羊たちの邂逅
プロローグ
袖口から舞台を眺めている。
久しぶりに共演する者。初めて共演する者。ワクワクするなぁ。
一体どんな景色を見せてくれるのか。どんな色を見せてくれるのか。
自分は共演者すべてに最高の景色を与えよう。カラフルな音色を鳴らそう。
期待しかない。
みんな、期待を裏切らないでくれよ。
「最後にサプライズを」
その声を聞いていつものごとく緊張した。何年やっても緊張しやすいのは成長しない。そんなことはおくびにも出さないが、意外とばれているのだろうか。
さぁ出番だ。舞台に向かって一歩踏み出す。
*
「血の力ってあるのかな?」
「どうだろう?遺伝子で受け継がれるものはあると思うけど、人ってそう単純でもない」
「だよなぁ。偉大な親を持つとなんだかんだ比較されてしまうよなぁ。でも」
「でも?」
「でも、実力があれば親が誰であろうと問題ない」
「そうだね。あの人の子だからと過剰な期待と猜疑の目に晒されるけど、自分は自分だ。それを証明する。血がどうかなんて関係ない」
「俺は二世であることは隠す。色眼鏡で見られたくないし、実力以外のものでチャンスを掴みたくない。純粋に実力だけで勝負する。君よりも有名になるよ。世界に通用するくらいになる。それだけの自信はある。君だって自信はあるだろ?」
「自信はもちろんある。迷ったこともあるけど、今は迷わず自分を、自分の才能を信じている。だからこそ七光りでもいい。猜疑の目で見るだけ見ればいい。そういうマイナススタートからでも黙らせてみせる。だから使えるものは全部使うよ。機会さえもない人だっているんだから。才能のあるなしよりまずはチャンスのあるなし。デビューしてしまえば、あとは実力が全てだよ。自信があるからこそ、親の名を隠さない」
「歌舞伎とか伝統芸能って何代も続くからこそ凄いのかな。才能のあるなしに関わらず次世代へと繋がなきゃいけない。評価を気にしてもしかたない。その覚悟が清々しい」
「見習うべきなのかもしれない。覚悟は力となる」
「進む道は違うけど勝負だ」
「ああ」
二人は固く握手を交わした。自信に満ちた顔には笑みが浮かぶ。青い空に輝く太陽が二人を照らす。お互いに自分の親を超えることを誓う。
一人が太陽に手のひらを翳す。指の間から漏れる光がまぶしい。自分たちの未来もこれくらいに眩しく輝いているのだろうか。
「必ず時代に名を刻む。願わくば先の時代まで残せるように」
「ああ、そうだ。今ここからがスタートだ。お互い名を成して、またここに一緒に来よう。ここが誓いの場所だ」
1
生方郁也は、ある映画を観た。それは父が主演の物語。
『お前は残れ』男が言った。男は盗み屋。依頼されればどんなモノでも盗む。
『いや、わたしもついていきます』女が言った。
ぎらつく太陽が二人を照らす。二人は見つめ合う。バックには海が見える。白波が音もなく崩れている。言葉はなく、ただただ美しい映像が流れる。二人の横顔が大写しになる。呼吸が聴こえてくるようだ。心臓が早鐘を打つ。観ているだけで吸い込まれそうになる。この感覚はなんだろう。郁也は、じっとりと手に汗をかいていた。
仕事を言い訳に家庭を顧みない父。一緒に遊んだ記憶もほとんどない。物心つく頃には、会うことさえ少なくなっていた。そんな父を憎んだ。
――郁也ってナナヒカリって言うんだよ
――何それ?
――わかんないけど、自分の力じゃないのに恵まれてるんだって
――ずるいねー
中学生になった今でも思い出す。小学生というのは自分が知らなくても親の言ってる言葉を面白く覚える。そして、無自覚に残酷だ。その切れ味は、錆びた剃刀のように、ひっかかりを作りながら切り裂く。その傷は簡単には治らない。綺麗に治ることはない。
親が有名人であるというのは、羨望と共に嫉妬の対象にもなる。そして否が応もなく、いじめの対象にもなる。無邪気ないたずら。その程度の感覚だろうか。ただ遊んでるだけです。ふざけてるだけです。そう言ってプロレス技を常にかけられていた。時には目立たない箇所を殴られた。会うこともほとんどない父はそんなことも知らずに助けてくれることもなかった。母には言えなかった。幼いながらに恥と思っていた。自分自身も、ただの遊びだと思おうとした。
中学に上がる頃にはそう言ったあからさまないじめはなくなった。暴力もなくなった。
ただただ無視をするだけ。郁也は透明人間となった。孤立。無視というものは、人の心を抉る。人の心を殺す。闇を見た。
それもこれも父のせいだ。そんな憎しみを覚えた。物心ついてからは父の作品を観た事はない。観る気もなかった。だけど、一度だけ中学一年生の夏休みに、母に無理やり連れていかれた。
「一度観てみなさい。それで、非難する気持ちが芽生えたら、芝居のこと詰ってやりなさい。あの人、酷評されると本当に悲しそうな顔するから」母は毅然とそう告げた。
よおし、観てやろう。そして、その芝居にケチの一つもつけてやる。子供に非難されるのは親としては少しは堪えるんじゃないか。そんな疚しい気持ちだけで観に行った。
それは、儚くも砕け散る思いだった。母はわかっていたのではないか。観れば伝わるものがある。自分があいつの子だと改めて突き付けられた。母は母なりに父と子の関係に気を揉んでいたのだろう。母は父の演技が好きなのだ。
そうだ。幼稚園でのお遊戯会では嬉々として芝居の主役に名乗りを上げたではないか。消し去りたい過去であり、封印していた。しかしそれが本能だったのだ。血が騒いだのだろうか
――自分も演じたい。
『言い出したら聞かないからな』ため息まじりに盗み屋は笑う。
『それがわたし。覚悟してたでしょ』女も微笑む。女優の唇が怪しくぬめりと光る。
二人は固く抱擁を交わし、唇を触れ合わせる。
まるで一枚の絵のようにスクリーンを彩る。映画の奥深さを感じる。動く絵なのだ。切り取った一コマが絵となる美しさを持つ。
郁也は気付くと震えていた。自分も演じたいと強く意識した。観る者を震わせる。感動だろうか。そんな一言では表せない多くの感情を持たせる。こんな凄いモノを観たらしかたないと思ってしまう。ずるい。父としては失格だが、役者としては最高だ。これが役者という仕事なのか。家庭を置き去りにするだけの価値があるのだろう。そして母もそんな父を誇りに思うのだろう。
ボロボロになった二人が海辺で寝転がるラストシーン。
『生きている』男は言った。
『ええ』女が男の手を握る。
『熱い』強く握り返す。
『生きている証ね』
『義賊と言えば聞こえはいいが、ただの泥棒だ。しかも危険なモノまで盗もうとする。難しいモノほど盗みたくなる。因果な性格だぜ。俺と一緒にいたら命足りないぞ』
『わたしの心は危険?』
『ああ、危険だ。取り扱いが難しい。だが』
『だが?』
『盗み甲斐がある』そう言ってニヤリと笑う。緊迫した演技からコミカルにも感じさせる。大団円なのだろう。メリハリが利いている。振り幅が大きいのだが、臭くはない。自然というのでもない。ただ、心にすっと入り込んできて居座る。
懊悩や悲哀を感じさせる演技。コミカルな演技。表情豊かだ。心理描写が苦手な映像だが、心の中が見えるようだ。鳥肌が立つ。
『一緒に年を重ねてくれ。完璧に盗んでみせる』男はそう言って上体を起こす。
『骨となる日までも。骨となってからも』女も上体を起こす。
見つめ合う二人。その向こうに夕陽が沈んでいく。ひとつになった影が伸びていく。
なんて美しい景色だ。
芝居の世界の素晴らしさを感じた。
芸能の世界のことはわからない。だけど。
だけど、それは芸術でもあり、娯楽でもあった。人を惹きつけてやまない。痺れるほどの感動を覚えたものが、自分の父であり、相手役の女優だ。この二人よりも凄いものを自分がやれたならば。
役者。それが目指す先となった。
透明人間となっていた郁也は、これ幸いとまずは人をよく観察した。そして、誰かをイメージしてその役になる日々を送って中学生活を過ごした。没頭できるのが郁也の長所であった。無視されることなんてちっぽけだなと思い、同級生を自らも無視することにした。目標に向かう郁也にとって中学校の生活に未練はもうなかった。孤立は孤高となった。
そして父に告げる。
「あんたより凄い役者になる」
◇
ヒナタは、その音楽を聴いた。それは父の歌声。
♪君が息をするだけで セカイはまたたく色めく
僕が音を鳴らせば セカイはまばたくはばたく
気付くと息を止めて耳を済ませていた。
その声はとても雄大で優しく温かい。
父に抱っこされた記憶などない。頭を撫でられたこともない。ほとんど会うこともない。そんな父をいつしか避けて無視し、憎むほどになっていた。
それなのに、この歌を聴いた時、優しく抱きしめられた気がした。悔しい。
包み込むような歌声。低音が腹に響く。内側から温めてくる。
――あいつって七光りなんだよ
――ああ、よくゲイノウカイで不祥事起こすよね。七光り。二世
――あの二世もそうなるのかな
――きっとそう。ウケるよね
中学生になり、音楽の時間に一人一人唄う授業があった。
ヒナタの唄う様はクラスメイトを圧倒した。それを気に食わない者が、殊更に親のことをダシに馬鹿にし始めた。親のせいでなんでこんな目に合うのだ。ずっとそう思っていた。
クラスメイトだって父の曲を好きだと言ってCDを買っているのに。それさえも歪んだ感情をぶつけられるネタとなった。
「私たちが買うおかげであなたはご飯が食べれるのよ。少しは感謝しなさい」そう言って無理やりに手足を押さえつけて土下座させられた。思春期の心は砕けそうだった。涙が出そうなほどに悔しかった。恥ずかしさ、情けなさ、不甲斐なさ、やるせなさ、世界の理不尽を感じた。
すべて父のせいだ。芸能人なんて大嫌いだ。父の歌なんて聴きたくない。そう思ってすべてを遮断していた。それなのに不意に耳に入ってしまった。誰かが、給食時間に放送室に忍び込み父の新曲、『色めいた世界』を流したのだ。
♪僕はふがいない 何もできない
君は泣くだろう 呆れるだろう
それでも僕は唄うことしかできない
不覚にも気付くと涙が頬を伝っていた。それは優しき音の世界。
震えた。そして感動に包まれた。小さい頃から唄うことは好きだった。漠然と夢見たことはあった。でも、クラスメイトの仕打ちで、もう唄うのはやめようとさえ思った。
だけどそれは自分に嘘を吐くことだ。それが今、はっきりとわかった。人に感動や感情を与えるものを唄いたい。それを強く強く意識した。
そして自分にはその才能がある。血は受け継がれ、さらに大きく花開く。
――自分も唄いたい。
♪だから唄うよ 君のためだけに
色と音が交じる 満ち満ちたセカイ
それでも僕は唄うことが好きなんだ
父の声が真っ直ぐに突き刺さる。心のずっとずっと奥の柔らかい部分をそっと撫でてくる。大きな音楽だ。単純に凄いなと思ってしまった。技術的なことは脇に置いて、ただただ心に歌声が鳴り響く。それは、他のどんな曲を聴いても感じた事のない感覚だった。
なんて美しい音色だ。
音楽の世界の素晴らしさを感じた。
芸能の世界のことはわからない。だけど。
だけど、音楽は人を感動させる。そして時に人を救う。
そう。ヒナタ自身が救われたのだ。
クラスメイトの悔しがり方が自信を深めることにもなった。歌が上手いと言われていたどの生徒よりもヒナタの歌は圧倒したのだ。音楽教師は目を大きく見開き、途中で伴奏を忘れるほどだった。いじめのきっかけとなったものが、それさえも些細な事と思える強さの源になった。音楽がヒナタを変えた。いじめは相変わらず続いた。靴を隠されたり、教科書を破かれたり。でも、もう悔しさはなかった。
自信を得たヒナタの矜持はそんなものではもう傷つかなかった。
そして、父と同じように心に残る存在がもう一人。『色めいた世界』でギターを弾く女性。父の声にハモる美しい高音。伸びやかで艶やかで。奏でるギターが格好良かった。その女性アーティストは父にも負けない存在感でありながら、あくまでも父を引き立てる。ヒナタもギターを弾きたいと自然と思った。
