失意の自殺をしたんだということは、日本でHOLMESの捜査記録を見たときからわかってた」
私は驚いて、「それじゃあ、どうしてわざわざ私と契約をして、ロンドンとインドに来たんだい?」
「モリスの自殺は、恋人が殺されてから始まったこの一連の事件の幕間劇に過ぎなかったんだよ」そう告げて彼女は、この事件の核心を語り始めた。「モリスは、いつリシンの毒に発症したのか?」
結末を語る前に、彼女の言うハリー・モリスの一連の事件とは関係がないが、私たちの今回の休暇の締め括りにふさわしいある出来事について書こうと思う。
それから5日間はゴアで過ごした。今屋敷蜜はほとんどホテルの部屋からは出ずにスーツケースから取り出した絵の具とカンバスで窓からの風景画を描いていた。たまに一緒に200メートルほど離れた場所にあるロックビーチまで散歩をして、ホテルのレストランで夕食を食べた。ゴアでの生活は途中に起きた一つの事件を除いて私にとって素晴らしい休暇になった。翌月に予定されている離婚調停に関して、パソコンの中にこれまで書き連ねて準備してきた私の主張をすべて破棄して、妻の主張をすべて認めるという内容の答弁書を東京家庭裁判所に国際郵便で送った。滞在中はちょうどホーリー祭が行われていて見知らぬ人から何度も色の粉を投げられて服が何着かダメになったが、今屋敷蜜はそれでも楽しそうにしていた。
ホーリー祭は満月の日から開催される習わしで、この時期のインドはほとんど雨が降らないため、3日目の夜に彼女から天気がいいからビーチに散歩に行こうと誘われた。ホーリー祭の最中でビーチまでの道には人もいたがその時間になると色粉をかけられずに済んだ。ロックビーチは名前の通りゴツゴツとした岩がむき出しになっていてその夜は人影もなくわびしい印象だったが、そのかわりに静かで満月の明かりがやけにまぶしく感じた。ビーチ沿いの岩場を歩いて海辺を見下ろせる位置まで来て、彼女がしまった!と声をあげたので私は驚いてどうしたのか尋ねたら、オリバーに渡すプレゼントがあるんだけど部屋の引き出しに忘れて来てしまったので取ってきて欲しいと言われた。私はどの引き出しか聞いて、歩いてホテルまで戻った。その時は彼女からのプレゼントと聞いて嬉しい気持ちがあったし彼女には遠慮がないところがあるので私が取りに行かされたことを特に変だとは思わなかった。
私は歩くのが速い方だが、10分くらいかかってホテルの部屋に着いた。それから彼女に指定された引き出しを開けて、その中にあったそこにあるはずのないものを見て私はひどく驚くと同時に、膨らんでいた期待は弾けてしぼんだ。私宛のメッセージが入っていたので、それを読んで、私は全速力でロックビーチへ向かった。彼女と別れた場所まで来ても姿が見えなかったので、名前を呼んだが、返事は返ってこなかった。岩場を下りて海辺まで行くとインド人の男がうずくまって倒れているのを見て、私は彼女が襲撃にあったことを悟った。
そこまで時間は経っていなかったが、周辺を見渡してもほかに人の姿はなかった。足元には多くの足跡が残っていたのでそれをたどった。また一人男がのびていて、走りすぎたところで数人の人影が見えた。私は息を吸って彼女の名を呼んだ。すると、オリバー、と声が聞こえてきて、私は先ほど部屋の引き出しからポケットに入れた拳銃を取り出して、空に向けて引き金を引いた。射撃音が海辺に響いてから彼女から離れるんだ、と私が叫ぶと、銃だ、と男の声が聞こえて、彼女を取り囲んでいた大勢の男が向こうへ駆け出した。まだ数人その場に残っていて、屈んでいた体格のいい人影が動くのが見えた。
「銃を持ってる、撃つんだ!」と今屋敷蜜の声が聞こえたので、咄嗟にその男に狙いをつけて引き金を引いた。すると、その男はうめき声を漏らしてその場に崩れ落ちた。残った男たちも悲鳴をあげて逃げていった。その場に立っていたのは私だけで、銃を構えたまましばらくの間動けなかった。
彼女には傷一つなかった。予想済みの襲撃で、計算外だったのはビシュヌ・パリカールが連れてきた人数だと今屋敷蜜は話した。その辺の男なら、小学生の頃から武道を習わされていたので相手にならないと彼女は述べた。私がビーチを離れて彼女が一人になったところを狙って、ビシュヌは拉致しようと襲ってきた。応戦しつつ逃げながら、私が銃を持って戻ってくるまで時間を稼いだ。あの銃が、彼女から私へのプレゼントだった。引き出しに一緒に入っていたメッセージには、安全装置を外すのを忘れるなと書かれていた。
ビシュヌ・パリカールは、病院へ運び込まれたが死んだ。私たちは警察の取り調べを受け、拳銃を持っていた理由を聞かれたが、あらかじめ今屋敷蜜から海辺で拾ったことにするように言われていたので、そのように答えた。なぜか警察には怪しんだ様子はなかった。ゴアの警察と裁判官はビシュヌの父親、オシリシュ・パリカールの息がかかっているが、事件が起こったロックビーチはゴア州からかろうじで外れた場所だったため、私たちは不正な手続きから逃れることができた。あとは、ビシュヌがどうやって私たちの居場所を掴んだのかということだが、ディティ巡査からゴア国際空港へ向かったことを聞いたビシュヌが、空港で手下に待ち伏せさせて尾行させたのだろうと今屋敷蜜は語った。彼女はそこまで計算していたのだった。
