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のびして。かがんで。(年の差男女まとめ)

特等席

作者: 縞々杜々


 にぎわう食堂の一角で、青年が行儀悪く頰づえを突いている。

 定食のコロッケをモソモソと口に運び、二つある内の一つを食べ切ったところで箸を置いた。椅子の下からショルダーバッグを引き出して、サイドポケットからケータイを取り出す。脚でバッグを元の位置に押し込みつつ、ケータイの電源を入れた。

 先刻まで受けていた講義の講師は、講義中はケータイの電源を切ることを推奨している。第一回の注意事項で、たとえバイブレーションでもケータイを鳴らした者はカバンごと廊下に放り出すと宣言しており、実際に先日、実行していた。特に大事な連絡の心当たりもないので、青年は素直に従って電源を切っていた。

 トレーを横にずらして、ケータイを目の前に置く。メッセージの受信はない。こちらから発信したいこともない。青年は画面を落とそうとして、手を止めた。


 液晶の向こう、就学前だろう年頃の少女が、こちらを見上げてふにゃんと柔らかく笑っていた。跳ねクセのある黒髪が、オレンジのポンポン飾りで高い位置に結ばれている。桃色のほほもボールを抱えた小さな手も、ぷくぷくふっくらしている。青年は笑み崩れた。

 かわいい。

 声には出なかった。心の内でつぶやいたつもりだったのに、唇は動いた。


「あれ。飛野、妹いるのか?」


 すぐ後ろから声が飛んで来て、青年、飛野(とびの)一馬(かずま)は我に返った。振り返ると、一人の青年がきつねうどんの乗ったトレーを持って立っていた。その後ろでも男女が各二名、彼の肩越しにこちらをうかがっている。五人は同じ学科の学生で、先の彼と女性の片方はさっきまで同じ講義を受けていた。

 彼が一馬の横に座り、他の面々もそれぞれ席に着く。テーブルには、きつねうどん、醤油ラーメン、カレー、月見うどんが並んだ。男の一人はカバンを席に置くと、財布だけ持って券売機の方へ向かった。


「かわいいな。でも、飛野とはあんまり似てないかも。」

「妹じゃねえからな。」


 横からのぞき込んでくる相手から隠すように、画面を消す。一馬は姿勢を正すと、ケータイをズボンのポケットにしまいながら定食のトレーを引き寄せた。


「あれ? じゃあイトコとか? めいっこ?」

「いや、彼女。」

「えぇっ!?」


 きぱっと返して、一馬は食事を再開させる。四人が驚きの声をあげた。女性二人の声は悲痛で悲鳴に近い。一馬は先日の誕生日で二十歳になったはずだ。写真の相手とは親子に近い歳の差がある。


「飛野、お前、ロリコンだったのか……?」

「ていうか、親御さんはっ? 親御さんの許しは得ているのか!?」


 しばらく間を置き、男の一人がぼう然とつぶやき、もう一人が身を乗り出して騒ぎだす。女性達は青ざめて押し黙っている。そんな状況の中でも、一馬はペースを少しも乱さずに、コロッケやキャベツを口に運ぶ。対して、手をつけられていないラーメンとうどんは刻一刻と伸びている。


「……の、小さい頃の写真。」

「えっ?」

「部屋の片付けてしてたら昔の写真が出てきてな、髪長いの懐かしかったから、写メってきたんだ。」


 空になった茶わんをトレーに戻して、一馬が続ける。言葉が脳に到達して、彼らは胸をなで下ろした。どっと空気が緩む。


「なぁーんだよ、もう。驚かせやがって。」


 騒いでいた男が、椅子に座り直してケラケラ笑う。それぞれ箸やスプーンを手に持つ。


「そういえば、飛野君って飲み会から帰る時、いつも電話入れてたよね。あれって、もしかして彼女さんに?」

「いや、それは単に家に連絡してただけ。」


 未成年である一馬が夜遅く帰ることを親代わりの人達が心配して、飲み会の後は電話を入れることを約束させられていた。酒を飲んでいないかどうかの確認でもあったようだ。二十歳になったことで解約されたが、一馬としては電話をする口実がなくなって少々寂しい。9時前であれば、彼女が電話に飛びついて来るのだ。