唄いたい。演奏したい。強く願い、明確な目標となった。
そして父に告げる。
「貴様より偉大な音楽家になる」
2
郁也は高校三年生になった。父に役者になると告げた時に、高校は卒業しろと言われた。中学卒業と同時に役者を目指したいと思った郁也は反対した。しかし、母も父の意見に賛同した。
「若いうちにしか経験できないことがある。学生でないと経験できないことがある。役者に定年はない。役者になったならば、それからの人生のが長い。学生で得るモノを得てからでも遅くない。三年になるまで、勉強をしろ。友達を作れ。大いに遊べ」
父はそう言った。それが役者になった時、絶対に生きる。
憎かった父だが、役者としては尊敬できる大先輩だ。役者としての言葉と受け止め、素直に従った。下積みはあるものだ、と思いながら。
学区外の高校に進み、父のことはうまく隠したことにより、父をダシにしたからかいはなかった。こわばった心は少しだけほどけ、少ないながらも友達と呼べる者ができた。放課後にカラオケやゲーセンに行き遊んだ。成績は良くはないが、試験の時には寝ずに勉強もした。まばたきのような時間。青春と呼べるようなものかもしれない。一時のモラトリアムのようなものを満喫した。
そして三年生の夏。
映画のオーディションを受け始めた。
役をイメージして、そこに自分を重ねていく。そして役に成り切る。それを中学のあの時から毎日やってきた。自信はある。我を忘れるほどに入り込めることも少ないながらもあった。成り切った役のまま、街に出てみたこともある。普段の自分ではできないこともできた。
例えば、軽薄な男となり、女の子をナンパしたこともある。素の郁也は口数は多くないのだが、役に入り込んだ時は歯の浮くような言葉が、蛇口から溢れる水のようにするすると、じゃぶじゃぶと出てきた。その日その日で異なる役をイメージし、見ず知らずの人と接した。うまくいかないときもあるが、度胸を付ける訓練にもなった。
その全てが自信の源となった。
親のことは隠す。コネなんか使いたくもない。親の名で売れようとも思わないし、デビューさえもその力を借りたくない。
親に恩があればデビューくらいさせてくれるかもしれない。コネがなくて、面接もできないオーディションも受けられるようになるだろう。でも。
でも、それでは意味がない。デビューがゴールではないのだ。デビューまで苦労してもいい。そこから続けるのはもっと大変だろう。苦労は買ってでもしろと言ったのは誰なんだろう?格言だろうか?まだ若いからチャンスはきっと来る。人生経験を積むのも必要だ。深みをもたらしてくれる。たぶん。
だから、俺は、親の名は使わないと決めたんだ。実力で勝負する。自信はある。
だが、オーディションでは何もできなかった。初めての時は渡された台本の台詞が全て飛んだ。一言も発することができなかった。初めてで緊張しただけとその時はすぐに気持ちを立て直せた。
しかし、そのあと続けて三度同じように失敗した。何が原因だろうと考えた。自信が揺らぐ。
答えは出ない。出ないままに次のオーディションを迎えた。
これが運命の出逢いの場となる。郁也の役者人生が大きく動き出す。
指定された場所はオーディションを開いた事務所の稽古場みたいなところだろうか。壁の一面が鏡張りで、床は板張りのフロアで、学校の教室くらいの広さだ。実技をするのを考えればこれくらいの広さがあるほうがいい。オーディションは朝九時に始まった。書類に通った者が百人ほど。最初は面接官との簡単な問答をする。自己紹介みたいなもので大きな問題さえなければそこで落とされることはない。すべてはそのあとの実技次第である。
受験者に台本が渡される。今までも同じように簡単な台本を渡されていたが、一人芝居のような形でのオーディションばかりだった。だが今回は四人一組になっての即興でのミニ芝居。全員の役はすでに割り振られている。三十分で各人セリフを覚える。その後、三十分全員で読み合わせ。そして本番となる。少ない時間でも、郁也は持ち前の集中力で、台詞を覚え、イメージを固めていく。そして自分を溶かしていく。潜れ。潜れ。
話はファンタジーになるのだろう。擬人化というのだろうか。
郁也の役はウサギ。残りの役は、牛に虎とヒツジ。どう捉えたらいいのだろうか。基本的に台本にはセリフと大まかな動きだけだ。動物らしい振る舞いをするのかどうかは何も書いていない。これは一体何を試すのだろうか。それほど意味はないのだろうか。合格したときにもらえる役が関係するのだろうか。詳しいことは知らされないが、これはスペシャルドラマのオーディションでドラマの内容は動物と人のふれあいの物語というふれこみだ。
三十分がすぎ、読み合わせにうつる。その時に四人で簡単に自己紹介をする。順番に名乗っていく。郁也も名乗った。
隣の女の子の番。「ラブ十七歳です」。珍しい名だ。俗に言うキラキラネーム。愛と書いてラブと読む。同い年で同級生だ。はっと目を引く女の子。
「芸名ですか?」
「実名だよ。苗字は内緒。苗字――姓ってのはさ。家のことでしょ。家の格式や家柄、さらには親の名まで背負うようになる。それは時に重荷だし、時には恩恵を受ける」肩甲骨あたりまである長い髪をゴムでポニーテールにまとめながら応える。それがいやなんだと言いながら控えめに笑いを零す。切れ長の目は自信が宿っているように見えた。
恩恵を受けるような家柄なのだろうか?郁也はそう思いながら、自分は親の名による恩恵を拒否したことを思い浮かべる。ラブに好感を抱いた。
ラブはすっきりとした顎に鼻筋が通っている。白い肌はきめ細かく張りも十分だ。長い髪は黒く艶がある。眉は細すぎず太すぎず、整えているが書いてはいない。美少女の典型のようだ。すらりとした細身の体型で165cm以上あるだろうか。役者よりもモデルのほうが合っているのではないか。
皆の視線に応えるようにラブは口を開く。薄い唇は何も塗っていないようだが艶がある。唇の左下に小さなほくろがある。
「モデルの話はあったけど私は役者になります。だから今日は負けませんから。よろしく」貫禄さえ感じる笑みだ。
「では始めます」合図を受けて面接官という五人の観客の前で舞台の幕が上がる。
牛役がマシタという大学生の男。虎がコヤマというこの中では年長となる二十代半ばの女。そしてラブがヒツジ。
話は狭い場所での会話劇のようなものだ。動きは少ないので表情と台詞で演技をするのがポイントになりそうだ。
『そろそろ今年もやってくる』牛が重々しく言う。
『ああ』神妙そうにうなずく虎。『アマゴイの季節』舌を出して威嚇するように呼吸する。
『そしてササゲの儀式。今年は順番で言えば私どもヒツジの番だ』ラブが小首を傾げる。
背筋が凍る。空気が冷える。観客は口が開いたままになった。
たった一言のセリフ。動きは首を傾けただけ。それなのに。
それなのに、一気に世界が構築された。すべてがラブを中心に回り始める。
ラブはモノが違った。動きがどうとかそういうレベルでない。空気がヒツジになっている。周りにそう思わせる空気にしてしまうのだ。そして役の枠に収まらない存在感を、威圧感を与え舞台を支配する。周りはただそれに引きずられていくだけだ。
『だが提案したい』ヒツジは弱い存在だ。それなのに一番大きな存在感。圧倒される周りの戸惑う反応を無視して続ける。
郁也は固まった体を揺すった。『提案だって?』ウサギらしいコミカルさを出そうと声を少し高くした。なんとか声は出た。だけど。
『輪番制はやめて何かで勝負してその年のササゲを決めようではないか』ラブはヒツジらしくないふてぶてしさで言い放つ。
『勝負だと?』虎が目をぎらつかせる。『決闘でもするか?勝ちは目に見えているがな』
『それは平等でないよ』郁也は弱々しく抵抗する。ウサギになれていない。
観客がひそひそささやくのが横目に見えた。やばい。
郁也は自分でわかった。セリフが棒読みになっている。演技のエの字もない。大根役者もいいところだ。やっと声が出たのにこれではダメだ。軽いパニックになる。
『何かいい案があるのかヒツジよ』牛がヒツジのほうを向く。
『じゃんけんなんてどう?』
『じゃんけんだって?』郁也はヒツジの前に回り込む。『それはなんだい?』
声が震える。なんだってこんなに下手くそなんだ。
『ウサギくん』ヒツジがすっと手を伸ばし郁也の、実際にはないはずの、長い耳に触れる。そして自分を観ろと目で訴えてくる。そうだ。郁也はラブを観た。背景から観客が消えていく。
『君の耳は素敵だね。一体どこまで聞き取れるのかしら』くすくすとヒツジは笑う。『ヒトには出会ったことあるかな?きっとこの耳で足音を聞きつけて逃げたこともあるんじゃないかな』
ないはずの耳を触られ優しい声に包まれる。ラブについていけばいい。
『ヒト?あの二足歩行の野蛮族か』そう言いながら郁也たちはみな二足歩行だ。もちろん実際のウサギやヒツジなら違うのだけれども。そうこれはコメディーでもあるのだろう。ヒトを揶揄するシニカルコメディー。最後までは台本には書かれていない切り取られた一部の場面でしかないけども。
『一度だけ見たことある』郁也は無意識にぴょんと跳ぶ。まるでウサギのように。もう観客は目に入らなかった。観客に見せるものだが、意識しすぎてはいけない。相手がいる演技では、観客でなく自分の前にいる相手を観る。そんな基本的なことができていなかった。一人の世界で演技をしてきた郁也は、観られながら演じることに慣れていなかった。それが観客に気を取られ、体を硬くし、声が出ない理由だった。
大根役者が少しましになった。体も軽い。ぴょんぴょん跳ねる。郁也はウサギだ。軽快にヒツジの周りを跳ぶ。ラブにつられて役に入っていく。もっと集中しろ。役になれ。入れ。深く潜っていけ。
『彼らは僕らを捕まえようとする。そして捕まえたら食べるんだ』声が出る。ちゃんと出る。何か恐ろしいものを見たことがあるように声を震わせることもできた。そして。
『あいつらの恐ろしさと言ったら』ウサギは赤い目をさらに赤くしてぽろぽろ涙を落とす。郁也は役のイメージに重なる。自分が溶けていく。自分を消し去ることにより、役が郁也に乗り移る。『毒を盛ることもあれば生きたまま皮を剥ぐ』ウサギは恐ろしさに目を剥く。
ラブは郁也をチラリと意識して観た。その一瞬だけ役から抜け落ちて郁也を観た。そしてすぐに役に戻る。
『じゃ今回の生贄……でなくササゲと言わなきゃだめなんだっけ』ちろっと舌を出してはにかむヒツジ。のんびりした感じがヒツジを思わせた。
観る者にそう思わせればいい。リアルに演じるのがいい演技となるわけではない。観客が勘違いするのがいい演技だ。ヒツジだと思わせればいい。探偵役をやったらそう思わせればいい。刑事なら刑事のように。教師なら教師のように。老人なら老人のように。形態模写するのでも、ものまねをするのでもないのが演技だ。ラブの演技はそういうものだ。人によっては評価しない者もいるかもしれない。でも大半は吸い込まれるだろう。惹きつけられるだろう。
天才っていうのはラブのことだ。
そしてもう一つの才能も持つ。まさに演劇の女王となれるだろう。
彼女は引き上げるのだ。何を?他者を。他者の才能を。普通の役者も彼女と絡むと演技派と言われるようになるかもしれない。その才能は演じる才能以上に稀有で貴重かもしれない。彼女が出演すれば演技のレベルが引き上がるのだ。すなわち演劇のレベルが一段それだけで上がる。これは引っ張りだこになるだろう。そして女王として君臨する。郁也は身震いした。
そして感謝した。彼女がいなければ郁也は郁也の良さを一つも出せずに終わっていただろう。ラブに引っ張られ声が出た。演技の基本を突き付けられた。それによって普段のイメージに重ねていく本来の力が発揮できた。深くまで潜れた手応えがあった。
だが、最初からあのレベルでやれなくてはラブの足元にも及ばない。だけど今は、ありがとう。心の中でだけ言った。声にするのは今ではない。いつか同じ舞台に同じレベルで立てたときにこそ言おう。郁也はまた一つ新たな目標を得た。郁也は父を超えたい。そして、その父と共演した女優にも戦慄を覚えたことを思い出していた。そこに新たにラブが加わる。すごい役者をすべて超えてやる。
