羊たちの邂逅2
6
全国ツアーを大成功で終えた。世間は年越しに向けて慌ただしい季節。師走も半ばを過ぎた頃、今後の予定の話を兼ねて郷原のスタジオに集まった。メンバーやスタッフ全員での打ち上げはしていたが、改めて大神、ヤマビコと打ち上げをしたかったヒナタの希望で二人も呼んだ。
「まずは大成功おめでとう。乾杯しよう」郷原はそう言うと、奥からシャンパンとグラスを持ってきた。まだ昼間ではあるけど、祝杯に時間は関係ない。ただヒナタはまだ未成年だ。別に誰に見られるわけでもないが律儀にジュースで共に杯を上げる。カンパイ。
「みんなかっこよかったなー」郷原がため息とげっぷをまぜた息を吐く。みんながしかめ面になるが、気にしていない。何事も豪快でおおざっぱなのだ。細かいことは気にしないし、周りにも遠慮しない。それが生き残れた秘訣だよと語ったことがあったなとヒナタは一人そっと笑った。
「大神くんも山賀くんも一気に知名度上がったでしょ。インパクトでかいもの」
大神は、いえいえと謙遜しながら照れ臭そうにする。そっすかねーと他人事のように流すヤマビコ。人柄がよく出ている。
「二人がいたからこの成功がある。ありがとう」ヒナタも礼を述べる。ここにはいないがベースとドラムの二人にも感謝している。縁の下の力持ちだった。あのベテラン二人がいたから自分たちは好きにやれたとも思う。誰が欠けてもこの結果はなかったと確信している。
「山賀くんの恰好は自分で考えたんでしょ?」郷原は杯を一気に干して、煙草に火をつけてから尋ねる。
「そっすね。ああいうの好きなんすよ」飄々と答える。そっと郷原から距離を取る。煙が嫌いなのだとか。長髪ににおいがつくのをことさら嫌がるが、吸わないでくださいとは一度も言ったことがない。
大神は灰皿をそっと郷原の近くに移動する。
スッと伸びるようにしてバイオリンを奏で、踊るように優雅に体を揺するヤマビコ。音が天を突き刺す。すらりとした体型に黒髪ロングをなびかせ振り乱す。普段は小柄だが、ひとたびバイオリンを奏でると大きく見える。存在感が凄い。汗がかすかに飛び散り、光が反射する。その姿は幻想的でもあり、貴族の舞踏会の舞いのようでもあると書く媒体もあった。
服は燕尾服だ。黒に白いブラウス。ちょっとこだわっているのは深紅のネクタイをしているところだ。赤は自分の勝負カラーっす。いつもどこかに赤を混ぜるのが常だと言う。
「でも、あれはなんなの?」大神が人差し指だけを立てた手を頭に掲げる。
「オニっす」1+1は?と聞かれて2と答えるように当たり前のようにさらりと言う。
「いや角だし鬼なのはわかるけど、なんであれつけたの?」
「ヘンでしたか?かわいいと思ったんっすけどね」とヤマビコも人差し指を立てて角にして頭から生やす。鬼かわいいっすよ。マイブームっす。
「でも一度だけティアラつけてたよね」ヒナタが思い出して言う。
「ああ。あれは姪っこがくれたんっす」表情があまり変わらずクールとも言えるヤマビコが姪っこと言った時だけにやけた。そうとう好きなのだろう。目に入れても痛くないとベタなことを真剣に言いそうだ。
そのライブを見ていた雑誌記者が、貴族の舞踏会のようでもあると言ったのだった。そしてヤマビコ姫と名付けた。鬼を見ていたら何となっていただろうか。
「最後の頃には出待ちの女性客が多かったよね。一番の目当ては山賀くん」郷原はにやりとした。「歌劇団のファンのようになってたよね。それだけかっこよかった」
「ありがたいっす。でも自分は男が好きですから」ヤマビコは真面目にそう言う。それが逆に面白い。天然なのだろうか。純真なのだろう。真面目になんでもやる。おふざけのように見えるものも本人は真面目だ。その茶目っ気が魅力的だ。そして人を惹きつける。
「大神くんはいつもああいう恰好なの?」郷原が次は大神といわんばかりに水を向ける。
「いや僕は目立ちたいわけでもないので。なによりサポートメンバーですから」大神も真面目だ。そしてややもすると地味だ。だがみんな気づいている。
「白のシャツに黒のスラックス。確かに地味で目立たない恰好だ」でもねぇと郷原はヒナタとヤマビコに目を向ける。二人もですよねという顔をする。
「グランドピアノは目立つよ。しかも音が半端ないもの。あれだけ鳴らせるのはプロのピアニストでもそういないよ。世界のトップソリスト並みじゃないか」ヒナタは言う。
「それにその甘いマスク。童顔気味ではあるけどおばさまファンすごいことになってたっすよ。韓流スター超えたっす」ヤマビコが能面で付け足す。
大神は少し困ったように苦笑いをする。謙遜するのもいやらしいと思ったのか、言えばますますつつかれるとの判断か特に口に出して反論はしなかった。
漆黒のピアノを操るしなやかな指。驚くほど大きな手。指も長く、しかもやわらかい。可動域はかなり広く、天は指に至るまで才能を与えた。そして努力でそれを惜しみなく発揮している。
才能を無駄にしない者を天才と言うのかもしれない。努力しない天才など一人もいないというのをヒナタは知っている。小さい頃から有名人を見る機会は多かった。漏れなく努力を日常のようにこなせる者たちだけが大きな結果を残している。天才などという簡単な言葉で括るのは凡人の精一杯の抵抗なのかもしれない。自分たちではどうにもできない壁を、自分たちと分ける言葉によって区別するのだ。言葉がシェルターとなる。でも、それは差別でしかないのかもしれない。天才と呼ばれるようなある種特別な個性のある者を避けているのだから。
でも彼らは、彼女らは、普通に悩み、普通に恋をする。同じものを同じように食べる。特段変わってはいない。優れた部分だけを見て隔離しようとする。集団の側に立ち、才能を孤立させることにより、優位を保とう、均衡を保とうとするのかもしれない。悲しいがそれが人の本能なのだろう。弱いものほど個でなく集団となり生き残ろうとするのが種の本能だ。ヒナタは間違いなく個の側に立っていた。孤独であった。だが孤高であろうとした。だからこそ今がある。
圧倒的な才能の二人が目の前にいることが嬉しくてたまらない。
「でも」大神が静かに口を開く。
皆が視線を集める。
「でも、やはりヒナタの声が圧巻だよ。自分で言うのもなんだけど、僕の演奏はそこそこだと思う」
それは控えめすぎる評価だ。そこそこではない。
「それにヤマビコのバイオリンは超がつく一流だ」大神は真剣なまなざしでヒナタを見る。
「一流程度の歌手では僕らの演奏が食ってしまう。アレンジだって独特なものがある。それに負けないどころかあくまで伴奏にしてしまう歌唱力に驚くばかりだよ」
「本当にそうっす」ヤマビコが頷く。「自分、ほかの歌手とやったときは手加減したっす。ここだけの話っすけど。本気でやるとメインであるはずの歌が霞むって言われたんすよ。そんな誉め言葉ないっすよねー」と照れるのだが、まぁ消化不良で不本意なんで、もうその人とはやりたくないんすけど、と本音をこぼす。
「そうそれ。僕も歌のために抑えなきゃいけないのかとかこっちへ来たときは思ったんだよ。ヒナタのお父さんみたいな人はそういないだろうし、いきなりそういう人とやれるとも思ってなくて。ラッキーだった」ぶったまげるほどの才能がランニングしてるとはね、と大神が珍しくおどける。
「ビートルズがね」郷原が言う。
「ビートルズはギターもドラムも凄いんだよ。そして今では当たり前のようなことを彼らが始めたりした。例えば、前奏とAメロでドラムは変わるのが一般的だったのに、ずっと同じ繰り返しをしたりする。アフリカの見た事ないような楽器を取り入れたり。シンセサイザーなんかも彼らが広めた。そういう新しい音楽をしていたのも彼らの凄さ。でもね」郷原は乾いた唇を舐める。
「でも、そういう新しい音楽や演奏技術の高さが目立つとボーカルが霞むんだよ。ビートルズが凄いのはそういった革新的な演奏をしても引き立つボーカルが二人もいたことなんだ。正直今のアーティストはボーカルが弱いってことは多い。だから演奏はレベルを落とすこともあるんだ。それがヒナタにはない。圧倒してるんだよ。だから大神くんも山賀くんも全力でできるし、全力を続けるから成長しつづけている。こんなグループそういないよ」
ヒナタは素直に嬉しかった。そしてこの三人でやれることが誇らしい。
「ヒナタちゃんには神様が集まってくるよね」郷原は嬉しそうに言った。
「そう言えば、今度高校生がデビューする話があるんだけど、もともとピアノコンテスタントなんだよね。大神くんと同じように。大神くんと同じ街出身みたいだし、ちょっと気になってるんだよね」郷原がついでのように付け足した。
「そうなんですか」大神は誰かを想像するかのように目だけで斜め上を見る。
「さて四方山話はこのへんにして」郷原が表情を変えて切り出す。
「野外フェスでデビューしてから約一年半か。早いね~」
「あっという間でした」ヒナタは顎を軽く引く。少しは親の名をかすめられるようになったのだろうか。
「セカンドアルバムを作ろうと思うんだけど」郷原はもう一本煙草を取り出して火をつける。
「そうですね。先行シングルも出しましょう」ヒナタは頷く。
「そこでだ」郷原はうまそうに煙を吐き出す。そして大神とヤマビコを交互に見る。
「大神くん、山賀くん、君たちのスケジュールは?」
はっとしてヒナタも二人の顔を見る。居心地良くて何年も一緒にやっているバンドのような気さえしていたが、二人にはそれぞれでの活動もあるはずだ。大神はこれが最初の仕事だと言っていたが、きっとこれから依頼はたくさん来るだろう。もしかしたらソロでの話があるかもしれない。
ヤマビコはもともとオケやほかの人との共演をしていた。彼女は事務所に与えられる仕事に忠実なタイプだ。ほかの仕事が入っていればそっちを優先するだろう。でも。でも。
「一緒にやりたい」ヒナタは二人が答える前に声にしていた。
「今度はアルバム全部を一緒に作りたい。曲もできれば二人にも書いてほしい」
沈黙が空間を満たす。重い緊張感がヒナタをしめつける。答えを聞きたくないとも思う。一秒が重い。間が怖い。
「やりますよ」「いいっすよ」二人の返事が重なる。
俯いていたヒナタは泣き笑いの顔を上げた。ありがとうが声にならない。震えた乾いた音がひゅうと口から洩れただけだ。
「僕はまだ仕事入ってないので無職になるところでした。営業しなきゃと思ってたのでありがたい話です」大神はそう言って手を差し出す。
ヒナタはその手を両手で包むようにして握り返す。熱い熱が伝わってくる。心がほのかに温まった。
「自分もまだ次は決まってなかったのでちょうどよかったっす。明日事務所に呼ばれてるので仕事決まったと言っておくっす」
ヒナタはヤマビコの手を無理やりとって同じように両手で握る。ヤマビコは空いた手で頭をかきながらわずかに動かす。どうやら照れながら頭を下げたようだ。
「おっけい。決まりだ。次はもっとすごいものができるぞ。シングルはイロドリノオトを出す。要望が一番多いし、あれは出すべき曲だよ」郷原は満足そうに頷く。「そうと決まれば明日からさっそくレコーディングだ。曲も並行して作っていこう」
アルバムを作ると決まってからは早かった。三人それぞれが曲を作る。モチベーションも高かったためか曲はすぐに出来た。それをみんなで演奏しながら手直しし、編曲は郷原にまかせる。正月も簡単に済ませるだけでレコーディングをした。
そしてアルバム発売に先駆けて年明け一月にシングルを発表した。その勢いのままに二月にはセカンドアルバムが続けて発売された。
イロドリノオトはヒナタの最高のCD売り上げ枚数となった。ダウンロードも週間月間一位を記録する。そしてセカンドアルバムはファーストを上回るセールスを記録する。ダブルミリオンに迫る勢いで売れた。その年の年末にはベストアルバム賞を得ることになる。男女数多のアイドルグループやアーティストを抑えての受賞であった。
アルバムにおける楽曲自体の評価も高かった。だからこその売り上げである。ヒナタのボーカルは言うまでもないが、大神のピアノとヤマビコのバイオリンの評価が相当なものだった。それぞれがソリストになれる才能だ。そんな才能が集まることにより爆発的に進化した。核融合のように才能の融合は膨大なパワーとなった。アルバムを通して物語のように流れる曲は素晴らしい出来であった。ピアノとバイオリンの音色だけでも聴き応えがある出来栄えだ。足し算でなく掛け算で魅力が増えていく。ヒナタは三人で正式にバンドを組みたいと思った。春まで休養して、正式に打診しようと考えていた。次のアルバム制作がすでに楽しみでしかたなく浮き足立っていた。それが浮ついた心を表していた。それだけにバンドを組めないとわかった時の衝撃は大きかった。
大きな成功と望みが叶わぬことが劇薬となりヒナタを襲った。成功の代償は大きい。
試練は突然やってくる。
ヒナタは音楽活動ができなくなった。
耳が聞こえなくなったのだ。突発性難聴。音が消えた。色が消えた。
