羊たちの邂逅3
11
「お久しぶり」大神がおどおどと声をかける。
音楽番組が終わり控室に戻るとすぐにノックをされた。誰だろうと開けてみると大神だった。
ヒナタは、ええ、とぎこちなく顔を傾ける。
何かを言う前に大神が口を開く。
「凄かった。あれはヒナタ、さん、が一人で作ったの?どこから声出してたの?あれは喉痛くならない?空気が震えてたよ。音の振動が伝わって震えちゃった。凄い凄い。詞はもう考えてるの?あれだけでもすごいよ。はっきりとした言語でもないし、言葉でもないけど、詞のようにも聴こえたし、音でもあった。言葉なんてそもそも音の連なりでしかないもんね。CDではどうなるんだろう?考えただけで」興奮する、とまくしたてながら手が大げさに振り回されている。子供のような振る舞いだ。
ヒナタはあっけにとられて口を開いたまま固まった。それに大神が気付き、自分の行状に照れた。こんなふうにしゃべるところを見たことがない。それだけにヒナタは自分への評価が高いことが感じられて嬉しくなった。「さん、いらないよ」
姿勢を正して大神と正対で向き合う。しかしいざ面と向かうと声は出てこない。どこかへ行ってしまったのだろうか。緊張で耳が火照る。腹に力を込めて息を吸い勢いよく吐く力で声を出す。
「あの」「あの」かぶる。
お互いはっとして苦笑する。「どうぞお先に」などと譲り合う。
でも意を決したように大神が先に口火を切る。「あの、」
ヒナタはその先の言葉に予感めいたものを感じる。いや。確信していると言える。同じことを考えているのだ。想いは達したと感じた。
「あの、あれ、もう演奏する人決まった?」俯き加減に言う。離れていったのに図々しいことを言っていると恐縮しているのだろうか。それでも顔を上げて正面から見つめる。まばたきもなく、眼光鋭く、睨むかのように力強い。その目に光が反射したように感じる。ヒナタは喉を上下させた。
「僕にピアノ弾かせてほしい」
「……」
「だめかな?」
「……」
「神楽耶とは今日の仕事が最後」
「……」
「しかたなかったんだよ」
「……」
「本当はずっと一緒にやりたかった」
「……」
「でも、」
「……」
「でも、神楽耶は教え子だからさ」
「……」
「神楽耶の母親は僕の、師匠だから」
「……」
「……知ってる」
「えっ」
「知ってるよ。桐谷社長が教えてくれた」
「そっか。まぁすぐわかるよなそんなことは」
「それでもショックだった。ヤマビコもいなかったし」
「タイミング悪かったよね。ごめん」
「謝ることじゃない。プロなら当たり前のこと」
「そうだね。ごめん」
「だから」
「ああ、そうだった、ごめん」
二人はしばし見つめあったまま固まった。そして、空気が抜けるように息を吐き出し笑い合った。
――神楽耶の母親が大神にピアノを教えた。そしてあのレベルまで押し上げた。
そのことに大神は感謝を大いに感じている。そして神楽耶の勉強を教える家庭教師もしていた。神楽耶は大神を兄のように幼い時から慕っていた。当然のように神楽耶もピアノをやっていた。大神の背中を追いかけて。それが突然立ち止まり道を外れて去っていった。脱線した先にあったのはポピュラー音楽。神楽耶は指針を失い、大きなショックを受けてピアノを弾けなくなった。
心に大きな穴があいたまま過ごしていた。当時はまだ中学生だ。大好きなお兄ちゃんがいきなりいなくなれば尾も引く。
ふさぎ込んだまま時が流れ、次に大神を見たのがヒナタの隣で楽しそうに演奏する姿だった。本当はああやって隣にいるのは自分なのにと神楽耶は歯噛みした。アンサンブルをするのが夢だったのだ。それを壊したあげく、隣にいるヒナタと楽しそうに演奏することに嫉妬した。
ショックと悲しさは、悔しさと怒りに変わる。神楽耶は持ち前の音楽センスで歌の世界へと飛び込み唄い出した。母親はショックだったが、ピアノを弾けなくなり引きこもりで自分の世界に閉じこもっているよりはいいと思い全力でサポートした。それが大神への接触となる。
「圭介。がんばってますね」神楽耶の母――大前嘉代子が言った。
「ご無沙汰しています。期待を裏切ってすみませんでした」大神は突然の来訪に驚きながらも不義理をしたことの後ろめたさがあったので再会の喜びもあった。広くもない部屋へ通し、安いお茶を出してリビングで向かい合って座る。
「いいのよ。あなたの人生ですから。いい音色出してるわよ」嘉代子は弟子を誇らしく思い微笑む。部屋に置かれたピアノに目を向ける。
「聴いてくれたんですか」大神は本当に驚いた。
クラシック以外は音楽じゃないと言ってはばからない嘉代子なのに。彼女の元を去ってから心変わりをしたのだろうか。
「聴きました。もちろん。どうしてあなたがそっちへ行ったのか知りたくて」少しだけいらいらいしたように爪をいじる。いらいらすると爪をいじる癖があるのだ。そして。
「悔しかったです」悔しくてもいらいらするのだ。「いい音楽と思いました」敗北宣言のような深いため息をついた。
「ありがとうございます」大神は心から言った。あの嘉代子が認めるとは思ってもいなかった。相変わらず教え子にも丁寧な言葉遣いが懐かしい。
「それでね」切れ長の目で挑むように見てくる。
「はい」ナイフを喉元に突きつけられた気分になる。
「うちのわがまま娘」覚えてますよね?とあえて間を取るように一拍置く。
「今度デビューします。あなたたちの世界で」苦虫を嚙んだような顔だ。
「……それは」驚きで言葉が出ない。神楽耶までクラシックをやめるのか。嘉代子こそ一番のショックで打ちひしがれているのではないか。嘉代子は年齢以上に白髪がずいぶんと目立つ。化粧で隠してはいるが目元はくまがひどい。一気に老け込んだようだ。
「あなたがいなくなってあの娘、引きこもりになりました。そして声が出なくなりました」
「え」大神は驚きで固まる。
嘉代子はそれにも気付かずに俯きがちのまま目を伏せて独り言のように続ける。もちろんピアノをやりません、学校も行きません。食事もろくにしないですから一時はあばらが浮くほどに痩せてしまい気が気でなくなりました。
それがある時、あなたをテレビで見てから引きこもりをやめました。急に運動まで始めて。しばらくすると声が出ました。唄っていました。そしてボイストレーニングに通いたいと言い出しました。引きこもりをやめたのが嬉しかった。声が出たのが嬉しかった。ピアノでなくてもいいと思いました。元気ならばそれでいいと思い、一流のトレーナーにも通わせました。そしたら。
「そっちでもセンスあるみたい。デビューしませんか?ってスカウトされました」冷めたお茶を手に取り一口すする。
「たまに唄ってたけどうまかったですからね」大神は昔を思い出した。
数学を教えていると、わかんなーいと机を離れベッドに寝転ぶ神楽耶。注意すると、少しだけ休憩と言って目を瞑る。寝てしまうぞと言うと、突然唄い出した。それは若さあふれる澄んだ声で伸びやかだった。流行りの曲だったが当人よりも情緒豊かに唄っていた。
うまいねと言うと、へへと神楽耶は照れた。カラオケ好きなんだよねと言ってからもう一曲唄った。もしかしたらあれもこっちの世界へ興味を持つきっかけのひとつだったのかもしれないなと大神はぼんやり思った。
「神楽耶の横でピアノを弾いてあげてください。お願いします。どんな形であれ、あの娘が音楽に関わっているのが嬉しい。親バカかもしれないけど、才能あるのよ」
大神は断れなかった。後ろめたさがあった。神楽耶を置いてこっちの世界へ来てしまったこと。嘉代子の期待を裏切ってしまったこと。そして神楽耶もこっちの世界へ招いてしまったこと。何より声が出なくなったということが衝撃であった。そこまで追い込んでしまったのかと。
十歳は一気に老けてしまった、この哀れな恩師の姿が忍びなかった。不義理の弟子に丁寧な言葉で深く頭を下げて額がテーブルについている姿を前に断る言葉は出なかった。神楽耶に対しても悪いことをしたという想いがあった。
「わかりました」大神は受諾した。ただし。
それでも精一杯の抵抗として条件を付けた。「ただし半年契約でお願いします」
嘉代子は渋った。だが大神もそこは譲れなかった。
最終的には嘉代子はそれで飲んだ。ただ、もう一つ条件を付けてきた。
「わかりました。でもヒナタさんには理由を言わずに離れてください」
すべて突っぱねてもよかったのかもしれない。でも大神にそれはできなかった。そしてそれをもししてしまったら大神のピアノの音色はきっと変わってしまうだろう。音楽は人となりが出る。自分が曲がってしまえば音も曲がる。最初に不義理をした償いをしなければと思った。だからその条件を飲んだ。
そしてお役御免となったのだ。
「ああ、ヤマビコも契約満了のはずだよ」大神が白い歯を見せる。
「うん」それは知ってる。彼女はプロだから事務所が持ってくる仕事を基本的には断らない。それだけに仕事も選ばない。すでに予約してある。
「おひさでござる」タイミングよくヤマビコが控室に入ってくる。
「ござる?」
「マイブームでござる」ヤマビコはにやりと笑う。
「っすはやめたの?」
「ブームはさるものでござる」ヤマビコは腕を組みながらうなずく。でも。人差し指を立てる。「でも、ブームはまた来ることもあるっす」
「お帰り」ヒナタはヤマビコに抱きついた。
「おっとっと」ヤマビコはよろける。「重いっす」
「なに」ヒナタは睨む。
それを見て大神が笑う。そんな大神を睨むヒナタ。それを笑うヤマビコ。そして。
そして、三人で笑う。いつ以来だろうか。年明けには笑って成功を祝ったのに。長い長い悠久の時のようだった。でも一年もたっていないのだ。いろいろあったなぁ。
「明日からでもさっそく一緒にやれる?」ヒナタは質問系ながら命令のように言う。
「もちろん」「っす」二人が答える。
そう言葉を交わした。すると大きな音でドアが開く。何かと思い三人の視線がドアへと集まる。そこにいたのは。
仁王立ちする神楽耶。十六歳のくせになんたる貫禄。
そうなるだろうとなかばヒナタは予想していた。憧れのお兄ちゃんを簡単に手放すはずがない。修羅場。
「お初にお目にかかりますわねヒナタさま」と殊勝に頭を下げて挨拶をする。
ヒナタも呼応するように立ち上がりお辞儀を返す。次の言葉を構えながら待つ。大神を返せとでも言うだろうか。ヤマビコは事務所の契約もあるしそこまでこだわらないだろうか。勝気なまなざしに、きつく結ばれた唇。強い意志のような空気をまとっている。修羅場をこんなテレビ局の楽屋で演じたくないなとヒナタは思った。それだけに神楽耶の一言に唖然とする。
「いえ」神楽耶は口を開く。そのまなざしは一層熱を帯びたように見える。
「ヒナタお姉さま」そう言うが早いか距離を一気に縮めヒナタの手を取る。取られた手を呆然とヒナタは見るしかできない。そんなことはおかまいなしに神楽耶の口は閉じることがなくなる。
「ヒナタお姉さまやっとお会いできました。私、神楽耶、今日のお姉さまのパフォーマンスにいたく感激しております」
一息だけ入れる。「素晴らしくて卒倒しそうになりましたわ。まさかの歌詞がない歌とは意外です。皆さま度肝を抜かれていました。楽器のようでもありましたが唄っていました。歌でした。そして演奏と混じり合い新しい音楽でした。物凄く私はイメージが広がって、空を飛ぶようにしました。季節を感じ、自然を感じ、命を感じました。美しさに涙しましたわ。ところで、あれは喉をどう使っていらしたのでしょう。高い音を、金切り声や裏声のようにさえ聴こえる音をあれだけ出すと喉を傷めないのかと心配でした」そう言って大量ののど飴を差し出してくる。こんなものは気休めにもなりませんねと苦笑しながら。なおも神楽耶は止まらない。
「私とお姉さまの最初の出会いはいつでしょうか。そうそう、大神くんが加わったときでしたわ。イロドリノオトですね」
くん付けで呼ぶのかと変なとこにヒナタの意識は行ったがよく動く神楽耶の口に視線は釘付けられたままだ。
「私、あれを聴いて震えました。大神くんがそっちいっちゃってふさぎ込んで引きこもりました。そして大神くんを連れて行ったことを恨みました。ショックだったんですね。声が出なくなってしまいました。自分の弱さに自分でがっかりしました。そんな時に、あの曲を聴いて。痺れて、夢中で画面に食いつき聴きました。そのうちに一緒に口ずさみました。気付くと声が出て唄っていたんです。歌って凄いですね。それで私もそっちに行きたいと思わされました。そして行動に移しました」
大神が呆然としている。「自分を追ってじゃなく、ヒナタに魅かれたのか。そしてヒナタの歌で声を取り戻した……」大神は思わず息が漏れた。口角が上がっている。
それをキッと睨む神楽耶。なおも独演は続く。なんだか心地よい歌のようである。
「それはうまくいきました。デビューもできました。ただ誤算がありました。本当にごめんなさい」そう言って深く頭を垂れる。そのまま土下座をしそうな雰囲気だったので、ヒナタがその前に頭をあげさせた。
目を熱い涙で潤ませた神楽耶が震える唇を開く。
「大神くんを奪うつもりはなかったのです。もちろんガミコちゃんも」
ヤマビコのことはガミコちゃん、なのだなと変に意識をもっていかれる。
「あれは母が独断でやったことです。いえ。大神くんと一緒に歌をやりたいと母に訴えたこともあります。でもそれはこんな形でなく、略奪のような形でなく、なのですが、その、うまく」さっきまでの勢いもなくなり伏し目がちに恐る恐ると告げる。本当に一緒にやりたいと思ったのはお姉さま、と言う声は消え入りそうだった。