その芝居は郁也の台詞で終わった。
『僕たちは生贄になんてならない』
そうだ、俺たちは生贄じゃない。追いまわされる羊にはならない。
「ねぇ君の名前は?」結果待ちの時に郁也はラブに声をかけられた。
「覚えてないのか?」感謝しながらも少しだけ不機嫌に答える。
「名前覚えるの苦手。しかもいっぺんに三人もなんて無理。それに」目を伏せる。
「それに?」
「悪いけどこれから縁のない人の名前まで覚えておく気はないの」目をあげてにやりと笑う。大胆不敵。傲岸不遜。でも。
でも、しかたない。これから多くの人と知り合うのだから。多くの役者。監督。裏方のスタッフ。成功をおさめれば財界人や経済トップとも否応もなく絡むことになる。確かに今ここで名もなき役者を覚える必要も余裕もないだろう。
この世界は名もなき多くの屍を踏み越えてきた者だけがトップに立てるのだ。振り返る余裕もない。誰かに手を差し伸べる余裕もない。食うか食われるか。だから必要でない者の名は覚えない。それは、もしかしたら優しさの裏返しなのかもしれない。引き返せないところまでこの世界にしがみついても成功するとは限らないのだから。
「じゃあ、なんで僕の名を?」察しているけどあえて彼女の声で聴きたい。
彼女もそれをわかっていながら口にしてくれる。「きっと同じ舞台に立つから。さっき一瞬だけどあなたに戦慄した。役を忘れて素になっちゃった。背中がひやりとしたの。私、他人の演技でシビレタの初めて。震えた」最大の讃辞だ。
そう言ったラブはもちろん合格した。そしてそのドラマの主役級の役で初出演を果たす。郁也は小さな役を得た。一言しか台詞はない。でも、それが役者としての一歩を刻む。
郁也がオーディションで役を得た日は、あいつがデビューする日でもあった。
◇
いよいよだ。ヒナタは冷めた頭で思う。一八歳でのデビューは早いほうだろう。そしてこれだけ大きいステージでデビューできる十八歳はあまりいないだろう。
夏の野外フェス。海の近くにある海浜公園だ。三日間開催の国内最大級のフェスである。そのメインステージ。海が見える広大な広場を会場にしてある。普段は砂浜に連なる場所であり、駐車場などに利用する程度にしか使っていない。地面は土のままであり、荒れてはいないが普段は草などが無造作に生えている。それを夏のこのイベントのために綺麗に整地する。ステージには大型のスクリーンが設置されている。縦五メートル、横十メートルのものだ。そして、鉄骨と鉄パイプを組み合わせた要塞のようなものが組まれている。そこに大型のスピーカーが左右に据えられている。スピーカーとスクリーンは客席の中央と後方の左右にも設置されており、後ろの席であってもしっかりと音が通るようになっていて、後方からは小さくて見えないステージも観ることができるようになっている。ライトも赤や青のものを含めて十基取り付けてある。野外でのコンサートでもあり、夏でもある。その熱気は気温を五度は上げるだろう。
五万人を超える客が入れる広さ。人の頭が森のように広がっている。その熱気は蜃気楼が見えそうなほどだ。もっともっと熱くさせる。
デビューの舞台がこれだけ大きいのは父のおかげだ。最大に利用した。コネを大いに使った。ありがとう感謝します。ここからは実力で黙らせる。父の子でなく、私の父と呼ばれる日を迎えるのが恩返しだろう。ヒナタはそう嘯く。
そして、あなたの歌にも感謝します。ヒナタは携帯オーディオプレーヤーで一曲聴いていた。それは自信をヒナタに与える曲。
ぶるっと震えた。武者震いだ。そういうことにしておこう。
自分の前の順番のバンドの出番が終わり、ステージを降りてくる。ヒナタの横を通り抜けていく。最後の一人が、睨むように見てきて足を止める。
「噂の七光りか。俺たちはここまで来るのに十年かかった。コネってすごいよな。誰の子かは隠されてるけど、精々親に甘えて、大きな恥を晒して来いよ」そう言って下衆な笑いを浮かべて去っていった。
「ありがとうございます」ヒナタは頭を下げた。注目してくれることだけで嬉しい。恥はかかない。聴いてから評価してくれ。父のコネを使い、プロデューサーに会い直接歌を聴いてもらい、今日の大きな舞台に出してもらえた。今は父の名前を表には出さないが、人脈は最大限に利用させてもらった。売れてしまえば週刊誌あたりに調べられてしまうだろう。それはそれでかまわない。ばれる前に名前を売ってしまえばいい。
ヒナタはたった一人でステージへ飛び出す。バックバンドはつけていない。
好奇と猜疑の眼差しが突き刺さる。誰?という囁きがさざ波のように起こり、それは津波のようなブーイングとなる。
ゆっくりと手にしたギターを肩から下げる。外から黒、赤みの強いオレンジ、ナチュラルのサンバースト系の色。ストラップは長め。腰より低い位置に構える。ギブソンレスポール。広い舞台。夏の熱狂。それを考慮してエレキギターを選択した。あえてゆっくりチューニングをしながらブーイングを浴びる。新人なら萎縮しそうな場面。だけどもヒナタは思わず笑みが零れてしまう。
このブーイングをどんな驚きの色に染めてくれようか。どこまでも嘯く。
心地よい緊張がこみ上げると共に鼓動が次第に速くなる。頭は逆にクリアになっていく。
太陽が灼けつく。空は今日も突き抜けるように青い。遠くに雲が流れている。一陣の風が頬を撫でた。ブーイングがだんだん遠ざかる。この環境で集中力はかつてないほど高まる。ゾーンへと入っていく。
一つ深呼吸する。
射るような視線が肌に刺さる。薄ら笑いも聞こえる。見知らぬ素人がメインステージでデビューなんてふざけるなと言う罵声がむしろすがすがしい。
ぞくぞくするなぁ。今から黙らせてやる。開いた口が塞がらないほどの驚きと幸福を与えてやろう。よく聴け。慄け!畏れよ!
センターにあるスタンドマイクを握る。挨拶はなし。名乗りもなし。まずは歌を聴いてくれ。すっと息を吸う。
♪世界はくだらなくちっぽけだ
アカペラで唄い出す。伸びやかなボーカルに豊かな声量。太く力強い。それは最後尾の観客の脳天さえも貫く声。観客が口を噤む。
太い声を細くしていき高音で天まで伸びる音となる。喉を震わせビブラートのかかった音は空気を震わせ、観客の心まで響く。フレーズの終わりからギターを鳴らす。チャキッとした音が鳴る。硬めの音色が空気を切り裂くように走る。稲妻のように天から脳天を直撃させる。寝ぼけたやつはすべてたたき起こす。ブーイングを歓声に変えてやる。艶やかな音色で一気にボルテージを上げる。ギターリフでさらに盛り上げていく。音が風に乗る。観客の体温が上がってくるのが伝わってきた。ヒナタは笑顔になる。
♪怯むなよ 世界なんて捨てちまえ
ファルセットを使い感情を揺さぶる。
攻撃的な歌詞に高音ボイスが軋みを与える。その軋みが居心地が悪くも頭から離れない。言いえぬ焦燥感を与える。硬質なギターの音色が鋭いナイフのように切り裂く。聴衆は迷路にはまったように戸惑う。音色は変化していく。地の底から轟くような低音のリフが鳴り響く。何かが壊れていくような不安をかきたてる。
そして声色を変えていき金属を裂くような高音から優しい丸みを帯びた野太い低音ボイスになる。音域が広く、自由に行き来する。その緩急が目に涕を浮かばせる。音に優しく包まれる。あたたかさが観客の頬をやさしく撫でる。不安がなくなり安堵が広がる。観客はその緩急に息を飲み、再び目頭を熱くする。
♪世界は色鮮やかに浮かび上がる
サビを唄い切り、ギターの音を揺らしながら鳴らす。揺らした音に、余韻の伸びた声が絡み合い、空を突き破り消えていく。一瞬の静寂。そして最後にギターを一音鳴らし音を止める。静寂。
「私の世界は今鮮やかになりました。貴様らにも鮮やかな世界が見えていますように。ありがとう。です」
礼をする。
静寂。
のち。
拍手雨あられ。時々怒声。絶叫。
のち。
笑顔。
ヒナタも。みんなも。
「ヒナタでした。また会おう」
小走りにステージを移動する。階段をおりる前にもう一度観客へ向き直り深く頭を垂れる。顔を上げると両手を大きく振る。一番奥の人にまで届けと祈りながら。
ヒナタのデビューは衝撃を与えた。
音域の広さ、低音と高音で見せる色の違い。太くも細くもなる声色は自由自在に音を操る。その歌声はエンジェルボイスともデビルボイスとも言われるようになる。祝福されたような心地よさを与え、悪魔の甘い囁きのように体に染み込む。耽美なメロディーは人々を魅了した。音が、声が、空から降り注ぎ包み込んだ。
その一歩は五万人の前でのギター一本での一曲だった。それだけで十分だった。
今の時代、アイドルはもとより、アーティストもグループ化してきている。ダンスメンバーを加えたり、よりビジュアルにも力を入れている。そういうものが人気ある時代だ。ソロシンガーというだけでハンデとなる。
そんな中、口コミでこのステージは半ば伝説のように広まった。それを受けてのように、盗撮のような映像が動画サイトにアップされた。瞬く間に視聴数は百万を超え、さらに伸び続けている。これは、プロデューサーが確信犯的にアップした動画である。
その後まもなく発売されたデビュー曲「世界はくだらなくちっぽけだ」は週間チャート一位を獲得し、ミリオンセラーを達成する。
ただし、親のコネを使った大きな舞台でのデビューは賛否両論だった。七光りゆえの過剰人気というレッテルも一部で貼られた。有名になったことでヒナタの父はすぐに週刊誌で暴露された。ヒナタもそれを隠すことなく認めた。
七光りで悪いか。ステージはそれで用意できる。
でも。
でも。拍手は、涕は、それでは用意できない。
それが答えだ。
夏の熱気が緩やかに去っていき、風に涼しさが混じり出した頃、事務所にヒナタはいた。
「次はフルアルバムを出しましょう」ヒナタは迷いなくスタッフ会議で宣言した。「曲はストックがあるから、それにもう数曲を足せばフルアルバムにできます」
「あまり急がなくてもいいんじゃないの?まずはテレビとかに出演して顔と名前を売っていけば。ひとまずセカンドシングルを出しておけばいいし」プロデューサーの郷原が言う。父の盟友だ。ヒナタのデビューの舞台をセッティングしてデビューシングルのプロデュースをした。業界の重鎮でありヒットメーカーだ。
「それじゃだめ。私は七光り。それがついてまわる。デビューまでは親の力をいくらでも借りる。郷原さんが無名の私のプロデュースをしてくれたのは父のおかげだし、いきなり五万人の前で唄えたのもそう」私はもっと輝きたい。強く強く太陽のように。そして注目を集める。目が眩むほど私が輝けば、隠したいものを隠すこともできる。
「でもヒナタちゃんは僕いなくてもデビューして成功したよ」と郷原は腕を組みながらソファーにもたれる。ふぅと息を吐き、まぁあいつの子だもんなぁ、しかたないかと独り言をつ呟く。
そんな郷原も実は二世だ。ミュージシャンの父に憧れこの世界に入る。でも華やかさに欠けるのか運がないのか売れることはなかった。そこで楽曲提供や編曲など裏方に専念すると才能が開花して、次々にヒットを連発する。ヒナタの父とのコンビでも多くのヒットを送り出した。そして会社を作り、業界では帝王と呼ばれるほどになる。
「私の個性を出すにはアルバムで連続して曲を聴いてもらうのがいい。デビューはゴールでなくスタート。私が父を超えるためにはゆっくりしていられない。七光りはデビューしちゃえばハンデにしかならない。まだまだみんなの見る目は懐疑的。しかも父は同じ歌手。比べないほうがおかしい。一発屋にはならない」ヒナタは手を組み額をそこに乗せる。まるで何かに祈るように。
そして、『色めいた世界』を父と一緒に作ったあのアーティストにも一歩でも近づきたい。目指す二人は空よりも高い。のんびりしているわけにはいかない。言葉にできない焦りがヒナタには常にある。