ステロイドによる治療も成果がなく、血流改善剤、代謝促進剤、高気圧酸素療法、星状神経節ブロック注射等も試すがめぼしい効果が見られない。
ヒナタは天国から地獄へと叩き落とされた。まばゆい薔薇の咲き誇る色とりどりのお花畑から、仄暗い光の届かない穴へと落とされた。ヒナタは世界から色を失った。すべてがモノクロであり、ああ大神はこういう世界に生きているのかと思い、涙した。音もない世界はこれほど殺風景になってしまうのかと失意の中でただただ膝を抱えるだけだった。あんなにあたたかかった世界が氷河期のように寒く生をすべて閉ざすのだ。音に生きていたヒナタにとって、それは地獄以上の苦しみかもしれない。
音のない世界では死んでるようなものだ。
死。それを明確に意識した。
そんなヒナタに一通の手紙が届いた。
◇
如月姉妹との映画は正月に公開された。正月は例年通りに海外の超大作が公開されることもあり、邦画は苦戦しやすい。そんな中で健闘した。成功と言えるだけの興行成績を残した。郁也の凄味のある演技。妖艶な姿は女優のような美しさを携えていた。観る者が感嘆のため息を吐く色気のある姿、演技であった。監督の構成の仕方や演出も評価され、脚本も高い評価を得た。郁也は満足のいく演技に結果もついてきたことが嬉しかった。
その後も、脇役や準主役などをいくつか経験する。順調に仕事を重ねてステップアップをしている。
厳しい寒さの冬も、仕事を順調にこなせているので気にならない。それでも、もうすぐ春を迎えようと日が延び、気温も少しずつ上がってくると自然と元気が増すようだ。
そんな時に大きな仕事が舞い込んだ。デビュー前に望んだ大物との出逢いが思った以上に早くやってきたのだ。
桐谷社長に呼び出され、事務所に赴く。扉を開けると桐谷社長は窓の外を眺めながら黄昏ている。その横顔はやはり元女優だけあって美しい。思わず見惚れた。
「あら、早かったわね」郁也のほうを向き、まぁ座ってとソファーを指さす。
「次の仕事なんだけど」そこで口が閉ざされる。重い空気が漂う。何かあったのだろうか?沈黙に耐えられず郁也は口を開こうとすると、桐谷社長は重々しく発する。
「今回は向こうからオファーが来た。ただ」
「ただ……?」郁也は唾を飲み込む。
「今度はドラマでなく舞台よ」
なんだそんなことか?と安堵の息を吐こうとした。
「二人芝居。しかも相手は大物」息を吐かせぬように一気にまくしたてる。「魔王とも言われてるわ。喰われちゃうかも」言い終ると目を伏せた。
「魔王。もしかして?」郁也は背筋が粟立った。
「ええ。スメラギマオ。通称、魔王」
スメラギマオ――住良木真緒!数々の女優賞を総なめにしている、銀幕には欠かせない大物女優。舞台出身であり、よほどのことがない限り年に一度は舞台にも立つ。そんな大物から直々のオファー。そして。
そして、あの映画での父の相手役。あの艶を自分のものにして、男女の垣根も超えた役者になりたいと思った。そう思わせた住良木真緒だ。願ってもない。こんなに早くあの人の前に立てるとは。郁也は嬉しさに震えた。
「どうする?あまりの存在感に共演者は霞む。けっこう有名なアイドルとか演技派と言われた若手俳優なんかも存在感がなく、影と化しちゃってその後売れなくなったり、辞めちゃったりしている。まさに魔王よ。人の魂を喰らい、より大きくなる」桐谷社長は眉根を寄せている。しかし、どこか意味深な顔つきでもある。あれは――。
あれは期待に満ちた幼い少年のような瞳だ。何にワクワクしているのだろう。
「やりますよ」即答だった。これはチャンスだ。反対に喰ってやる。そしてより高みに立つ。ラブの前に立つ前哨戦だ。魔王。燃えてくる。桐谷社長の思惑など関係ない。
「そう言うと思った。さっそくだけど明日顔合わせ。しっかりやれれば何段もあがれるわ。彼女、役者のくせに演出にも口を出す。そしてそれが演出家や監督よりも優れている。潰れた子も多いけど、そこから飛躍した子もいる。ハイリスクハイリターンなのよ。魔王を倒すと経験値たくさんもらえるってのは世の常識よね」桐谷社長は緊張をほぐすようにおどけて言う。嬉しそうだ。
そして、いたずらっ子のような笑みを不意に零したのを郁也は見逃さなかった。
「お茶でも淹れるわね」ねっとりした空気を振り払うように桐谷社長は立ち上がった。
ふぅと息を吐く。思ったより緊張していた。郁也は肩を上下に揺すった。すでに魔王の威圧を感じていたようだ。面と向かったならどうなってしまうのだろうか。
お茶の薫りが漂ってきた。だいぶリラックスできてきた。少量の音量ながらラジオがかかっていたことに今更に気づく。ちょうど歌のリクエストコーナーのようで音楽が流れる。そういえば最近はゆっくり音楽に耳を傾ける余裕もなかったなと郁也はぼんやり思う。
耳障りのいい声が聴こえる。ピアノとバイオリンの音が声の良さをさらに際立てている。心地よい音楽だ。がんばってるなぁ。というかどれだけ前を歩くんだ。ラブといいあいつといいなんでこうも凄いやつがゴロゴロいるんだ。郁也は震えた。背筋がぞくりとする。
お茶の載った盆を手に桐谷社長がやって来た。郁也の正面に腰を下ろす。
「この曲いいわよね。新年すぐに出た曲だけど、かなり売れたみたいね。ラジオでのリクエストもずっと続いてるみたいでよく聴くわね。あ、そういえば」何かを思い出したように言う。少し苦々しい顔をしている。
「この子、耳が聴こえなくなって休業してるみたいよ。公にはオフレコだけど、知り合いが教えてくれた。って郁也は知ってるよね?」
郁也は絶句した。呼吸が一瞬止まる。はぁはぁと息が荒くなる。なんでだ。
「なんでだ!」思わず強い声が出る。
桐谷社長はびくっとして腰を浮かす。「どうしたの?知らなかったの?」
「治りそうなんですか?」郁也は激しく狼狽している。
「今のところかんばしくないみたいね……。ストレスとかでもなるし精神的なものかもしれないとか聞いたけど。ステロイドとかで治療しているみたいだけど効き目があまりないらしい。何かのきっかけで聴力が回復に向かうことも少ない例だけどあるようね。でも実際はかなり難しいわね」自分の子のことのように心配をする。桐谷社長も好きでよく聴いているのだ。それだけにショックもあるのだろう。
「そうですか……」郁也は項垂れる。何かできることはないだろうか。何か。何か。何か力になれないか。きっかけになれないか。なぜ何も言わない。知らずにいた自分がとても間抜けだ。気に留める余裕もなかったのか。忙しいなんてのはいいわけでしかない。
衝撃を引きずったまま郁也は、魔王との対面、そして舞台稽古、本番へと怒涛のように進んでいく。時は戻せない。過去は変えられない。変えられるのは未来だけだ。あいつの未来を変えられるのは自分しかいない。無理やりにでもそう思った。
季節はすっかり春になり、新年度になっていた。
郁也は意を決する。
ずっと連絡をしていなかったあいつに一通の手紙を送った。舞台のチケットを同封して。一言だけの手紙。メールではなく、手書きにしたことに強い想いを込めた。
観に来い。
7
舞台上で魔王の表情を見ながら、ああなんて綺麗なのだと郁也は場違いな想いに浸る。鬼のような母親と慈愛に満ちた聖母を演じ分ける。その一挙手一投足がすべて美しい。
思い起こせばここまで至る道のりは平たんではなかった。
顔合わせの時はすごく丁寧に挨拶をしてくれた。
「初めまして住良木真緒です。娘のラブがお世話になっているみたいでありがとう。あなたの噂は聞いてるわ。最近凄いやつがいるってね。期待しているわよ」そう言って携えた笑みは妖艶だった。
えっ?一瞬言葉に詰まる。思考が遅れてついてくる。ラブは住良木真緒の娘、二世なのだ。そして郁也のようにそれを隠してオーディションから始めたのだ。愕然とする。そして同志を得たような喜び。そんなラブをいつまでも待たせておけない。ここで魔王を、親を、倒す。新たな決意が湧いた。
住良木真緒は、170㎝近くあり、骨格のしっかりした、日本人らしくない風貌だ。目鼻立ちははっきりしており凛々しい。ラブの美貌は母譲りだ。年齢よりも普段は若々しい。しかし役により見た目はいかようにも変わる。年齢を重ね、経験を重ねた者特有の皺が凄味を感じさせた。鋭い眼光は鷲のようである。
「ただし、私の顔に泥を塗るような演技をしたらこの世界でもう生きていけない。それくらいの覚悟はしているよね」笑みのあとには脅しのようなことを言う。それはただの脅しでなく本気だった。それだけに覚悟は一瞬で出来上がった。
「もちろんです。住良木さんこそお願いしますよ」思わず言い返していた。
面白い子ね、と怒りもせず流してくれるところはさすが魔王の貫禄だ。「ラブの顔にも泥を塗らないようにね。あなたにぞっこんみたいよ。待ちわびて待ちわびて見悶えていたわ」なんてことまで言う。もちろん冗談半分だろうが。
そして始まる舞台稽古。ここからは魔王の顔しかなくなる。
「ふっざけんな下手くそ!」怒号が響く。郁也は戸惑う。
「どこが悪いんですか?」思わず聞き返してしまう。自分としてはよくできた演技だと思ったのだ。
「全部だ大根役者!」魔王はなおも怒鳴りつける。「自分で自分の演技を見れないのか?そんなやつはあたしの相手はできないよ」私からあたしと口調も変わっている。ラブもあたしと言うなとふと思った。本当に親子なんだよな。なんて凄い親子だ。
「もう一度お願いします」郁也は納得できないまでも頭を下げる。理不尽にも感じるが、何が良くないのだろう。感情はこもっている。表現もできているはずだ。
『母さん。俺はずっと母さんを憎んでいた。育ててくれた恩はある。だがいっそ殺してくれと思ったことも何度もあるんだ』そう言って郁也は、目を赤くして困った表情を作る。
「だめだ下手くそ腐れ野郎。何度言えばわかる」魔王は灰皿を投げてきた。郁也の足元を跳ねる。溜まった吸殻が無残に飛び散る。煙草の嫌な匂いがした。
「ラブも見込み違いだね。あの子が推すから大抜擢したのに」魔王はため息とともに呆れた顔を作る。
「どこが」どこが悪いんだ。悔しくて声にならない。目が赤いのは演技なのか本心なのか郁也はわからなくなった。理不尽な物言いで演技を貶されている。そうとしか思えない。魔王は耄碌したんじゃないのか。そうとさえ思った。自尊心が強い郁也だ。そしてここのところの評価の高さが自信にもなっている。
だがそれは過信だ。「あんた天狗になっちまったのかい?たかだか一つ二つ評価が続いただけで」魔王は嘲る。
魔王と比べたらたいしたキャリアでないのは確かだ。だがそれでもやってきた仕事では評価もされたし、自分でもよくできたと思っている。桐谷社長もほめてくれた。ラブも会いに来てくれるほどには評価してくれたのだろう。それなのにこの魔王だけが。
「なぜだ」か細い声で囁く。郁也はまだ若い。感情が抑えられない。「魔王なぜだ言ってみろ」
魔王と面と向かって言われて、頬がぴくりと動く。周りのスタッフは皆固まったまま動けない。息さえも止めているかのようだ。皆が石となっている。動けば矛先が向かうとでも警戒するように。
魔王は鼻を鳴らすと鋭い眼光で郁也を睨む。郁也はその圧力に思わず息を飲む。
「あんた舞台は初めてかい?」それでも冷静に魔王は言う。
「……いえ、舞台も何度かあります。端役で、一言二言ばかりでした」蛇に睨まれたように、さっきまでの威勢は消え萎縮する。
「それじゃ経験ありとも言えないね。周りもろくでもないのか。誰も指摘しないのか。美緒にも何も言われなかったのかい」と目を桐谷社長に向ける。桐谷社長は清々しく笑っている。いたずら小僧のようにも見えた。
「美緒……。そうか。これも計算のうちか。特別だよ」ため息交じりにそう言って人差し指を立てる。「舞台はナマモノだ。映画やドラマとは違う。観客はよく見ているよ。平面でなく立体なんだ」それがヒントだ。わからないなら代わりを探す。これでわからないやつにあたしと舞台に立つ資格はない。そうばっさりと言い放った。
郁也は言葉の意味を考えた。そして感情を抑え冷静になる。映像と舞台は別物だというのはよく聞く言葉だ。以前の舞台ではできていなかったのか。出番が少ないので粗として目立つまでもなかったのか。ではオーディションではどうだったろうか。オーディションは舞台に近い感覚だ。枠で切り取られていない。郁也はドラマに慣れ切ってしまったのか。いや怠けてしまったのだろう。桐谷社長が出会った時に、気になるところがあると言っていたのを不意に思い出す。いずれ解決できるとも言っていた。どS社長めと思わず笑みがこぼれる。
郁也は自分を信じ、そして導いてくれる桐谷社長に胸の中で深くお辞儀をした。全ての役が、全ての共演者がスタッフが郁也の血肉になるように考えてくれていた。魔王の性格もよく知っていて、郁也の鼻を折ると共に、教えてもくれることをわかっていたのだ。
魔王の目がぎょろりと睨みつける。郁也は口元を引き締める。しかし、さっきまでと違い魔王の目に、うっすらと優しさを見つけていた。
「もう一度お願いします」郁也は静かに殊勝に言う。