 隣に座っていた青年がうどんをたぐりながら、口を開く。


「で、彼女さん、今いくつなんだ?」

「案外年上?」

「いや、年下。今年小四。」


 最初のように簡潔に答えて、一馬は残っていたみそ汁をすする。

 ずるるんっと箸を滑って麺が出汁の中に沈む。カレーのスプーンが転げる。


「ジャスト十歳差!?」

「つぅかどっちにしろ犯罪!?」


 ***


 駅を出た時は、まだ空に雲の形も見えて、街灯の光は付いているのか分からない程ぼんやりしていた。我が家を視界に認めて、見上げた曲がり角の街灯は、闇夜を背に強く白く存在を主張していた。日が沈むのが早くなったものだ。

 一馬は、一辺の光もこぼさない冷たく沈んだ自宅の前を通りすぎる。薄いブロック塀を挟んだすぐ隣では、カーテンの隙間や、玄関ドアの飾り窓からオレンジの光が漏れていた。

 バッグのサイドポケットからジャラリとキーホルダーを取り出す。三つ付いている内の一つ、赤いネコのカバーの鍵を選んで挿し込む。ドアを開けて中に入ると、廊下の奥に声をかける。


「ただいまー。」


 廊下に上がり、慣れた足取りで左の部屋へ入る。洗面台で手を洗っていると、とたとたと軽い音が聞こえてきた。手をタオルで拭きながら廊下をのぞく。向かいの階段を小学生ほどの少女がリズム良く降りてくる。短く切りそろえられたクセ毛がひょこひょこと揺れていた。ぱっちりした大きな目が、一馬の姿を捉えてぱぁっと輝く。


「カズ兄っお帰りなさーいっ!」

「スズ、ただいま。」


 少女が飛びついてくる。一馬は両腕を広げてしかと受け止めた。少女は額をぐりぐりっと一馬の腹に擦りつけると、満足気にへへっと笑う。一度体を離し、一馬の手を引いて廊下の奥、リビングへ誘う。元気にドアを開け放った。


「お母さんっ。カズ兄!」

「ああ。カズ君、お帰りなさい。」

「ただいま、おばさん。」


 少女の声に、台所のカウンター向こうから女性がこちらを振り返った。女性がにこりと微笑む。しかし、ほほに手を当てて、それを困り顔に変えた。


「ごめんね。ご飯まだ出来てないの。もうちょっと待っててね。」

「いえいえ。むしろ、俺がいつもより早いのに乗れちゃったんで。」

「でも、おなか空いたでしょう。何か摘まんでる?」

「んー、大丈夫っす。」

「カズ兄。テレビ、クイズやってるの。いっしょにやって!」


 母との会話は区切りがついたと判断したのだろう。周りをちょろちょろしていた少女が、ぐいぐいと一馬の腕を引く。一馬は笑ってそれに従う。ソファに座ると、少女は当然のように膝に乗り上げてきた。一馬はソファ横にバッグを降ろす。よいしょ、と据わりを整える彼女を、腰に手を回して支えてやる。