「耳のことも後で知りました。休養は知っていましたがそんな大変なこととは知らずに……」ついに涙腺は決壊した。たまっていた雫は滝となり床を濡らす。
えんえんと泣き出す姿は十六歳よりももっと子供に見える。きっといろいろ張りつめて頑張っていたのだろう。それは大神を取り戻すためでなく。それがヒナタにはわかった。だから責める気などない。優しく微笑むと声をかける。
「いいのよ神楽耶ちゃん。今はちゃんと聴こえる。そして『クラシック』という曲にも巡り合えた。あのまま三人でやり続けていたらきっと天狗になり、曲は降りてこない、そっぽを向かれたよ。きっと」そう感じる。音楽とはそういうものだ。
「何より、神楽耶ちゃんこそ声が出なくて大変だったでしょ。回復して良かった。本当に」ヒナタは自分の耳のことを思った。郁也に助けられたことも思い出す。そして、自分の歌が少しでも神楽耶の役に立ったのだと思うと、胸が熱くなった。
神楽耶はヒナタを見る。そして大神を見る。二人はそっと頷く。笑顔が咲いた。すると。
バイオリンの音が優しく包む。
ヤマビコが目を閉じ奏でている。音量はわずかで囁くようだ。それは祝福の音楽だった。なんとなく丸く収まりみんなが笑顔になれたので祝福なのだろう。このさりげなくも温かいのがヤマビコのいいところだ。
「ありがとう」ヤマビコに向かって神楽耶がお礼を言う。
ヤマビコはにっこり笑って答える。
「次に仕事一緒にするときはギャラあげるようにうちの社長に言ってくださいっす。ヤマビコはいい仕事するって」
きょとんとしたあと、みんなで顔を見合わせて高らかに笑い声をあげる。
その笑い声はカルテットの演奏のように調和が取れていた。
いつかコラボでもしましょうねとヒナタは神楽耶と約束する。はい、と満面の笑顔で言い、大神にはバイバイと告げた。もう一人でやっていけるから大神くんはヒナタさんの隣にいてね。そこが一番輝いていたよ。あ、でも貸すだけですからねと、片目をつぶってヒナタに念を押した。貸すとか、僕はモノじゃないと大神は怒ったが、みんなただ笑っていた。
ヤマビコはお姉さまとの契約が切れたら考えてみる。ギャラのいいほうになびくでしょ?と神楽耶は笑って言った。ヤマビコはそれには答えずにただ笑った。
音楽はみんなを幸せにするものだなぁ。悩みもこじれたこともすべてどこかに行ってしまった。
神楽耶とはその年の年末のテレビ音楽特番内で共演を果たすことになる。神楽耶とのツインボーカルとして声と声の重なりが新たな魅力となった。音の重なりがはまったときの響きはなんて美しいのだろう。そして人それぞれの奏でる音は人の数だけある。そう考えると組み合わせは天文学的数字となり可能性は無限大だと言える。ヒナタは胸がワクワクでいっぱいとなった。時にはこういう共演もいいものだ。
常に新しいことをする神楽耶はヒナタに刺激を与え続ける良きライバルとなった。
それは音楽だけではないのかもしれない。
「クラシック」は、ヒナタの一年ぶりのシングルとしては発売されなかった。
大神とヤマビコと組んだバンドのファーストシングルとして発売される。
ピアノとバイオリンの加わったそれは初披露の比ではなく、音に重さがあった。音に深みが出た。それぞれがソロとして強い個性を持つ天才たち。その天才がぶつかることなく極上のハーモニーを見せた。その音は天からの贈り物であった。大地を震わせ大気を突き抜ける。聴くものが至福の時を感じられる至高の贈り物。
その後多くの歌詞が書かれ、多くの者が思い思いの歌を唄った。音楽は自由だ。
ただ楽しめばいい。ただただ楽しめ。
「クラシック」はMVも作ることになり、クラシックの本場のヨーロッパの空気の中で作りたいとわがままを言い、郷原もそれを認めてくれた。
そしてヨーロッパへと飛び立つ。
憧れの地へと降り立ったヒナタ。
おもむろに着信音が響く。画面を見ると見知らぬ番号。受けるか戸惑うが、何かの予感が働いた。「もしもし」
◇
桐谷社長はいやな予感もあり、日に一度は郁也の様子を見に来ている。
「郁也、大丈夫?」桐谷社長が食料を持って部屋に入って来た。こうなるのをどこかで予感していた桐谷社長が渋る郁也に社長命令とか言い出してなんとか合鍵を預かったのだ。
桐谷社長はそろそろと玄関から奥のリビングに向かう。薄く開いたドアからは、どす黒い空気の塊が這い出して来るようだ。開けてはいけない。怖い。桐谷社長は身震いをした。でも放ってはおけない。ゆっくりと手を突き出しドアを押しやる。
昼間だというのに雨戸まで締め切られているのかそこは真っ暗だ。テレビが音もなく点いている。その光でぼんやりと見える郁也。両手で抱きしめるように小さくなっている。
郁也は部屋で膝を抱え震えていた。額にはうっすらと汗をかいている。目は落ちくぼみ、風呂に入ることも忘れ何日も同じ格好のままだ。
ふと目が合う。ゾクリ。桐谷社長は一歩後退る。
「……社長。来ないほうがいい」郁也は力なく言う。
「でも」
「危ない。夢なのかうつつなのかわからない。寝てるのか起きているのかわからない。時々自分が誰かも忘れてるんです。そして。そして、女の首を絞めたいと何度も思うんです。白い細い首に親指をぐっと食い込ませたい。手のあとがはっきりつくほどにきつく。きつく。きつく」まばたきを忘れたように目を剥きぎらつかせている。無精ひげがいつもの爽やかさを消し去っている。
「知り合いの精神科医連れてくるわ」桐谷社長は伝手を辿りコネを作っておいた。必要にならないことを願っていたが。
「医者はいい。医者にかかっているのがばれたら仕事がなくなる」郁也ははっきりと言った。ラブとの最初で最後かもしれない共演のために精神をぎりぎり保っているように見える。だけど。
「そんなんじゃ始まるまではよくても、始まったらあの役だから」その先は言葉にならない。
オーディションでも演じたが、首を絞めるようなことにもなりかねないシーンはある。脚本には直接絞めるとは書かれていない。だがアドリブでそうなっても問題はない。あのオーディションでの鬼気迫る二人の演技を見たらむしろ自然とそうなったほうがいいとさえ周りは思っている。でも事故が起きかねないほどの精神状態だ。
「大丈夫ですよ」郁也は弱々しく笑う。「食べ物だけ置いておいてくれませんか」
「それはいいけど」桐谷社長は自分の腕を抱えるように組む。うすら寒い。
「初日までここを出ません。人に接しないでいればだんだん抜けていくんです。今までもそうでした」だから、今日はもう帰ってください。あまり話すとやばいです。視線に入ると手が伸びそうになります。匂いがすると嚙みつきそうになります。我慢するのも辛いんだ。分かっているのか―――。「早く出ていけ!」郁也は顔をかきむしりながら、唾をまき散らして叫ぶ。
桐谷社長は驚きで動きが止まる。一瞬遅れて危険を感じてすばやく出ていく。
リビングから出ていくときに体を捻ってもう一度だけ郁也を見た。ちょっと落ち着いた表情に見える。その視線はテレビを見ていた。音量はかなり絞ってあるが、静かになれば微かに流れているのがわかる。女の歌声がかすかに桐谷社長の耳に届いた。力強くドアを開けリビングを後にした。
桐谷社長は自分でどうにかできないかと考えたために、手を打つのが遅れた。
そのことを悔やんだ。しかし悔やむだけでは意味がないと行動に移す。迷惑かもしれないと躊躇していたが、そんなことも言っていられない。そう思い、一本の電話をする。
「よろしくお願いします」初日を迎えてスタッフみんなに挨拶をする。郁也の表情はぎりぎりの感じはないように見える。もしかしたら大丈夫なのだろうか。桐谷社長は半信半疑のまま見つめている。
桐谷社長が精神科医に頼み込んで初日の今日は来てもらっている。姿を見せると郁也に何か言われるかもしれないので、スタッフのようにしてもらって遠目に観察してもらうことにしてあった。
撮影は順調に進む。
序盤の盛り上がるシーンだ。ラブと郁也が出逢い、郁也がラブを攫う場面である。
二人の演技は、空気を大きく変えた。そこには現実と虚構の境が消えていた。
郁也はラブとすれ違う。それは一目惚れなのだろう。瞳孔が開く。頬が上気して赤みを帯びる。さっと振り向く。ラブは気にすることもなく歩いていく。風がかすかに髪を揺らした。長い髪が揺れる。
郁也の小鼻が動く。薫りが鼻腔を刺激する。目つきが変わる。
そこは夜の裏通り。電灯はあるが弱い明かりでしかない。人通りは少ない。そんな夜道を一人で歩くというのは女にも非があると事件になれば言われるような場所だろう。それでも家路であれば通る。近道であれば通る。今まで何も起きていない場所なら通る。案外人は自分は大丈夫と思うのだ。身近で事件が起きたとしても。むしろ他の誰かが事件に逢うことによって自分は大丈夫と確信するのかもしれない。生贄はすでに捧げられたのだから、と。
郁也はさっと周りを見渡す。人影はない。判断は早い。即座にラブを追いかける。距離を静かに素早くつめる。手にはスタンガンがすでにある。あの、と声をかける。爽やかに、犯罪とは無縁な声色で。『あの、すいません』
ラブは屈託ない顔で振り向く。何も警戒していないかのように。
振り向いた瞬間スタンガンは押し当てられる。軽く呻くラブ。だが完全に意識は途切れない。スタンガンは本物でなくただの小道具だ。意識が途切れそうな演技をしているだけだ。動きが止まれば拉致するには十分だ。近くに車がある。夢想していた。監禁することを。スタンガンはその夢想にリアリティを与えるため。犯罪に走るつもりはなかった。だけど、出逢ってしまった。その姿が郁也の何かを揺り動かした。そして薫りが覚醒させた。
どんなに手慣れた犯罪者でも、最初はある。その最初がうまくいくと何度も繰り返すのかもしれない。そして最初にうまくいくのは、才能なのだろうか。運なのだろうか。本能なのだろうか。
郁也は緊張しながらも確実に遂行した。自然と笑みが零れる。スタッフはその恍惚とした表情に恐れを抱く。
スタンガンで気を半ば失わせる。
そこで介抱するような形で車まで連れていく展開だ。ご都合主義にもなりがちな展開だが、そこは二人の演技力でカバーする。
うう。口から零れるようにうめき声をラブがあげる。郁也は少しあせる様子を見せる。目はおどおどと落ち着きがない。手が震える。しかし意を決したように唇を噛みしめると、目に光が宿る。まごつきながらも、なんとかそのまま連れていこうとする。はずだった。
だが。
郁也はラブの腹を殴った。ラブは、くの字に折れる。呼吸が止まる。「大人しくなった
……な。ふふ。今からお楽しみだぁああ」もう台本通りの台詞ではなくなっている。口から涎が滴る。
そんな場面ではない。桐谷社長は郁也を見た。郁也の目は鈍く光っている。
「やめさせて」桐谷社長は叫びそうになった。
だがラブがちらりと周りを見て制止させた。まだ続けるとその目は語った。
郁也が身をかがめてラブの意識を確認しようとする。ラブが何かささやいたようにも見える。
郁也は気を失ったラブを確認すると脚本通りに車に向かった。
そしてカットがかかる。安堵のため息が充満した。それでも気が気でなく二人の元に桐谷社長は駆け寄る。
「大丈夫?」こめかみを冷たい汗が落ちる。ラブは怪我していないだろうか?郁也は正気なのだろうか?桐谷社長の心臓は弾けそうだ。
「大丈夫よ」ラブはけろりと言う。けっこう緊迫した演技になったでしょ?と笑う。
「俺もなんとか」そう言った郁也は真っ青だ。額には粒の汗が無数に浮かぶ。桐谷社長は背筋が凍る。もう限界じゃないか。
郁也は、ポケットから何かを取り出す。携帯型の音楽プレーヤーだ。イヤホンを耳につけて、スイッチを押す。音楽が流れ始めると目をつむり少しだけ険が和らいだように見える。
「それが戻れるアイテム?」桐谷社長は願うように尋ねる。
「ええ、まぁ」完全ではないけど多少は戻ってきやすい。郁也はまた音楽に身を委ねる。
「ラブ、さっき郁也になにか言わなかった」囁いたように見えたことを桐谷社長は聞いてみた。
「ああ。唄ったのよ。一フレーズだけど。危なそうになったら唄ってくれと頼まれてたの。そんな馬鹿なとも思うけど、ちょっと試してみたかったし」お腹を撫でながらケラケラしている。
子守歌みたいなものよ。あれで赤ちゃんは安心できたりリラックスするんでしょう?音楽療法なんていうのもあるし。そうラブは付け足した。
「郁也。よくここまで来たね。あたし痺れている。魔王退治でレベルアップしてる。最後まで持たせろよ。これは始まりだ。終わりにするなよ」
「ああ」ラブにそう言われて郁也は少し表情が和らぐ。
その後も撮影は進んだ。小さい音楽プレーヤーにかかる重責はでかい。でもなんとかなりそうだという根拠のない穏やかな空気が満ちる。
だが、それは気の緩みという落とし穴でしかない。
そしてオーディションにもなった山場のシーン。脚本が書き直されたと告げられた。それは、もっと悲惨な修羅場になっていた。あのオーディションを受けて、もっと暴力的になった。そのほうがその後の生への慈しみのシーンが光ると考えたのだ。監督もそれを受け入れた。あの二人なら凄いものを見せてくれる。そういう期待が、郁也の危うさへの警戒を忘れさせた。
憑依した暴力は眠りから起こされた。