「まぁわかるけど時代が違うからね」郷原はソファーから背をはがし前のめりになりヒナタの顔を覗くようにする。「でもやる気があるのはいいこと。いこうフルアルバム」
ヒナタは顔を上げて笑みを浮かべる。そして、よろしくお願いしますと頭を下げる。
ヒナタが作詞作曲をする。それを郷原が手を入れ、編曲をする。自分の会社を持つまでになったのはひとえに優れた編曲能力のおかげだ。そして総合的にプロデュースまでするようになり、新人を何組も世に出して、ヒットさせてきた。
二人三脚で一つ一つ丁寧に作っていく。と言ってもほぼヒナタが書いた詞や曲をいじることはなかった。ヒナタも郷原も個性を生かすためにもできるだけそのままを望んだ。粗削りなところも含めて魅力となる。経験不足も若さと勢いで補える。原曲は若干の直しだけで曲を仕上げていく。編曲で持ち味に少しの上乗せをするだけだ。そして十曲を書き上げる。デビュー曲はエレキギターだったが、アコースティックギターの曲もある。ロックでもフォークでもポップでもない。ジャンルを分けない自由なアルバム。そしてアルバム全体で一つの曲になるように。最近はシングルコレクションやベストアルバムのようなものが多いが、アルバムは収録曲すべてを合わせて一つの物語だ。そこには流れがあり、色の繋がりがあるものだ。
最後は実際にレコーディングをしての聴こえ方で修正していく。響きや聴こえ方は音楽には大切だ。時には歌詞の意味よりも音を優先することもある。歌には意味よりも響きが重要だ。音楽は、音が第一だ。
詞に共感すると言って聴く者もいるが、一見ならぬ一聴では音の聴こえ方が左右する。詞はじっくり聴かないと入ってこない。だからこそシングルの時は音を重視する。テレビやラジオで流れた時に耳に残る曲。誰だろう?もう一度聴いてみたいと思せるものを。
しかしアルバムともなれば歌詞カードを見てくれる人も多い。だから詞にもこだわった曲も入れたい。そしてプロモート用に流した時に耳に残る曲も欲しい。思わず口ずさむような。歌詞は、音があってこそ深みのある意味にもなる。どんな音がするか。声に出してみて響きを聴いてみて最終的な仕上げとする。
それを新人らしからぬ繊細さと天性のカンで作っていく。
「血は争えないな」郷原はため息と共にそう漏らした。
ヒナタは日々運動を欠かさない。
毎朝起きるとまずストレッチをする。体を前に倒す。筋肉の伸びを感じる。体が芯から目覚めていく。ほんのり体が温まるまでやると、その後ランニングをするのが日課だ。
その日も同じようにランニングシューズを履き澄んだ空気の中を走る。季節は山を朱に染めていた。朝の空気は夏の暑気を忘れ、冷たさを感じさせる。
一つ大きく深呼吸をする。冷たい空気が気持ちいい。よし、と一声出すと走り出す。ゆっくりとだがしっかりと大地を踏みしめて手を振る。景色が流れていき、何かを追い越す。毎日十キロのランニングをする。体力が、持続力が、強い心臓が息を長くする。声を持続する力になる。そうヒナタは考えている。息継ぎなしで長く唄えれば曲の幅も広がる。アーティストはアスリートでもあるべきだ。昔のロックやフォークは、ガリガリひょろひょろだったり不健康そうだったりが格好良かったのかもしれない。でも今はそうでもないだろう。自分がそうある必要もない。ライブで全力で唄いきれるスタミナがほしい。そのほうが格好いい。そういう信念でやっていく。
徐々にスピードを上げていく。汗が額をつたう。はっはっと息が荒くなる。心臓がばくばくする。もっともっととスピードを上げていき、最後は全力疾走する。限界が来たところで十秒我慢して持続させる。そして倒れそうなほどになったところでスピードを緩めていく。油断したわけでもないが、石に気づくのに遅れ足首をひねり、横に倒れそうになる。
「おっと」倒れそうになるヒナタを通りがかりの男の人が支える。手からは紙の束がばさりと落ちた。
「ごめんなさい」ヒナタは慌てて、落ちた紙の束を拾おうとする。
「気にしないで。足は大丈夫?」爽やかな声が頭上から正面へと降ってくる。男の人も跪くと紙を集める。
「あっ」ヒナタは紙を集めながら、それが五線譜であることに気付き、手が止まる。
「ああ」男は照れくさそうに言う。「一応ピアノやってるんです。朝、散歩しながら五線譜を読むのが好きなんですよ」
「ピアニスト」ヒナタは呟く。
「そんな大層なものではないですよ」男は笑いながら紙を整えると去っていく。整えるときにピアノを弾くように指がリズミカルに動いた。
「ありがとうございました」ヒナタは背中に声をかける。遠のいていく背中を見送りながら名前を聞くのを忘れたとぼんやり思った。ヒナタの脳裏には指使いから見えたカラフルな色だけが浮かんでいた。
レコーディングは順調に進んでいく。おおむね満足いくものだ。郷原も曲が完成するたびに満足そうにうなずく。
順調だ。順調のはずなんだ。だけど、とヒナタは思う。
だけど、何かが足りない。私の目指すものはこれなのか?ヒナタはその思いがずっと心にある。それは糸くずのようにまとわりつき、払っても払ってもまとわりついてくる。これではだめだ。正体の見えぬ不安が焦りとなる。
それでも郷原の編曲により、不安は払しょくされていった。完全な満足ではないものの、一定以上のものにできた。焦燥感はあるが、アルバムは発売された。
シングルの売れ行きからするとやや物足りないとも思えるセールスだ。それでもCDの売れない時代にミリオン近い売り上げを記録した。週間チャート一位も獲得をした。
ただ、年間でのアルバム売上では、アイドルグループとボーカル&ダンスの混成ユニットの後塵を拝す結果になった。新人としては上出来ではある。でもヒナタは満足できなかった。
これでは父の影さえ踏めない。アイドルやユニットなど人数が多いグループはメンバー一人一人のファンがいるので有利だ。特典も豊富である。一人で何枚も買うファンは今では珍しくない。好きな人を応援する。そのためにお金を出す。それは否定できるものではない。
でも。それでも、やはり悔しい。歌で、曲で、負けたわけではない。
だが結果が全てだ。
前を向く。
もう一度、自分の音楽を見つめてみよう。そして、もっといい曲を作る。絶対にいい曲にはついてくる。結果も出す。新たに誓いを立ててヒナタのデビューした年はあっという間に過ぎ新年を迎える。
そういえば、あいつのデビューするドラマが正月に放映されると聞いた。一言しかない端役らしいけど、大きな一歩だ。
3
郁也は端役ではあるが、高三にして役者としての一歩を刻んだ。正月に放送されたスペシャルドラマは高視聴率をマークした。そのほとんどの話題はラブであった。
若く美しい女優。そして、その外見以上に、迫力ある、凄味を感じさせる演技が評判となった。十七歳とも、新人とも思えないほどの演技力だった。主人公は三十代のキャリア十年以上の中堅俳優だが、完全にラブに食われてしまっていた。
だが、周りのレベルを引き上げる能力のために主人公もメンツを保てるだけの演技はできていた。
郁也は、ただ一言ラブに話しかけるだけの役であった。
しかし、一言であっても郁也のプロとしての初台詞だ。凄く緊張した。そんな柄ではないと思っていたのに、自分でも驚くほど緊張した。そして同じくらいに凄くワクワクした。
『ここからだよ』それはラブにスタート位置を知らせるというだけの台詞だが、郁也には重く響く一言だった。
そうまさにここからだ。ここから始まる役者人生。どこまでいけるのだろうか。この役に、この台詞に重い重い気持ちを乗せることができた。本番では嘘のように緊張は消えていた。
そして月日が流れまた夏がやってくる。郁也は相変わらず一言二言の端役をもらうことしかできないでいた。役者で食うことができず、アルバイトで食いつなぐ生活。アルバイトをすることにより、演技する時間が削られる。映画を観たり、本を読んだりして、自分の中に感情や表現を蓄積することもできないでいた。そんな生活に焦りを感じる。自信はあった。深く深く潜れる時もある。なのに、オーディションでの即席の役作りでは深いところまでいけない。イメージに重ならないのだ。もどかしく思い、ストレスを感じながら、自分の不甲斐なさを恨む。つい、父の名を出してしまおうか。そんな狡い考えを持つこともあった。それを追い払い、アルバイトの合間にオーディションをこなしていく日が重なっていく。
そんな夏のある日、ラブの主演映画の試写会に招待された。ラブは順調にスター街道を歩んでいる。ドラマに映画と次々に出演を果たし、そのほとんどが主役級のものばかりである。
何も為せていない自分との差を見せつけられるようで試写会へ行くか迷った。だが、現実を受け入れろ。そう自分に言い聞かせて、奮い立たせるためにもラブの雄姿を目に焼き付けるために試写会へと足を運んだ。
その映画を観て、激しい感動を覚えた。打ち震えた。そして。
そして嫉妬した。ラブの演技に。ラブの共演者に。
『ねぇ、明日世界が終るとしたら何をする?』ラブは底抜けな笑顔に少しだけの陰りを忍ばせる。その表情だけで観る者すべてを引きずり込んだ。纏う空気が有無を言わせず物語の世界を彩る。
その映画はヒロインが何度も何度も死ぬ物語。そして何度も何度も主人公が助ける物語。タイムリープものであるが青春、恋愛が核である。ラブはキリコという高校生役を初々しく、瑞々しく演じた。
死への恐怖、主人公への信頼、そして挫けない自らの強さ。それを時に弱々しい声で、時に視線一つで、時に体の動きで表現する。
山沿いの川でバーベキューをする場面がある。そこでキリコは熊に一度殺される。時が戻り、もう一度やり直す。テイク2。そこでは熊に会う前に逃げようと来た道を引き返す。いつ熊に遭遇してもおかしくない道中で森のくまさんを唄うシーンがある。
会いたくないのに会う歌を唄うという感覚が面白い。それをコミカルに演じている。彼女の歌がうまいのかどうかはわからないが、劇中で森のくまさんを唄うところは唄い方、表現の仕方が秀逸だ。震えを少しだけ忍ばせて唄っている。つとめて明るく振る舞うのだが恐怖を感じないわけがない。その恐怖をそっと震えた歌声に忍ばせる。そして時折、目が泳ぐのだ。じっくり見ないと気付かないかもしれない。それでも演じているのだ。目のちょっとした動きまで。気付かなくても意識して見ていなくても人は見ている。そして感じる。恐怖を感じているのが見ている側にも伝わるのだ。まだあのオーディションから一年なのに、すでに何十年ものキャリアを誇るベテランのように感じさせる。スクリーンを通しても伝わるラブの空気。その空気に包まれると一瞬にして、映画の中へと引きずり込まれる。傍観者であるはずの観客が、当事者であるかのように、目の前で繰り広げられるかのように思えてくる。ラブはすぐそこまでやってくる。息遣いまで聴こえそうな演技。すべての観客はラブに釘付けになり、目を奪われる。
全ての観客がキリコに恋をした。
そして物語は終盤にかかる。主人公の男の子とデートの帰りに家の前で分かれるシーン。
キリコは元気で快活な女の子。でも実は病気であり先が長くない女の子。そして男の子はなんとなくそれに気付いている。でもその日が最後の別れになるとは思っていない。もちろんキリコも思っていないが、嫌な予感はしている。そんな運命には負けないという想いも持っている。そういう複雑な心理だ。だが映像は心理描写が苦手だ。心の中の声をしゃべるわけにもいかない。表情やしぐさで内面や心理状態を表現する。そこが役者の力なのだろう。何気ないしぐさに観客が気持ちを感じ取れたら役者冥利だろう。
完璧だった。郁也にはそう思えた。複雑な心理状態をうまく表現していた。泣きはしないが、会話するうちに微妙に目が潤む。泣きの芝居は役に入り切れれば物語の流れもあるしできる。だが泣かずに潤むだけで留め悲しさを押し隠す演技というのは簡単にはできない。それを完璧にやって見せた。そして時折映る手。その汗ばんでいるのではないかと思わせるしぐさ。緊張を感じさせる。そして決意もにじませる。病気に打ち勝ちもう一度男の子に会うんだという気持ち。それが手に現れる。軽く握ったり、ぎゅうと握ったり。時に何かを掴もうと空を握る。そこからの顔へのアップ。唇が一瞬震える。そしてその震えをぐっと噛み殺し、静かに笑う。