「ほぅ。いい目だ」魔王は不敵に笑う。「最後だよ。さっきと変わらなきゃ終わり」
郁也は覚悟を決めた。台詞は全部入っている。イメージもできている。そこに自分を重ねて落とすだけだ。どう行動するかも頭に入っている。どう見られているかも入っているはず――だった。だが勘違いしてた。これは舞台だ。立体なのだ。平面ではない。端役でもない。中心にいるのだ。観客はよく観ているものだ。イメージが貧弱だった。映像に慣らされていた。やり直せることに安心してしまったのかもしれない。貧弱なイメージにいくら自分を落としても下手くそな間違った役にしかなれない。それがわかれば新たなイメージを作り上げるだけだ。郁也はすさまじい集中力で新たな役を構築していく。まだ不完全ではあるが、さっきまでの間違ったイメージは払しょくした。
『母さん。俺はずっと母さんを憎んでいた。育ててくれた恩はある。だがいっそ殺してくれと思ったことも何度もあるんだ』
そう言って郁也は目を赤くする。困った表情を作る。手は弱々しく握られている。膝はかすかに震えている。背中は怒っている。全身で戸惑い怒り哀しんでいる。
「ましになったね」魔王は数回拍手をする。
「舞台は立体なんだよ。客は正面からも観る。右からも左からも。それで全身を観てるんだ。ドラマのようにアップじゃないんだ。ある一面だけじゃない怠けた演技するんじゃない。背中がよくお留守だったよ」
「はい。ありがとうございます」恭しく深々と頭を下げた。確かにそうだ。フレーム内だけの演技をしていた。フレーム外も世界なんだ。見えてないところこそ手を抜いてはいけない。見えているところだけを繕ったような物は透けて見える。
「髪の毛一本まで気を張りな」魔王は嬉しそうに叱咤する。「手を抜いたら今度は灰皿直撃だからね」
それともう一つと指を立てる。
「いいかい。あんたは美緒が言うには憑依型じゃないか。役になりきっているからあまり意味はないかもしれない。半分以上無意識だろうからね。それでも言っておくよ。これはご褒美だ」
そう言って魔王は演技の仕方を教える。
状態を演じようとするんじゃなく、その状態に持っていく行動を演技するんだ。例えば、悲しいのならば、泣くとか震えるとか、怒りならばこぶしを握るとか物を壊すとか何か行動をして状態を見せるんだ。それが芝居ってものだよ。
脚本にここで怒ると書いてあっても、その役ならではの怒りの行動をするんだ。だからこそ役をよく知ること。そして役になりきり、どういう考え方をするか、どういう目的で何を目指しているか。それがわかればどういう行動を取るかに繋がる。成りきるっていうのはそういうことだ。偽物だと毎度芝居が同じになる。バカの一つ覚えのように同じ怒り方悲しみ方をしちまうんだ。よく覚えておき。憑依型は成り切っているんだけど、普段の意識がその分足りない。だから感情の演技ばかりになってワンパターンになりやすいから気をつけな。感情はあとからつけるものだ。芝居は見せて感じてもらうものだから、行動がなきゃいけない。
魔王のありがたい教えを郁也は神妙に頂戴した。
「ちなみに住良木さんは憑依型ではないのですか?」
「ああ、違う。役者のタイプってのもよくわからないけど、あえていえばあたしは技術型か」
「それはいったい?」
「あたしの演技は技術なんだよ。どうやれば感情的に見えるかとかすべて計算されているし、そのための演技技術があたしにはある。汗や体温をコントロールするのも技術だよ。簡単にはできない。血のにじむ努力がいる。だからあんたみたいなのはいわゆる天才肌。あたしみたいのは努力肌だね」まぁ天才も努力しなきゃただの人だがね、と豪快に笑った。
地獄のような稽古は続く。全身で演技をする。それは遠くの観客にも見えるためでもあり、どの角度から見られてもいいようにである。舞台出身俳優は演技がおおげさだと言われるゆえんか。どう見えるかを意識しているからこそだし、いかなるときも見えていようといまいと全身で演じるのが役になりきることだからだ。小手先だけの演技なんて死んだようなものだ。顔やバストアップだけで演じているだけでは何も伝えれないだろう。それを郁也は知っていたはずだし、オーディションでは役になりきり、指先までなり切っていた。なのに。悔しい。自分はドラマも映画もやりたい。舞台ももっとやりたい。全てのステージで輝きたい。それぞれにそれぞれの見せ方がある。テレビも今では地上デジタルになり、横長のために昔は切れていた部分まで入るので、演技は広がっている。大きくなっている。そこは映画と近くなっているのだ。引きの映像も増えている。だから見えない部分まで演技をしなきゃいけない。自分が映っていなくても、共演者が演じているならばその人のためにも演じなければいけない。一人芝居のように演じるよりも相手がいることにより演技に深みが出る。チームで作り上げる作品ならば独りよがりではいけない。どこを見られてもいいように演技をする。そんな単純なことを忘れるなんて。
そして状態を演じるのでなく行動を演じる。そう意識したことはない。だから自分ができているのかどうかわからなかった。でももしかしたら表情や感情の露出にばかり走っていたかもしれない。それも演技が小さくなる要因だ。役に入る前に十分に意識しておきたい。もっと深く深く潜り込まなければいけないのだ。芝居は奥が深い。底が見えない。
郁也は確かに天狗になっていた。慢心していた。
ふと桐谷社長が目についた。薄く笑っている。それがすべてを語っていた。これが解決する方法だと。即効性があるがかなりの荒療治である。下手したら死んでいる。だがそれだけ郁也を信じていたのだろう。
演技が小さく小手先になりがちなこと。そして天狗になっていること。二つをいっぺんにどうにかするための処方が魔王だったのだ。オファーが魔王からとか言っていたのも嘘くさい。桐谷社長は今でも女優だ。女優は自然に嘘を吐く。いや。その前に女は息をするように嘘を吐くのだった。郁也が断ろうとしても説得したのだろう。郁也なら乗り越えると信じてくれたのだ。実際はどうかわからないがきっとそうだ。そう思ったらまた目頭が熱くなった。今日の郁也は泣いてばかりだ。涙腺が緩むような年でもないのに。
やはりこの世界は面白い。みんな一癖も二癖もある。
稽古はさらに厳しくなっていく。全身の筋肉は悲鳴を上げた。精神的にもきついのか、いつも家に帰ると倒れるように眠りについた。動きを覚え、台詞を覚え、そして役に成り切る。イメージを強くして重ねていく。その精度が高まっていくのをはっきり感じた。今までの演技がお遊戯のようだ。体が使えていなかった。周りが見えていないし、周りにどう見られているのかを意識できていなかった。それらをすべて咀嚼し、自分の身にした。そこからの憑依は今までよりも洗練されている。そして深みにはまっていく。
「覚悟がたりないんじゃないか」「足がお留守だよ」「気が抜けたか」「できないなら帰っちまえ」「声が出てないよ」「演技をなめんな」「辞めちまえ」「おまえに才能なんてない」
罵倒する声が途絶えることはなかった。ただそれは理不尽ではないと思えたので郁也は悔しさはあるけどすべてに真摯に向かい合った。
「あんたの親父はあたしが圧倒されるほどの存在感で演技してたよ。あんたあいつの子だろ。血を汚すな」
「父は……」
魔王は目を細めて郁也を睨むように見る。
「父はどんな役者でしたか?」
「ふん。あれこそスーパースターだね。華がある。太陽だ。みんなを照らすんだよ。気付けばみんなの目は輝いて、口は三日月になる。あったかい気持ちになっちまう。あたしですらぼうっとしちまったよ。まぁ子供ぽいところはあったけどね。本番前はどれだけキャリアを積んでも緊張すると言ってソワソワしていたね。それでも欲しかったおもちゃを与えられた子供のようにキラキラした目をしてた」乙女のような顔をして言う。
「家庭人としては失格だけど、役者としては最高峰なんですね」郁也は、震えそうになる肩を抱きながら知らずに口元が緩む。
「何が可笑しいんだい?」
「えっ」口元が緩んでることに気づいていなかった。
「嬉しいんですよ。血が騒ぎます」口を引き締めて言う。「目指すものが本物であったことが嬉しい」
「頼もしいね。でもあんたはまだ三合目にも登れてないよ。血が騒ぐなら、あの人を感じさせるものを出しな」
郁也は気を引き締めなおした。気力が漲り、モチベーションは最高潮になった。そして演技に深く潜りこんだ。
なんとか及第点と言えるところまでになった。
「まぁしかたないか。これで本番行くよ」魔王はそれでもぎりぎりの採点、大甘におまけしてだねと言い、満足の表情は浮かべない。
「今更中止にできないし返金なんてしたら破産しちまう」そう言って笑った。
「本番ではもっとあなたに近づいてみせます」郁也は啖呵を切った。
「いや超えますよ」喧嘩を売った。
「ほう。いい顔だ。目があの人に似てるね。楽しみにしてるよ」魔王の目尻が一瞬だが垂れた。
だが現実は甘くない。
本番で魔王と対峙すると、稽古とは全く違った魔王がいた。その威圧感に慄き固まりそうになった。空気が薄く感じる。どろりとまわりがゆっくりと溶けていき、魔王以外がぼやけた。
そして時折見せるあの艶。郁也は共演しながらも見蕩れそうになってしまう。客席からため息が漏れる。そんな妖艶さが禍々しいまでの威圧感をまろやかに包み込む。そのふり幅が魔王の底知れなさを知らしめる。
魔王のオーラが圧倒的な重圧をかけてくる。それに負けないようにするだけで精一杯の初日だった。
郁也はその日、眠れなかった。寝ても魔王の顔が浮かび、汗びっしょりになってしまった。魔王の異名は伊達ではないとやっと気づいた。本当の顔は舞台でしか見れない。稽古での顔も、きつい当たりも生温い。きっとこの重圧に負けたものが芝居から逃げるようにやめてしまうのだろう。
二週間の公演。それでも郁也は逃げずに立ち向かった。そして日々自分を鼓舞しながら魔王との戦いを繰り返した。絶対に逃げない。負けない。超えてやる。その思いの強さは萎えるどころか一日ごとに強まった。郁也の演技は成長した。どんどん深く深く潜るようになっていった。それは演技の悪魔に身を売ることだったのかもしれない。何かを差し出すことになる。もしかしたら取り返しのつかないことになるかもしれないとも思ったが、それ以上に魔王に近づくことが至高の喜びだった。だがやはり並ぶところまでも行けない。頂は霞んで見えぬほどに高い。
毎日の公演で観客にはアンケートを書いてもらっていた。そこに書かれる感想は、ほぼすべて、魔王の圧倒的な存在感についてであった。郁也についてはおまけ程度でしかなかった。
そしてついに千秋楽。最後だ。
「いつ追い越してくれるんだい」魔王は本番前に呆れたように言った。今日で最後だよ。そういえば。魔王は付け足した。
「今日はあの娘来てるよ」
ラブ。母親を見に来たのか。それとも郁也を改めて値踏みに来たのか。なんにせよ最後だ。
そして今日はヒナタも招待している。何かを与えることができるだろうか。
いや。
できるできないではなく、与えるのだ。何かのきっかけにするのだ。俺がヒナタを救う。郁也は強くそう思った。
◇
ヒナタは千人規模のホールの後方から数えたほうが早い列の端っこの座席にいた。少し遠目だが全体を見渡すにはいい。突発性難聴はまだ回復しないままなので台詞は聞こえない。無声映画のようになるのだろうか。楽しむことはできるだろうか。それでもあいつの雄姿を見ることに軽い興奮を覚える。自分のことばかりで世間に疎かったが、そこそこ役者として評価されているようだ。この舞台は二人芝居。しかも相手はヒナタでも知っている大物、通称魔王こと住良木真緒だ。二人なのでいやがうえにも注目されるし、相手と比較もされやすい。まだまだ新人と言える芸歴なのによく挑むなぁ。相変わらず強気だ。挫けない心。
芝居は母と息子の愛と確執の物語だ。憎むほどにひどいことをされたり、狂おしいほどに愛を感じることもあり、母とはかくも子供にとって頭のあがらない存在なのか。特に息子相手となると神のごとき存在ともなりえる。
シングルマザーとなりながら育て上げてくれて、様々な複雑な想いをお互いが抱いている。そんな母がある日、ガンであると息子に打ち明けた。余命は長くはない。いつかくる死。それがいつかという不確定の遠い未来から急速に身近になる。その時、親は何を思うのか。子は何を思うのか。
『イクヤ、母さん最近では記憶も怪しいんだ。気づくとぽっかりと空いた時間がある。何をしたのか全く覚えてない。それがどれだけ怖いかわかるかい?』魔王の台詞で舞台の幕が上がる。
郁也は役名もイクヤだ。役との境がなくなる。
これはどういう場面だろう?母と子が会話をしているのはわかる。だがそれしかわからない。動きはあまりない。どちらかと言うと会話劇のようなものなのだろう。しかしあいつも立派な役者だなぁ。顔に覚悟が見える。何も聞こえないが、顔が物を言っている。体から声が聞こえてきそうだ。