そして。
「――」声にならない雄たけびをあげる郁也。ラブを突き飛ばす。突き飛ばされながらもお腹をかばう。赤ちゃんがいるのだ。当然の演技だ。だが両手が腹にいくために頭は無防備になり、箪笥に直撃する。ぐったりするラブ。呻く声も出ずに気を失う。畳には染みが広がる。赤黒い染み。血が滴る。
女性スタッフの悲痛な悲鳴がこだまする。
スタッフが雪崩のように押し寄せる。だけどもそれに気づかないように郁也はラブに近寄り足を振り上げる。その爪先がラブの腹へとまっすぐにおりていく。
郁也の視線は定まらず虚ろだ。どこかぼんやりしている。ぶつぶつと独り言を囁く。俺の子だと?ふざけるな!殺してやる。産もうとする女もだ。バカな女だ。くそだ。死ね死ね。あ、口紅買いに行かなくちゃ。僕はウサ、ギだ。人間怖い。逃げなくちゃあああああああ。
女性スタッフの叫びがまた聞こえた。
爪先は、飛び込んでラブをかばった桐谷社長の背中に直撃する。苦悶の表情で転がされる。それでも桐谷社長は間一髪間に合い、間に体をねじ込んだのだ。男性スタッフが素早く郁也を取り押さえる。郁也はなおも抵抗する。
掴まれた腕を無造作に振り回す。両手にそれぞれ一人ずつ男性スタッフ押さえていたのだが、吹っ飛ばされる。意識を失い覚醒したかのような郁也は脳のリミッターが外れた。力が増す。男二人程度では抑えきれない。
怒号と悲鳴が響き、阿鼻叫喚の様相へと現場は変わる。地獄絵図のようになりかねない。
郁也は、桐谷社長の髪の毛を掴み、無理やりラブから引き離す。物を投げるように、後ろへ投げられた桐谷社長は頭を押さえる。郁也の手のひらには髪の毛が残る。
男性スタッフが数人集まり、一斉に飛びかかろうとする。しかし、それより一足早く郁也は、ラブににじり寄り、首に腕を回す。
薄ら笑いを浮かべると舌を出し、ラブの頬を舐める。目が完全に飛んでいる。
「ああ、終わった」桐谷社長は目に涕をためながらそう言った。
誰もがこの映画のお蔵入りを意識した。そして、郁也の未来が閉ざされる音を聞いた。
だが、それは未来へ続く音になる。その音はメロディーとなる。
いや、そんなわけがない。一同の動きが止まり、音の行方を捜す。
メロディーは歌となって聴こえてくる。
懐かしい歌。スタッフ含めてそこにいる者すべてが戸惑う。誰も聴いたことがない曲だ。だけど懐かしさを感じる。
誰もがどこかに故郷を持つ。故郷がなくても故郷への想いというものは無意識にも持つものだ。
どこから聴こえるのだろうと、桐谷社長はあたりを見回す。
誰かが唄っている。音楽プレーヤーとかではない。生歌だ。
♪僕の帰る場所は 君の待つこの街で
君の帰る場所は 僕の居たこの場所で
切実に唄い上げる声が夜の空に溶けていく。気温が下がり始めた時間だが、あたたかさを伴い包み込む。
♪僕が君を迎えるよ
君が戻れる場所になるよ
低音で太い声が響き渡る。アカペラなのにオーケストラのように力強い。そして伸びやかな声が空気を震わせる。その震えがみんなの緊張を解いていく。我を忘れた者たちが、我を取り戻す。
♪誰かが君を忘れても
この土地が君にさよならしても
僕が覚えてるよ 僕が抱きしめるよ
稚拙な歌詞なのかもしれない。それでもストレートに身に染みて溶け込む。柔らかい歌声に、あたたかいわかりやすい詞。それは熱い雫となりみんなの視界を滲ませた。人が戻る場所は、人のところだ。待っててくれる人がいる。産んでくれた人がいる。人は一人じゃないと思わせてくれる。
郁也は戸惑っている。それは、暗い場所で迷子になったように、どこへいけばいいのかもわからない状態のようだ。頭を抱え震えている。体を丸め自ている。打ち震える姿は雨に濡れた小動物のように小さく見えた。
暴力欲求は役の欲求なのか、郁也の欲求なのか。狂気に体が乗っ取られてしまったのか。それでも、歌声が聴こえると動きが止まり、郁也は何かと戦っているようにも見える。
郁也の闇を照らす、あたたかく包み込むような歌声が郁也を抱きしめたように桐谷社長は感じた。
自分のあるべき場所。戻るべき場所。灯台のように照らし、方向を示してくれる。そんな光。温もりのある優しき声。そうこの声は――。
「何やってんだ!馬鹿郁也!」
大きな声が轟く。声の方向を見る。間に合った。
周りのみんなもその台詞の発信源に注目する。
ヒナタ!
スタッフ一同は驚きながらも、今もっとも注目されるアーティストを間近にしたうれしさが混在している。さっきまでの異様な空気が和んでいく。歌の力を思い知る。想いの力を思い知る。
世界は暴力に満ちている。隣人を殺す。家族を殺す。殺伐とした想いが溢れている。
でも、もっと多くの優しさが本当はある。帰る場所がある。荒んだ心を癒す音がある。あたたかさが暴力を止める。惨劇を歌が抑制する。
言霊の力。それは迷信やただの信仰かもしれない。しかし、それを信じる人が増えれば、それは真に力になる。言霊をメロディーに乗せて。
郁也が頭を抱えながら身もだえる。雄たけびをあげる。苦しそうにするが、暴力の気配は消えていく。立っていられなくなり寝そべる。
桐谷社長は、声を合わせた。
うまくなくてもいい。想いを乗せて唄え。
そんな神の声を聞いた。
スタッフも一人、また一人と声を合わせる。
壮大なハーモニーは大きな音楽となり、大きな力となる。
戻ってこい。
郁也に呼びかけ、手を差し出す。
「僕が覚えてるよ 僕が抱きしめるよ」そう唄って郁也を抱きしめる者がいた。
その姿はマリア様が赤子を抱くように。
ラブだ。気が付いて、ヒナタの唄った歌詞を同じように唄ったのだ。
郁也の眉間が緩む。険がなくなる。穏やかな顔になる。
ラブが郁也の頭をなでる。髪を優しく撫でつける。郁也は、瞼を震わせた。そして、そっと目を開く。
「た、ただいま」郁也は囁くように言う。
「おかえり」ラブが答える。
わっと周りが湧く。帰って来たのだ。
ずっと聴いていたのはヒナタの曲だ。それを生で聴いてより直接脳を刺激したのかもしれない。そこにみんなの声が重なった。一人の力では足りなくても、力を合わせれば大きな力になる。最後の一押しはラブの想いの強さかもしれない。
「よかった。無理だと思っていたが、それでも頼んでみるものだ。ありがとう」桐谷社長は、ほっと胸をなで下ろした。
「なんでここに」郁也はラブに抱かれながらヒナタを見つめ戸惑っている。
「そこの社長さんに頼まれてね。なんとか時間作った。さっき成田についてここに直行よ」
MV撮影のために海外にいたのですぐには来れなかったのだ。撮影に間に合うかもぎりぎりだった。
「女の子は大切に扱うものよ。たとえ演技でも」そう言いながらラブに近づき頭に手を乗せる。慈しむように撫でる。
「本当に殴ったりしないで、そう見せるのが役者の力じゃないの?」本気の暴力を銀幕で観たいんじゃない。役者の演技を見たいんだよ。この前の舞台のような見えないものを、聴こえないものを、見せたり聴かせたりするようなものを。ヒナタは郁也を睨む。
郁也は項垂れた。「返す言葉もない」
憑依しすぎて帰れない。それは演技ではない。プロではない。
「まぁ何度でも私の歌で戻って来い。この歌を聴きたいと言ったろ。ちょっと有名になった頃に。ちょっと恥ずかしい詞だけど、私たちの始まりの歌でもある。初心にかえるってよく聞く言葉だけど、本当に大切だ。郁也は、我にかえるだけど。天狗になった時かと思ったけど、まさか頭がぶっとんだ時とはね」と言ってヒナタは高らかに笑った。
その突き抜けるような笑いはみんなの強張りをほぐした。
せっかくだからもう一曲唄っちゃおうか。リクエストある?なんて隣のスタッフにヒナタは声をかける。喜んでリクエストするスタッフ。
桐谷社長はそんなことしてていいのか?などと思うもつかの間ラブのことを思い出し、目を向ける。
「じゃあイロドリノオトを」ちゃっかりラブもねだっていた。
よく見ればラブは血は出ているが頭ではなく口を切ったものだ。幸い傷は深くはない。
これなら撮影中止にはならないかもしれない。ラブを見ると、ラブも続行を願っているように見える。
それが伝わったのか、「最後までやる。今のはただのじゃれ合い、ふざけ合いよ。みんなそうでしょ」とラブが殊更明るく言った。
桐谷社長は、縋るような目で監督を見た。郁也は、土下座するように深く頭を下げた。
「ラブの治療をしたら本番行く。少々おふざけがすぎた。ここから気合いれていく。覚悟しろ」監督がそう告げると、大きな歓声が起きた。
ラブの治療をする間、ヒナタのアカペラミニコンサートのようになり、撮影の疲労が見えていた撮影スタッフたちにいい休息になった。音楽は癒してくれる力がある。音楽はすごい。音楽の力はすごい。郁也は音楽に救われたのだ。
最後の歌が終わると、ヒナタは神妙な顔つきで言った。
「今日はうちの不肖な弟が迷惑かけました」ヒナタは頭を下げた。
さっきまでのコンサートさながらの喧騒が一瞬で消えた。驚きの表情が広まった。
「まいったな姉さんには」郁也は頭をかいて照れ臭そうにつぶやいた。
ヒナタが姉、郁也が弟。
郁也とヒナタはひとつ違いのきょうだいだ。
スタッフの半分以上は知らない事実だけに驚きの声があちこちであがる。ヒナタの父は売れてすぐに週刊誌にすっぱ抜かれた。だが、郁也は売れるのが少し遅かったのもあるうえに、ヒナタ以上に秘密にしていたので週刊誌もまだ記事にするまでに至っていなかった。もともと二世とは言っても俳優というのは、よほど売れないと記事にはならない。バラエティ番組にも郁也は出ていないので一般的知名度はまだまだでもある。生方姓であるのも功を奏している。それでも、芸能界にいれば、どこからか知る者はいる。ただそれを広めないだけで。
桐谷社長は、もちろんヒナタの父を知った時にわかっていた。郁也が隠したいので桐谷社長も隠してきたし、知っている者には口止めもお願いした。噂では郁也の父の盟友たちも隠すことに影ながら協力していたらしい。父の力を借りないと思っていたのが、本人の知らぬところで思わぬ形で力を借りているのがなんだか可笑しい。親の影響というのは少なからず受けるものだ。
二世きょうだいでは色物に見られかねない。父のことも未だに自分の口から公にしたことはない郁也だ。ヒナタのことはもっと言うことはないだろう。だが、それももう終わりだ。人の口に戸は立てられない。これだけの者が知ってしまえば、いずれどこからか漏れるだろう。何より、ラブとの共演で郁也の知名度は抜群に上がることは確実だ。それだけ凄い映画になると確信している。週刊誌の記事になるのはすぐそこのことだ。
でも、今や二人とも十分な実績を築き、業界での居場所はできた。実力も認められている。今なら隠すこともない。二世だからどうこうと言われることもない。きょうだいであっても。むしろ、きょうだいであることで優れた芸能一家であることが証明されたのかもしれない。
二人の父は俳優であり、歌手である。どちらも超一流。スーパースターだ。
ヒュウガ。アマネ。日向天音。
12
郁也の撮影が始まる少し前、ヒナタたちはMV撮影の話をしていた。
「どこに行きたい?」ヒナタは珈琲を手に取りふぅふぅと息を吹きかけながら尋ねる。猫舌なので淹れたては飲めない。
「うーん。やはり憧れはショパンのポーランドかな」大神が天井を見つめ考えるようにして言う。
「自分はどこでもいいっす。こだわりも憧れもないっす」ヤマビコはニコニコしている。
やっぱり三人集まると心浮き立つ。いつもの郷原のスタジオだけど、今まで一人だったのが二人加わるとこうも色めくのかとヒナタは思わず目がうるっとしてしまい、とっさにあらぬ方を見て零れぬようにした。
郷原にMV撮影のための渡欧を許してもらい行き先を話していたのだ。
そして「クラシック」のMV撮影にポーランドへと行くことが決まったが、日程は強行スケジュールでもあった。それでもヒナタは遠足に行くようなワクワク気分であった。しかしそれは長くは続かない。
ポーランドに着いた時、ヒナタのスマートフォンが鳴り響いた。
今は海外であってもこうやって携帯モバイルでやりとりができる。便利だけど窮屈な世の中になったものだ。見知らぬ番号に出るかどうか迷う。しかし、何か予感めいたものがあった。ヒナタは画面をタッチする。「もしもし」
誰からかわからないために緊張で声が少し震えた。向こうで息を飲むような気配を感じた。「もしもし、桐谷と申します」
まず急な電話を詫び、郁也の事務所の社長であると言われ、ヒナタはやっと落ち着いた。
しかし、すぐに胸は早鐘を打つ。郁也のことだ。
演技に入り込みすぎる体質であり、憑依と呼んでいるが、それが強すぎて現実との区別がつかなくなり精神が崩壊しそうだとのこと。現実に戻るのに好きなものや趣味などがあるとオンオフがしやすいので勧めたこと。そしてそれがどうやらヒナタの音楽を聴くことのようだ。そこで何か二人だけの特別な歌はないだろうか?あれば教えてほしいとのこと。
最後に、今本当にぎりぎりの状態だが、ラブとの初共演を勝ち取り喜んでいる。だからできればそれを邪魔はしたくない。でも今度の役も犯罪者役であり精神の崩壊しそうな役どころなので危険でもある。だからできれば直接一度会いに来てもらえないかというお願いであった。
もっと早く頼むべきだったけども、迷惑をかけたくない思いと、自分でどうにかしたいという思いで伸びてしまったことを桐谷社長は最後に詫びた。