「こら、(すず)っ。カズ君疲れてるんだから、降りなさい!」


 飛んで来た声に、少女の肩がびくっと跳ねた。眉が八の字に下がる。


「ごめんなさい……。」


 一馬の胸を押して降りようとする、小さな体をぐっと引き留める。一馬は台所へにこりと笑みを向けた。


「大丈夫っす。スズ、軽いですから。」

「そう? ごめんねぇ、いつまでも甘えん坊で。」

「いえいえ。」


 にこにこ笑う一馬にもう一度謝って、女性は調理台に向き直る。くいくいっとシャツが引かれた。視線を下ろせば、大きな瞳がじぃっと見上げていた。


「カズ兄、つかれてるの?」


 きゅっと八の字の間にシワが寄る。一馬は笑みを深めて、ぎゅうっと少女を抱き締めた。


「ちょっとなぁ。でも、スズがぎゅうってしてくれたら元気出るよ。」


 すぐに細い腕が抱き返してきた。背中まで回らない小さな手は、服にしがみつくような形になる。きつく目をつむった丸い顔が、一馬の胸に押しつけられていた。

 込み上げる愛しさに、一馬の手にも力が込められる。


 今はまだ、この幸せは自分のものだ。


 ***


 一馬の両親は共働きで、仕事柄家を空けることも多かった。幼い一馬はよく隣の夫婦に預けられた。どういう関係なのか、母と学生時代からの知り合いだということしか一馬は知らない。

 一馬が高校生の頃に両親が別々に外国に行ってしまい、一人暮らし状態になると、朝食、夕食もお隣のお世話になるようになった。一年に1、2回帰ってくる両親も、空港から真っ直ぐお隣にやってくるのだから、飛野家にとって自宅はすでに寝室兼物置と化してきている。


 鈴が生まれたのは、一馬が小学生の時だ。第二の両親となっていたお隣夫婦に生まれたその子を、一馬はそれはもう可愛がった。自分はこの子の兄だと、この子は自分の妹だと、そう疑わなかった。膝に乗せて学校で習った歌を歌ってやった。散歩についていってベビーカーを押したがった。鈴が歩くようになると、出掛ける度に手をつないだ。


 ***


 小学生の頃は、昼間は誰もいない自宅ではなく、隣の奥さんが迎えてくれるお隣に真っ直ぐ帰ってランドセルも預けていた。中学生になれば、一人で家にいたって平気だし、どこへでも遊びの当てがある。それなのに一馬は、制服から着替えるためだけに自宅に寄り、お隣に向かった。

 チャイムを鳴らすと、内側から勢いよくドアが開いた。幼子がドアノブにぶら下がっている。伸びたクセ毛が今日は黄色いリボンでポニーテールにされていた。


「カズにぃっかえりーっ!」


 一馬はため息をつくと、鈴のほほを両側から捕まえてぐにっと引いた。柔らかくてよく伸びる。


「すーずー。誰か確かめないで開けちゃダメだろー?」


 鈴は不思議そうに目をぱちぱち瞬かせる。


「カズにぃだよ?」

「いやいや。」


 飼い主の帰りを察知する犬猫じゃあるまいし、足音や気配だけで相手が把握できる訳がない。


「とにかく、今度から俺だって分かるまでダメだ。分かったか?」

「うん?」

「俺の声が聞こえたら開けるんだ。分かったな?」

「うんっ。」


 念を押すと元気にうなずかれるが、通じている気がしない。一馬は鈴を抱き上げて家に上がる。


「スズねー、カズにぃわかるよ。ちがうひと、あけないよ。」


 マイペースな幼子は、脚をぷらぷら廊下を運搬されながらも、のんびりとおしゃべりを続ける。


「カズにぃ、だいすきなの。」


 一馬は鈴を抱き直して、リビングのドアを開ける。部屋の奥では鈴の母親が、掃除シートで床を磨いていた。ぺこりと頭を下げる一馬に、にこっと笑いかけてくれる。


「だからねー、カズにぃきたの、わかるよ。いちばん、おむかえするの!」


 ふふんっと、自慢気に胸を反らせて、鈴は一馬を見上げる。一馬は自分のほほが緩むのを感じた。


「一番にお出迎えできるのは、玄関でずっとカズ君待ってるからでしょう?」

「! いっちゃだめっ。」


 割り込んできた母の言葉に、鈴がぱっと顔を赤くした。掃除の手を止めて母親は「ごめんね。」と謝るが、その声も表情も楽し気だ。釣られて一馬も笑った。腕の中で鈴が暴れだした。危ないので降ろしてやると、駆けだしてソファの裏へと隠れた。

