第十九章 群雄割拠のはじまり
191年1月
董卓が洛陽の都を灰塵と化し、そして劉備配下の関羽と張飛に斬られてから1年余りが過ぎようとしていた。
各諸侯は自分の国に戻り、結局洛陽の都にあった財宝などは手に入らず献帝から微々たる褒美をもらっただけだった。
暫くは董卓討伐で費やしたお金や米や兵を増やしたりするために大人しくしていた諸侯だったが、この時勢を生き残るために
近隣の弱小国をなんだかんだと理由をつけて勝手に攻め込み併呑していった。
江夏太守李世民もやはり治安維持や米や武器の生産や兵の調練にあけくれていた。
そのため民衆からの支持が高く、水賊や山賊たちはこぞって李世民に投降してきた。
その中には後に呉で活躍する甘寧や周泰や蒋欽などの姿もあった。
また李世民は江夏の豪商の娘との間に第一子も生まれ喜びに包まれていた。
しかしそんな喜びも長くは続かなかった。
宛を本拠としていた袁術は、勝手に皇帝を名乗って荊州に侵略してきたのだった。
各地で諸侯が領土拡大や色々画策しているときに、袁術は黄巾賊や董卓の残党をたくみに吸収し、30万の兵力を誇っていた。
それで気が大きくなったのか自称皇帝を名乗ったようだ。
荊州刺使の劉表より李世民のところにも袁術討伐の命が下っていた。
袁術軍は既に新野の支城を全て落とし、15万の大軍で新野をとり囲むように進軍中で
数日後には先陣が到着し新野城は落城まじかとなっているらしい。
李世民は早速軍を3つにわけて援軍を送ることにした。
先鋒に甘寧と周泰を将とした1万。
中軍は李世民自ら大将として2万の兵を率い、副将に尉遅敬徳と蒋欽。
後詰に李陵と羅士信を将とした兵1万。
そして城の守りに衛青と霍去病と李勣を残していた。
現在構想を練る時間がなく更新が滞っていますが
近日更新できるようにがんばります