ヒナタは、こっちに来てしまった以上すぐには行けない。それでも帰国次第駆けつけることを桐谷社長と約束した。
「大神、ヤマビコすまない。すぐ帰国する」頭を下げた。
「当たり前っす。海外はまた来ればいいだけっす」
「そうそう。次は世界ツアーででも来ようよ」
二人は屈託なく笑った。ヒナタはいつでも救われている。仲間とは多くを語らずもわかってくれる。もう一度来よう。大神の言うように世界ツアーで。それがモチベーションとなる。
MV撮影と共に、クラシック奏者との面会なども予定していたが、それはすべてキャンセルした。帰国便のチケットをすぐに手配する。急なこともあり、すぐに発てる便の席はない。それでもできるだけ早い便を取る。そしてキャンセル待ちもする。そのため空港から一歩も出ることはなかった。ポーランドはまた行ける。取り返しはつく。
しかし、世の中取り返しがつかないことはある。
今度はヒナタが郁也を助ける番だった。
そして本当にぎりぎりだった。
でもよかった。間に合って。
◇
年が明けたばかりの寒さ厳しい中、郁也は空港にいた。
搭乗案内のアナウンスが聞こえる。多くの人で溢れている。色とりどりのトランクケースがなんだか絵本のように思えた。場所が空港だからだろうか。ふわふわした気分になる。浮ついているのでなく地に足がつかない感じだ。
新たなステージへと旅立つことを決めたラブ。それをただ見送る。いや、雄姿を目に焼き付けるためかもしれない。忘れないために。いつか追いつくために。
ラブは魔王の娘というのを隠して仕事をしていた。業界内でも知るものは少なかったのだが週刊誌にすっぱ抜かれた。そしてその週刊誌は悪意を持って記事を書いた。
ラブの主演や賞などは魔王の息がかかっていると。住良木真緒の威光はそれほど大きいのだ。関係者の証言などもあったが、いつも思うがこの口の軽い関係者ってのはどういやつなのだろう。
もっとも多くの人はそんなのはありえないとわかっている。ラブの演技を観てコネだとか七光りの恩恵だと考えるような者は芝居を観る資格がない。
それでも、ラブはいいきっかけとばかりにかねがね考えていた渡米を前倒しにした。
「来てくれてありがとう」ラブは小さなショルダーバッグを肩からかける。
サングラスをかけているだけだが、髪はぼさぼさで服は地味だ。そのためか意外にも誰からも注目されない。主役をいくつもこなした女優とは思えない。オーラを消すことさえも自由なんだろうか。そして郁也自身も注目されないことにまだまだだなと思う。
「ああ」郁也は頷く。
「わざわざありがとうね」
「いや。無理に来たみたいでそっちのマネージャーとかに悪かったかな」
「事務所もやめてるからマネージャーもいないし、身一つだよ」ラブは屈託なく笑う。
ラブなら身一つ演技一つでなんとかするんじゃないかと思う。でもその反面そう甘くもないのではとも思う。そして。
そして嫉妬しているのを郁也は感じる。自分はまだまだ日本での地位さえないのに。主役にすらほとんどなれないのに。そういったもの全てをあっさり捨ててアメリカに行ってしまう。その野望の大きさ。行動力。そして大きな自信に嫉妬する。
「私よりも先に向こうへ挑戦して成功した人はすでにいる。だから怖くはない。誰かが作った道を通るのは簡単よ。だから私も誰かの道になれたらいいな。まぁその道を作った人はあなたのほうがよく知っているでしょう」
郁也はその人のことを思い浮かべる。そしてラブを見る。そうは言っても、単身で渡るのはまだまだ高い壁だ。それを選べるだけでもラブは凄い。
「そういえば、母さん俺たちが一人前になったから向こうに行くって準備始めたんだよな」
「向こうで会ったら挨拶しなきゃかな」
いや、いいよと郁也は照れながら言う。
少しの沈黙が二人の間を漂う。そして、「早くおいでよ」とラブはまっすぐに見つめてくる。
「えっ」郁也は言葉につまる。
「あんたも海を渡りなよ」
「……」
「自信ないの?」
「わからない。まずは日本でもっとやるべきこと、できることがある気がする」郁也は言葉を選びながら話す。「日本の作品で世界を驚かせたい」
「そっか。それもいいよね」ラブは時計をちらりと見る。
「とりあえずまずは日本で一番の役者になる。そして世界に通じる作品に参加する。国際映画祭で賞をもらう日本人監督もいるし、そういう人とも組んでみたい。それに」郁也もつられて時間を確認する。
「それに?」
「それに、役に乗っ取られることはもうないようにしなきゃ。憑依されるのでなく、憑依させる。あくまで自我を残せないと。君をもう傷つけたくない」
ラブは、薄く笑う。そうだね。「憑依は劇薬みたいなもの。使い方を間違えれば毒になる」そう言って俯く。でも。
「でも、使いこなせれば深みを持つ。陰影のある、人物造形ができる。もっと幅のある演技ができる」ラブは顔を上げると笑った。
「楽しみにしてるよ。もっと凄いものを見せてよ。まぁあたしはあたしのやり方で頂点を目指す。そしてあんたよりずっと先を行く。だからさ」
「だから?」
「ずっとあたしを追いかけてね」ラブの目が一筋、光ったように感じた。
「ああ」郁也は顔が火照るのを感じた。
「いい作品があればどこの国であろうとやるし、役をもらえるならどこの国にも行く。今の時代に国境なんて演技の世界にだってないよ」ラブは力強く宣言した。
「そうだよ。うん。そうだよ」
「また一緒にやろう」約束ねとラブは小指を出す。古臭い約束の形。妙にこういうところで昭和っぽさが出てくる。平成生まれなのに。
郁也は小指を絡める。ラブがハリセンボンノマスだのとわけのわからないおまじないのような呪いのような言葉を吐く。小指は赤い糸のある場所だから約束をする場所にもなるのだろうか。なんとも重い役目を抱く一番小さく細い指。
ラブがじゃあと手を挙げて背を向ける。それを見送る郁也。
ラブが止まる。ゆっくりと振り向く。どうしたんだろうと郁也は首を傾げる。
振り向いたラブは視線を落とす。その視線を追う。
握られた手と手。郁也は無意識に手を差し出していた。
視線を上げて見つめあう。
スローモーションのように手を引く。
はじけたようにラブの体が郁也に包まれる。
きつくお互いの体を抱く。言葉はない。涙もいらない。恋人でもない。今はただの役者二人。戦友だろうか。それともライバルだろうか。不確かな関係だが惹きつけ合う存在。今はそれでいい。
ほんの数秒の抱擁だった。だが長く長く感じられた。
「じゃあ、行くよ」ラブは言った。
「ああ頑張れよ」郁也は意識的に言った。
かつて投げかけた言葉。あの時は無意識に言って……。今は、今の郁也ならラブはどう思うのだろうか。
おもむろに胸倉を掴まれた。あっ、と思う。覚えていたんだなと嬉しくなる。
ぐいと引き寄せられラブの顔が目の前にくる。鼻に良い香りが漂う。郁也は声が出ない。出せなかった。塞がれた唇が熱を感じる。
離れたラブの唇が空気を震わせる。ば、か。それは優しい響きだった。
郁也は、かぁっと顔が紅くなる。
「お前も頑張れよ」ラブはこれ以上ないくらいの笑顔で言った。眩しい。
そして、あの時のように、拳を郁也の胸に当てる。熱い。何かが灯った。
出会ってから共演までの道のりを思い出す。昨日のことのように思い出す。そしてこれからの長い長い未来を想像する。
どこまでいけるだろうか。
郁也とラブは共演した映画で最優秀主演男優賞、最優秀主演女優賞をそれぞれ得る。その迫真の演技。自然な表情や豊かな表現力は辛口の批評家からも絶賛された。この若き天才二人で日本映画はまた変わると言われた。
圧巻だったのはラストの二人だけのシーン。
交互に二人の顔がアップになる。フレームには入りきれないほど寄る。肌のきめが見える距離。
目の動きで相手の動きを伝える。唇の震えや呼吸で感情を表現する。引きの映像の美しさが全編に渡って見られたが、最後では寄りでの映像である。
これはラブの提案でなされた演出だ。自分と郁也なら顔の表情だけで表現できると監督に直訴したのだ。郁也も応じた。
そして、瞳にうっすらと相手が映るという映像。この最後のシーンが話題にもなり、興行成績もその年の邦画トップであった。
ラブはもちろんメイクはなし。物語の内容的に過酷な状況下でもあるため、隈を作り、髪はぼさぼさの状態での演技であった。寄った映像で、涙をぼろぼろ零し、洟を垂らし、汗も滴る。女優でありながら外見をかなぐり捨てた姿はより神々しさをラブに与えた。美人で二世であるため、女性人気はいまひとつであったが、この演技により女性ファンは増えた。
郁也も瞳の中に狂気を宿しながら、優しさや人間味を取り戻したという目つきを作り出していた。無精ひげを生やし、頬はこけていた。同じように髪は手入れされず、肌は汚い。画面から匂ってきそうなほどのギリギリの雰囲気を醸し出していた。
二人がお互いを高め合うことで出来上がった。その姿に涙する観客が多く、会場によってはスタンディングオベーションも起こった。
郁也は空港の屋上で飛行機が飛び立つのを眺める。
地上ではゆっくりと動いているのに、空へ向かっていくときには一気に加速する。まばたきするほどの間に空へ吸い込まれ一筋の雲を残して消えていった。
郁也はその残像をいつまでも見ていた。ラブの残り香が漂ったように感じた。
天に手のひらを突き上げる。
「世界は大きい。でも。世界はすぐそこにある」突き上げた手をぐっと握りしめる。
13
年が明けると正式にヒナタは、大神、ヤマビコとバンドを結成することを発表した。
そのバンド名は、「カミナリ」と名付けた。雷、稲妻のように光を放ちながら大きなエネルギーを放ちたいという想い。そして、大神、ヤマビコという二人の神の音。神の鳴らす音。神鳴り。もう一つ、ヒナタもそんな二人の神に近づき、いつか神のように唄えるように。神に成りたい。神成り。
「カミナリ」としてのデビュー曲として、「クラシック」のシングルを発表し、週間チャート一位を記録する。
発表から一か月後に、ヒナタ、大神、ヤマビコ三名それぞれによる歌詞がついた曲をダウンロードできるようにした。それぞれの色を見せた歌詞が評判を呼び、CDの売り上げは発売一か月を経ても伸び続け、週間チャートでも一位に返り咲いた。その後にアルバムを出し、ヒナタのソロの時以上の売り上げを記録し、その年の賞という賞を得た。海外でも発売され、高い評価を得た。特に、「クラシック」は、楽曲の評価がかなり高く、オーケストラがコンサートで演奏することもしばしばあった。海外のアーティストも歌詞を書き唄った。著作権を放棄しているために売り上げなどの記録には残らないが、記憶に残るものであった。
年の暮れから始まったライブツアーでは武道館を始め大規模ホールでのものであったが、全ての公演でソルドアウトとなる。
その後は、楽曲発表のペースは緩やかになっていった。数枚のシングルと一枚のアルバムを出すに留まっている。バンドとしての活動はライブのみとなる。大きな目的をもって各々の活動に力を入れながら機を待つことにした。個々人のレベルアップ。そうした中で、地上波でのライブ生中継をして高視聴率をマークした。衛星放送でのライブは珍しくなくなったが、地上波では滅多にないことなので話題となった。常に新しいことを模索し、挑戦する。それが輝き続けるためには必要なのだろう。慢心はもっとも嫌う言葉である。
ヒナタはソロでの活動として、映画での総合音楽をしたり、他のアーティストとコラボしたり、楽曲提供をしたりとそれまでと違った仕事に力を入れた。デビューから突っ走っていたので少しの休息と変化を求めた。
大神やヤマビコもそれぞれでの活動をしていた。
大神はソロピアノアルバムを発売し、評判となる。ピアノアルバムとしては異例の売り上げを記録した。クラシック曲やポップスなどをアレンジしてピアノ演奏したものであり、大神作曲のオリジナルも何曲か入っている。演奏はもちろん作曲能力の高さも示した。音の多彩さや表現力が大きな評価を得る。爽やかな人柄も老婦人を中心に老若男女問わずに受け入れられた。
他のアーティストとのコラボも数多く経験した。どんな相手とでもバッキングとしてボーカルを立てる演奏は高い技術力と共に業界での高い評価となっている。ピアノコンサートツアーも行い大きな話題を呼んだ。
ヤマビコは、女性の琴奏者、三味線奏者、そこにボーカルとして神楽耶を迎えて女性バンド「カルテット・ザ・プ凛セス」を結成し活動をする。和装ドレスとでもいうような華美な着物地でのドレスという格好でありながら演奏はロックスタイル。実力のある四人で組んでいるので見た目とのギャップもウケている。楽曲は大いにヒットして音楽番組で見かけることも多かった。CM曲にもなったデビュー曲「恋煩い心中」は、歌詞の面白さと楽曲の良さもあり、年間一位の売り上げを記録した。神楽耶のボーカル力が高く評価されると共に、ヤマビコのバイオリンの評価も高かった。琴、三味線の和楽器独特の音色がうまく融合された楽曲は他にはない色を見せつけた。
ヒナタは二人のそれぞれでの活躍を嬉しく思った。自分以外と仕事をすることにもう心配することはなかった。二人との間には確かな絆があるとわかっていたから。二人がそれぞれに活動することで、新しい音楽を取り入れ、さらに大きくなることが「カミナリ」へと還元されるとわかっていたから。三人は離れていても目指す先は一緒であった。