 宿題なんて、寝る前にやればいい。

 鈴が生まれる前と変わらず、友人と約束のない日はお隣にお邪魔した。むしろ、まだ一人では外遊びが出来ない鈴のために、毎日のように通った。


 ***


 中学二年生のある日、何となく席の近い男子数名で昼食を囲んだら、馬が合い、そのまま共に過ごすようになった。他の面子が遊びに出る中、妹分を優先するあまり、付き合いの悪い一馬を仲間外れにすることもなく、学校では小突き合って笑い合った。

 定期テストが近くなると、彼らはよく一馬の家に集まった。リビングのテーブルにそれぞれノートや教科書を広げるが、漫画やゲームを持ち込む者がいて、勉強は遅々として進まない。


 一馬はよくその場に鈴を呼んだ。どうせ皆グダグダしているのだから、幼子一人がおやつを食べていても問題あるまい。膝に乗っけた妹分の、チョコや砂糖に汚れた手とほほをかいがいしく拭いてやる一馬を、友人達は「シスコン」と呼んでからかった。

 皆、鈴に対して好意的だったが、一度だけ、帰り際に眉根を寄せてこう言われたことがある。


「お前って、何かいっつも子守りしてるよな。本当の兄貴でもねぇのに、お前に頼り過ぎじゃね。」


 一馬の親でもないのに、鈴の両親はいつも一馬の面倒を見てくれた。それに、そもそもの前提がおかしい。鈴の両親は、一度だって一馬に鈴を押しつけたことはない。勝手に兄貴だと気負って、一馬が鈴を構っているのだ。気負うという言い方も適切ではないだろう。ただ、「カズにぃ」とあの子に呼ばれるのが好きなのだ。

 カズにぃ、と自分の名が繰り返される。小さな手を伸ばして、一所懸命に駆けてくる。小さな体を迎えると、柔らかい熱がくっついてくる。まあるいほほを赤く染めて、きゃらきゃらと笑う。自分にたどり着けてうれしいと、抱き締められてうれしいと、全身で教えてくれる。


 その様子が可愛かった。真っ直ぐにぶつけられる「好き」が一馬の胸をくすぐった。


 ***


 一馬が高校に上がる頃には、鈴にも友達が出来ていて、母親に連れられて友達の家に行くことが増えた。公園で遊ぶ時なら、一馬が付き添うこともあった。

 一馬は園児の兄としては歳が離れている方だが、父親や先生よりは若い。ある日、友達の中で好奇心の強い子が、なじみのない年頃の一馬に興味を示して抱っこや肩車をねだった。すると、砂遊びしていたはずの鈴がスコップを放り出してすっ飛んで来た。


「カズにぃダメ! スズのカズにぃなの!」


 鈴と遊ぶことが減っていて少し寂しかったが、こうした鈴のヤキモチを見られるのは楽しかった。

 鈴が小学校に上がると、制限はあるものの一人で遊びに出られるようになって、一馬の子守りは完全に必要なくなってしまった。帰り道に一馬が公園を通り掛かると、イロオニやカクレンボの最中でも鈴が手を振ってくれるのはうれしいけれども。


「やっと自由になったんじゃん。なんでそんなに弱ってんだよ。」


 別々の高校に入った後も、友人達との付き合いは途切れず、体の空いた一馬は遊びの誘いに応じることが多くなった。妹分の近況を聞かれて、ため息混じりに話す一馬を友人達は不思議がる。

 自由って何だ。胸に穴が空いて、風通しが良くなることか。


 ***


 高校三年生の秋。クラスメイトの話を聞きながらコロッケパンをかじっていると、ケータイが鳴った。そういえば電源を切っておくのを忘れていた。続く音が鬱陶しい。今からでも切ろうと思ったら、内容だけでも確認したらどうだ、と話していた当人が勧めるので画面を見た。

 友人の一人から、週末にある地元の祭りの誘いだった。受験のストレスがたまっているのだろう、次々と参加表明されていく画面を見ながら、手早くメッセージを打つ。


――スズと行くから、パス。


 すかさず、人数分「シスコン」の四文字が送られてくる。うるさいケータイを今度こそ切って、一馬はそれをバッグの中に放り込んだ。

 去年は、鈴とその両親と一馬の四人で祭りに出掛けた。鈴の父親は一馬が小さい頃から射的が得意で、変わらぬ腕前に鈴は手をたたいてはしゃいでいた。しかし、今年は鈴と二人で行くことになっている。新しい浴衣を買ってもらったという鈴が、「デート」だと宣言していたからだ。