『また会おうね』そう最後に言う。その切ない表情にこの先の不幸がすでに見えた。ここで観客もそれを知らされるのだ。セリフでなく表情で。不幸が待っているぞ、と。すすりなく客もいた。背中を何かに撫でられた。汗がつたう。底知れぬものを感じさせられた。
主役の役者もラブに引っ張られるようにいい演技をしていた。そう。ラブは周りを巻き込む。より良い物語を作るために。巻き込まれて演技のレベルがいくつもあがる。この役者の他の映画やドラマでの演技は、はっきり言ってたいしたことない。確か有名な二枚目俳優の息子で騒がれて芸能界入りした。話題性知名度優先の配役だったのだろう。しかし、この映画では以前のような粗がない。そればかりか最後にはすごくしっくりきていた。キリコの恋人役を自然と演じているようになっていた。見事にはまり役になっている。
そしてラスト。
ハッピーエンドと言えるのだろう。生きてまた再会した。
しかし記憶はない。何も覚えていないキリコ。
でも生きているだけで幸せだ。
覚えていないのに何かを感じているようなヒロインの演技。それを自然と見せている。最期に向ける笑顔は今までの暗さをすべて吹き飛ばし観客に、ああ良かったと思わせた。
そうだハッピーエンドならそう思わせないといけない。解決しきっていない部分もあるし、この先また繰り返すかもしれない不幸の予感も残っているのだけども、ここではただただ再会を喜ぶシーンとしていい。続きがあるのかどうかはわからない。だけどこの映画はここで完結する。だから、ここでの最高のエンディングの見せ方は喜びだけの笑顔でいい。
『また会えたね。そして何度でも会いに来て』
その台詞で終わる物語。ラブの満面の笑顔に観る者すべてが惹きつけられた。劇中の台詞なのに、ラブに言われたように感じる。そして、そんなラブの演技をまた見に来る。逢いに来る。
郁也は感動した。ただただ感動した。ラブの演技に引き込まれたのだ。ラブは完全にキリコだった。キリコっていうのはこういう女の子なんだなと思わせた。思わされた。
演技の神様に愛されているのか。それとも悪魔が乗り移ったのか。どうしたらあの若さであそこまで潜れるのだろう。
役者の奥深さを知った。
そして。
そして、恐怖を覚えた。
役にはまることは自分を失うことではないのか。自分が何者かわからなくなってしまうのではないのか。なぜそこまでして演じるのだろう。演じる者の心理とはどういったものだろう。自分も演じる者であるのに何もかもわからなくなった。
だけど目指す身近な目標は間違いなくそこだ、と思えた。同年代にラブがいることに感謝をした。
ふと、郁也は思い出す。いつか観た父の映画。その時の相手役の女優に感じた慄き。畏怖。ラブにその影を見たような気がした。それほどまでにラブはすでに大きな存在なのだろうか。あの女優も父に負けない凄味があった。まだまだ現役だ。いつか彼女との共演もあるだろう。いやそこまでいく。役者とは多くの人との出会いがある。まだ見ぬ凄い役者もいるだろう。多くの人と一緒に芝居をしたい。すべてを超えていきたい。
父を始めとする一線を超えた頂。そこに辿り着いたときにきっと見える世界がある。それを見たい。
そしてラブと世界を作ってみたい。物語を紡ぎたい。父たちの世代を超える。
悔しさがこみ上げた。
嬉しさがこみ上げた。
ラブに挨拶をすることなく郁也は試写会をあとにした。
次に会うのは控室ではない。ちゃんと物語の舞台で再会しよう。
待ってろよ。
外はすでに暗い。藍色の空が広がっている。
風が撫でた頬が冷たい。
頬を濡らす水。
口に感じたそれはとてもしょっぱかった。
◇
熱狂の野外フェスでデビューしてシングルとアルバムを出し、新人としては成功と言える売り上げを記録し、話題性も十分であった。それでもヒナタは不満を感じた。何かが足りていない。その想いはアルバム制作の時からずっと思っていた。自分の実力不足だろうか。
年が明け、お正月をゆっくりと過ごした。一月の半ばからは曲作りを始めていた。そんな中で今年も野外フェスへの参加を打診され快諾した。夏まではまだ十分に時間がある。そして、フェスでは新曲も発表するという計画を郷原と立てた。
新曲はすでにいくつか形となっている。
フェスでは、飛び切りの曲を披露しようと思う。その候補として歌詞に古の作曲家の名前が出るものであり、ピアノのソロを盛り込んだものがある。ピアノとヒナタのギターだけの演奏。それだけにピアノの音は質を重視したい。そう伝えてある。郷原がピアニストを探してくれている。できれば、ほかのアーティストの手垢のついていない者をとお願いした。ピアニストはプロアマ問わなければ毎年多くの者が現れる。音大に進学する者全てを候補に入れれば膨大な数になるだろう。そう考えれば、まだ誰とも共演していない者は多くいる。ただ、問題は実力だ。それなりのレベルを超えれば、コンテスタントとして上を目指す者。プロのオーケストラの一員となる者。うまく、歌ものの世界へとやってくる実力派がいるだろうか。そういうものは大手の事務所に先に匿われてしまいがちである。郷原の伝手頼みになってしまうのが申し訳ない。
郷原は何人かの候補を連れてきたが、決め手に欠けているために保留されたままである。
ある良く晴れた冬にしては温かい日差しの日。ヒナタはいつものようにランニングをしていた。
公園の中に入り、葉のない木々の間を木漏れ日を感じながら走る。朝早いため、日差しがあっても空気はまだ冷たい。呼吸をすると内側から冷やされる。それでも数十分走ると体温は上がり、汗がうっすら浮いてくる。空気が乾燥しているため、疲れてくると呼吸が少し苦しい。目にベンチが入ってきた。速度を落とし近づいていく。ちょっと休もう。
ふぅと息をつき腰掛けようとする。
「待った」
突然の声に体を固める。
「そこ座っちゃだめだよ」
「えっ」
「よく見て。紙貼ってあるでしょ」
ヒナタは振り向きベンチを眺める。紙が一枚風に揺れている。文字が書いてあるので読むと、ペンキ塗りたて注意。
「あ、危なかった。ありがとうございます」礼を言って頭を下げた。
顔を上げて、声の主を見る。あっ。
「あっ」その男の人が声をこぼす。
「貴様はいつぞやの」
「貴様……?」男は怪訝そうに眉を顰める。
「あ、ごめんなさい。なんかつい貴様って言う癖があって。気を付けてるんだけど」
「変な癖ですね。でも覚えていてくれましたかヒナタさん」男は白い歯を見せ笑う。
「なんで名前……」
「いやそりゃわかるでしょあれだけ売れてれば」
ヒナタは言われて恥ずかしくなった。自分はもう一般人ではない。顔の知られた芸能人なんだ。音楽家なのだ。今までのように気軽にランニングをしていてはいけないのかもしれない。
「そうだ、お名前は?」
「ん。オオガミケイスケです」大神圭介二十歳だという。ヒナタの少し年上ということだ。
ベンチには座れないのでゆっくり歩きながら話をする。途中、自販機のところでスポーツドリンクを大神が買って渡してくれた。冬でも熱中症になるから水分は摂らないとだめだよと怒りながら。
大神は、背は高くもなくどちらかと言えば小柄な部類だ。痩せも太りもしていない体型。髪も耳にかかるくらいで長すぎもせず短くもない。特に特徴はないが爽やかな青年といういでたち。だが眼力が凄い。
「そういえば音大生ですか?」ヒナタはふとこないだの五線譜を思い出して尋ねた。
「……こないだまではね」
「まだ二十歳なら卒業ではないですよね?」
「やめたんだ」
えっ。突然のことに返事に詰まる。
「ほかにやりたいことができちゃって。コンクールを目指すためにも音大に入ったんだけど、もうそれはやめた」
「ピアノも。ピアノも、やめちゃったんですか?」あの時のカラフルな色が忘れられなくて思わず聞いていた。
「いやピアノはやるよ。実は」
「あの」ヒナタは勢いよく声を出した。気圧されるように大神は怯む。
「あの、よかったらピアノ聴かせてくれないですか」あの時の色が間違いでないならば。
「ほんと?実は僕仕事探してて」と照れくさそうに大神が言い出す。
クラシック奏者としてのピアノはやめた。そして、軽音楽やポップスと言われるような歌詞のある、歌のある音楽へと転身しようと思っているとのこと。なぜ?ヒナタは疑問に思う。それを察してか大神自ら問われるまでもなく口を開く。
「実は、偶然聴いたあなたのお父さんの、アマネさんの音楽に衝撃を受けた。それまではクラシックが一番だと思っていたんだ。歌詞のある曲なんて邪道とさえ思ったこともある。でも。でもあなたのお父さんの声は音楽そのものだった。素直に感動した。譜面通りに演奏するのがコンクールでは大切。技術的なものが大切。もちろんプロの奏者は各々の解釈や感情をこめる。だから奏者ごとに別の曲にはなる。でも」
間を置いてヒナタをまっすぐに見つめる。
「でも、声とピアノの音が重なる美しさが忘れられない。ピアノとギターやベース、ドラムとの重なりが素晴らしかった。自分もその音の中にいたいと思った」そう思ったらもう音大にいる意味を感じなくなった。それでもやめることには悩んだ。そんな時に君がデビューした。お父さん以上の衝撃を受けたよ。僕より若いのに一人であの舞台で正面から向き合い音楽をぶつける姿に感動した。そして大学を休学とかでなく退学した。逃げ道は作らないと思って。バッキングでもスタジオミュージシャンでもいい。小さい仕事でもかまわないと思って探し始めたんだ。大神はそう告げた。
「でも、なかなかうまくいかない。そもそも求人に出るとかでもないし、僕は事務所に所属もしていないからどうやって探せばいいかわからなくて。そんな時に君に出会った。画面の向こうでなく僕の目の前に現れて」
大神はそっと目を伏せる。恥じ入るように。
「恥ずかしいけど、ここに来るときはいつも君にもう一度会えないかなと思っていた。もし会えたらピアノを聴いてもらいたくて。もし気に入ってくれたら」一緒に仕事したいという言葉は小さく囁くような声だった。ヒナタさんの歌が好きだ。お父さんの歌に衝撃を受けた。でも音大をやめる背中を押したのは君の音楽だ。そう言った大神の眼差しはまっすぐにヒナタを貫いた。
「わかった。私も貴様のピアノを聴きたいと思った。貴様の色を私に見せてください」
ヒナタはすぐに郷原に話をしてスタジオを貸してもらえるように手配した。
その日は、先約があるので後日貸してもらうことにした。大神にその日程を伝えた。
「待ってるね」ヒナタには予感めいたものがある。
そして約束の日。
郷原に無理を言ったことを詫び、貸してくれた礼を告げる。
「いいよいいよ。それにしてもピアニストをヒナタちゃんが直接連れてくるとはね。しかも彼だとは……」
「知ってるんですか?」
「うん。僕はプロデューサーだからね。多くの音楽家をチェックしている。国内国外問わない。そしてジャンルも問わない。僕らのポップスやロックは当たり前で、ジャズやラップも、琴や三味線なんかも最近はポップスに使われるからチェックする。そして。クラシック関係。ピアノやストリングスの需要は増えているから。若き才能に出会えて、僕らと一緒にやれないかと常に目を光らせているよ」
「郷原さん彼に目をつけてたんですか」
「こっちには来ないのかなと思ってた。コンテスタントとしていいところまで行ってたから近いうちに賞を取ってプロピアニストになると思ってたよ。それがまさか、ね」
「そんなに凄いんですか?」
郷原はニヤリと笑うと、聴いたほうが早いよ、と大神に演奏を促す。
大神はピアノに座る。背筋がピンと伸びる。大神の背中が急に大きく見えた。
そっと手を鍵盤の上に添える。ぼんやりと光が灯ったように見えた。