最後のアルバムを発表してから数年後。ヒナタはデビューして十年を迎えた。
十周年ということで満を持して新しいアルバムを二人と共に出したいと思った。機も熟した。
大神の作曲力はすでに知っていたが、ソロでの活動をすることにより、さらに豊かな音で大きな物語を作るようになっていた。雄大な音に繊細な音を混ぜていく曲はさらに洗練されていた。作詞もセンスと育ちの良さを感じさせる。気品にあふれた優しい楽曲を作る。
そしてヤマビコも流石天才。「クラシック」で片鱗を見せていた作詞能力がさらに開花。なんとも摩訶不思議な世界観である。ヒナタには絶対書けないものばかりを出してくる。「カルテット・ザ・プ凛セス」でも作詞をしていただけに納得できる実力である。個性的でありながらも、ポップでキュート。そして時にコミカル。冗談をまじめにやってしまうヤマビコらしさを感じる楽曲ばかりだ。
今の、この三人でなら作れる。そう思えるだけの経験も積み重ねていた。
「――交響曲を作ろう」ヒナタは二人と「カミナリ」を結成した時にそう告げた。それから各々で曲を作り、時に集まって少しずつ形にしてきた。納得のいく曲が出来てきており、あとは完成させるだけのところまで来ていた。それを十年という節目にCDという形にする。
大きなテーマでアルバムを作りたい。そして交響曲という壮大な曲に仕上げたい。二人の卓越した演奏技術に表現力。それにオーケストラをプラスした上で、ヒナタが唄う。長い長い曲となるだろう。オーケストラとボーカルの共演。今までもしてきたことだが、交響曲を作り、そこに歌を乗せるのは初めてだ。新しいことをして、過去の自分を超えていく。他者との比較や超えるとかでない。超えるべきは過去の自分だ。留まるのでなく、先へと進む。それをアルバムにして世に問う。
そしてそれとは別にヒナタ名義でシングルを作りたいと思っている。その曲は憧れのシンガーソングライターに頼もうと思う。CDとして提供できなくてもいい。ただ、彼女と一緒に作りたい。ヒナタはただの唄い手として、彼女の曲を表現したいと思った。
「初めまして」ヒナタはガチガチに緊張している。
「初めまして。曲は聴いてるしテレビで姿も拝見している。やっと来たね。待っていたよ」すっと手を差し出してきた。
ヒナタは震える手で差し出された手を握る。両手で包みこむように。
微笑みながらぐっと手を握ってくる。熱が伝わる。手の主は神凪八朔だ。十五歳でデビューして三十年近いキャリアを持つ女性シンガーソングライター。ギターを鳴らす姿は当時はまだ珍しくギター女子を増やすカリスマとなった。独特な詞と高音低音を巧みに使いこなす歌い方。そして優れた自己演出能力。それゆえにプロデュース能力も高く、自分で歌うのと同じくらい楽曲提供をここ数年はしている。枯渇しない才能は、ヒナタたち天才から見ても別格の天才だ。三十年近く大きな休養を取ることなく、一線で曲を作り、発表しつづけている。十年続けて一人前ともいわれる世界。二十年も数少ないのに、三十年は尊敬の念しかない。
そして、日向天音の「色めいた世界」を作曲し、ギターを隣で弾いた憧れの人だ。
「どうぞ」椅子を勧めながら神凪も腰をかける。
神凪の仕事場に来ている。神凪が自分で建てたスタジオだ。ここで数々の名曲が作られた場所。そう思うだけで見蕩れてしまう。
「デビューして何年になる?」
「今年で十年目です」ヒナタは胸の高鳴りを感じる。
「そんなになるか」神凪は、深く息を吐く。
「ええ。十年やってやっと貴様、いや、あなたを訪ねる自信を得ました」
ははっと神凪は笑う。貴様と言う癖はヒナタを知るものは皆知るところなっていた。
「その癖まだ抜けないんだな。まぁそれはもう個性なんだろうね。そして十年か。十年続けるのは大変だろう?二世なら特に」
「はい。でも、父を誇りに思います。日向天音を超えたいと思ってこの世界を目指しました。今はそういう気持ちはないのですが。そしてこの世界に入った目的の一つとして、実の父を知る人を探していました。でも父は音源をあまり残せなかった。だから一緒に仕事をした人も少なくて。手がかりもないままに、探す余裕もなくなっていき日々は過ぎ、ここまで来てしまいました。だけど」
どこか熱を帯びた眼差しで神凪はじっとヒナタを見つめる。
「だけど、最後に仕事をしてたのが貴様だとわかりました。これも運命なんでしょうか。私は日向天音と共に演奏し唄う貴様に憧れました。いつか一緒にやりたいと思っていました。そして十年頑張れたなら一緒に音楽をやろうと頼むつもりでした。それがまさか……」
「どうして気付いたの?」
「父の遺品の中に、手帳がありました。中学生の時に渡されたのです。その時は戸惑いも大きくてちゃんと見れませんでした。それを去年久しぶりに見直したのです。そこに、貴様への感謝の言葉がありました」
「そう」神凪は目を伏せた。
「はっきり名前が書いてあったわけではないです」
「それでよくわかったね」
「はい。『色めいた世界』というフレーズがありました。それで」
「そう。あの歌は、あなたのお父さんに書いたもの。でも叶わなかった。それを私は天音さんに託したの」顔を上げヒナタを見つめた。
「そうだったんですね。それを父は、天音は知ってたんですか?」
「いや、言ってない。言えなかった。それでも、私の想いの強さが伝わったのか、あんなに素晴らしいものにしてくれた。つくづく凄い人だと思い知らされた」
「はい。あの歌は、本当に素晴らしい」
慈しむようなまなざしでヒナタを見ると、「いま時間ある?」と神凪はそっと言った。
「この後の予定はないので大丈夫ですけど……」
「ちょっと唄ってみて」
神凪はそう言うと奥に引っ込む。
ヒナタは突然のことに戸惑うけども、喉の調子を確かめる。
ギターを持って神凪が戻ってきた。
「聴きたい」と言いながら弦を調整している。「あなたがあの人の子であることを生の声で聴かせてほしい」
「はい。半端なものは聴かせられませんね」ヒナタの目が真剣になる。
一気に緊張感が増す。
じゃあアドリブでいいから自由に唄って。歌詞は適当でいいよ。ああ、あなたの最初の「クラシック」みたいに歌詞がなく唄う感じでもいいね。とにかくあなたの声を生で聴きたい。そしてわたしの音に乗せてほしい。そう言って神凪はギターを弾き始める。凝った音ではなくシンプルにきれいな音。メロディも心地よくすっと沁みてくる。
ヒナタは胸がいっぱいになる。憧れのアーティストのギターで唄う日が来るとは。大きな舞台でもCD録音するわけでもない。でも彼女のスタジオ、彼女のホームで唄うというのは感慨深くこみ上げるものがある。この想いを乗せて、父への想いも乗せて。今のヒナタのすべてを唄う。
目を閉じて神凪の音に身を委ねる。自然と口から音が零れる。するすると音が溢れていく。その声はどう届いただろうか。切なくもあたたかい。儚くも強い。傷を癒し希望を抱く。豊かな感情をヒナタの声は表現する。朗々と唄う様は、神々しい。音が光を描く。まばゆく全てを照らす。
名の通りに日向にいるような優しい温もり。凍える体を包むように太陽が照らす。恵みだ。命を照らし、命を育む光。全てを包む。
大地のように皆を支える。空のように皆を見守る。そういう大きさを感じさせる雄大な声。その響きは、胸にまっすぐに突き刺さる。その心地よさに人々はうっとりする。
ギターを肩から外して神凪が手を差し出す。「一緒にやりましょう。わたしに作らせてください」
「ありがとうございます。こちらが頼む側です。一緒にやってください」
神凪は顔を綻ばせる「音楽は楽しむものだ。父を超えるとか思わなくなってよかったね。そう思えればもっと自由に羽ばたける。もっと高みへ行ける」
ヒナタは神妙に頷く。「ええ、気付けてよかったです」
「いい顔だ」
「父は、私の実の父であるヒュウガシオンはどんなアーティストでした?」
ヒュウガシオン――日向詩音。ヒナタの実の父。
ヒナタは日向天音の養子である。天音は詩音の弟だ。ヒナタと郁也はいとこの関係であった。だが郁也が産まれた頃に、ヒナタの両親は事故で亡くなった。それで、弟の天音がヒナタを引き取ったのだ。
ヒナタが一歳の頃の話なのでずっと知らずに育った。天音をずっと父と思っていた。だが、プロの音楽家になると決め、「貴様より偉大な音楽家になる」と天音に告げた時に全てを話してくれた。動揺は大きかった。自分のアイディンティティが崩れそうになった。天音の血を継ぐものとして天音以上の音楽家を目指すのは大いなる夢であり野望でもあった。それが砂上の楼閣となろうとした。思春期の繊細な心は大きく揺れた。自信の源の一つは受け継がれた血だ。いまならそんなものはなんの根拠にもならないとわかる。それでもその時は若かった。己の才能を信じてはいても、なんの実績もないヒナタが縋ったのは父の血であり、名であった。だから天音が実の父でないと知った時、プロになれるのか意志も揺らいだ。
その不安を郁也に吐露したのが郁也に初めて曲を聴かせた時だ。その時に手を差し伸べてくれて、不器用ながらも背中を押してくれた。あれで迷いが消えた。ありがとう郁也。
そして、デビューする少し前に天音は一枚のCDを渡してくれた。
そこには一曲だけ詩音の歌が入っていた。それしか手元にないと言った。
だが、十分だった。
その歌声を聴いて、ヒナタは嗚咽を漏らした。記憶にもなかった父を感じた。そして、自分の才能を疑うことなく、確信を持てた。私は、詩音の子なのだ。天音の子なのだ。音の申し子なのだ。
その曲はデビューした野外フェスの本番直前に聴いていた曲。
詩音の声はヒナタの心に大きく響き、大きな音として鳴った。曲はあまり良くなかった。だけど、唄い手の才能は大いに感じられた。それで十分だった。売れているから凄いのではない。売れてないから凄くないのではない。それは才能だけの問題ではない。そこはそれほどヒナタにとって重要でない。
音楽は消費するだけの売り物ではないのだ。
父のコネを使うことはヒナタなりの天音への愛情の表現であった。もちろん大きなステージでデビューしたいというヒナタの願望もあった。そして天音の子だと週刊誌に暴露されたときにすぐに認めたのは、自分が注目を集めることで郁也の隠れ蓑になればと思ったからだ。それに実の父、詩音のことを隠したいという想いもあった。
天音が目標であることに変わりはなかった。そこに詩音も加わっただけである。
そして実の父のことを知りたいのも芸能界へ入る理由のひとつになった。才能は一曲聴くだけでわかった。でも足りないものがあったために詩音は売れていなかった。だから天音にもらったCDの一曲しか残せなかった。それでも音楽業界に入れば、誰か音源を持っているのではないかと思った。記憶にもない父ではあるが、同じ音楽家としてその歌を声をもっと聴きたかった。
残念ながら今のところ他の音源を入手できていない。それでも神凪さんが詩音と一緒に曲作りをしていたことを知った。
神凪が天音に映画主題歌を作り、その映画を見て主題歌を聴いたのが音楽家を目指すきっかけであった。その同じ頃に見たギターを鳴らす神凪が輝いて見えた。それから神凪の曲も聴きまくった。その楽曲がヒナタの礎にもなっている。尊敬する存在であり、目標でもある。その神凪が実の父、詩音の最後の仕事に関わっていたと知ったのは、宿命とさえ感じた。
「天音さんとは対照的に月のような人。自分だけで輝くわけではないのだけど、才能は疑いようがなかった。歌の才能は天音さん以上かもしれない。天性の声と歌唱力。男なのに、高音も伸びやかで滑らかに出せる。低音はもちろん力強い。音域が広いのね。そう、ヒナタさんあなたのように。でも、曲を作る才能は残念ながらなかった。だから誰かが、いい楽曲を提供できたならば、彼を照らせたのかもしれない。チャンスに恵まれなかった。チャンスがないと才能は埋もれてしまうこともある。それでも時間があれば天音さんに負けない名声を得たと思う。私がそうさせたかった。だけど。時が止まってしまった。レコーディングする前に事故に……」
ヒナタはただただ頷く。
「曲は完成しなかった。秘密裏に作っていただけに誰も知らない。だから、あなたが探そうとしてもわからなかったでしょう」
神凪は、何かを思い出すように天を見上げた。「私にとって深い傷で人に話せなかった。それでもあの曲を世に出したいとは思った。私のエゴだ」
ヒナタは神凪の想いを強く感じた。
神凪はヒナタに最高のものを提供すると約束してくれた。
「『色めいた世界』以上の楽曲を作る。それをあなたに唄ってほしい」神凪はそう言ってほほ笑んだ。
神凪プロデュースのシングル曲はアルバムに先駆けて発売された。
「クラシック」とは違った達成感がある。歌い手として最高のものを出せたとヒナタは思った。神凪の楽曲をどう読み取るか。深く深く潜るように読み込み、大きな想いを感じ、それを表現した。唄うことだけに集中したことによりヒナタのボーカルはより高みへと昇った。
その楽曲には神凪自らギタリストとして参加してくれた。神凪は演奏含めた自分の仕事に大きな手応えがあったように見えた。とても満足そうに、笑みが絶えなかった。そして、本当に楽しそうだった。
天才の共演。新旧歌姫の融合などとマスコミに持ち上げられたことも相まって年間チャート一位を獲得することになる。世間は新しいヒナタを見た。ただの唄い手としてのヒナタ。シンガーだけとなったヒナタ。それは詞や曲を含めてヒナタ色が強かった今までとは違い別の色を見せた。そしてヒナタ自身が音楽に対しての新しい刺激に大いに興奮し、大いに成長した。