 当日の五時過ぎ、一馬が鈴を迎えに行くと、玄関で出迎えてくれた鈴の母は、心配そうに表情を曇らせていた。


「カズ君、ホントに良いの? やっぱり私も行こうか?」

「大丈夫っすよ。はぐれないよう、しっかり手をつなぎますから。」

「そうじゃなくてね、鈴と二人っきりじゃ、せっかくお友達に会っても一緒に遊べないでしょう?」


 思ってもみなかったことに、一馬は一瞬だけ目を見張った。思い返してみると、去年友人達とすれ違った時も、あっちに合流しても良いと言われたような。一馬はすぐに笑みを取り戻した。


「あいつらとはしゃぐより、俺はスズとゆっくり回る方が好きですから。」

「そう?」


 心配を上手く拭うことは出来なかった。鈴の母の顔は晴れない。それでも、これ以上言葉を重ねることは難しいと思ったのだろう、握りしめていた小さな財布を手渡してくれた。


「これ、好きに使ってくれて良いからね。」

「ありがとうございます。」


 落とさないように、鍵を付けているチェーンとつなぐ。


「ところで、スズは?」

「なんか、もじもじしちゃって。鈴ーっ。そろそろ出て来ないと置いてかれちゃうわよーっ。」


 置いて行く訳がない。口にせず、苦笑するに留める。

 慌てた足音をパタパタと響かせて、鈴がリビングから駆けて来る。白地に赤い丸が散った浴衣に、赤いふわふわした帯を締めている。帯は去年と同じもので、淡く色の抜けた端が鈴の跳ねるのに合わせて柔らかく揺れるのが、金魚のひれのようだった。


「もう。そんなに走ったら崩れちゃうでしょう?」


 そのまま土間に降りて下駄を履こうとした鈴を捕まえると、母親は浴衣を直し始める。

 一馬は、赤い丸に柄があるのを認めて、最初は水風船なのだと思った。しかし、それは白い梅の花が描かれた緋色の”鈴”だと一拍空けて気がついた。

 探したのか、たまたま見つけたのか、彼女の名前に合わせた柄。派手さはないけれど、赤が鮮やかに染めぬかれて美しい。大きな鈴がコロコロと転がって、周りにピンクやブルーの小さな花が散っている。

 妹分が元気に走り回っている姿が連想されて、一馬は笑みをこぼした。母親から解放された鈴が、きょとんと目を瞬かせて一馬を見上げている。


「よく似合ってる。」

「ほんとっ?」


 大きな目がぱぁっと光を散らす。うなずいてやると、まあるいほほを上気させて、きゃーっと声をあげた。花の形の髪飾りを避けて、頭をなでる。


「さ、行こう。」


 差し出した一馬の手を、小さな手がきゅっと握った。


 ***


 歩きながら食べるのは鈴には難しいし、何より転んだ時に危ない。一馬は道の端の縁石に腰かけて、隣に座る鈴がチョコクレープと戦っているのを見守っていた。といっても、半分はすでに一馬が引き取っているので、鈴は優勢である。

 次はしょっぱいものを食べたがるだろうか。いや、向こうにあるスーパーボールすくいをやりたがるだろうか。視線をちょっと鈴から外し、並ぶ屋台を追う。


「ごちそうさま!」


 空っぽになった包みを見せる手も、なぜか誇らしげな顔もベタベタとクリームが付いてしまっている。一馬は出掛けに渡されたウェットティッシュで、それらを奇麗に拭ってやった。包みと一緒に、辺りに設置されているゴミ箱へ捨てる。