『母さん。俺はずっと母さんを憎んでいた。育ててくれた恩はある。だがいっそ殺してくれと思ったことも何度もあるんだ』イクヤは困ったような顔で目を赤くする。『でもやはり母さんが死ぬなんて想像できない。したくな――』悲痛な叫びは声を失くす。
物語は回想シーンなどをはさみながら進んでいく。イクヤの少年時代も二人が演じていく。体は大人なのだが、危なっかしいようなしぐさ、子供らしい溌剌さをうまく演じている。ふとした瞬間幼い子供が演じているようにも見える。観客がその圧倒感に息を飲む。
そして魔王――母親の理不尽とも思える理由での暴力。そしてその後の抱擁。女神と魔王が交互に現れる。慈悲と非道。それを巧みに演じ分ける。圧巻。住良木真緒ここにありと思わせる演技だ。演技なのか素なのか、もはやわからない。まるで本当の親子の家を覗いている錯覚に陥る。台詞は聞こえないのに、体が、表情が、しぐさが雄弁に物語る。完全ではないが内容が伝わってくる。演じると言うのは凄いものだ。他者が書いたものにここまでも入り込めるというのは頭が下がる思いだ。どこまで潜っていくのだろう。どれだけの想像力を持っているのだろう。
『うるさいねこの子は』母親の左手がはじける。
イクヤの右の頬が紅くなる。右の耳が鳴り、頬が熱を持つのだろう。わかる。伝わってくる。引き込まれて、ヒナタは自分が感じているかのように錯覚する。自然と頬を押さえていた。
母親の顔が曇る。声がにごる。イクヤの目から涙があふれた。痛みの為か。いや。叩かれたショックだろう。脳が、何が起きたのかを理解できないのか。理性が追い付けないのか。ただ感情だけが先にあふれているようだ。イクヤの耳は相変わらず鳴り響き、音が形とならないように見える。まるで今のヒナタのように。気付くとヒナタも涙を零していた。共感しすぎてしまったのだろうか。
次の瞬間、母親が吹っ飛ぶ。ヒナタは何が起きたのか理解が遅れる。寸刻の後、理解が追い付く。イクヤは体当たりしたのだ。そして母親は仰向けに倒れた。初めての反抗。それは親子の関係に大きな歪みとなった。
母親は相変わらず理不尽なことをするのだが、どこかに恐怖が潜んでいる。イクヤは怯えてはいるのだがどこかで勝ち誇っている。腕力が親子の差から男女の差へと変わっていた。それは家庭内での地位を揺るがすものとなる。
魔王の表情のひとつひとつが恐ろしいほどに豊かだ。人はこれほどの表情を操れるのかと驚く。怒り、喜び、哀しみ。嘆き、叫び、ささやき。そのどれもがそれとわかるのだ。動きも大胆に大きい時もあれば、繊細に小さくそっと動くこともある。滑らかな動きはアイススケートのように滑るように舞台を舞う。
人の感情は思うよりもそこまで単純でなく、例えば怒りながらもどこか悲しみをたずさえてもいる。遠い過去には二つの感情を同時に表現できたという逸話もあるが、まさにそれを体現しているのが魔王の魔王たるゆえんだろう。恐ろしいほどに感情表現が豊かであり、見る者に共感させたり、反発を覚えさせたりするのだ。泣き笑いなどというのはわかりやすい二重感情かもしれない。それを細かいしぐさや目の動き、汗、体温で調整する。
魔王クラスともなると体温や汗さえもコントロールするのかもしれない。そこまでしてこそ称賛と名声を得る。本物の役者としてのステータスを築けるのだ。
驚きなのはイクヤも完璧とはいえないまでも二重感情をしているのだ。この二人芝居、親子の複雑な関係。それは相反する感情を常に持ち続けている物語なのだ。それを素人のような下手くそな役者が演じたならば恐ろしく眠たいものになるだろう。それくらい演技力にすべてが左右される作りだ。
ヒナタは声が聴こえないながらも二人の卓越した感情表現に見入った。背もたれから背はいつしか離れ、前の座席に顔が埋まるほど前のめりになっていた。凄い表現力だ。これくらいの表現力をヒナタは持っているのだろうか。そう自分に問う。
大神やヤマビコの表現力も凄い。表現力とはどこで差がつくのだろうか。そんなことを思いながらも芝居に引き寄せられていく。
音楽と演技。形は違えど、何かを表現するのは同じであり、感情を込めるのも同じだ。生のヒリヒリするような空気は、音楽のライブコンサートの空気にも似ている。学ぶべきものは、違う分野にこそあるのかもしれない。ヒナタは、舞台の二人に目を、心を奪われた。周りが消えていき、世界は自分と舞台の二人だけになったように感じた。
これでもし声が聴こえたならどうなってしまうのだろう。それほどこの世界に没頭している。聴きたい。二人の声が。感情の音を。私の耳はどこにいった。腐ってしまったのか。機能が絶えたのか。どうなっているのだ。ヒナタは心で叫んだ。叫び続けた。
この素晴らしい芝居。音がなくてもイキイキと感じる。表情がしぐさが物語っている。役者とはこんなにすごいのか。役になりきる以上のものがある。体から多くの情報を発している。目は口ほどにものを言うとはよく言ったもので、目の動き、輝きや曇りなどで多くを語る。
でも。だからこそ。聴きたい。郁也の声を。魔王の声を。舞台の声を!
物語は終盤。病院のベッドの上に寝ている母親。たくさんのチューブが体から出ている。呼吸はすでに小さい。傍らに立つイクヤ。
『母さん』囁くように口にする。母親の聴覚はすでに満足に機能してない。叫ぼうが囁こうが差はない。
ああ、呻くように魔王は音を口から漏らす。涎も垂れる。もう筋肉も弱り果てている。
焦点の合わない目が左右に揺れる。ふと一点を見つめる。動かない。動かない。動けない。観客の唾を呑む音が聞こえた――気がする。
目がかっと開き。ゆっくりとイクヤのほうに首を傾げる。よわよわしく頬が動く。笑った。口角があがるほどにも動いてない。遠い席からはほとんど何も変化を見れない。それなのに観客すべてが察した。笑ったのだ。
人は死ぬ間際、愛する者に看取られるとき笑うのだ。きっと。
なんとなくそう思えた。
そして母親は小さく口を動かした。五つの音。それは音になっていない。でも五つの音を発した。それはとても温かい。そして悲しい。そして力強い言葉だった。イクヤは母親の手を握る。何度も頷く。手をさすりながら目からは滝のような涙が流れる。洟水も零れる。端正な顔がみっともなく崩れる。でもすごく人間だ。生物だ。血を通わせる顔だ。そう感じさせる美しい顔だった。
そしてイクヤも小さく言葉を発する。最前列の観客でさえ聴こえるかわからない囁くほどの音。でも観客ははっきり聴いた。聴こえた。言葉は口からだけ出るものではないのだ。体から発するものだ。それをこの舞台の上のたった二人の役者が教えてくれた。
――あ、い、し、て、る
ヒナタの耳はそう聴いた。
ぶわっと目から涕が噴き出した。地下水を掘っていてある瞬間、岩一枚を砕いた瞬間に盛大に噴き出すように。兆候はあるけどもまだだまだだと思っていたのが思いがけず溢れてしまったような戸惑いを感じる。でも、心地よい。泣くってのは、心の澱を洗い流してくれる。
涕で曇った目。でも、澄んだ瞳。これ以上ないほどに、清められた。
嗚呼。思わず漏れる。嗚呼、見える。聴こえる。
色が踊っている。歌が聴こえる。
感情が乗った唄うような台詞だったのだ。音楽に色が見える。ヒナタは共感覚者なのだ。色が見えた。音が聴こえた。またヒナタの世界に音楽が戻って来た。
明確ではない。濁ったような聴こえ方だ。完璧ではない。でも今までの無音に近い、いやなモーター音のようなものが小さく聴こえるだけのような世界から脱した。快方へと向かい出した。そう思わせるだけの音が聞こえたのだ。
顔を手で覆い俯く。背筋がぞわぞわとして体が震える。そしてただただ泣いた。啼いた。
そして鳴いた。自分の音が遠くにだけども確かに聴こえた。
世界は不思議だ。心を閉ざせば何も見えなくなる。心を閉ざさなくてもある日突然音が消えることもある。真面目に働いているだけなのに突然命ごと消えることだってある。雄大な時の流れの中で人の一生は刹那でしかないのだ。その刹那の時間さえも満足に全うできない者がいる。全うしない者もいる。
とめどもなく思考がヒナタを埋め尽くす。涕は止まらない。熱い。熱い。生きている。生きているんだ。どこかで歓喜の歌が聴こえる。
舞台に目を戻すと住良木真緒と生方郁也が舞台で頭を下げている。お礼をしている。両手を観客席に向かって振っている。前方の人へ、右側の人へ、左側の人へ。そして後方の人へ。大きな感謝を込めて観客の顔を見ながら手を振り頭を下げている。大きな拍手で観客はそれに応えている。ああ、ライブっていいな。相手の顔が見えるっていいな。息遣いが聴こえるっていいな。ヒナタは流れる涕を拭くこともなく手が腫れそうなほどに大きく打ち鳴らしている。拍手はリズムを刻む。ああ、ここにも音楽がある。戻ってきたんだ。音楽のある世界へ。
一瞬だけ郁也の目とヒナタの目が合う。ヒナタは息を吸い吐き出す。空気が口から漏れる。
――あ、り、が、と、う
魔王と郁也の二人芝居はその年の演劇賞を総なめにすることになる。連日満員の盛況のまま千秋楽を終えた。
やはり、世界は五つの音で成り立っている。のかもしれない。
演劇のすごさを感じた。演じるということで、誰かの何かをこうも揺さぶることができるのだ。表現とは心を震わせる力を持っている。
8
ヒナタはまだ全快とはいかないまでも聴力が戻りつつあるのを感じ明るさを取り戻してきた。それと共に音楽とまた向かい合えるようになった。毎日少しずつだけどギターを弾いたり、ピアノの前に座る。時にはアカペラで唄い、鼻歌程度の時もある。唄えることに喜びを感じる。
一息ついたところでテレビをつけた。
音楽番組だ。夏の祭典と銘打たれた特番だ。
高音を割れずに伸びやかに唄う声が聴こえた。高音は痛みのように鼓膜を震わせた。そしてヒナタの心を抉った。はっきりと痛みを感じた。リモコンをテレビに向けてボタンを押す。ノイズのようにも感じた歌声が消える。呼吸が荒くなる。でも逃げてはいけない。再びテレビをつける。
間奏に入っている。聴こえるのは鮮烈な澄んだピアノと空気を切り裂くバイオリンの音。よく見知った顔がある。ヒナタの頬が歪む。また呼吸が荒くなる。でも耳は音をしっかり拾っている。聴こえなくなることはない。
ヤマビコに契約更新を打診したことを思い出す。
「すんません。とりあえず契約満了なんでありがとうございました。次の仕事を事務所入れちゃったんですよね。いい条件みたいっす。まぁ自分の待遇は変わらないんすけど」そう言ってヤマビコはちょこんと頭を下げた。事務所所属の音楽家だからこれはしかたない。そうは思ったけどもっと一緒にやりたかっただけに悔しい。
それでも自分はソロだ。そう言い聞かせた。言い聞かせながらも、でも大神がいると思ったのも事実だ。彼はフリーだから。そうどこか高を括ってた。それだけに彼の口から次の仕事が入ったことを聞かされた時の衝撃は大きかった。大きすぎた。
デビューから突っ走ってきた疲労もあった。そこでのショックな出来事。もろもろが重なった上での突発性難聴なのだろう。バンドを組みたいと切り出すこともできないままに音が無くなった。
「自分は弱いなぁ」一人こぼす。あの二人の存在の大きさを耳が聴こえないことよりも、心に空いた穴、喪失感で思い知らされた。
「シンガーソングライターを目指して、その通りデビューして、結果も出した」なのになんでかなぁと天井を見上げる。もちろん答える声はない。
にゃぁ。と愛猫が膝に乗ってくる。落ち込んだ時や元気がない時には膝に乗ってくる。普段は抱っこも満足にさせないし、自ら膝に乗ることもないのに、この子は人の心が読めるのだろうか。つくづく不思議な子だ。ぽっかり空いた穴を埋める手助けをしてくれる。それともお礼のつもりなのだろうか。
デビュー直前に道端で車に轢かれそうなところを助けた。まだ生まれて一ヶ月くらいだったろうか。近くに親猫はいなかった。置いて行かれたのか捨てられたのかはわからない。だけどこの子を拾ってからはいいことばかりだ。この子は幸運の女神かそれとも幸福を運んでくる天使か。寝顔は間違いなく天使だ。
テレビでは歌い終わった歌手がお辞儀をしたとこだ。
そして正面を向くと満面の笑みでVサイン。ピース。ピース。合わせてバイオリニストとピアニストもピース。
バイオリニストは長い長髪をツインテールにしている。袖口の広いひらひらした服。パンツスタイルはなんとか死守したのだろうか。それでもパンツは赤のチェック柄。そんな派手でかわいい恰好どこで覚えたんだよ。山賀さん。いやヤマビコよ。ピースをにこやかにしている。プロの作り笑顔だ。作りなのがわかるだけまだましだな。と溜飲を下げる。
ピアニストは表情もなくピース。これまた赤のチェックのシャツにパンタロンスタイル。だからいったいどこで覚えたんだよ。大神! いっそ笑えてくる。
そしてボーカル。ゴスロリスタイル。白と薄いピンク色のドレスのような恰好。袖にも裾にももれなくひらひら付き。目はカラコンだろうか。碧眼だ。髪の毛もピンク色。あどけない表情は十六歳らしい可愛さをのぞかせる。けれど時折見せる流し目は妖艶さも漂わせる。