メロディアスなギターが印象的な曲。切なく奏でられるイントロが素晴らしい。
詩音への想いを込めて唄われた。そうこれはヒナタと神凪が詩音に贈るレクイエムだ。
そして受け継がれた魂。
太い声で声量豊かに唄い出すボーカルは圧巻の出来栄えだ。
サビでの切ない歌詞は涙を誘い魂を揺さぶった。その切なさを千切れそうな細い声、でも強さを感じさせる声で表現しきったヒナタ。それは自分で書いた曲では出来ない入り込み方である。自分の曲では一歩間違えば想いが暴走してしまうこともある。入り込みすぎて唄えなくなることもある。想いは強く込めるだけではいけない。他者を介することにより出来た表現である。
育ててくれた天音への想いも込めた。記憶のない父への想いと合わさり、二人の偉大な父への想いが溢れた。魂で唄った。天より高く届け。海より深く潜れ。
いつだか郷原が、ヒナタには神様が集まると言った。神凪も神様だ。大神に、山の神のヤマビコ。神楽耶もそうだ。神楽坂輪舞なんてのもいる。アイドルグループではあるが、良い楽曲を提供されることも多く、加入脱退を繰り返す中に原石もいた。いつか本物になる日が来るかもしれない。そして郷原も。郷原は楽曲提供に回る前の売れない時代はバンドを組んでいた。バンド名は、ゴッデス――女神。
販売に関してスタッフから近年の流行りの特典を付けるか付けないかという話も出たが、楽曲だけでずっと勝負してきているヒナタは今回も特典なしでと決めた。それを当然と思っている。音楽家が音楽以外を売りにしたら誇りはどこへ行くのだ。ヒナタはタレントではない。音楽家だ。売るものは音楽。売れなきゃ廃業の覚悟を毎回思ってやっている。握手は売るものではない。機会があれば握手をしたりサインをしたりのファンサービスは必要だと思う。あくまでもサービスでありお礼だ。売り物にはしない。その矜持を持っている限り例え売れなくなっても音楽家を名乗り続けようとヒナタは思っている。特典がなくても心に響く楽曲であると自負する。
そして、シングルから一か月後にアルバムを発売した。このアルバムのタイトルは、シンプルに「交響曲」と名付けられた。そして世界中で発売された。これが、世界ツアーへの布石となるが、それはまた後の話。
アルバムはそれまでに発売されたシングルは一つも入ることはなく、すべてがアルバム用に作られた。
それはまさに交響曲と呼べるものであった。圧巻の音の世界。オープニングは三十分という、歌ものとしては異例の長さの曲。大作となった。
ヒナタの声の響きから始まる曲。豊かな声の鳴り。そして、神凪との楽曲で培われた表現力がここでも生きた。大神とヤマビコの作った曲に、ヒナタのイメージで入り込み、感情を込めた。それが、一味違った声色となり、音に重さが加わった。
ヤマビコのバイオリンが重なる。オーケストラがいるのにも関わらず、重音を使い多くの音を鳴らす。高低を自在に行き来する。時には速弾きの場面もあり、技術的に体力的にもかかる負担は大きい。だが、圧巻の内容で弾き切り、かつあたたかさと悲しさを備えた表現力には舌を巻く。
そしてヤマビコと交互に主役となる大神の大きなピアノ。圧倒する音の豊富さ。色の多彩さ。切れ味鋭く、息をするのを忘れさせるほどに音をぶつけてくる。CDでは見えないが、その両手の動きは嵐の日の柳のように、風に煽られながらも優雅に受け流すように左右へと滑らかに速やかに走る。ただ速いだけでなく優雅さを兼ね備えている演奏は神業と思える。大きな音の中に細やかな小さな音。小さくもはっきりと響く音を混ぜていく。その静謐な音は、ヤマビコの柔らかい音に静かに広がっていく。
バイオリンの柔らかく響く音色にピアノの硬さを感じさせる音色を混ぜていくフレーズは聴きどころである。
クラシック交響曲としても成立する豊かな広大な音だが、それだけで終わらず、的確に音を弱めボーカルを乗せていく。そのボーカルは、例えばピアノソロやバイオリンソロと言われるのと同じように、ボーカルソロと呼べるような周りの伴奏を力に変えてより大きい力として発揮する。その艶やかな声が、聴く者を高揚させる。
大サビとなる最後のフレーズでは、ピアノとバイオリンが異なるメロディーを奏でる。繊細にそして大胆に作られた二つのメロディーはメロディー同士のハーモニーとなり心地よく胸に沁みていく。さらに、ラップに近い歌い方で聴かせるというより演説するような歌をヒナタが合わせていく。二つのメロディーにメロディーを感じさせない歌。そして伴奏するフルオーケストラ。
混ざり合った音色は、聴く者によって色を変えるだろう。
見える景色は聴く者の数だけあるだろう。
宇宙を見る者。空を見る者。海を見る者。森を見る者。愛する人を見る者。亡き想い人を見る者。それはこの世界の多様性と同じだ。多様性を肯定する音楽。いろいろな人種が手を取り、一緒に唄うような世界を想い、唄った。
シングルでボーカリストの才を遺憾なく発揮し、稀有な存在感を示した。
アルバムではオーケストラの一員としてのボーカルも見せた。
音によって、主にも従にもなれるという面を見せたヒナタは間違いなく先へと進んでいた。
「神凪さんはベストアルバムって作らないのですか?もうかなりの曲数で要望もありそうですけど」
「作ってるよ。もう何枚も出してる」
「えっ。私全部アルバム買ってますけど……」
「ありがとう。全部ベストアルバムだよ」
「あっ」
「常にベストを出して作っている。すべてがベストアルバムだよ」
「はい。そうです。そうあるべきです」
「シングルを並べるのはアルバムじゃない。アルバムはそれ自体で物語なんだ。それを意識して作っている。長い長い物語。小説で言うなら、シングルは短編で、アルバムは長編なんだよ。それぞれのカラーがある。短編を長編に組み込むのは難しいだろう。短編集ってのもいいけど、長編ならもっと大きな物語を描ける」
「アルバムで一つの物語。それは私も意識しています。今度出すアルバムはそれがさらに鮮明かと思います」
「『交響曲』だね。クラシックが偉大なのは物語を長い曲に込めてるからだと私は思う。ポップスも昔の歌手がそうだったように、アルバムとしての物語を思い出さなきゃいけないんじゃないかな」
「はい」
音楽家はその音楽に価値がついてくる。
◇
ラブと共演後、ラブはアメリカに旅立ち、喪失感が郁也を襲った。でも、ここで後退するわけにはいかない。まだまだ凄い役者は大勢いる。そして、多くの監督と映画をやりたい。
「日本の作品で世界を驚かせたい」とラブに言ったことを一つの目標にしてやってきた。主役に拘ることはなく、面白い役であればちょっとした出番であってもやった。
ラブが旅立って五年後に、日韓共同制作映画の主演に抜擢された。その映画で国際映画祭の最優秀男優賞を得た。それは大きな自信となった。その映画は、少ない上映数ながらもアメリカでも公開された。ラブも観てくれたようで、一言、「日本もやるね」。
その後もいくつかの映画で主演を果たした。
そしてあまりやってこなかった連続ドラマでも主演をする。そのドラマは如月姉妹との久しぶりの仕事でもあった。
それは若手医師役であった。全然冴えなく神のごときオペもできない、平凡以下の医師役であり、それはいままで特殊な役をすることの多い郁也にとっては新鮮であった。
地味なドラマではあったが、脇を固める役者の演技と郁也の演技、丁寧な物語作りに、脚本、演出の良さに視聴者が反応した。いいものを丹念に丁寧にいい役者でやればまだ視聴率が取れる証明ともなった。平均で15%を記録した。
多くの役を演じ実績を積み上げ、それと共に憑依しても暴走しないようにコントロールできるようにも地道に訓練をして、ラブの時のような危機は二度と起きることはなくなった。
ラブは渡米してすぐは生活の変化に戸惑いそれが演技に影響したため苦戦したようだが、流ちょうな英語を幼少の頃に身に着けていたので言葉の壁はなかった。生活に慣れてくれば、あの演技力である。オーディションで次々に役を射止めていく。ドラマの脇役に始まり、レギュラー、そして主役へとステップアップする。そして実績を重ねる。渡米して三年後には映画にも出演を果たす。
郁也が、日韓共同制作映画で主演になった同時期に、ラブもアメリカで初主演を果たした。その後も順調に出演を積み上げていく。どの国でもラブは女王であった。
郁也はデビューして十年を迎え、押しも押されぬスター俳優となっていた。
ヒナタが神凪と共演を果たした頃、郁也は運命とも言える大きな役に巡り合う。
郁也が役者を目指すことになった父の主演映画を撮った監督からオファーが来たのだ。新作映画は、そのきっかけとなった映画の続編である。前作の主人公であった盗み屋の息子が主人公となる話だ。現実の親子が作中でも親子として演じるのだ。それだけに半端な演技や脚本だと、ただの話題性だけの映画として駄作にもなる。それは監督も承知しているはずだ。それをあえてやるのは、郁也の演技力を認めた証拠なのだろう。その監督は妥協は許さず、役者にも多くを求め、納得できない者は容赦なく撮影が始まってからでも変えてきた。しかも女性監督である。今でも珍しいが当時はもっと珍しく、しかも若かった。それだけ才能があるのだろう。
郁也はその監督と映画を作ってみたいと思っていた。それがこの映画であることを嬉しく思う。
初日の撮影現場は海である。冬の海は風が冷たく身が凍る。だけど、映画の現場の活気は寒さを消し飛ばす。郁也も高揚するのがわかる。
「おはようございます!」元気よく共演者の一人に挨拶をする。
「最初からうるさいね。年を取ると朝早いのも寒さも堪えるよ」魔王はそう言った。
魔王は前作でのヒロインだったので、続編にも登場する。そして、その役は初共演となった二人芝居の舞台の時と同じく母親役である。
「まさか、また母子役で再会するとは運命なのかね。実生活でもあんたの母になるかもしれないってのに……」ぶつくさと言いながら魔王はたき火のあるところへと歩いていく。
「な、なに言ってんすか。俺とラブは別にそんな……」郁也は慌てる。
足を止めて振り向くと、「見送り行ったんだろ?あの子に来るなと言われてね。寂しいやら巣立つことへの嬉しさやらをあの時は味わったよ。それからも連絡は取り合ってるみたいだし、会うこともあるんだろ?うちになんてろくに帰ってこないと言うのに」と魔王は零した。
「すいません」
「謝ることじゃないよ」顔つきが変わる。「その分、演技で返しておくれ。この映画の前作は日向さんとの大切な思い出なんだ。続編の話は昔にも出たけど、断ったんだ。でも」
「でも?」
「今回は相手があんただからOKした。もちろん監督もあんたの演技を評価したから続編をやる気になったのさ。舞台の時より成長した姿を期待するよ」そう言って魔王は今度こそたき火のところへ去っていった。
その後ろ姿を見ながら、熱い想いを抱いた。郁也にとっても、父の主演映画の続編での主演に燃えている。スタッフは皆、あの日向天音の息子ということで否応にも厳しく見るだろう。思い入れもある映画だ。すべての期待も重圧も力に変えてやる。そして、父とは違った魅力を届けよう。新たに決意する。
「おはよう郁也くん。よろしくね」監督が近寄って挨拶してくる。監督は脚本も兼ねている。気さくに向こうから声をかけてくれる監督は、国際映画賞も受賞している邦画最高峰の監督の一人だ。
「あ、おはようございます。今、挨拶に行こうと思ったとこなのに、わざわざありがとうございます」
「いいのいいの。演技で頑張ってね。二葉と三枝にいろいろ聞いてるよ。期待してるからね。楽しみだなぁ」どうやっていじめようと言って笑った。
「え、如月姉妹とお知り合いですか?」
きょとんとした顔で監督は言う。「知り合いも何も、知らないの?」
「何がです?」
「人間関係には興味ないのね。私の旧姓はキサラギよ」
キサラギ―――如月。如月!「まさか」
「そうまさか」にっこり笑って言う。「今はクジョウイチカ。よろしくね。二葉、三枝の姉よ」
九条一花。前作を撮った時にはすでに結婚して九条姓になっていたのだ。二葉と三枝の実の姉である。年は二人より一回りほど離れている。妹たちは姉に憧れて追うように映画に関わる道を選んだのだ。ここにも芸能で生きる家族がいる。
一花は普段はこうやって温厚で優しい人柄である。だが、撮影に入ると一変する。鬼の一花という異名は伊達ではない。魔王は一花と年もデビューも近く多くの作品を一緒に作ってきた。そこで演技力が培われたのはもちろんだが、演出なども肌身で学んでいた。それが、舞台での共演者への指導や罵倒となっているのだ。
「あの二人があなたにぞっこん。また一緒に仕事したいと言ってた。そして魔王との二人芝居見たよー。あれはよかったなぁ。魔王もね、あんなふうだけど、実は褒めてたんだよ」と耳打ちしてくる。
「だから今回は楽しみ。あの芝居以上を求めるからよろしくねー」
初日の撮影から、鬼と魔王の洗礼を浴びた。
「郁也、前より下手くそになってんぞ」魔王が声を飛ばす。
「郁也、がっかりだ。とりあえず海入って目覚まそうか。納得するまでテイク百回だってやるからな」鬼も声を飛ばす。スタッフに半ば本気で海に投げ入れるように指示をする。年を取り、昔より丸くなったという声も聞くが、昔はどれほどだったのだろう。