 手をつなぎ直して人波へ戻る。鈴が屋台の一つを指差す。


「わたあめっ!」

「ん、食べる?」

「んーんっ。いまじゃないの。わたあめおっきいから、おとうさんとおかあさんとたべる。」

「じゃあ、帰る時に買おうな。」

「うんっ。」


 こくりっとうなずく鈴に微笑んで、先へ促す。


「飛野君?」


 声と共に横から誰かが進み出てきた。聞き慣れない声だったが、呼ばれたからには無視する訳にもいかず、立ち止まる。

 深い青の浴衣に黄色の帯、クセのない黒髪は肩で切りそろえられている。少女は一馬の顔を真っ直ぐ見つめて、もう一度「飛野君。」と呼んだ。しかし、一馬には相手が同い年くらいであることしか分からない。鈴が両手でぎゅうっと一馬の手を握った。

 少女は驚きに目を見張って、でもうれしそうに正面に立つ。


「久しぶり。来れないって聞いてたのに。」


 どうにも正確に情報が伝わっていないようだが、一馬が友人の誘いを蹴ったことが、どうして知らない少女に伝わっているのだろう。考え込みそうになって思い出す。あの誘いには「女子も来るから来い」という一文があった。この少女はその女子の一人か。

 押し黙る一馬を、驚いていると判断したらしい、少女は慌てた様子で言葉を重ねる。


「三年ぶりだよね。知ってるかな、ナホと寺島君が同じ高校なんだよ。それでね、寺島君達とお祭り行くからって、ナホが私も誘ってくれたんだ。」


 寺島は友人の一人で、祭りに行こうと今回最初に言い出した奴だ。ナホというのは、彼の話によく出てくる高木の下の名前だったはずだ。この交友関係から見て、少女は中学の時のクラスメイトなのだろう。見覚えがあるような気がしてくるが、やっぱり思い出せない。


「あのね、良かったら……」


 照れ隠しにうつむいて、そこでようやく少女は一馬に連れがいることに気がついた。大きな目にじぃっと見つめられて、あ、と息を飲む。言葉が空く。自分の勘違いを取り繕おうと、瞳が泳ぐ。


「……あの、待ち合わせ、すぐそこで、その、妹さん、一緒でも良いと思うし、飛野君も……」

「いや、俺は」


 遠慮するよ。続けるはずだった言葉がするりと抜け落ちた。

 片手を捕まえていた熱が、すっと離れたからだ。途切れた一馬の思考に悲鳴のような声が被さる。


「かえる!」


 声に釣られて見下ろすと、大きな目に涙の膜が張っていた。真っ赤になった顔で、大きく息を吸って、鈴は叫ぶ。


「わたし、かえる! さきにかえるから!」


 白い袖と赤いひれがふわっと翻った。鈴が来た方へと駆けて行く。


「はっ? おいっスズ!」


 小さな白と赤はあっという間に人波に沈んでしまう。ほうけている推定元クラスメイトのことなんて構っていられない。一馬も慌てて駆けだした。

 日の傾いた道を泳ぐ白を、必死で追う。屋台が途切れる区画で、鈴は横切った男性の足に自身の足を引っかけて、べしゃっと転んだ。自分のせいかとうろたえる男性に、追いついた一馬がすみません、と頭を下げる。鈴を抱き上げて立たせた。


「ほら、スズ。人の多いとこで走っちゃダメだって、おばさんも言ってたろ。」

「ごめんなさいぃ……。」


 痛みのためか、他の理由か、ぼろぼろと涙がこぼれていく。


「俺にじゃないだろ。」


 ため息混じりに指摘すると、しゃがんだ一馬の肩を支えに、鈴は男性を振り返った。


「ごめんなさい……っ。」

「いやいや、こっちこそごめんね。」


 男性は恐縮した様子で連れの女性と逃げて行く。女性の方は心配そうにチラチラとこちらを振り返っていた。

 一馬は正面からケガの有無を確かめると、パタパタと土ぼこりを払った。髪飾りが落ちているのを見つけて、拾いあげる。ひっくひっくとしゃくりあげる鈴の手を引いて、道の脇に避難する。