アイドルのように見えるけれど、歌はかなりうまい。楽曲もいい。ダンスを交えながらも息を乱さずに唄いきるのだから豊富な体力や肺活量があるのもうかがい知れる。次世代の歌姫降臨か。神楽耶――現代に舞い降りたカグヤ姫ってとこね。いつか郷原が言っていた高校生だ。大神と同郷とか言ってた……。
半端な歌い手ではヤマビコはともかく大神が一緒にやることはないだろう。大神が演奏する時点で才能が知れるというもの。だけどあの恰好も受け入れるとは弱みでもあるのだろうか。
一緒に仕事ができないことは大きなショックだった。そしてどこかヒナタの楽曲に似たものも感じた。それは大神と同じクラシック畑出身であるために大神の作った曲に似てくるのだろうか。音に大神の色を強く感じる。それが思いのほかヒナタに強い衝撃を与えた。二人が揃って彼女とやるとわかり、実際に目にしたときには予想以上に愕然とした。眩暈が襲い、その場で倒れた。うわごとのように、聴きたくない聴きたくないと呟いていたことは後で知った。脳は聴きたいものだけを聴く。逆を言えば聴きたくないものは聴けない様にする。よくできている。
あの音楽を聴きたくないと思い耳は機能を放棄した。音は遮断された。
郁也の芝居を観て声を聴きたいと思い耳は機能を思い出した。音は鳴り出した。
この世はよくできている。理不尽なほどに。
今度こそテレビを消す。大丈夫。受け入れることはできた。また立ち上がれる。何があっても音楽はやめない。耳も回復してきた。また唄える。そうまた唄えるのだ。ありがとう郁也。
鼻歌でメロディーを奏でる。いろんなメロディーが浮かんでは消える。どこかで聴いたようなものも不協和音になりそうなものも含めて様々に。そこから一つの形が産まれてきた。それは降って来た。神様の贈り物だろうか。悪いことがあれば良いこともある。そういうものだ。そう思いたい。
ピアノで弾いてみる。ギターでも弾いてみる。三十分でできた。できるときは短時間でできるものだ。音楽は一瞬のひらめき。それを形にできるのは才能と経験だろうか。
自宅の簡易スタジオで録音してみる。自分で聴いてみる。手直しをする。それを何度か繰り返したところで、詞をどうするかと考える。
いや、すでに決まっているのだ。今までのことを振り返る。出逢いと別れ。自身に起きたこと。舞台。郁也。バイオリンとピアノの音。鼻歌。すべてが運命なのだろう。
私の人生が音に現れるのだ。音が降ってきた。メロディーがやってきた。それは私自身なんだ。同級生に受けた仕打ちに悲しみを覚えた。父への複雑な想い。大神との出逢いは今でもはっきり思い出す。ヤマビコとの偶然もだ。
神は乗り越えられない試練は与えないと言う。そんなことはないとも思うが、それでも私は乗り越える。乗り越えられる。郁也のおかげだ。その感謝も想いも込めて伝えたい。
舞台に招待された時、耳が聞こえないのに芝居なんてと思った。でも、それでも郁也が来いと言うなら何かあるのではと希望に縋るように観に行った。その時、一枚のCDをスタッフを通じて郁也に渡した。あれは聴いてくれただろうか。あれがあの時のヒナタのすべてであった。何かを伝えたいと思い、聴こえない耳のまま、歌にもならない呻きのようなものでしかないであろうものを録音して送った。なぜあんなことをしたのだろう。人の心も行動も説明できないことがある。聴こえない耳なので、どんなものになったのか聴いてはいない。だけど、あの時の感情を全て乗せた。怒りも絶望もあった。それでも呼んでくれたことへの嬉しさや縋るような希望。懐かしさや寂しさやら言いえぬ不安。多くの感情が渦巻いていた。それを全部出し切りたいと思い、口を開いたのだった。理由なんていらないだろう。それでいい。
そしてあれが今度の曲の着想にもなった。何か運命のようなものを感じる。また郁也に救われたのだ。
そして、いつかはヤマビコと大神にも聴かせたい。聴いてほしい。
「いいのができた。なぁショパン」愛猫を抱き上げる。なー、と抗議の声をあげてするりと腕から逃げていく。つれないなぁ。ショパン。もう一度呼ぶ。毛づくろいしながら、はいはい、と言うように振り向きもせずに尻尾を二回床に叩きつける。思わず笑みが零れる。
音楽は国境を超えるとはよく言われる。
そして。
そして、音楽は時代を超える。
受け継がれる音楽を作りたい。それは音楽家の願いではないだろうか。
そうやってできた曲のタイトルは――「クラシック」。
純粋に音楽と向き合い、楽しんだ。
ヒナタは父を超えるとか考えることはなくなってきていた。ただ偉大な音楽家として尊敬するだけだ。邪な考えはいらない。そう思えるようになってきた。
◇
魔王との舞台が終わり、しばらくは余韻に浸りながらどこか虚脱感に襲われていた。それくらい充実していた。魔王の異名は伊達じゃない。あんなにすごい化け物がいるのだな。そしてまだ共演してない化け物がうじゃうじゃいるのだ。そう思うと軽く震えた。
千秋楽の日のことを思い出す。楽屋で開始の時間を待っていると、ノックをして桐谷社長が入って来た。
「本番前にごめんね。渡したいものがあるの」
差し出されたのは一枚のCDだ。
「なんですかこれ?聴けってことですか?」郁也は不思議そうにCDを見つめた。
「ヒナタさんからみたいね。スタッフから渡されたんだけど」
なんだって!?郁也は急いでプレーヤーにセットした。何が入っているのだろうか。
流れてきたのは一つの曲だ。それは声にもなっていない。鼻歌のようでもある。うまく音程が取れていないようにも感じる。耳が聞こえないままに歌ったのだろうか。
郁也はそのヒナタの声に心が揺さぶられた。あいつはどういう想いでこれを唄っているのだろうか。様々な感情が浮かぶ。
懐かしい。温かい。悲しい。悔しい。楽しい。嬉しい。そして絶望と淡い期待のような希望。様々な想いが浮かんでは消えていく。たった一曲の中に多くの色を見せてくれる。耳が聞こえなくても、歌詞にならなくても、音程がどうであっても、気持ちをとても感じる。感情が伝わってくる。音楽とは声と音だけなのに、これだけのものを見せてくる。
郁也は、気づかされた。
複雑に重なる感情を表現する舞台。難しくきつい。それでも稽古の時より上達した。初日より二日目のほうがうまくできた。でも魔王には届かない、超えられない。そう思いすぎていた。しかし、違うのだ。魔王を超えるとかでなく、自分を超えるのだ。観せるのは魔王にでなく、観客になのだ。邪念が入るから、頭で考えすぎているから、憑依しきれていないのだ。まだまだイメージに落とし込めていない。魔王の圧力に萎縮してしまうあまり、魔王ばかりを意識しすぎた。そうじゃないんだ。
ヒナタの声は唄うことを素直に出していた。技術なんてなかった。ただ思うままに押し寄せる感情のままに。それはプロとか関係なく、ただの歌う人へと溶け込んでいた。そこに気負いはない。ただ唄うだけだ。ただ歌が好きなのだ。自由に羽ばたいている。聴いてほしいという想いが伝わる。
なによりも、歌う楽しさや喜びを感じる。耳が聞こえなくて絶望にいるにも関わらず、こんな歌にもなっていないようなものでもあるのに、それを強く感じる。そうだ、ヒナタは歌うことをあきらめていない。そして絶望にいようとも、歌うときには、音を楽しんでいる。
感情は演じるものではなく裡から溢れるものだ。溢れる感情には行動があるものだ。それをその役らしく出せばいい。郁也は思い出した。
そうだ、郁也もただ演じることが好きなだけなんだ。それを忘れていた。好きなことを出来ることの喜びや感謝を忘れてはいけないのだ。超えるとかそんなことを考えていてはだめだ。そして郁也はもっと深く深く潜ることになる。底が見えるところまでも……。
「迷いがなくなったいい顔をしていた」と桐谷社長に後で言われた。ふっきれた部分は確かにある。
魔王は挨拶を終えて袖に帰った時、「最後の場面よかったよ。血は争えないね」そう告げた。郁也は一矢だけ報いたのだ。ただの一度も褒めることのなかった魔王に言わせたのだ。そっと拳を握る。だがまだまだだとも思う。ラブはどう思っただろうか。がっかりしただろうか。それとも認めてくれるだろうか。でも今は魔王の言葉に少しだけ酔いしれよう。
千秋楽のアンケートの感想欄には、初めて魔王と同じくらい郁也への感想が書かれていた。郁也は大きな自信を得た。
だがそれと共に背後には破滅の漆黒の闇がヒタヒタと近づいていた。
郁也は、ヒナタのCDをよく聴いている。部屋にいればほとんどリピートし続けている。心地よくもあり、不穏さを感じもする。音楽とは凄いものだな。あんな小さいCDだけで届けられる作品。いや。今はネットを通じての配信がメインになりつつある。CDを買うまでもなく、まさに音楽だけを買う時代なのだ。
音楽家っていうのは一人で作詞作曲して唄って楽器も演奏してって人が少なくない。役者とは全然違う。監督やって脚本書いて主演もするって人もたまにいるが、ほとんどの役者は演じるだけだ。どっちがいいのだろうか。自分で書いたものを演じるのだから演出もわかっている。だから思った通りのものはできやすい。
でも、と郁也は思う。
でも、他者が他者の想いを想像して演じる時に化学反応が起きる、と。それが悪くなることも多い。だけど、思った通りでなく、思いがけないモノになったり、思った以上が起きるのは他者がやるときではないか。だから役者は演じるエキスパートでいればいい。
役作りっていうのがあるけど、芝居に専念しているからこそできるものだ。監督をやっているのに役に没頭してしまったら全体が見れない。憑依型の郁也には絶対無理だなと自嘲気味に笑う。
今だってそうだ。だいぶ抜けて来たけど魔王の相手役が尾を引く。どこかで魔王を母親だと思い、魔王は死んだと思い、憎しみと慈しみを感じている。これでは複数の役をかけ持つなんて到底できないな。
それにしてもヒナタの声は心地いい。帰って来たという気持ちになれる。
次の仕事の話があると桐谷社長に呼ばれて事務所を訪ねる。
中古で買った合皮のソファーに腰掛ける。ぎしりと音が鳴る。桐谷社長が珈琲を淹れてくれている。薫りがふわりと舞い事務所を満たす。
「次の仕事なんだけど」カップを前に置いてくれながら桐谷社長は切り出す。
郁也にはなんとなく予感がある。
「ラブとの共演」
ほら来たと桐谷社長の言葉に頷きかける。
「……のチャンスが来た。あくまでチャンス」務めて冷静にそう言う。
「どういうことですか?」郁也はわずかの気落ちを隠しながら尋ねる。
「来年クランクインする映画の主演女優がラブに決まっている。相手役はオーディションで決めるみたいね。そのオーディションへの誘いがあった。一般公募でなく、ラブの事務所がラブにふさわしいだろう役者数名のオーディションを開くようね。ちっちゃい頃から知ってたラブがいつの間にか凄い存在になってしまった。従姉として嬉しいけど少し複雑ね。まだ新人といえる芸歴なのに」一息に喋ると珈琲で喉を潤す。その滑らかなのどが動くのが見える。郁也はしばし固まった。そして。
「でもそこに選ばれたわけですよね。スタートラインには立てた。なら可能性はあります」と武者震いを交えて郁也は力強く言う。
「そうね」桐谷社長はまっすぐに見つめて言う。「魔王との経験で数段レベルアップしている。私の想像以上に早く成長している。ひいき目なしにオーディションは十分に勝算あるわ。ラブもあの舞台を見て郁也を候補に推したそうよ」
郁也も自信はある。魔王には感謝しないと。あの二人芝居は重圧への耐性もついた。何からも逃げない怯えない。
「そういえば」郁也は桐谷社長をまっすぐに見る。
「何?」
「現場でスタッフにちらりと聞いたんですけど、ラブって父親いないって本当ですか?」
「ええ、本当よ」
「それは魔王がシングルマザーとして育てたってことですよね」
「そうね。私も時間がある時には世話をした。でもほとんどを真緒おばさんは一人でやってた。だからあの二人、憎まれ口を言ったりするけど、絆は強い。そして、ラブが小さい時にはよく撮影現場に連れていってた」
「もしかして」
「うん。だからラブは凄いのかもしれない。魔王の血を受け継ぎ、魔王の演技を小さい時から特等席で観てきた。そして魔王は技術が凄いでしょう。それも全て盗んだんじゃないかな。よく撮影してる横で魔王の真似したり演技のようなことしてた。たまに私は相手役やってあげたりね。時折驚くような演技をしてきて私震えたなぁ。天才っているんだと知った。そのうえで、彼女は憑依さえもする」
「化け物ですね……。ってそんなこと言ったら殺されるな。演技の神ですかね」
「女神ね」
「父親は誰かわかってはいるんですか?」
「真緒おばさんは何も語らないわ。墓場まで持っていく気かしら?」
「俺の父親と関係があったなんて話も聞きましたが……」神妙な表情になる。