すいません、と慌てて謝りながらも郁也は嬉しくて顔がにやけてしまう。
父を知る、父と素晴らしい仕事をした人たちと今自分が一緒に仕事をする。なんて素晴らしい財産なんだろうか。二世って恵まれてるなぁと思うのはこういう時だ。親戚の子を叱るような優しさを感じてしまう。厳しくても愛を感じる。そして厳しいのは期待の裏返しであるのもよくわかる。だから嬉しくてたまらない。
親の名は隠して頑張っていたのが懐かしい。ただの虚勢でしかなかった。そうやって隠そうとするほど、父を意識しすぎていたんだ。自信のない裏返しであったのかもしれない。でも、そういうのを取り払ってみれば、なんて自由なんだろう。そして、父の歩いた道には多くの実がなっていた。それを摘み取ると新しい味を覚えて、より深いところまで潜れるようになった。誰しもが、先人の知恵や経験を参考にしてきているのだ。それが身内だろうが他人だろうが大差はない。生かすも生かさないも自分次第なんだ。
なんだかにやけてしまうなぁ。
そして。
そして、魔王に桐谷社長。厳しいこと言いながら甘いんだよなぁ。ラブもそうだ。なんだかんだ同じ血筋だから似た性格してる。自分も父に似ているところとかあるんだろうか。そう思いながら、魔王一族とでも言おうか、愛すべき彼女たちを想いにやけてしまう。
「てめえ、何にやけてんだ。おい海に投げ入れろ」鬼がスタッフに命令する。
「すいません。嬉しくて。でも、もう大丈夫です。自分もプロなんで。ここからはしっかり潜ります。だから海は勘弁」にやけた顔を真顔に戻して拝みながら郁也は言う。
そして、深呼吸を一つする。
鬼と魔王の表情が一変する。空気が変わったのがはっきりとわかる。周りのスタッフもさっきまでの冗談のようなやりとりからの違いを肌身に感じ、緊張感が漂う。
郁也は見事なまでに役に入った。以前のような、危うい憑依でなく、しっかりとコントロールできている憑依だ。
盗み屋の子はやはり盗み屋になっていた。続編はそういう脚本である。以前の郁也だと、本当に泥棒になってしまっただろう。きっとこの役はできなかった。でも、ヒナタの歌で自我を取り戻し、その歌でオンオフをできるように訓練したことにより、郁也は足枷が消えた。恐怖も消えた。どんな役にも、どれだけでも潜っていける。そして戻って来れる。
桐谷社長はその撮影を、細目に眺めている。郁也の苦労や努力をそばで見てきただけに満足そうな顔である。
魔王が、出番待ちの時に、桐谷社長の傍らに立つ。
「またやりたいんじゃないか?あんたにも出演依頼したと言ってたよ。断ったのかい?」魔王は郁也が演じるシーンを見ながら言った。
「未練はありました。でも、郁也が代わりになってくれました。だから私はもういいんです」桐谷社長も郁也を見つめている。
「私の夢を郁也が代わりに叶えてくれています。真緒さんとの舞台も、あの映画の続編もこうやって。私よりも可能性がでかい。それに」
「それに?」
「マネージメントがけっこう性に合ってるのかもしれません。楽しいんです。今度、郁也以外にも役者を応募しようと思います。事務所を大きくしたいんです。役者を護る盾になるためにも」そう言って静かにほほ笑んだ。その笑みは艶っぽくて、女優時代を思い出させる笑みだった。
「それも一つの生き方だね。それでもまたやりたくなったらいいな。あたしの舞台の端役くらい用意してやるよ」と言って魔王は大きく笑った。
その笑い声は思いがけず大きくて、カットーと監督が慌てて言った。
「本番中なんだからやめてください!」鬼が魔王を叱る。戦友の親しみを込めて。
「魔王、出番まで静かに待てないのか」郁也は臆することなくそう言い放った。
スタッフ一同ぎょっとする。
でも次の瞬間大きな笑いに包まれる。
いい雰囲気である。メリハリのある現場はいい映画を作るにはかかせない要素だ。緩んでもだめだし、張りつめすぎてもだめだ。ギスギスなんてしたらその時点で失敗作になるだろう。雰囲気を作るのは主演の役目でもある。郁也は経験を積むことにより、演技だけではない面も成長しているのだ。
「郁也はいい女と巡り合って成長したね。魅力があるんだろうよ。美緒、あんたもぞっこん骨抜きにされたクチだろ?まぁあたしも娘もだけどね。母性本能をくすぐるのか。厳しく当たりながらも、どこか甘やかしてもしまう。それでも、きっちり吸収して成長するから嬉しくなっちまうんだよ」
「そうですね。私も厳しいことを言いながらもどこか弟のように感じて甘やかしてしまう。でもそんな甘やかしなんて気付きもせずに郁也はどんどん大きくなっていく。想像を超えていく」
「あいつの周りにはいい女が自然と集まる。いい役者は女が作ると言ってもいい。過去の名優も今の年配の名優も皆、女に好かれた。人たらしであり、特に女たらしなんだよ。郁也が女の艶を引き出し、女の輝きが郁也を照らす。いつだって男の子を育てるのは、腹を痛めて子を産める女なんだよ。女優を味方にできた男は、いい役者になれる。しかも九条やその妹たちスタッフにまでも好かれてるんだ。未来は明るいね。そういうとこ父に似ているよ。緊張しやすいとことかね」まぁ天音さんほどの女たらしはまだ観た事ないけどね。そう言って魔王はまた高笑いする。
郁也始め監督やスタッフが呆れてまた魔王を見る。さすがにばつがわるそうに小さくなる魔王が少女のような笑顔で舌を出した。
その映画は、撮影が進むごとに凄味を増していく。それにより当初と脚本を変更していく。映画は生き物だ。役者と監督によって変化成長するものだ。後退的な意味での変更ももちろんある。しかし、この映画ではよりよくなるための進化である。
役者が想定を上回る演技をしたことで、もっと迫力あるものができるのだ。
最大の見せ場は、二人だけでの長回しのシーンだ。ワンカットのシーンというのは緊張感や臨場感がある。そして役者の力の見せどころでもある。二人のシーンは十分を超えるものだった。それはかつての伝説にもなっている郁也と魔王の二人芝居の舞台を思い出させた。
完成した映画は、その年に公開されるや大ヒットとなる。邦画歴代最高興行成績に迫る勢いである。音楽は前作と同じ、神凪八朔が担当した。高評価を得る。神凪自身が唄う主題歌はその年の年間トップ三に入る売り上げとなった。
郁也は、この年の最優秀主演男優賞を手にする。住良木真緒も最優秀主演女優賞を手にする。映画は作品賞、監督賞、音楽賞、脚本賞も受賞しての六冠となった。
多くの雑音を実力でねじ伏せていく。
役者の価値は、観る者にはしっかりと伝わるものだ。
エピローグ
夕陽に照らされた顔が二つ。影が伸びる。
二人は合わせていた手を離す。二人の視線の先にはお墓がある。
日向詩音とその妻の墓。ヒナタの実の両親の墓だ。
――お互い成功したらまたここに一緒に来よう
父を超えると誓い手を合わせた日が昨日のことのようだ。
何をもって成功と言うのかわからない。それでも二人ともデビューして十年の歳月を経た。
その間、多くの評価を積み重ね、実績としてきた。郁也は大きな映画に次々と出演を果たし、いくつかでは主演を張り、俳優として名誉ある大きな賞も得た。主演ドラマでも高視聴率を記録した。誰もが二世役者としてでなく、一人の俳優として見るようになっていた。
ヒナタもCDアルバム年間チャート一位に何度も立ち、年末の賞も得た。大みそかの一大音楽祭にも何度も出場を果たすようになり名実共にトップシンガーと言われるようになっていた。
ヒナタは墓参りに一人では一年に一度は来ていた。だが、二人で来るのはあの日以来だ。十年芸能界で生き残った。お互い代表作を産み出し、賞も得た。振り返れば歩いてきた道があった。次の十年のためにも、二人で行こうとどちらからともなく言って誓いを果たすことになった。今日はそれに相応しい日でもある。
「同じ世界でやってみてより分かる偉大さだよね。超えるとか超えないとか成功するとかに拘ることを無意味に思うようになった。もっと大切なものがある。二世だとかも関係なく、ステージにあがれば、実力が全てだった。まぁ実力で黙らせる気満々だったからコネを使えるだけ使った」そう言ってヒナタは笑う。
「芝居だけでもいっぱいいっぱいなのに音楽も芝居も両方っていうのは日向天音は我が親ながら化け物だよ。でも聴いてくれる人、観てくれる人に向き合うことが大切だと気付いた。超えるとか考えてやってる余裕もないんだよ。真剣にやるほどに雑念は消えていく。願わくば父のように、誰かを照らす太陽のようになりたい」郁也が決意ある眼差しで言う。
「でもあなたたちも私からしたら十分化け物よ。まだ若いのに」
「神凪さん一緒に来てくれてありがとうございます」ヒナタは神凪に頭を下げた。
「わたしも来たかったから。あなたを生んでくれてありがとうと言いたかった。そして詩音さんに会いに来たかった。かなりのショックで墓参りにずっと来れなかった。あなたに曲を作ることでやっとここに来れるという気持ちになった。ずいぶん時間かかっちゃったけど。こちらこそありがとうヒナタさん」神凪はゆっくりと頭を垂れた。そしてそれから空を見上げた。天にいるその人を思い出すように。
そうそう、と神凪は付け足した。「思い出したんだけど、詩音さんも、色が見えるって言ってたよ。確かヒナタさんも……」
それを聞いてヒナタは胸がじんわりと温かくなった。手を胸に当て服をぎゅっと掴む。唇を噛みしめて目を瞑った。
「私も来てよかったのかな」桐谷社長が言った。
「社長もありがとうございます」郁也は頭をさげる。
「詩音さんとは面識ないのよ。日向さんに兄がいたのは知っていたけど」
「役者としての日向天音はどうでしたか?社長にちゃんと聞いたことなかったですよね」
「今更だけど本当にすごい人よ日向さんは」桐谷社長は思い出すように言う。
「家庭人としてはいまいちでしたけど。変なことばかり言うし、親父ギャグはくそ寒かった。緊張感のかけらもない」そう言って郁也は苦笑いする。
「仕事場でも本番の声がかかるまでは冗談を言ったり呑気な面がけっこうあった。冗談を言ってたのは緊張を誤魔化していたのよ。日常や本番前ではできるだけ弛緩させて本番では張りつめるほどの緊張感を携えていた。自分は臆病だと言ってた。あんなに凄いのに本番前は素人と変わらない。それだけいつでも新鮮な気分で演じていたのかもしれないけど。それが本番になると、顔つきが変わるの。空気も変えた。共演者みんなが、すぐに出番がない人までが、肌に緊張の空気を感じて身が引き締まる。そして、その演技を見るのが本当に楽しい。演技だってことを、撮影現場で観てても忘れてしまう。その役の人が本当にそこにいるの。すぐそこの空間が、セットなのに、本物に見えるの。空間をすべて現実に変えるだけのオーラを日向さんが放っていた。その空間の中に入ると、役者はみんな本物に見えるの。ラブと一緒。いやそれ以上にすべてのレベルを押し上げてしまう。役者の神様みたいな人。そして君はその血を受け継いでいる。それは重圧にもなるけど、力にもなる。あなたもきっともっと凄い役者になるわ」
郁也は神妙に言う。「超えるとか評価は気にしてもしかたない。僕は僕の最高の演技を常に見せることだけを考えます。どんな役でも、手を抜かない。役に大小なんてないんだ。台詞もない役、一言だけの役、小さい役でも大切な経験です。あれがあったから曲がりなりにも主演もできる。そう思います」
桐谷社長は嬉しそうに頷く。「日向さんと一緒に仕事できて嬉しかった。私の短い女優人生でそれが本当に宝物。しかも、魔王も一緒。小さい時から魔王――真緒おばさんに憧れていた。綺麗で、妖艶で、年齢を作品ごとに変えれるほど仕草とかリアルで。あの二人とやれたなんて今思うと本当に贅沢な時間よね」
「あの映画が私と郁也のスタートです」ヒナタが言い添える。
「嬉しいなぁ。もう何年になるのかしら。最高の演技で最高の主題歌で、そして最高の映画だった」神凪が笑顔で言う。
「郁也も私もデビューした頃は超えることにこだわりすぎていました。ちょっと肩に力が入っていたかも。若さゆえってことにしておきましょう」ヒナタは自嘲気味に小さく笑った。
「人は比べたがるし、名声や評価なんてものも欲しがる。悪いとは言わないが、それは本質とは違う。誰のために唄うのか。誰のために演じるのか。それがわかってきたんじゃない?だから超えるとかどうでもよくなったでしょ」神凪は、唄うようにそう言った。自分にも言い聞かせるように。
ヒナタと郁也は静かに頷く。
いつかのように、手のひらを太陽にかざす。太陽はあの時と変わらずに照らしてくれる。二人の人生を照らしてくれている。みんなと同じように。平等に照らしてくれている。
さて、と神凪は言ってギターケースから愛用のギターを取り出す。ブルースハープをホルダーで首に固定する。
ヒナタは黙って頷く。郁也と桐谷社長は特等席での観客となる。
「聴いてください私たちの歌を」ヒナタは、墓に向かって言う。詩音に向かって言う。
いつか、ここに郁也とまた来れた時には両親に聴いてもらいたかったのだ。そして、神凪もその気持ちを持っていたことを知った。だから、ここに一緒に来てもらったのだ。
「聴いてください。『色めいた世界』」神凪がそっと告げる。