 再びしゃがんで、目元を擦る小さな両手を捕まえた。


「びっくりしたぞ。急にどうしたんだ。」


 手で顔を隠せなくなった鈴は、ぐっと唇を引き結んでうつむいた。まあるいほほを、涙が後から後から伝っていく。

 一馬はため息をついて、落ちてきている前髪を髪飾りで留めてやった。さっきと位置が変わったが、まあ良いだろう。


「怒んないから、言ってみ。」


 鈴が手をぎゅうっと握りしめる。


「ほん、とは……スズはおかあさんと、いこうって……おかあさんが……。カズにい、おともだちといっしょって……。そっちのが、いいって……。カズにい、もうおっきいのに、かぞく、で、いくの、おかしいって……っ。」


 懸命に言葉を紡ぐのに、のどが引きつって度々途切れる。話し切ったのか、堪えられなくなったのか、ひぃぐっと大きく声を跳ね上げて、鈴は取り戻した両手で口を塞いだ。


 鈴の手を引いて外遊びに連れ出した回数は数え切れない。お使いにだって行った。二人きりのお出掛けなんて珍しくもないのに、兄貴分と祭りに行くのを「デート」と称すなんて、女の子らしいおませだと思っていた。

 一馬を友人達に譲りたくなくて、誰にも文句を言われたくなくて、考えついたのが、家族ではなく恋人としてデートに行くことだったのだろう。

 そうして武装した幼い乙女心は、少女の登場と発言で挫けてしまった。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 涙混じりで小さく繰り返される。一馬はぐりぐりと鈴の頭をなでた。


「何を謝ってんだよ。」

「カズにい、いっしょ、わがままいった。おともだち、まってたのに。」


 鈴の涙は止まらない。一馬が思っている以上に、鈴の両親は一馬が鈴に時間を割いていることを気にしていたのか。一馬が知らない所で鈴は注意されていたのかもしれない。

 一馬は指で涙を拭おうとして、拭い切れないなと、ポケットからウェットティッシュを取り出した。涙でベタベタになったほほを拭う。またぽろりとこぼれた雫に、ハンカチを持ってくれば良かったとぼんやり思う。


「ワガママなんかじゃないだろ。友達と行くのはちゃんと断ったんだ。俺もスズと来たかったんだから。」


 ぱちぱちと鈴が目を瞬かせる。


 自分はどこかおかしいのかもしれない。

 友人達の言う子守りを、苦に思ったことなんて一度もない。

 自分を前にはにかむ年頃の少女より、まるいほほを真っ赤にしてきゃーっと喜ぶこの子の方が可愛い。

 自分を真っ直ぐ追いかける大きな目が可愛い。

 自分にすがりついてくる小さな手が可愛い。


 幼い心にもて余すほど自分を想ってくれる、鈴が愛しい。


「俺はスズとのデート、楽しみにしてたよ。」

「……ほんと?」


 特別意識していたわけではないけれど、いつだって鈴と出掛けるのは楽しいし、可愛い背伸びを否定する気もなかった。


「俺がスズにウソついたことあるか?」


 小さな頭が横に振られる。その頭をくりくりなでる。


「だろ? 知らない人に何言われたって気にしなくて良いんだ。むしろ、鈴は怒って良かったんだぜ、邪魔すんなって。俺もスズもデートだと思ってるなら、それはデートなんだから。」


 涙はとうに止まっていた。赤くなっている鼻を拭ってやる。一馬は笑みをからかうものに変える。


「でも、怒りのあまり、彼氏ほっぽって走りだすのはNGな。」

「……ごめんなさい。」


 しゅんっとうつむいてしまった顔を、髪をかき上げるようになでて上向かせる。


「手をつないでくれたら、許してあげる。」


 ぱっと飛びつくように手を取られた。ぎゅうっと力が込められる。応えて一馬も握り返す。


「んじゃ、スズ。次は何食う?」

「……タコヤキ。」

「おし。あの店で良いな。」


 一馬は立ち上がりながら、きょろっと辺りを見た。一番に目についた屋台へ向かう。鈴が振り返って後ろをうかがう。少女を探しているようだ。一馬は強く鈴の手を引いた。

 一舟頼むと威勢のよい声が返ってきた。まん丸のタコ焼きがひょいひょいと軽やかに舟に乗り込む様を、鈴がきらきらした目で見つめている。一馬のポケットでケータイが震えた。

 この近くにいるだろう友人からメッセージだ。鈴に500円玉を握らせて、自分はちょっと端に避ける。


――すずちゃん、大丈夫か?