大神はおもむろに手をおろす。一つの和音が鳴る。たった一つ。その響きの美しさ。音の大きさ。ヒナタの心を鷲掴みにして揺さぶった。それで充分だった。ヒナタは項垂れた。いや謝ったのだ。申し訳ない。みくびった。その音は空気を突き抜けるような澄んだ音。ブレのない凛とした音。大きな音を綺麗に慣らすのは案外に容易くない。この音しかない。イメージ通り。いやイメージ以上にヒナタの世界を彩った。ここまでとは。あの色は間違いなかったのだ。期待はしていたが、これほどとは思っていなかった。
ただの聴衆と化して彼の演奏に溺れた。なんてカラフルなんだ。
小柄なはずの大神が大きい。背中が雄弁に語る。
大きく開かれた両手が、軽やかにスキップするように舞う。手が舞うと音がぽろりぽろりと零れてくる。まるで天使の羽のようだ。星が降るような夜空と言うことはあるが、音が降るような演奏だ。
たくさんの音が顔に当たり、体に流れ、満たされていく。それは多くの色となり、ヒナタの体をキャンパスにしてカラフルな絵を描いていった。
ヒナタは音が色づいて見える共感覚者だ。小さい頃に事故にあった影響なのかもしれない。もっとも事故にあったのは赤子の頃なので、それ以前にどう見えていたかの記憶はない。先天性なのか後天性なのかははっきりしない。
凄い。思わずため息が零れた。これだけ多彩な色を繰り出す奏者に出会ったことはない。赤、青、緑、黄、オレンジ、紫。それぞれに細かい感情が乗る。色彩豊かなのは、それだけ感情豊かなのだ。表現力が優れているとも言える。この色づいて見える能力もヒナタの歌手としての能力を押し上げている。
たいていの音楽はそこまで多くの彩りはない。奏者にとって感情をいくつもいくつもそれこそ一音で変えるような繊細な感覚までは出せない。表現力が豊かであっても、感情の限界はあるのだろう。だから曲のテーマに沿ったような単一的なカラーになりやすい。
しかし彼は豊かすぎる。なぜだろうか。その色に溺れそうだ。
「彼ね」郷原が曲に酔いしれた惚けた表情で口を開く。
「彼、目が悪いんだよ。視力がってことじゃなく」ため息を吐くように吐き出された言葉。「色がないらしい」
モノクロの世界に生きているんだよ彼は。それなのに彼の演奏はすごくカラフルだろう。色が見えるわけではないけど、この音の多彩さ、感情の豊かさ。カラフルな音ってのはこういうこと言うんだな。しかし神様って皮肉だよね。郷原は大神を見つめながら言った。
皮肉だ。私にとっては特に。彼が見えない色が私には彼の発する音に見える。モノクロの視界だからこそ、このカラフルな感情豊かな演奏をできるのだろうか。衝撃でしかない。ヒナタはそう思いなぜか震えた。それは武者震いのようなものなのか、戦慄なのか。いやそれはきっと、畏れだ。神に息を吹きかけられたように感じた。
「どうでしたか?」大神が演奏を終えて聞いてくる。
聞いてくるが早いか、ヒナタは両の手が痛くなるほど拍手をしていた。
「僕の演奏に満足したと思っていいのかな?」大神は軽い笑みをたずさえる。
ヒナタは、私に足りないモノを彼のピアノが補ってくれる。それ以上にもっと高みに連れて行ってくれる。そう確信した。
本物のピアニストを得たことにより、野外フェスで披露しようと思っている新曲の展望が一気に明るくなった。それは偉大な音楽家が歌詞に出てくる曲。伴奏は大神のピアノのみにすることに決めた。ギターとピアノでの演奏を考えていたが、大神の演奏を聴いた今、ピアノだけがふさわしいとしか言えない。イントロや間奏ではピアノソロを盛り込もう。ヒナタに、大きな神が舞い降りた。
そして迎えた野外フェス。センターステージにはグランドピアノが置かれた。熱気でむせ返るような空気の中、静かにメロディーを奏でる。イントロでの大神の演奏が清涼な風を連れてきた。次第に和音で響かせ、聴く者の胸に染み込ませる。観客がピアノの虜になるのがわかる。偉大な才能の前に観客は静かに目を閉じ、耳を澄ませた。
♪ショパンが好きだと言う君
ラフマニノフしか聴かない僕
静かなピアノの調べに乗り歌い出す。
それはありし偉大な音楽家を思い起こす。
♪彼の音が灰の世界を変える
君の音が過去と現代を繋ぐ
偉大なコードが眠る未来 古の音を蘇らせる僕
偉大な彼らは寛大だ。クラシックが現代音楽と融合することさえも意に介さない。ゆえにクラシックはいつまでも色褪せない。彼らの残した五線譜は時代を超えて現代人をも魅了する。道具もしかり。何百年前の楽器が今の時代でも現役で鳴り続けるのだ。
その畏敬の念を歌詞に忍ばせて唄う。
それはまるで偉大な音楽家たちへの恋文だ。初恋の淡い気持ちを思い出させるようなメロディー。ロマンチックに星を眺めうっとりするような甘い音が降りてくる。
そして過去に挑んでいく。音楽理論や技術の大半が彼らクラシック音楽家が作り出した。しかしそれをもっと高みにもっていきたい。
サビに入りピアノが声に音を重ねていく。それは美しいハーモニーとなり、さらに共鳴していく。跳ねるような高音にヒナタの高音を合わせる。その響きは風鈴の澄んだ音のように風に乗っていく。ピアノが次第に荒々しく和音を連ねていく。ヒナタのボイスも力強くなっていき、太く低い音で腹に響かせていく。それは大きな振動となり、聴く者は共振する。そこに高揚が産まれ、体が揺れていく。大地から突き上げられるように上下に縦揺れしていく。体は音に敏感だ。正直だ。心地いい曲の時、まるで居眠りするようにゆらゆらする。盛り上がり興奮する曲の時、立ったままでいられずリズムにまかせて体を激しく揺する。
音楽と踊りはセットなのかもしれない。そう思わせてくれる。
♪さぁ音を出してみよう
きっと誰かが音を重ねてくれる
さぁ動け動け鳴らせ奏でろ
きっと誰かが音と踊り出す
まるで太古の祈りの儀式のようであり、祭りのようでもある。
音を楽しむのが音楽だ。どれだけ世界をカラフルにできるか。それを伝えられたらいいなと思いながら唄う。音楽家への恋文は、音楽そのものへの祈りとなり、感謝となっていく。甘い音から、切なくもあたたかさのある音へと転調していく。
その色の流れ方はグラデーションを描き、まるで虹のようだ。
ヒナタの声と大神のピアノ。それは奇跡の出逢い。そして必然の出逢い。その出逢いがあってこそ、この色が出せたのだ。音楽は人と人の出会いにより、スパークしてこの地上に産み落とされる赤子なのだろう。
出逢いの数だけ音楽がある。
新曲は、ミリオンセールとなった。同時に発売された、トップアイドルグループ――神楽坂輪舞を抑えての週間一位にもなる。今一番売るグループを上回ったことはヒナタに自信を植え付けた。間違っていなかったのだ。
そして大神に感謝した。
才能は才能に嫉妬する。才能は才能に憧れる。そして、才能は才能に挑む。
大神という才能がいたからこそ、ヒナタはそこに嫉妬し憧れ挑んだ。その結果がまた一つ上のステージへと昇らせた。
大きな才能は、新たな才能を大きく育てる。
4
ラブの試写会を見て新たに燃えるものを郁也は感じた。
新たな気持ちでオーディションを受けるようになる。結果は出ないけども、不安になることは減ってきた。脇役ばかりではあるが徐々に役をもらえるようになってきていた。だが、今のままではラブの横に立つこともできない。父を超えるなんて笑ってしまうほど遠い。
そしてそんな郁也の運命を変える新たな出逢いがあった。
その時の郁也は舞台での役を得ていた。二週間ほどの公演であるが、休みは中日に一日あるだけだ。毎日二回公演をするので体力もいる興行である。だが、毎日演じることができるのが嬉しい。それだけイメージを描き重ねていくことができる。台詞のほとんどない出番も少ない役であるが、郁也自身は手ごたえを感じていた。深く潜れている。イメージに重ねることができたと思える日もあった。
そして公演も半分を過ぎたある日。舞台が終わり帰ろうとすると、声をかけられた。
「ねぇ」
「はい。なんでしょうか?」
ファンって感じではない。出待ちをする熱いファンというのはいるが、郁也にはそこまでのファンはまだいない。目立つ役などやっていないのだから当然だろう。ではこの人はなんだろうか。いくつくらいの人だろう。スーツで身を固めた女の人。三十歳にも四十歳にも見える。できる秘書のような雰囲気だ。髪は後ろで結わえてある。眼鏡が知的なイメージを与える。なにより美人だ。切れ長の目にかすかに見覚えがある気がした。女優さんだろうか?多くの疑問がわいた。
「私はこういう者よ」名刺を差し出される。
桐谷プロダクション社長――桐谷美緒。芸能事務所の社長か。
「えっ社長?!」そんな人がわざわざなんだろう。
「君と話したくて。さっきの舞台よかったわよ」
「ありがとうございます」お世辞だろうが褒められれば嬉しい。
「君、無所属なんだって」パンフレットを手に持っている。簡単なプロフィールが載っているので所属事務所も書かれている。
「ええ」
「もったいない」目を瞑り頭を振る。
「どういうことですか?」まじまじと桐谷社長の顔を見る。
「君は才能がある。でも端役しかもらえてないでしょ?」目を開き正面から見据えてくる。
「しかも。オーディションは落ちることのが多いんじゃない?」
「えっ」なぜわかるんだろうか。調べたのか。
「君はそういうタイプじゃないでしょ」
「どういうことですか?」
「オーディションでは面接や実技がある。でもそれが直接もらえる役に関わるわけではない。実技の時に台本を渡されてから本番までの時間も短い」
「ええまぁ」そうだけどしかたない。実績のない自分はそれでもそこからやるしかない。
「君は役を与えられたらそれに入り込める。だから役さえあれば素晴らしいものを見せられる。少しのきっかけと時間があればもっと深く役に入り込めるはずよ。でも時間が少ないオーディションでは良さが出ない」
「それはそうですがしかたないです。少ない時間で入り込めるようにしなくてはいけない。僕は実績がないので向こうからオファーが来ることはない。だからオーディションで選ばれて初めて役をもらえるんです」
「こう見えて、昔女優をやってたからわかることもある。あなたの役作りはたぶん私と似ている。時間があるほど役に入り込める。いい演技ができた。でも役をもらってからの猶予期間がないといい演技ができなかった。君もそうじゃない?」
「そうですね。もう少し役作りの時間がほしいとは思います」
「ところで、君、無所属なのはなんで?」
「自分の力だけで登っていきたいんです」
桐谷社長は、はぁあと大きくため息をつく。あからさまに馬鹿にしたように。
「そんなんじゃ大きな役なんていつまでももらえないわよ」桐谷社長は煙草を取り出し吸ってもいいかと尋ねるように軽く持ち上げる。郁也が軽く頷くと優雅な手つきで火をつける。
星がうっすら見える雲一つない夜空に向かって煙を吐き出す。揺蕩う煙が雲のようだ。美味しそうに吸うものだと妙な感心をする。
「うちに所属しない?私が君に役を用意するわ」まだ長いままの煙草を壁に押し付けてもみ消すと携帯灰皿に捨てる。「無所属じゃ限界がある。君はもっと大きくなれる。そうなったらどっちにしろマネージャーとか必要だし君を守る会社も必要」
「でも」
「一人で登っていきたいってのはカッコいいけど結果出てないじゃない。ただの独りよがりよ。四、五十歳になってからやっとそれなりに役がもらえればいいの?それでも主役にはなれないでしょうね」
郁也は言い返せなかった。確かに結果が出ていない。このままではラブに追いつくどころか引き離されるばかり。それどころか食うこともできずにバイトを増やさなくてはいけない。そうなれば役者のための時間は減る。親の名を使うことも嫌だ。それなら。
「君、二世でしょ?お父さんの名前で役もらうとかは考えなかった?」
「父の名は出してません。自分の力だけでやります」徹底的に隠しているから知られていないはずだが、自分がそう思うだけで、業界では知られているのだろうか。もしかして、それで端役くらいはもらえているのか。嫌な汗を郁也はかいた。