ブルースハープの広い音域を使って奏でる音はメロディアスだ。やや高い音が鳥の心地よい鳴き声のように聴こえてくる。ビブラートをさせて変化をつけていく。ベンドで半音下げてブルーノートを使いブルージーな楽曲にしてある。朗々と唄い上げる日向天音に合う楽曲となっている。女性の神凪が唄うとまた別の趣となる。
ギターを重ねていき印象に残るイントロとなるブルースハープから口を離す。離れた口から声が放たれる。ギターの音色に声を乗せていく。神凪自身の音域も広いのでブルースハープとの相性もいい。多彩な音が踊っているように聴くものの耳を喜ばせる。音はこうも色とりどりの表現をできるのだと聴く者を圧倒する。
ヒナタは、神凪に声を重ねて美しいハーモニーを奏でる。ヒナタは「色めいた世界」を聴いた時、心から痺れて頭が麻痺したのを今でもはっきり思い出す。そしてそれを超えるものを作りたいと思った。そして大神の力を借りて作った「イロドリノオト」はこの楽曲への挑戦でもあったのだ。
ブルースハープは音域が広く、表現力も豊かだ。呼吸によって音を変え、高さを変える。メロディアスにもできるし、破裂音のようにしてリズミカルにまるでドラムのようにもできる。そのサイズを大きく超えたポテンシャル。そしてそれを簡単そうに演奏する神凪の技術の高さ、表現力。郁也と桐谷社長は思わずため息をもらす。
神凪の歌声も素晴らしい。天音の低い声で唄うのとは違った色を見せてくれる。神凪の高音を巧みに織り交ぜる歌声は澄んだ空気を作り出し、冬の山の中の空気のような透明感を醸し出す。そんな美しい自然で鳥が奏でる音楽。それは歌の女神のようにさえ感じた。聴く者の胸を熱くする。
「色めいた世界」は、人はそれぞれの色を持つことを唄った楽曲だ。色の違いを楽しみ、個性としてお互いを尊重したらいい。声を出せばみんな違った音を奏でる。それぞれに響きが違う。違うからこそハーモニーが産まれ美しく奏でることができる。そんな曲だ。
だからこそ、天音と違う声で神凪が唄うことが深い意味を持つ。
最後の音色が空に消えていく。
「聴いてくれてありがとうございます。この曲をあなたへ」神凪は震える声で言った。
そしてヒナタがちらりと視線を横に向けた先には二人の影。
大神とヤマビコも来ている。歌を聴かせたいので協力を頼んだのだ。そして父を紹介したかった。否も応もなくついてきてくれた。
「お父さん。聴いてください。『イロドリオト』」
ヤマビコのバイオリンが鳴る。この時のために新たにアレンジをしたのだ。天まで届くような響きが身を引き締める。
ピアノは持ってこれないので、大神はアコーディオンでの演奏である。アコーディオンの優しい音色がバイオリンと混じり、なんとも心地よく共鳴する。
オリジナルよりもスローテンポな曲調になっている。それは、懐かしさを感じさせる。古き良き時代の曲。古典とも呼べるような、ずっと受け継がれてきた童謡のようでもある。夕陽に照らされ、風に乗って流れる調べが、全てを包み込む。
父への想いが溢れる。唄いながらヒナタは一筋の涙を流す。夕陽に照らされたそれは一瞬、煌めいた。
涙をぽろぽろと零す郁也がいた。感受性の強い郁也は昔から良い楽曲を聴くと感情が揺さぶられるのだ。そして、ヒナタの父は、郁也の見ることのなかった叔父でもある。何か感じ入るものがあるのかもしれない。
音楽は尊い。音だけでここまで人は多くを表現して魅せるのだ。
最後の一音が鳴らされ、やがて消えていく。静寂が訪れる。誰も音を発することができない。音を発するとこの素晴らしい余韻が壊れるとでも言うように息さえ止めている。
ヒナタと郁也を多くの出逢いがここまで連れてきた。父を超えるとかでなく、もっと大切なものに気付けた。
そしてその出逢いを力にして、経験を積み実績を残してきた。日向天音の盟友たちと仕事をともにする。郷原、魔王。桐谷社長、そして神凪。かかせない仲間やライバルも力となった。ラブ、如月姉妹、大神、ヤマビコ、神楽耶。
超えるのではなく繋ぐ。繋いでいく。繋ぐことでできるものもある。比較するなんて意味がないことだ。それぞれの色を見せればいい。それぞれの音を鳴らせばいい。
すべての命に色と音がある。
歌舞伎などの伝統芸能の襲名のように、名を繋ぐ。名に重みを与える。重みを力にする。そして素晴らしいモノを残す。二世三世と繋いでいく。連綿と繋がる血や名は時に大きな力となる。
恥じることなく、二世三世と名乗ろう。親の偉大さを受け入れよう。そして自分は自分なのだと覚悟をして自分のできることをする。それでいい。それしかできない。誰しもが誰かの二世なのだ。
ヒトは見えない親の期待などに怯えて幼少期を過ごすのかもしれない。誰の子も可能性は無限なのだ。一般家庭でも芸能家庭でも。そしてすべての子が親の二世なのだ。祖父母の三世なのだ。
ヒトという種は弱い生き物である。だから群れをなし、血を繋いでいく。血が繋げなくても名を継いでいく。何かを残すために。何かを託すために。家族を作り仲間を作り、そこに絆を繋いでいく。そういった繋がれたものが、大きな力となっていく。
自分たちの居場所は自分たちで守るのだ。
親は子を守り、子はいつしか親となり、また子を守る。
命は続く。
今日もどこかで二世が産声を上げている。
今日もどこかで誰かが名を受け継いでる。
「それではそろそろ、会見にいきましょうか」誰ともなくそう言った。
◇
「それでは来年公開予定の舞台製作発表記者会見を始めます」
壇上には長机があり、そこに監督やスタッフ、出演俳優が十人ほど並ぶ。
「今日はお集りいただきありがとうございます。この度素晴らしいメンバーでやれることになりました」監督があいさつをする。
まずは監督からして驚きだ。
住良木真緒。魔王。初の監督作品。挑戦的な舞台だ。
「まぁあたしの人望ゆえのこのメンツでしょう。どう料理しようか楽しみだね。期待してくれていいよ。出演もするから老体には辛いけど、その分は若いのにはたくさん動いてもらうつもり」
そして魔王の隣にはもう一人の監督たる鬼。
「初監督で不安だからと泣きつかれたので助監督としてサポートすることになった九条です」一花が魔王を馬鹿にするように言う。
「何言ってんだい。こんな凄いものはタダでいいから手伝わせてくださいと言ったのはお前だろうが」魔王が負けじと言う。
会場は笑いが起きて和やかな雰囲気である。
「えー私は本当にファンのような気持ちでボランティアでいいのでと頼んでここにいます」
二葉が続いて言葉を発した。二葉も助監督として参加する。
「私もそれに近いけど、死ぬ気でホン書きます」三枝が脚本を務める。郁也と仕事をしたあと二人も郁也に負けないほどに大きな仕事、成果を上げて姉一花に並ぶような名声を得ていた。
姉妹だけにぶつかることもあるだろうが、それでも姉妹だけに名前の売れてる者同士でもうまくやるだろう。
続いて俳優の挨拶となる。監督の隣から挨拶を始める。
マイクを握り喉を鳴らしてから声を出す。
「主演を務める日向郁也です。日向郁也最初の作品がこの素晴らしい舞台であることを誇りに思います」郁也は母方の生方姓から父の日向姓へ芸名をこの日から変えた。
日向の名に押しつぶされるなよ、と魔王の突っ込みが入る。大丈夫ですよ。これは絶対に素晴らしいものになります。します。そう郁也は断言した。魔王には頭が上がらないのでお手柔らかにとお願いして、次の人にマイクを渡した。
「同じく主演のスメラギラブです。同じく私もラブから住良木愛と変えて日本再デビューです。アメリカを中心に活動してきましたが、今回この作品の話をいただき帰国することを決めました。この凄いメンツでやれるのは最後かもしれないと、ハリウッドからのオファーを全て蹴ってきました。だからこれがこけたらいい笑い者です。そうならないようにみなさんお願いします」そう言ってラブは壇上のみんなを睨みつけた。
「母、魔王とやるなんて最初で最後かもしれませんので緊張と楽しみでいっぱいです。また一緒にやれるように、お客さんいっぱいにするために精一杯宣伝してください」会場に笑いが起きる。いい雰囲気だ。
郁也とラブは目が合うと目だけで笑みを交わす。ラブが渡米してから始めての共演。しかもW主演だ。
「これも縁だ。あたしは我が子と一緒にやるのは最初で最後にしたい気もするが、親の威厳を示すいい機会だよ。ハリウッドだかなんだか知らないがそんなものに負けるつもりはないし、お手並み拝見だね。行く前より下手になってるかもしれないし。その時は主演チェンジだね」魔王が横から茶々を入れる。貫禄十分に言い放つ。まばたきせずに記者を見つめたままの姿に空気が締まる。
魔王に気圧されたように恐る恐る西園寺みずほがマイクを握る。すっと一息吐くと凛々しい顔になる。西園寺みずほは郁也との共演での鬼気迫る演技から化けた。今や演技派として名を成すようになった。郁也とはあれ以来の共演である。
「みんなで作るのに勝ち負けとかないと思いますが、でも私も負けず嫌いなので、この錚々たる俳優陣にも負けません。主演を食ってやるつもりで臨みます」
皆が主演を張れるような豪華メンバーだ。個性がぶつかり合い駄作となる可能性もある。でも、このメンバーは個性を生かしながら相手のレベルを引き上げていくことができる。そしてそれがうまく調和をとり作品のレベルもあげる。ものすごいものができることを予感した。鳥肌が立つ。
桐谷社長も記者席の後ろから壇上を見つめている。郁也の成功から桐谷エージェンシーとして業務拡張をして、ほかにも役者を数名抱えるようになった。そして今回の舞台では、魔王が社長である住良木プロとの共同主催として初めて興行を手掛けることになる。共同ではあるものの零細企業の桐谷プロにとって失敗=倒産なので祈る気持ちでこの会見を見ていた。
「最後になりましたが、音楽監督をさせてもらうヒナタです」丁寧に頭を下げる。
ヒナタ=日向=ヒュウガだ。ヒナタはヒュウガを意識した芸名である。
「弟の主演作で音楽をやらせてもらえるのは至極光栄です。そして今回は挑戦でもあります。舞台とコンサートの融合というのでしょうか」
ヒナタがまっすぐに見つめた視線の先には大神とヤマビコが記者の後ろで見守っている。大神が頷く。ヒナタは目だけで応える。そして神凪も袖から見ている。
大神とヤマビコは奏者としての出演が当然ながら決まっている。神凪は奏者としての出演はないが、楽曲製作は一緒にすることになっている。この四人ですべての曲を作る。
本番では有名交響楽団も一緒に演奏をすることになる。生で聴くその音は、舞台を彩り、観客に大きな感動を与えることだろう。
「舞台で芝居をしながら生音で音楽を合わせていく。それはオーケストラであったり、歌であったりします。ドラマのいい場面で主題歌が流れるように生歌を入れたりします。芝居も歌もライブでの臨場感、緊張感は最高の感動を味わえます。それを同時に体験してほしい。生ゆえのアクシデントもあるかもしれませんが、それさえも楽しみたいですね。最高の音楽を提供します」
おお、と静かな歓声が記者席を埋める。
ミュージカルのように出演者が唄うわけではなく、オーケストラと歌手が舞台とは別の場所にいて、芝居に合わせてバックミュージックを演奏し、時には芝居よりも前に出てコンサート会場のように音楽を奏でる。芝居と音楽。両者は共存している。それを生の舞台でも共存させたい。そう考えた結果の融合。どちらか一方をやるのでも準備は大変だが、一緒にやるとなると練習や準備にどれだけかかるかもわからないし、本当に見世物として納得できるだけのものになるのか未知で不安は多い。採算度外視。そういう言葉が飛び交った。それでも、出演者はギャラを削ってもやりたいと声を揃えた。
*
芸術文化がただの消耗品であってはならない。
拝金主義になってもいけない。
そういう想いが、いい物を作りたいという想いが、このメンバーを集めた。目先の利益でない大きなものを得ることができるのではないか。皆がそういう想いを抱いている。
最高の報酬は、観客の笑顔、拍手であるということも知っているのだ。
不安はあれども、このメンバーを見たら期待しかない。この舞台はきっと後世に残る。残して見せる。スタッフ含めすべての者が力強くそう考えている。理想を掲げなければ、理想に近づくことさえできないのだ。
笑われることを恐れない者だけが、大きなものを手にすることができる。
批判なんてものは、形を変えた賞賛と思え。
それさえも力に変え、より良いものを作り出す。それができる者だけが長く人前に立ち続けるのだろう。
芸に生きる者は、もしかしたら羊のようなものかもしれない。世間の娯楽のための生贄だ。でも、それでいい。
芸をする側も楽しいのだ。芸をするのも娯楽なのだ。見返りは大きな拍手、満面の笑顔、賞賛の声。そう思うと、むしろ観客こそ我々芸能人の生贄なのかもしれない。思わず笑いが零れた。そろそろ呼ばれるはずだ。ワクワクする。
「えー最後にサプライズを」魔王が少し震えた声で言った。
共演者もスタッフも皆、知らなかったようで戸惑いの表情を浮かべている。本当にすべての人へのサプライズなのだ。その声を聴いて緊張した。
袖から一人の人物が入ってきた。絶句した顔が広がり、そのあと驚きの波が広がった。
楽しみしかない。アメリカでそれなりの成功を収めた。子をほったらかしにして。その償いではないが、これからは日本でもできるだけ仕事をして、父の背中を見せよう。
「これが俺の日本復帰第一作かな」日向天音のスターの笑顔が咲いていた。
完