 件の少女は無事友人達と合流したようだ。


――平気。捕まえた。

――良かった。


 良かった、と口々に安堵の言葉が送られてくる。心配をかけたことをわびる。


――二人もこっち来いよ。


 誰かの一言に、行かない、と返信しようとして指が止まる。

 一馬は考え込むように視線を下へと逃がした。そこにひょこっと鈴が入り込んでくる。


「カズにいっ。ハコがすっごくあっつい!」

「焼きたてだからなぁ。ヤケドしないように、気をつけような。」

「うんっ。」


 カツオブシやらがはみ出ている箱を大事そうに抱えて、鈴が道の端へ向かう。一馬はさっとメッセージを送ると、ケータイをポケットに戻した。


――デート中。邪魔すんな。


 タコ焼きを食べている間、ずっとポケットの中が騒がしかった。


 ***


 鈴が生まれた時から、傍にいるのが当たり前だった。鈴が自分を呼べば、傍へ駆けつけるのが当たり前だった。小さな手が伸ばされた時、自分の両手が塞がっていれば酷く悔やんだ。

 一馬は自分を犠牲にしている訳ではない。鈴に尽くしている訳ではない。鈴が一馬を望んでくれる以上に、一馬が鈴を望んでいるだけ。一馬は追って来る鈴を待ってやっているのではない。鈴が駆けて来るのを待ちわびているだけ。


 いつからなのか、一馬にはもう分からない。

 可愛い、うれしい、と受け入れ続けた「好き」は、一馬の胸の奥の奥へと流し込まれて、気がついた頃には妙な形で凝固してしまっていた。

 後はもう、鈴が一馬を呼んでくれる度、少しずつかさを増していくだけ。


 ***


 テレビ画面の下部には、不思議な語感でカタカナの羅列が四つ並んでいる。内二つが、実在する生物の和名なのだそうだ。

 一馬の膝の上で、リモコンをぎゅうぎゅう握りしめて、鈴が頻りに首をかしげている。


「スベスベマンジュウガニはいるんだよ。知ってるもん。本にのってたよ。」

「へえ。旨そうな名前だな。」

「食べられないよ。毒あるんだって。」

「何だ。こしあんでも入ってるのかと思ったのに。」

「でも、丸くてかわいかったよ。」


 もう一つの正解はどれなのか、脚をぷらぷら揺らして、鈴は再び悩み始める。

 ブーブーと微かな振動音が聞こえた。ソファ横のバッグの中でケータイが自己主張している。


「ちょっとごめんな。」


 落とさないように鈴の腹に手を回すと、体を傾けてバッグを探る。手に取ってすぐぱっと画面を表示する。

 友人が、サイクリングに行くぞ! と参加者を募っている。確か彼はつい昨日も、発表がどうだ資料がなんだと騒いでいたはずなのだが。すぐにでも飛び出して行きたいのか、候補も用意せずに次の日曜日を指定している。

 一馬はさらっと返事を打つ。その日はすでに先約がある。


――デートなんで、パス。


 「ロリコン」の四文字がポコポコと画面を埋めていくのを無視して、一馬はケータイを放った。ぽすっと間の抜けた音をたててバッグの上に着地する。

 鈴がこちらを振り仰いだ。


「カズ兄? お話いいの?」

「ん? いいのいいの。」


 ぐりぐりと頭のてっぺんを顎でえぐる。「やめてー。」と鈴がきゃらきゃら笑いながら一馬の顔を押し返す。


 鈴が望んでくれる限り、一馬はこの場所から動かない。



 END

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