さて、いよいよこの一連の事件、つまりハリー・モリスの復讐劇の全貌を語るときが来た。
モリスがいつリシンの毒に発症したのか?と今屋敷蜜は私に問いかけた。私は考えて、モリスがビシュヌに毒を送ったときにうっかり摂取してしまったのではないかと答えた。
「リシンが発症するまでの潜伏期間は18時間から24時間、そして発症してから死に至るまではおよそ3日、自力で行動ができなくなるのはもっと早いだろう。ビシュヌに毒が送られたのはモリスが死ぬ5日前だから、計算が合わない」
「モリスが毒を摂取したのは、ビシュヌに毒を送ってからもっと後ってことか」
「そう、それに、さっき説明したようにリシンはちょっとやそっとじゃ致命的になるほどの量を摂取することはできない。誰かから直接リシンの付着した針で打たれたり、大量のリシンに触れて肺から吸引しない限りは」
「つまり、モリスは誰かから故意に毒を投与された可能性があると?」
「その可能性はある。でも、わたしは別の経緯でモリスは発症したと考えてるんだ」
私は頭を振って、「話が見えないよ、蜜」
「モリスが大量のリシンを扱ったっていうことさ。順を追って説明しようか、私が懸念を抱いたのは、友人のエリオットからモリスの精神状態を聞いたときだよ。怒りの傾向が強く、実際にビシュヌの暗殺を企て、実行に移していた。しかし、その対象がビシュヌに留まらずもっと広範囲に及ぶ可能性があるとわかったからだ」
「もっと広範囲だって?」
「そこでわたしは、スコットランドヤードにモリスの足取りを調査するように依頼した。ついでに死体の毒物検査も、これはもしかしたらと思ったからだ。そして、調査の結果、モリスは頻繁にインドへ来ており、さらに、リシンの毒を摂取していたことが判明した。ここで私はほぼ確信した」
「いったい何を?」
「無差別殺人さ。リシンを無差別に散布する。それがモリスの復讐計画だった」
「なんだって、そんな恐ろしいことを!」私は驚愕した。
「その情報を元にインド警察には被害の防止とリシン精製工場の捜索に動いてもらった。スコットランドヤードが迅速に調査を進めてくれて助かったよ、インド警察に働きかけるには相応の根拠が必要だからね。わたしが自分で現地調査に駆けずり回らなければならないところだった」
「ビシュヌに会ったのは、何のためだったんだい?君の今の話だと、ビシュヌとは関係がないじゃないか」
「あれは、詳細は言えないけど別の考えがあってのことさ。気づいたかい?サングラスはしてたけど、わたしを見るあの目!おぞ気が走ったよ」
「私も気づいたよ」
「ふん!ああいう連中は単細胞の獣みたいなものだからね、思考を誘導するのも容易い。話がそれたね。それで、そうそう、さっきデリー警察長官から来た電話さ」
彼女は急いで話題を変えたがっているように見えた。
「インド警察には、わたしが前もって、トウゴマの生産農家から被害届が出ていないか調べるように助言しておいたんだけど、予想通りゴア南部にある農場の倉庫から大量のトウゴマが盗み出されていたことがわかった。大量のリシンを精製するには原料になるトウゴマが必要だからね」
「なるほど」
「その後は、盗難にあったトウゴマ農家の周辺からインド警察の地道な捜査でモリスの工場を発見したってわけさ。民家から離れて使われていなかった小さな工場をこっそり利用していたみたいだ」
「モリスの計画が明るみに出たわけだね。それでモリスは一人でどうやってリシンを散布するつもりだったんだろう」
「そこがこの計画の巧妙なところなんだ。モリス自身が散布する必要はない。インド国民が自分たちで毒を撒いてくれるんだから」
「どういうこと?」
「ホーリー祭で投げつけ合う色粉にリシンを混入させたんだ。モリスの家にレッド・サンダルウッドの粉があったのを覚えてるかい?あれは赤色の粉だからホーリー祭でも使われるんだよ。工場には大量の赤い粉が残されていた。おそらくリシンを赤粉に混ぜる際に、飛沫したリシンをモリスは誤って吸引してしまったんだろうね」
「あとは、リシン入りの赤粉を適当な場所に置いておけば、付近の住人が勝手に持って帰ってくれる。これがモリスの計画さ」
「驚いた!君がテロと言っていたのも間違いじゃなかったんだね」
「ほかに質問はあるかい、オリバー?」
「モリスの自宅2階にあった冷凍庫は何だったんだろう」
「あれは、リシンはたんぱく質性だから適切に保管しておかないと毒性が低下してしまうんだ。自宅で保管方法を試していたんだろうね」
以上が、今屋敷蜜と私が手掛けた「毒の色彩事件」のすべてだ。
「インド政府は国民に対して、今年のホーリー祭では赤色の粉を使わないように公式に注意を呼びかけた。リシンが混入されたのは赤色だけとわかったからね。さて、あとはインド警察に任せて我々は休暇の残りを楽しむとしよう」
お読みいただきありがとうございました!
ぜひ続編もご覧ください。
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