「それが一番聞きたかったのね」桐谷社長は微笑む。「安心して。それはない。そういう関係ではなかった。同志のような存在かしらね。出会い方が現場でなければ違ったかもしれないけど、二人はお互いに役者として嫉妬しあい、尊敬しあってた。そこに恋愛は入る余地がなかったなぁ」
郁也はほっとした。
「ラブときょうだいじゃないから大丈夫よ。自由にしていいのよ」
「いや、そういう心配をしてたわけじゃなぐ」舌を噛む。あからさまに動揺した。
その話はそこで郁也が強引に畳んだ。
すると桐谷社長は仕事の話の続きと言った。
「でもその前にスペシャルドラマの話があるの。オーディションは他の役者の都合もあるのでまだ少し先。だから時間が空いてしまうからね。大丈夫よね?準主役と言える役どころ」
「はい大丈夫です」
その仕事をオーディションへの景気づけにしようとどこか思っていた。自信もあったし、あれだけの舞台を経験したあとのドラマで自分がどう役に入り込めるのか期待をし、わくわくした。
だがやはり運命はすんなりとはいかせてくれない。つくづく試練を与えたがる。だが試練はそれを乗り越えることのできる者にしか与えられない。
ドラマでの郁也の役は、二重人格者。かたや生徒から慕われるさわやかな高校の音楽教師。かたや女子高生連続殺人鬼。殺人の負い目と快楽で揺れ動くモンスター役だ。演技力が買われてのオファーである。
主役は現役高校生アイドルの西園寺みずほ。天性の明るさとあいらしいルックスで人気だ。だが演技経験はほぼなく、一度だけ番組企画のショートドラマに本人役で出たのみ。その演技力は評価するほどでさえない。
もちろんだからこそ脇を固める必要があり、演技派が揃う。そこに郁也も入っている勘定だ。それが今の郁也の評価を物語っている。
物語は、西園寺みずほ――役名はサヤ、その父親は県警のベテラン刑事で検挙率トップを誇る。でも実はその裏でサヤが解決の手助けをしていた。犯人である郁也――役名はシマダがサヤの友人を殺す。そこでサヤは犯人捜しを始める。その中でシマダは自分に近づきつつあるサヤも殺めようとするが果たして、という内容。
ラブのように自分の演技で西園寺のことも引っ張ってやりたいと郁也は思っていた。そして拙い演技をカバーもできるように普段以上に役作りをしっかりして撮影に臨んだ。そして深く、深く、潜り込んだ。役に。
『ねぇ先生』サヤは笑顔で話しかける。夕焼けを背にするので表情は影になり見えない。それでも天性の明るさが漏れて見える。
『なんだいサヤ君』シマダは返事をする。
『私、殺されちゃった友達の日記を見つけたんだ。部屋を見せてもらった時に』少し棒読みに近くなった。
『そ、そうなんだ』シマダは平静を装うとするが少し戸惑う。手がかりになることは残してないはずだがと頭で考える。表情と細かい体の動きで不穏さを醸し出す。それと共にサヤの演技をカバーする。
『日記は隠してあったの天井裏に』サヤは一歩横に動く。夕日から外れる。光がシマダに直撃して思わずうなって目をそらす。
『面白いこと書いてありました』サヤは得意げに言う。
シマダはあきらかに狼狽した表情をしてしまう。サヤの言葉は多分はったりだと思っていながらも。
『ではさよなら先生。またね』そう言って背を向け軽快に走っていくサヤ。
その背を睨みつけるシマダ。唇を思い切り噛みしめる。うっすらと血が滲む。手は首を絞めようとするかのように空を掴む。鬼気迫る空気が出来ていた。
「カット」監督の声でカメラが止まる。今日の撮影はここまでとなった。
おつかれさまと声をかけながら郁也は着替えをしようと現場を離れていく。途中で主演の西園寺を見かける。普段なら声をかけていくところだが、役柄上憎しみを持つ相手だ。関係上仲良くしないほうがいい場合、郁也はカメラが止まっても近づかないようにする。撮影が全部終わってからは挨拶をして気軽に話をするが、撮影中は役柄上の関係性も考えて行動する。それくらいのことをやっている役者は多い。役になるとはそういうことだ。遊びに来ているのではない。嫌われてもいい。だから初対面の役者相手でもそう接する。もちろん桐谷社長がフォローを入れてくれているが、悪く思われることも多い。
「おつかれさまでした」そんなことは一切気にせずにアイドルさまは駆け寄ってきて元気いっぱいに挨拶をする。
郁也はそっけなく頭を下げるだけにして先を急ぐ。後ろから、感じ悪いなぁという声が聞こえたが関係ない。そして数歩歩いてふと足を止めて振り返る。西園寺はマネージャーの車に乗り込んだところだ。
それを見る郁也のまなざしは汚物を見るような目つきをしていた。
――日記には何が書いてあったんだ。やばいことか。あいつを野放しにはできない。身近で殺害するのは危険だが、放っておくほうがやばい。どうにかしなければ。
桐谷社長が小走りに近づいてきて、「さぁ帰りましょう」と声をかけてきた。「どうかした?大丈夫?」
一瞬遅れて郁也は桐谷社長に気づき頷くと凝りをほぐすように首を回した。「いえ、なんでも。挨拶されただけです。でも役的に仲良くしないほうがいいと思うので少し戸惑っちゃいました」
そう言って笑いながらも、郁也の手は何かを握りつぶすように固く握りしめられていた。
時折思考が乱れる。自分と別の自分がいる。
郁也の中で化け物が着実に育っている。
9
「クラシック」完成後は、いろいろなアレンジも試してみた。大きな可能性のある、大きな歌だとヒナタ自身思っている。ピアノで弾いたり、ギターで弾いたりしながら楽しんだ。こんなに音楽を楽しいと思うのは久しぶりだった。耳が聴こえることは当たり前ではないのだ。健康であることだけでも大変であり、感謝すべきなのだと気付いた。
育ててくれた父と母にも感謝した。複雑な想いはある。それでもここまで育ててくれたことに感謝しかない。恩を感じる。そして、郁也にも。
ヒナタはとりとめもなく、思いつくままにピアノを弾いていた。ふと懐かしいメロディーを奏でていることに気づく。それと共に過去が思い浮かぶ。それはヒナタが最初に郁也に聴かせた曲。デビューしてからも発表はしていない。聴かせた相手も郁也だけだ。凄く気に入ってくれて売れるよと言ってくれた。それが自信の源でもある。だからなのか。それを発表しようとは思わない。思い出の曲と言うと美化しすぎだが。一人で笑った。郁也は覚えているだろうかこの曲を。
ら~ら~ら~と声にしてみる。シンプルな音色でゆっくりなテンポ。飾らない歌詞。これを書いたのは中学生の時だ。
目をつぶれば校庭の土の匂いが浮かぶ。木々が風に揺れている。遠くで野球部の大きな声と金属音。微かに聞こえる川の声。太陽の陽射しが狂暴だった。若いヒナタたちはじりじり焼かれることを気にもせず肌をこれでもかと晒していた。額に汗をかきながら、郁也と並びいつのまにか唄っていた。メロディーは昔から知っていたように頭の中にあった。歌詞もよく知っているように口から次々に零れた。歌は遺伝子レベルで人に備わっているものではないのか。そう思い太古の歌を思った。
郁也と私は漠たる不安と確たる希望を持っていた。大いに語り大いに笑った。高名な親を時に恨み、時に感謝した。
いつしか二人とも夢は親越え。芸能の世界に行くのはただの通過点。野望を抱き、自分の才能を信じた。それぞれにきっかけとなる作品と出逢い、密かに練習をしていた。芸能人の子として生まれると、その道へいくのかどうかの選択がまずある。その話をした時に二人とも、芸能界に入ること、そして父を超えることを思ったことに驚きつつも納得したものだった。
――「私、本当にプロになれるのかな」中学生のヒナタはぽつりと囁く。
ヒナタは自分に才能があるのかを懸念するようになっていた。
プロを目指すと決めてからまずギターを始めた。そして曲作りも始めた。その中でピアノも曲作りのためもあって始めた。幸い家には父のグランドピアノが鎮座していた。売れっ子の父は家にいない時が多く、ピアノに埃が積もることもあったのをいいことに使い始めた。そしていくつか曲ができた時、父にはっきりとプロを目指すこと宣言した。「貴様より偉大な音楽家になる」と。その時に父に言われた言葉が自分を迷わせることになった。弱い自分が首をもたげた。
そのことを郁也に話した。すると俺も歌手になりたいんだと郁也は言いだした。それなら私が郁也の歌を評価してやるとふざけあって、郁也は歌い出した。
声変わりするかしないかの思春期にしかない声で歌い出した。その声は今も思い出せる。いい声だなぁと思った。でももう失われた声色なのだと思うと切なくなった。切なさが混じった歌は悪くなく、ヒナタは好きだと思った。あの人の血を継いでるんだなと感じられた。でも。でもプロにはなれないと思った。
陽気にどうだい?なんて聞いてくる郁也にはなんとも言えなくて、不意に唄い出したのだ。郁也はいきなりのことにちょっと驚いて肩をびくりとしたけれど、すぐに体が横に揺れながら目を閉じた。
♪僕の帰る場所は 君の待つこの街で
君の帰る場所は 僕の居たこの場所で
なんでだろう。ホームシックにかかったかのように、故郷をたまらなく愛しく思った。自分は絶対にプロになる。十代でデビューすると決めた。決めたんだ。夢や目標でなく決まったこと。そう思った。
だからかな。
きっとあの街を遠くない未来に離れると悟った。だからあの街の空気を忘れたくなくて。あの校庭でのあの一場面を大切に思って。
人は皆、帰る場所を求めているのではないか。そして帰る場所があると思えるから頑張れるのではないか。私の帰る場所は……。
♪この一瞬を切り取って 胸に抱えて 僕は夢へと旅立つよ
土の匂い 風の声 木漏れ日の眩しさ 嗚呼、愛しき故郷よ
遠くで鳥の歌が重なった。風に歌が乗ったのか、野球部が静かになり、全員がこっちを見ていた。郁也は目を瞑っているので気づいていない。
ヒナタは唄い終えた。郁也はそっと目を開く。
ヒナタを見て大きな口いっぱいに白い歯を見せた。少し悔しそうに。少し誇らしそうに。
「最高。絶対売れる。俺の分まで唄ってくれ」あっさり歌手の夢撤回。やっぱり俺は役者になるよと郁也は言った。
「ちょっと向こうむいて」と言われて差し出された手をヒナタは握る。立ち上がって背を向ける。
ドン。大きな衝撃。大きな手で、あたたかい掌で背中を押された。ジンジンとした。
「またそれ聴かせてよ。ちょっと有名になった頃にでも」郁也は大きく伸びをした。その時は懐かしいなぁと昔に戻れるかなと呟いた。
「忘れたことを思い出し、戻ってこれるくらいの歌い手になるよ」約束だ。声には出さない約束。誓いだ。
ヒナタは泣いていた。自分で自分に戸惑う。どこからかともなく愛猫のショパンがやってきて鍵盤に乗る。意外にも不快でない音が鳴った。無造作に飛び乗ったのに。ショパンの名は伊達でないなと思っていると、顔を舐めてきた。じゃり。じゃり。猫の舌はざらついて痛い。
涙は乾いた。まったく。ショパンの顔を両手ではさみこみ、鼻に鼻をつける。
――最高
空耳?そうだとしても。
背中を押された気がする。なんとなく勇気をもらった。
いつも郁也は手を差し伸べてくれる。背中を押してくれる。ありがとう。
人は一人では生きていけない。そして人は一人じゃない。そう思った。
甘ったるい考えだと言われてもいい。誰かが背中を押してくれるなら、わたしも誰かの背中を押す。そうできるような曲を作る。想いをメロディーに乗せて。声にならない想いも乗せて。言葉は偉大だが、言葉は万能ではない。音は偉大だが、それが全てではない。私にはどっちも大切なものだ。
「クラシック」を大神とヤマビコに送ろう。聴いてほしい。そして一緒にやりたいと言おう。もちろんすぐでなくてもいい。いつまでも待つ。音楽は逃げない。色褪せない。いつまでも。
復帰後最初の仕事として音楽番組への出演が決まった。
◇
『自分の近くで複数の死者を出すのは危険だがしかたない』シマダはそう言って手に力をこめる。親指が喉に食い込んでいく。下になったサヤの顔は青白くなり目は充血している。口角には泡が溜まり始めた。呼吸をできずに低く呻く声がわずかに零れるだけだ。『死ね』
「カット」の声がかかる。それでも郁也の手は首にかかったままだ。西園寺が悶える。異変に気付いてスタッフが駆けつけて郁也を無理やり引きはがす。
西園寺は手で喉を抑えながら咳き込む。顔色は冴えない。「こ、殺す気?」
「ごめんなさい」桐谷社長が傍らに跪いて謝る。紙コップの水を差し出す。西園寺みずほのマネージャーは般若のような顔で抗議してくる。ひたすら桐谷社長は頭を下げる。
郁也は放心したように突っ立ったまま空を眺める。
「一言くらい謝りなさいよ」マネージャーが詰め寄る。
それにも気付かず郁也の目はうつろだ。ぶつぶつと呟いている。
「じゃま、ころす、じゃま、ころす」
マネージャーはひぃとのけ反る。
サイコなんじゃないのと、ぜいぜい言いながら西園寺が言う。喉には指のあとがくっきりついている。でも、迫真のシーンは撮れたわねと零す。アイドルなりにもプロ意識はある。