桐谷社長はまたため息を吐くと、まくし立てるように言う。昔から二世なんて多かったからかまわない。芸能ってのは特殊な世界。小さいころからそれを目の当たりにして一般の会社に入ってサラリーマンになるなんてなかなかできないことよ。役者だと二世でも名優ってけっこういる。でもそれは実績を積み、あとから名優と呼ばれることが多い。駆け出しの時は、大抵親よりもダメと見られるし陰口もたたかれる。それでも役者は実力がすべて。主役になるには実力か圧倒的な華がなきゃなれない。そこに親の名前は必要ないの。バラエティに出るだけなら親のコネでそれなりにできる。今はゲストがいっぱいだったり、ひな壇なんてのもあるからね。でも役者は違う。役は多くあっても画面にそれなりに出るには名前付きセリフ付きの役をもらわないと。それには個人だけではきついよ。営業しなければいけない。事務所はそれを代わりにやるの。イメージ戦略したり売り出すノウハウも持っている。親の名を使ってでもチャンスを掴むつもりがないなら事務所は絶対に必要よ。オーディションで即座に力を出せるタイプでないのだからなおさらね。でも。
「でも君には才能がある。それは間違いない。役があれば化けるよ」
才能があると言われて嬉しくないわけがない。それに確かに無所属の限界を感じているのも間違いない。でも。
でも、もう少し一人で頑張りたいです。そう答えようと思った。だがその前にもう一言。
「君のお父さんを、ヒュウガさんを超えようよ」
桐谷社長は言った。昔、郁也の父と共演したことがある、と。だから郁也のことは知っていた。お正月のドラマに少しだけど出てたでしょ。小さい時の君しか知らないけど、一目でピンと来た。面影があったし、ヒュウガさんにも似ていた。役者になったんだと嬉しかった。そして、最近は舞台に出ていることを知ってそれで観に行った。少ない台詞と出番だけど、私には凄味を感じた。でも、光るモノはあるけど生かし切れていない。役が合っていないし、入り切れていない。役さえあれば。そして経験を積めば。それが観ていて悔しかった、と桐谷社長は歯ぎしりした。
父のことを知ったうえで、それを超える可能性を郁也に見たと言う桐谷社長の眼差しは熱かった。それが決め手だった。小さい頃から見ていた大きな背中。独善的で家庭なんてほったらかし。それでもテレビや銀幕で観る父は悔しいが格好良かった。いつしか親父よりも凄い役者になるのが夢になり目標になった。そして父を知る、共演したことのある元女優。うさん臭さはあるが、その眼差しと言葉は熱かった。
郁也は自然と手を差し出した。桐谷社長はそれを強く握り返してきた。
「大船に乗ったつもりでまかせてね」
後日事務所を訪ねた。
「うそつき!」郁也は怒鳴った。
「いやいやいや」桐谷社長は帰ろうとする郁也を必死になだめる。
「社長って言ってもあなた一人の事務所じゃないか!それでよくもあんな大きなことを言った」郁也はみすぼらしいワンルームの部屋を眺めほかに事務員一人いないのを認めると思わず怒鳴ってしまったのだ。帰ろう。
「待って待って」なおも声が帰ろうとする郁也の背中を追ってくる。よく調べもせずに一緒にやろうとした郁也の落ち度だ。情熱だけですべてがうまくいくわけではない。
エレベーターもない古びたビルの二階の部屋を出て階段で降りる。居眠りした管理人を横目に通り過ぎて狭い入口から外へ出る。深いため息を吐く。
「ため息を吐くと幸せが逃げるって言われなかった?」横から声がかかる。
ゆっくりとそっちに目を向ける。この声は知っている。直接話したことはずいぶん前だが、テレビや銀幕で何度もその声を聞いている。
壁に寄りかかっていた人物が一歩こちらに近づく。
「いつまでたっても来ないから私から来た。遅い」ラブが白い歯を見せて笑う。
郁也は口をだらしなく開けたまま声が出ない。
「いたいた。よかった」桐谷社長が追いついて声をかけてくる。目線がラブを捉えた。ラブは軽くおじぎをする。
「美緒もひさしぶりね」ラブはにこやかに桐谷社長に話しかける。知り合いだったのか。
「ラブよく来たね。来ないかと思った」
「来るよ。美緒より先に私が見つけたんだもの。驚いたよ美緒から彼の名前を聞かされて」
二人は昔からの知り合いのようだ。桐谷社長を美緒と呼び捨てにすることから距離の近さを感じる。
何が何やらと言う顔の郁也に向かってラブが説明する。
「面白い役者を見つけたって美緒から聞いたの。誰って聞いたらあなただった。しかも美緒の事務所に所属するって。所属第一号ね。それで今日あなたが来ると聞いて現場を少しだけ抜けて来たの」ちなみに美緒は少し年は離れてるけど従姉よと付け加えた。桐谷社長は、年は余計よと怒った。言われればどことなく似ている気がする。
ラブは変装のためか眼鏡にキャップをかぶっている。それでもオーラが隠せていない。相変わらず存在だけで圧倒される。
郁也の父がヒュウガだということはラブに確かめて知ったのだろうか。すべての業界人に隠すことはできない。ラブの所属事務所には、郁也の父と共演したことがある者も当然いる。そういった人すべてが口を閉ざしてくれるわけではない。ラブも郁也の父のことはもう当然知っているのだろう。それでも、そのことには触れないのは優しさなのか。それとも……。
「ラブからも言って。確かに出来立ての事務所だけど私の本気さがあなたならわかるでしょ」桐谷社長が懇願する。
「そうね。事務所の実績はゼロ。マネージメントも経験なし」それを聞いてますます所属してはいけないと思った。
「でも。美緒は役者として有名ではなかったけど実力はあった。ちょっと体が弱くて何度か穴をあけたことがあって仕事が減った。役に入り込みすぎるし、そのための役作りの時間も多いから体力が必要なのも痛いところね。体が弱いのは致命傷となった。それで早々に引退することになったの。それがなければ、今頃主役級だったはずよ。女優は辞めたけど演劇には未練があったのね。よく小劇団の芝居なんかも見ていたし、ドラマも欠かさずチェックしていた。お正月のドラマは私が出るから当然見るでしょうね。そこであなたを見つけて、舞台で生で観て確認したってとこね。突然、事務所始めるって言い出した」ラブは郁也を見て言う。そして指を突きつける。
「あなたを売り出すためにね。あなたに惚れちゃったみたいよ」横目で美緒を見ながら口元が綻ぶ。
驚いて桐谷社長を見る。桐谷社長は照れ臭そうにする。「な、な、なに言ってんの。違うの。役者としてだからね」
「もちろんそうでしょ。なに慌ててるの」ラブはにやにやとする。
一つ咳払いをして、桐谷社長は言った。「こないだも言ったけど、ドラマを見て気になった。ヒュウガさんの子だと知った時の衝撃。そして舞台を観に行って、君の演技に、惚れた」演技にやたらと力を入れる。その姿がなんだかかわいいなぁと郁也は思った。そして真剣さが伝わってきた。
桐谷社長はなおも続ける。「嬉しくて震えて思わず叫んだわ。周りに奇妙な目で見られたけど、どうでもよかった。こみ上げる衝動が凄くて抑えられなかった」記憶を辿るように目を細める。恍惚な顔で自分の体を抱きしめる。「胸に響いた。でも勘違いかもしれない。そう思って冷静になってもう一度観に行った。勘違いでなかった。こんな端役でなくて主役の生方郁也を見たいと思った。なんで周りは君の才能に気付かないのだともどかしくもなった。無所属と知り、芸能の世界でそれではチャンスも少ないと納得したの」
だから私が役を獲ってくる。そう思うや、すぐに仕事を辞めて退路を断ち、こないだ会いに来たのだと言う。なんて行動力とわがままさだろう。売り出すなら大きい事務所の方がいいのではないかと思わなくもない。でもこれでよかったとも郁也は思う。
「父親の名前を出せば大きい事務所に所属して役をもらえるんじゃないか?と思ったことは正直あります。でも」
でもそれを郁也は望まなかった。だから無所属だったのだ。
「うん。それなら私がと思ったの。だって君の才能に気付いたのは私だけだから。実際はラブも気付いていたみたいだけどね。ちょっと気になるところはあるけど、光るものがあった。怖気がするほどのものを感じた。気になるところはいずれ解決できると思うからそれは今はいい。まぁこれでも元女優だから多少は人脈がある。そして女優辞めてからは営業職をやってたのよ。だから押しの強さはまかせて」力こぶを作るしぐさをする。
「美緒の見る目は確かよ。そしてこうと決めたら成し遂げる頑固さと根性もある。だから止めなかった。一人で這い上がろうとしたあなたにはぴったりじゃないかな。才能はただでは開かないし日の目を見ないこともある。運ときっかけも必要よ。美緒がそれをもたらしてくれる。凄いやつは絶対誰かは気付く。美緒がその人でよかったと感謝しなさい」ラブはそう言って時計を見る。「あたしそろそろ時間だからいかなくちゃ」
「ああ頑張れよ」郁也は何気なくそう返す。
ラブは目を吊り上げて郁也を睨む。おもむろに胸倉を掴み、ぐいと自分に引き寄せる。ラブの美しい顔が目の前に来て郁也はドキリとする。息が鼻にかかる。顔が熱くなり体温が上がるのを郁也は感じた。しかし、冷水を浴びせられる。
「莫迦か。あたしに言う言葉か?違うだろ。自分に言え。頑張るのはお前だ。早く来い。あたしの位置まで。同じ舞台に立つんだろ。あたしとやればさらに高みに連れていくよ。だからまずはあたしと一緒にやれるとこまで来い。もう長くは待たないよ。あたしの目に狂いがあったことにしないで」そう言って拳を郁也の胸に当てる。熱い。何かが灯った。
「ラブ。もうちょい待ってな。一年。一年であなたのとこまで連れていく」桐谷社長が宣言する。その自信はどこから来るのか。
ラブは頷くと背を向けて去っていく。振り返ることもなく軽く手だけあげた。
帽子からはみ出た髪が艶やかに輝いた。星一つない漆黒の夜空のようだ。
待ってろすぐ行くと背中に向かって声を出さずに郁也は告げる。決意を新たにした。
桐谷社長のほうに向きなおり頭をさげる。「よろしくお願いします」
桐谷社長は「おう」と満面の笑みで答えたくれた。
「君のお父さんを超えよう。ラブも超えよう。演劇の王となろう」
◇
フェスで披露した新曲が高い評価を受けた。そしてデビューして一年を過ぎ、持ち歌も増えたことによりライブツアーをすることになった。ファーストアルバムを出した時から計画されていたもので、ホールの予約がこの秋以降になっていた。
大神の予定を尋ねると、「スケジュール?すっかすかだよ。こないだの野外フェスが初仕事なのは知っているでしょう。そのあとの予定がないことも。知ってて聞いてる?ツアーの誘いは嬉しい。渡りに船だよ。財布もすっかすかなんだ」と笑いながら即決してくれた。
ヒナタはホッとした。それほど彼のピアノに惚れてしまっている。
アルバム制作時に参加したベースとドラムも問題なく参加してもらえた。普段はプロのスタジオミュージシャンであり、演奏技術は職人のごとく安定している。ツアーのサポートメンバーも普段からやっているので安心してまかせることができる。すでにキャリア二十年を超えるベテランである。自己主張は少なめに、ヒナタの意を汲んだ演奏をしてくれるので信頼できる。
構成をどうするかだが、ギターを加えたほうがいいと郷原は進言した。全曲をギターもボーカルもはきつい。それにギターを忘れてボーカルに集中したほうがいい曲もあると言う。体力には自信があるが、ギターへの負担を減らせればもっと唄うことにも集中できる。基本はピアノをメインで考えているので、ギターはあくまでサポートだ。それに徹することのできるようなギタリストを加えられたらいい。
「お願いします」
郷原はにやりと笑い親指を天に向けた。
「今時間あるかな?」
曲作りでスタジオにいる時、大神がちょっと聴いてほしいんだけどと言ってきた。ヒナタがかまわないと伝えると、大神はピアノに座った。そっと目を瞑り深く呼吸をする。目を開くと大神の手が輝いた。ゆっくりとしたテンポの音が鳴る。