治療費は請求してくださいと桐谷社長はマネージャーに再び詫びながら言う。
桐谷社長は郁也をみんなから見えないところに連れていく。「大丈夫?」
郁也の焦点は相変わらず定まっていない。桐谷社長はため息を吐いた。
――あの細い首の感触がたまらない。喉の骨の折れる音が聴きたい。どんな音を奏でるのだろう。しかし、もう少しなのに邪魔しやがって。ちきしょう。邪魔だ。邪魔邪魔ジャマ。
郁也は、焦点の合わない目で、空いた口からよだれが垂れる。
桐谷社長は眉間にしわを寄せて険しい表情で「もう少しだけできる?」と言って、右手を振り上げる。郁也の耳に大きな音が鳴った。頬が赤くなる。
郁也は帰って来た。すいませんと謝る。
――俺はどうしたんだろう。どこへいってた?殺したい?誰を?いったい俺は何を思っているんだ。
休憩を挟み、仕切り直しのようにして最後のシーンの撮影に入る。スタッフ一同緊張感が蔓延している。これだけの緊迫感のある撮影はいつ以来だろう?そう皆が顔で言っていた。桐谷社長も西園寺のマネージャーも最大限の警戒で見守っている。
サヤの絶命の危機に父親が間に合いシマダを突き飛ばす。頽れたシマダに飛び乗り拳を叩きつける。シマダも必死に抵抗する。もみ合いながら地面を転がる。隙間ができたところでシマダが父親を蹴り飛ばし間を取る。傍らには青息吐息のサヤ。ピンチが一転チャンスとばかりに飛びつく。父親はうかつに手が出せなくなった。
『拳銃を渡してもらおう』シマダは薄笑いを浮かべる。腕をサヤの首に回し、自分の盾にするように前に出す。
『娘を離せ』父親は現職の刑事だ。銃を手放すことが危険なのはわかっている。しかし人命優先だ。だが銃を渡したらさらなる被害が。しばし逡巡する。
『早くしろ』シマダはサヤの頭を殴る。鈍い音がする。
スタッフ一同固まる。静寂が現場を包む。
『……パパ』サヤは弱々しく父親に語り掛ける。
何事もなく芝居が行われている。現場に安堵の空気が漏れる。だが本番は続く。
『かまわず撃って。みんなの敵を』潤んだ瞳で嘆願する。息は今にも切れそうだ。顔に血の気がなくなる。額に玉のような汗が出る。今まで見たこともないような西園寺の渾身の演技だ。
桐谷社長は眼光鋭く西園寺の演技を見て、「これはあの娘、覚醒するかも」と呟いた。
役者は時に覚醒することがある。西園寺は、本気で死を感じるほどのことをされ、本気で郁也をサイコパスだと思い、現場の緊張感が芝居の枠を超えたことにより演技力を数段あげた。
そして、それは郁也のおかげでもある。役に入り込みすぎて憑依してしまった。行き過ぎた演技に周りをひやりとさせた。それでも、そのリアルさが西園寺のスイッチを押した。いい役者は周りのレベルもあげる。ラブが典型的だ。郁也にもその才があるのかもしれない。だけど、一歩間違うと芝居すべてを壊すこともあるし、共演者のレベルを最低にすることもある諸刃でもある。
『……撃てない』父親は銃を投げた。乾いた音を立てて地面を転がる。シマダの足元近くに止まる。
シマダは一瞬それに視線をうつす。瞬間サヤはシマダの手に噛り付く。短くうなって手を放す。だがすぐに反撃態勢に入り右拳をサヤに叩きつけようとする。目は完全に飛んでいる。ここは反撃しようとするもバランスを崩す場面。そこへサヤが体当たりをして形勢逆転のシナリオだったが、郁也は無視した。
サヤはピュッと口をすぼめて息を吐く。
紅が宙を舞った。それは霧となり、シマダの目に入る。鮮血。
視界を奪われたシマダの拳は大きく空を叩く。勢いあまり倒れこむ。すばやく父親がシマダにとびかかり抑え込む。サヤはゆらりと動く。
『確保だ』父親がシマダの手を後ろに回し手錠をかける。ふぅと一息つく。横に立つ影。見上げる。サヤだ。その顔を見て息を飲む。そしてサヤの右手がゆっくりとあがる。シマダを指さす。そう思った。
しかし伸びるのは指先でなく銃口。
『、ま』待てと言おうとする間もなく発砲音。
監督含めたスタッフ全員も桐谷社長もマネージャーも動けない。息も忘れる。時が止まる。この空間で動くものは誰もいなかった。
シマダの顔の横で地煙が舞う。シマダは白目を向き気を失った。
『これがカイカンってやつか』恍惚とした表情でサヤは囁く。
『クセになりそう』
ふぅと銃口に息を吹きかける。くるっとカメラの方を向き、ペロっと舌を出す。
しばらくの静寂の後、誰かが手を叩く。波となり拍手の津波となる。クランクアップの達成感とすごいものを見てしまった昂奮。本気で郁也が殴りかかろうとしたところからはすべてアドリブだ。臨場感が溢れていた。
「カット!」遅れて監督の声が間抜けに漂った。
西園寺みずほはもしかしたら化けるかもしれない。これが生涯最高になってしまうかもしれない。この場にいたみんなが驚くほどの演技を見せた。
桐谷社長は郁也を見る。気を失ったままの郁也を横目に大きな息をつく。不安の塊が吐き出された。
郁也の眉間の皺は深く深く刻まれている。
10
「続いては、ヒナタさんです」音楽番組の名物司会に紹介される。もう二十年以上続く長寿番組だ。二十年か。アーティストも二十年やれたらたいしたものだ。
「よろしくお願いします」ヒナタはにこやかに挨拶する。復帰の一歩として音楽番組への出演を選んだ。元気な姿を見せたいという想いがあったのだ。季節は夏を超え、秋も深まり、冬の足音が聞こえる頃になっていた。
司会者のすぐ横のベンチソファーに座って曲の前に会話をする。横には出演するアーティスト。後ろにもベンチソファーがあり同じく出演する数組のアーティストが座っている。生放送でもあり、独特の緊張感がある。
「休養明け一発目のシングルだけど」今日やる曲の話を振ってくれる。
「はい。これは挑戦です」決意のこもった眼差しで司会者を見つめる。
「意欲作だ。何への挑戦?」
「自分自身と、音楽。そして過去です」
「かっこいいね~。だから『クラシック』ってタイトルなわけだ」
「それではそろそろ準備のほうを」司会者の隣のアシスタントアナウンサーに促される。
「はい」
席を立ちステージへと向かう。それを見つめるアーティストたち。その中によく見知った顔もいる。渡したCDは聴いてくれただろうか。そして今から生で聴いてくれ。私一人としては完成形だが、その先がある。まだCDとして発売はできない。
この番組のステージは、凝った演出をしてくれることもあり、アーティストには評判がいい。自分のライブではできないことを試す者もいれば、その後始まるツアーに向けての演出をする者もいる。ヒナタはツアーが決まっているわけではない。今日かぎりの演出。そして特別な日になる。
だからこそシンプルにしたかった。派手な電飾やスモークも小物もなし。あるのはただ数枚の額に入った写真。それは偉大な音楽家たち。尊敬する音楽家たち。そして現代の音楽家にたちはだかる最強の敵でもある。
マイクスタンドの前に立ち、すっと背筋を伸ばす。マイクを両手で優しく包む。息を吸い、吐く。「聴いてください。『クラシック』」
ヒナタの口から奏でられる笛の音。それは風の囁きのように静かに、心地よく耳を撫でる。観覧に来ている観客が静かに拍手をする。
ベースがリズムを刻む。口笛は止む。ヒナタはアコースティックギターを叩く。ベースの音色とギターを叩く音がステージに響く。まるでこだまのように二つの音が鳴る。
ヒナタのギターとサポートメンバーのベースだけの構成。
この曲ではソリッドギターのギブソンでなく、アコースティックのハミングバードだ。生音を強く意識している。ヒナタはアコースティックの音が好きだ。
ギターの弦を指で弾く、一音一音はっきりと鳴らすアルペジオ。丸い音が空間を包む。そしてヒナタの声が鳴り響く。
低い声が地鳴りのように空気を震わせる。空気の振動が観客に伝わる。ある者は鳥肌が立った。ある者は背筋がぞくりとした。
寒気の中にかすかな暖かさを感じさせる。それは一陣の風。春を告げる一番。だんだん日が長くなると共に、草木は芽吹き、やがて花が咲く。桜が咲き乱れたような、目に心地よいような音が響き渡る。命の息吹を感じる。
鮮やかに色が広がる。
徐々に音が高くなっていく。その伸びやかな音が天井を突き抜け天まで届く。艶のある高音が色めく。
太陽がぎらつく。地上を焼くような光。木々は青々と茂り、空はどこまでも青く広がっていく。時折鳴り響く不穏な音は夏の夕立、雷鳴を想起させる。雨と太陽が命を育む。大地には、太陽に恋をする向日葵が鮮やかに黄色を浮かび上がらせる。
観客は音に身を委ね、イントロにうっとりとする。
しかし、次第に観客は不思議な顔に変わっていく。困惑。
ヒナタの声は観客の戸惑いをよそに、自由に羽ばたいていく。重力を感じない軽やかさ。まるで羽毛が舞うように。
空を舞う鳥が風に乗るようにメロディーに乗る。
青く茂った葉は夕陽のように染まっていく。
太陽は低くなり、夕方の影を長くする。太陽は偉大な神だ。あたたかさを降り注ぎ、明るさを与えてくれる。生命は太陽と共に連綿と繋いできたのだ。山が紅く映える。
転調する。それは一転して夜の風景。夜が長くなり月が存在感を大きくする。
丸い月は、誰もが見上げてため息をつく美しさ。笑った月に風情を感じる。欠けて見えても月は、そこに在る。見えなくても在るんだよ。命が熟れる。ウサギが跳ねた。
観客は感動する。だが、それと同時になおも戸惑う。そこに聴こえるフレーズが、自分たちの知っている言語がひとつもないことに。言語とさえ言えない声に。
だが、無意識にも体は揺れ耳を澄ましている。意味を為す言語とかである必要はないのだ。音楽は自由だ。国境も言語も超えていく。
意味を為さないからこそ、人は音楽のイメージを湧かせることができるのかもしれない。自由に飛び立つ。自由の羽ばたきは音に画を与えていく。人の数だけ画はある。
葉が落ち、鳥は南に下る。夜が長くなる。世界はモノクロになっていく。雪が舞う。
だが、夜は優しい。人に安らぎを与えるものだ。疲れを癒すための時間を作り出すものだ。夜は友人なのだ。夜の静けさが寄り添う。動きを止めていく。命は巡る。梅がひっそりと咲いた。梅の香りは春を予感させる。始まりを告げる終わり。冬は終わりを告げる曲だが、始まりのプレリュードでもあるのだ。
白く染められた世界は何色にでもなれる。
ヒナタの声が生き物のように縦横無尽に空間を動く。ビブラートやファルセットを織り交ぜ、多彩な声を奏でる。それはもはや楽器。
人は、人も、楽器なのだ。
声を鳴らし、音楽を奏でる。
でも。ヒナタはやはり唄っているのだ。確かな歌詞がなくても唄う。存在する言語でなくても声はある。声があれば音楽はある。聴いたことのない音楽を奏でる。見た事のない景色を見せる。その想いで唄う。
音域の広いヒナタだからこそ、メロディが上下に大きく動かせる。誰でも表現できる音楽ではない。複雑なメロディ構成ではあるけど、聴いているものには心地よさを与える。そのうえで今までとは違った新鮮さをもたらす。新しい音を聴かせたい。新しい色を見せたいという想いで唄う。その想いがメロディに乗って届けられる。
新しい音に戸惑いながらも、新しいものへ触れる喜びを聴く者は抱く。例えば晴れているのに雨が降る――狐の嫁入りに初めて出くわしたような不思議な気分。自然の美しさを感じ、感動を覚える。春夏秋冬。花鳥風月。耳を澄ませば、目を凝らせば、心静かにすれば、世界はこんなにも色めいているのだ。
メロディーが大きくうねる。
命がより濃く感じられるような音になる。
太陽や月。そして海に大地。花。自然が優しく微笑んでくるように感じる。音に乗り、地球を飛びまわり、あらゆるものを見る旅に出る。美しい光景が浮かんでは消えていく。命は美しいのだ。刹那の命であっても、刹那だからこそ、強く光るのだ。
いつのまにか自然と聴く者は笑みを携える。そしてうっとりとしてリラックスする。音はいつの時代も人にやすらぎを与えてきた。
そして音は突然止む。
照明が落ちる。暗闇がステージを満たす。静寂も音楽の一部だ。間。
息を吐く音が聴こえる。息を吸う音が聴こえる。それは次第にリズミカルになる。それはやがて音楽になる。呼吸も、呼吸までもが、音楽なのだ。
言葉のない時代。言葉はなくても声はあった。音はあった。
喉を震わせ音を出し、求愛をしただろう。
呼吸で感情を伝えたろう。
太古より音楽はあった。ただただそこに在った。
私たちは、そこにある音楽を見つけている。そしてそれを鳴らすのだ。奏でるのだ。
メロディーがやってくる。
爽やかな声でまた唄い始める。奏で始める。囁くようなか細い声なのにしっかりと耳に入ってくる。静かな波のように。そして音は力強く、荒々しくなる。大海原の波のように。
海は生命の始まりとも言われている。それは母。大地の父。合わせて世界は命を産み、育て、また新たな命となる。
命が産まれるとき、音楽も産まれる。
音なのに眩しい。目を開けていられない。光り輝く音楽。命の誕生は光だ。未来を照らす大いなる光。そんなことを感じさせる声。音。天から降り注ぎ、地から湧き上がる。
音が産まれるとき、楽しさが溢れる。音楽とは、人の快楽なのだ。楽しめ。楽しめ。
ヒナタは自分が楽しむことにより、その楽しさを伝染させようとする。大きな音楽に聴く者は圧倒されながら、打ち震え、身悶えた。
大きな喜びだ。天へと昇れ。
魔法をかけるようにヒナタの声が心に入り込んでいく。その魔法に身を委ねることが幸福とみんなは知っている。無意識に感じている。抗うこともしない。抗うこともできない。
ただただ音の奔流に飲まれていく。流されるままというのは気持ちのいいものだ。
音が光を感じさせる。そこにライトが無数の色を与えた。本当の光が帰ってくる。演出ではあるが、幻想的だ。夢とうつつの境が曖昧になっていく。
ヒナタは両手を握り何かに祈るように声を震わせる。
世界が祝福する。世界を祝福する。
音が弾み、音符がそこここあそこで踊っている。跳ねている。笑顔が広がっていく。
再びギターを叩く音だけになる。
それは鼓動。
心臓を打ち鳴らす音。
命の音。
ヒナタが叫ぶように、声を鳴らす。
優しくも力強い。命の誕生。
産まれた赤子の力強い泣き声のような音がこだまする。
それは世界で一番あたたかい音楽。あたたかさが降りそそぎ、そっと抱きしめた。抱擁。人は人の体温を感じるとホッとする。そんな温もりをヒナタの音楽は感じさせた。
天を仰ぎ見る。最後の甲高い澄んだ音を天に投げる。音は、天井に当たり、残響となって、雨のようにスタジオに降り注いだ。慈しみと温もりを感じさせた。
音が止む。ヒナタは深く頭を下げる。
放送事故のように静まった画面。
そしてその余韻を断ち切るように、CMに画面は切り替わる。
CMソングが薄っぺらく流れた。
ヒナタの歌に明確な詞はなかった。誰かが知るような言語もなかった。ただ声だけを使い多くの表情を作り、感情を揺り動かした。スキャットでもありボイスパーカッションのようでもあった。太古の儀式の歌のように声だけで音だけで表現される歌。だが、間違いなく唄っていた。歌が満ち満ちていた。
偉大な音楽家たちは歌詞のない世界で聴衆を魅了し虜にした。そしてその魔力は現代にも残る。音楽とはなんなのだろう。歌詞は、言葉は、いったいなんなのだろう。
それは現代音楽、ポップス、ロック、フォーク。演歌にブルースにラップ、そしてジャズ。すべてへの挑戦だ。そしてクラシック音楽への挑戦だ。声を楽器にして音楽にする。唄うように演奏し、演奏するように唄う。
言葉は音を超えて、音は言葉を超えて。お互いがお互いを補って。お互いがお互いを高め合う。
音楽に限界はない。
さらなる進化、先があるのは、バイオリンとピアノがないから。大神とヤマビコが合わさる時、さらなる音楽が産まれる。
エンディングで一言言う時間を与えられた。
「『クラシック』はまだ進化、変化します。CDにする時に今日とは違った色を見せます。そして」
このあとの発言は大きな話題を呼ぶことになる。
「そして。誰でもこの曲に自由に詞をつけてください。私はただの記号としての言語を音の一つとして使いました。だから明確な歌詞と言えるものはありません。でも言葉は私たちの想像の結晶です。過去が素晴らしい音楽を残してくれました。それに言の葉を乗せましょう。現代の歌詞のある歌が私は好きです。そして、未来へ届けたい」
もちろんヒナタも詞を作る。でも誰でもいい。詞をつけてその人その人の曲にしてほしい。いい音楽は受け継がれていくものだ。時代が変わろうとも、奏者が変わろうとも、誰かが鳴らしてくれる。百年後も唄われたなら挑戦は成功かもしれない。孫にでも結果は見てもらおう。
その後の追加アナウンスで、歌詞がついたあかつきにはCD購入者に無料でダウンロードすることができると発表された。
そして誰でも歌詞をつけて唄えるように著作権を放棄することも発表された。古の音楽家の楽曲が著作権切れで自由に演奏できるように、ヒナタもこの曲を自由に演奏してほしいと思った。音楽教室で自由に練習曲にしてほしい。お店での生演奏で使ってほしい。世界中いたるところでこの曲が流れるようになってほしい。多くの人に演奏してほしい。多くの人に唄ってほしい。
進化する音楽。変化する音楽。
垣根を壊したい。それは歌い手も作り手も観客も。音楽には羽があり、どこまでも飛び立てる。籠には入れたくない。自由に羽ばたけ。
◇
郁也はラブ主演映画の相手役のオーディションの場にいた。集まったのは若手ばかりが五人。皆、知名度は高いのはもちろん個性的で演技にも評価がある者ばかりだ。やはりただのアイドル的人気者は求めていないらしい。
審査員は監督やカメラマンなどスタッフが主だ。そして主演が決まっているラブもいる。さらにラブと実際に一カットだけだが共演してみるという。ラブが提案したらしい。呼吸も大切だそうだ。それを直に感じたいと。
桐谷社長は集まった俳優陣を見て緊張しているようだ。レベルが高いと呟く。
高身長のすらりとしたモデルみたいな彼は、ああ見えて子役からやっているので芸歴は十年を超えている。舞台も数をこなしていて伝説的な演出家の秘蔵っ子と言われたりもした。
向こうのいかつい顔の彼は去年公開された映画で新人賞を受賞している。若さあふれる瑞々しい演技の中に老練さを感じるものがあった。今が伸び盛りだろう。ラブと共演したなら一気にトップ俳優になっても不思議でないポテンシャルを感じる。
残りの二人にしてもドラマ主演も映画主演もすでに経験しており実績は十分だ。それでも先の二人が本命だろう。
桐谷社長がそう説明してくれた。郁也は誰とも共演したことがないけど、なるほど画面越しには見たことがある顔だ。そしてただならぬオーラを感じる。
郁也は実績では誰にも敵わない。最近急上昇の評価とラブの推薦もあってここにいる。でも審査には手を加えないとラブは周りに言っている。そして周りもそれをわかっているからこそ推薦を受け入れたのだろう。
簡単ではない。だが、監督なども審査はするがほぼこれはラブの審査だ。彼女が自分との相性を見極めるのが大きなポイントだろう。監督とかはそれを客観的に見るだけだ。ラブは郁也を買っている。ゆえにほかの者よりうまく役に入り込めるかもしれない。そこにチャンスがある。逆に言えばそこにしか勝機はないかもしれない。うまく憑依できれば。ただ、それには不安もある。
では始めます。スタッフの声に現場は一気に空気が変わる。笑っていた者、軽口をたたいていた者、ストレッチなど準備をしていた者、すべての者が動きを止める。そして大きな呼吸が聴こえた気がする。スイッチが入った。
テストのための台本は事前に渡されていた。それぞれがすでに役作りをしっかりとしてきている。事前にもらえたのは郁也にとって大きかった。その場で渡されてのオーディションでは不利だ。前よりは即興的に役に入り込めるようにはなっている。だけど、やはり弱い。強くイメージして潜ってこそ郁也の凄味は出るのだ。
郁也の役作りはイメージ力である。本読みをして、目指す役を強く強くイメージする。そこに自分を近づけていく。それは、スポーツアスリートがイメージトレーニングで、理想のフォームなどを描き、その動きをできるようにすることに似ているかもしれない。役をイメージしきり、そこに自分を重ねることにより、深く深く潜っていくのだ。それは、役が憑依したように、郁也が消え、役の人物がそこに生まれる。だから郁也の台詞は台本通りでないことも多い。自然と発するべき台詞を発しているのだ。本番での雰囲気や流れにあった台詞を発する。だから、台詞を台本通りに要求する監督や脚本家との相性は悪い。
そんな郁也にとって今回のオーディションはうってつけとも言えた。
読み合わせなどはなく、いきなり本番を迎える。今回のオーディションは台本通りである必要はないのだ。流れは大きくはずれてはいけない。でも会話などアドリブが許されている。特にこれはオーディションなので、完成形があるわけではない。自由な演技でいい。他を圧倒するものが選ばれる。ラブとの相性次第で出来は大きく変化するだろう。
「藍沢凛太郎です。よろしくお願いします」最初はモデルのような高身長の俳優だ。
「よろしく」そっけなくラブが言う。
演技は実際の映画の内容の一カットである。
映画は監禁犯と監禁された女の物語。凌辱されてやがては身ごもってしまう。ストックホルム症候群にもかかり、そこには奇妙な愛情関係が成り立ってしまう。逃げようとする考えもなくなり、女は監禁犯をいつしか許すようになる。監禁犯も徐々に心を開き、暴力でなく優しさを振るうようになる。
その監禁された女役がラブで、監禁犯がこのオーディションで選ばれる。
悲惨さの中に産まれた愛が本当に本物なのか?それを問いかけるラストは衝撃である。その心の移り変わりをしっかり演じれるか。そして悲惨さの中に時折明るいものが入り込む。笑いが起きる場面もある。その演じ分けもしないといけない。
『……できたかもしれない』悔しさを滲ませながらラブは監禁犯の藍沢に告げる。
『何がだ?』殴ろうとした手を止めて尋ねる。
『わかるでしょ』
『……』
『避妊しなきゃ想像できるでしょ』ヒステリックに甲高い声でわめく。『どうする?私もろとも殺す?』目に涕が溢れる。
『、ちょ、あ、』藍沢は目に戸惑いをはっきりと見せる。
しばしの沈黙。徐に藍沢はラブを抱きしめる。『産んでくれ』はっきりと告げる声には何かの覚悟が聴こえた。
『わかった』ラブは胸に顔をうずめたまま頷く。『本当は殺してほしい。私はもう生きていたくない。でも自殺する勇気もない。逃げる意思もなくなっている』そこで言葉を切る。
藍沢を押しやり顔を上げて藍沢を見つめる。『この子に会いたい』
『……俺もだ』藍沢は言いながらラブのお腹に手を当てる。慈しむように。
「柴田歩夢。よろしく」二人目はいかつい顔の彼だ。あのいかつさはある意味犯罪者向きかもしれない。
『……多分ここにいるよ』ラブはセリフを変えてきた。意味は変わらない。
『ああ』そっけなく答える柴田。アドリブにも戸惑いがない。新人らしからぬ落ち着きはいかつさも手伝いベテランのようだ。
『生であれだけしたらわかるよね』全てにあきらめてる表情で漏らす。
『ああ』感情を見せない。
『どうする?そろそろ殺す?殺すために監禁してるんでしょ』ラブは虚ろな表情で問う。
柴田は首を振る。
どうするの?と目だけで再び問うラブ。
『産めよ』ぶっきらぼうに答える。『殺す気はなくなった』
『いいの?』今度は声に出して問う?
『乱暴してすまなかった』柴田は目に涕を溜めてラブをそっと抱きしめた。
そして残りの二人もそれなりにこなす。でも先の二人にはやはり届いていない。ラブはどう思っているのだろう?表情からは何もわからない。だが。やはりラブの演技は群を抜いている。アドリブで先に変化をしながらも相手を引っ張っていく。オーディションとは思えない鬼気迫る演技をする。
「生方郁也です。よろしくお願いします」最後に郁也の番だ。
「私とやる最後のチャンスになるかもよ」ラブは近づいてそっと告げる。どういう意味だと郁也が問おうとする前に言った。「近いうち、来年か再来年には渡米してハリウッドを目指す」
郁也の目つきが変わった。
ラブのセリフから始めるのがここまでの決まった流れだ。渡された台本もそうなっている。だが、郁也は無視した。
ゆっくりと郁也の両手がラブの白い細首にかかる。真綿をしめるようにゆっくり、ゆっくりと絞めていく。微かに微笑みながら。ラブは大きく目を見開く。かはっと小さな息が漏れる。すでに二人とも入り切っている。
『殺してやる今日こそ』郁也は目を血走らせて言う。
『、ま、』途切れ途切れに必死に抵抗するラブ。
ラブの顔が真っ赤になり本当に死ぬのではと周りがざわめく。その瞬間にすっと手の力を抜く。すとんとラブはその場にへたり込む。郁也はそれをすぐに優しく抱きしめる。『ごめんごめんごめん』ぶつぶつと呟く。震えている。ラブは戸惑いながらも郁也の背に手を回す。目は泣きはらしたように赤くなっている。声を出さずに嗚咽をあげている。
『わかっているわかっているんだ』郁也は放心したように目の焦点が合わないままにしゃべり続ける。
『殺さないの?』ラブは慈愛に満ちた表情で優しく問う。
『殺せない』郁也はラブの体をきつく抱きしめる。そしてさっきよりも大きく震える。まるで雪山に遭難したように。まるでひな鳥が寒さに打ちひしがれるように。本当に頼りなく小さい儚い生き物に見えた。『僕は弱いんだ』告白するように言葉が出た。
そして、そっとラブのお腹に手を当てる。『あたたかい』
『産んでもいい?』ラブは産む覚悟を決めた女の顔になっていた。
『産んでほしい』郁也も覚悟を決めた男の顔になっていた。
見つめあう二人。呼吸が重なる。そして自然に唇が重なる。
結果はその場で出た。オーディション出演者も含めて一同の合意だった。
主演俳優――生方郁也。
だが、この日から郁也の日常はより一層かい離していく。憑依され自分を失っていく。非日常の役から抜けれない。心配が現実となった。