一瞬にして、スタジオがコンサート会場になった。空気が変わる。厳かで静謐な空気感。カラフルな色がヒナタを包み込む。イメージが穏やかに降りてくる。
それは豊かな緑に囲まれた湖。弱い風が波紋を起こす。耳を澄ませば、自然の声が聴こえてきそうだ。清涼な空気が思わず深呼吸をしたくなる。静かなる音。音なのに静けさをたずさえる。
徐々にアップテンポになる。
何かが訪れる。静寂を崩す襲来。でもそれは乱暴ではない。そう。それは白鳥。優雅に舞い降りてくる。荒々しさを内包しつつも美しく着水する。一羽。
そしてもう一羽。番いだろうか。仲睦まじい様子。じゃれあいながら水面を揺らす。まるでワルツを踊るように。ヒナタは目を瞑り音に身を委ねる。
旋律が変わる。一転して不穏な音になる。胸騒ぎを覚える。不条理な音が焦燥感となる。ヒナタは目を見開く。心臓をつかまれたような気分になる。不安がヒナタを捕まえて離さない。
気付くと大神は腰を浮かせて半立ちで演奏している。音が多彩に溢れ出す。それはクラシックなのか。それともジャズなのか。いや、ジャンルなんて関係ない。これが大神の音楽だ。大神が躍動する。ピアノは体で演奏するものだ、と言われることもあるが、まさに体でぶつかるように演奏する激しさがある。音が重厚に醸し出される。色が交わって溶けていく。音が雨のように流れ出す。その多彩でありながらミスのないタッチに演奏能力の高さが伝わってくる。そしてそれ以上に表現力の豊かさに圧倒される。溢れる色の美しさにヒナタは身悶えた。
不安がやってくる。それは敵の襲来。二羽を襲うのは何だろうか?湖の真ん中は安全なはずなのに。確かに近づいてくる。
侵略者は、人だ。悲しくも我々、ヒトではないか。自然を壊すのは、野生動物に恐怖を与えるのは、害悪であるヒトだ。
銃で狙うのだろうか。網でも用意するのだろうか。
逃げろと叫びそうになるくらいに心臓が高鳴る。言いえぬ不安。何もできない焦燥。絶望という言葉が浮かびそうになる。しかし。逃げて。逃げて。
旋律はまた変わる。そして跳躍する音。十五音以上飛んでいるだろうか。それは確かな技術の証でもある。そして音の変化が音楽にアクセントを与える。高い音への跳躍が鳥を想像させる。鳥の飛翔のようだ。大神の両手が左右に大きく開かれて演奏する姿はまるで鳥の羽ばたきのようだ。
そして安堵の音が鳴る。それは幸せの音でもある。心が温まる。大神はいつの間にか腰をおろし優雅な手つきで鍵盤を撫でる。それは羽が舞うようにゆっくりと優しく見える。しかしそう見せているだけで実の指の動きは素早く目まぐるしい。なんて楽しそうに演奏するんだ。額に汗が光る。零れる笑顔にドキリとする。
そうだ。その優雅さと動きの激しさはまさに白鳥のようだ。水面にたたずむ姿は高貴で優雅。しかし水の中では激しくかかれる足。見えている世界がすべてではない。わかりきったことだ。
ヒナタの目から流れる熱い雫。
二羽は逃げ遂せた。元気に羽ばたく。強さを感じる。生きる強さ、逞しさ。
そしてさらなる幸福の鐘が鳴る。それは新しい生命の息吹。祝福の声。繋がれる生命。
最後の一音が鳴り、余韻となる。大神の優しくも強き音がヒナタを包んだ。そして光り輝き生命を感じさせた。
「ありがとう」ヒナタは恭しく言葉を発する。「素敵な曲。それに巡り合えたこの時を忘れない」
「気に入ってくれた?」恐る恐るという感じで大神は聞く。
ヒナタは頬を拭い笑いかける。言葉はいらない。
「これに詞をつけて唄って」大神が言う。
「いいの?」
「もちろん。君が唄うことを想像して書いた。君がでかすぎて僕の想像の翼は天をも突き破った。君がいたから出来た曲だ。君に唄ってほしい」
「責任重大だね」ヒナタは重々しく言う。これほどの曲。失敗できない。まさにスケールを超えての演奏だった。決まった枠には収まらずはみ出していく。どこまでも大きい。あれだけの多彩な音、多彩な色。嫉妬しそうになるほどのでかすぎる才能。この曲は多くの人に届けないといけない。こんな新人に賭けてくれるのだ。どんな大物だろうとこの曲には飛びつくだろう。
「でも責任は取らない。貴様が勝手に私にベットしたのだから」おどけて言う。「好きにやらせてもらう」
「そうしてくれ。君に賭けた」一度うつむき唇をかむ。そして前を向きヒナタを正面から見つめる。ひとつ頷く。
「かなり硬い賭けだ。僕は石橋をたたいても渡らないくらい慎重な性格なんだ」
イメージは白鳥の物語ではあったけど、根底には生命がある。色がある。それを言葉にする。詞にする。それは困難な作業だった。だけども幸せな時間でもあった。今までは自分で作詞作曲するだけだったが、こんなにも素晴らしい曲を提供されて詞を書ける喜びは初めての体験だ。プロの世界とは自分だけでは出てこない表現や音がある世界だ。そしてそれは極上だ。薄っぺらでくだらない音も氾濫してはいるが、魂を震わせる音もたくさんあるのだ。
この曲はツアーで披露しよう。ピアノとボーカルだけでもいいが、ライブでもあるので少しアレンジしよう。色鮮やかな曲。そして魂と生命の物語。大神にも色が見えるほどの歌を唄おう。唄ってやろう。唄ってやる。
そして完成した曲。
イロドリノオト。
そして郷原に頼んであったギタリストが見つかり訪ねてくることになった。
郷原のスタジオでヒナタ一人で待っている。さすがやり手のプロデューサー。スタジオはとても立派だ。相当かかっているのだろう。隅々まで細やかな配慮が行き届いた作りだ。機材は最新のモノから玄人好みのモノまでかなりの種類が揃っている。それだけに郷原のこだわりを感じる。
勝手に使っていいと合鍵を渡された。半分以上君のお父さんのおかげで建てられたものだからねと笑って。
「ちーっす」軽い口調で挨拶して入ってくる者がいた。女の声だ。
「ヤマガミコって言います。呼ばれたので来ましたっす」腰にかかりそうなほど長い髪を赤いリボンで一つに束ねている。漆黒の黒髪。瞳も吸い込まれそうなほどに黒い。背は高くはないように見える。肌はやたらに白い。細く吊り上がり気味の目が意思の強さを感じる。薄い唇が艶々していて妙に色っぽい。泣き黒子がなかなかチャーミングだ。年は二十二だと言う。ヤマガミコ――山賀美子か。どんな音を鳴らすのだろう。
「さっそくだけど音を聴きたいな」ヒナタは簡単にあいさつをすませるとそう言った。今日は郷原は所用で出ているのでヒナタ一人だ。まずはヒナタが気に入るかどうかが重要だからヒナタ一人で聴いたらいいと郷原は言っていた。それに相手は女だから二人きりで会ってもそう危険もないだろうと。
「了解っす」そう言って山賀は用意を始める。そこでふと気付く。ギターケースを持っていない。代わりに持っているのは――。
バイオリンじゃないのか!
「それってバイオリン?」恐る恐る聞く。
「そうっすよ。当たり前じゃないっすか。自分バイオリニストですから」にっこり笑う。
「えっどういうこと?郷原さんの紹介だよね?」混乱する頭で尋ねる。
「ゴウバラさん?なのかわからないけど知り合いの知り合いからの仕事の依頼ってことで事務所には聞いてますけど。なんかまずいっすか?」てきぱきとケースからバイオリンを出しながら平然と答える。
「手違いかも」ヒナタは額に手を当てる。頭痛がする。「ギタリストを探しているの」
「そうなんすかー。まいったな。交通費もただじゃないのに」山賀も困ったようだ。
山賀は視線をスタジオに向けながら何かを考えているようだ。そしておもむろに口を開く。子供のようにキラキラした目をして。
「せめて一回弾かせてくれないっすか。こんな立派なスタジオ。きっと音も半端ないんじゃないっすか」まぁなんかおかしいと思ったんすよね。なんでバイオリストが呼ばれるんかなーって。まぁオケとやる歌手も増えてるからそれほど珍しくもないんすけどね。なんて言いながら両手を顔の前でそろえる。
「……いいよ」ヒナタは何かを思うような顔つきになる。
やったー。と喜びブースの中に入っていく。コントロールルームからガラス越しに丸見えだ。そのためかブースは金魚鉢とも呼ばれる。
いつでもいいよ。ヒナタはそう声をかける。
すっとバイオリンを肩に乗せるように持ち上げ顎を乗せる。開いた足がすらりと伸びている。へらへらしていた顔が真剣になる。ヒナタは電流が走った。その立ち姿を見ただけで何かを感じた。山賀が大きくなった。
山賀は、ひとつ息を吸う。空気が鳴った。
弓を弦にあてる。バイオリンの空気を裂くような音が鳴り響く。優雅に力強く。ヒナタは雷に打たれたような衝撃を受ける。この音は。なんてすごい。心を揺さぶる。大神といいなんなんだ。クラシック界とはこれほどのものか。色が溢れている。特に赤が強い。情熱の赤。生命の赤。彼女からは力強さが漲っている。
「ヘッドホンつけてくれないかな。音を出す。即興でいいから音を合わせてくれないか」ヒナタはブースに声をかける。
「ラジャー」と言いながら敬礼のような恰好をする。
音に合わせてバイオリンを奏でる。響く音が奇妙なほど合っている。これは。これは。すごい。ギターはいらない。呼べば返すように音が音を呼び重なっていく。この響き重なりはクラシックの協奏曲のようだ。面白い。色と色が混ざり別の色になるようだ。大神とはまた違った色だ。色の変化が面白い。大神の色と混ざったらどんな色を見せてくれるのだろう。胸が高鳴る。
弓を引き、弦を抑える指が、まるで一個の生物のように這う。弦の上で踊るように。そして鳴り響く、奏でられる音はヒナタの世界観に合っていた。そうだ。ポップスだクラシックだロックだというジャンルの垣根を飛び越えるのがヒナタの目指す音楽だ。大神がいて、山賀がいればクラシックとの融合ができる。それは垣根をなくした世界へと届かせてくれるのではないか。なんて大きい音だ。未来が広がる大きな音。山賀がさらに大きく見えた。
ふぅと演奏を終えた山賀が息を吐く。額にうっすら汗が見える。そして満足した充実の笑み。「ありがとうっす。楽しかったっす。狭い空間で音の反響もいいし楽しい時間だったすね」
ブースから出てくるとタオルをバッグから取り出し汗をぬぐう。バイオリンをケースにしまおうとしている。
「あっ」ヒナタは山賀の首元を見て声を出す。
「何すか?」
ヒナタは自分の首を指す。「き、キスマーク?」
「ああ」山賀は、にーっと笑う。「バイオリンの跡っす。熱入って演奏すると赤くなるんすよね。タオルを当てる人も多いんすけど、自分は直の感触が好きで」
「――山賀さん。よかったら一緒にやりませんか?」ヒナタは手を差し出す。
「えっ?でも何かの手違いっすよね?ギタリスト探してるんじゃないっすか?同名の人でもいるのか知り合いの知り合いというのがいけなかったのか」ぶつぶつと言っている。
「いや。手違いでなく運命です。貴様がほしい」もう一度手をぐっと差し出す。
「そんな求愛のようなこと言われたら恥ずかしいっすなー」と照れつつも、自分でいいならと手を握る。しかし、貴様って言われたのは初めてっすと笑った。
「ごめん変な癖なの。って、あれ?」ヒナタはふと気づく。
「なんすか?」
「背やっぱりあまり高くないよね」
「155くらいっすかねー。もう少し欲しかったっす」あまり悔しくもなさそうに言う。
ヒナタはなんであんなに大きく見えたのだろうと不思議に思う。確かに顔が小さくほっそりとしているから背が高く見えやすい。だけども。
「大きく見えた」本当に大きく見えたんだ。それはきっと。
「オーラ出てたっすか」冗談めかして言う。
「うん」そうだオーラみたいなもので大きく見えたのだ。特に演奏している時。
ブースに入ってバイオリンを鳴らしてからはとても大きく感じた。音も雄大で本人も雄大に。それは、一部の者が持つ本物のオーラなんだろう。
思えば大神も男として小柄だが、演奏しているときの背中の大きさと言ったら。ピアノが小さく見えたものだ。
「一緒にやるなら山賀でも美子でもなくヤマビコって呼んでくださいっす」ミコは帰り支度をしながら思い出したようにヒナタに言う。
「ヤマビコ?」
「はい。山賀美子。ヤマガミコ。略してヤマミコ」そう呼ばれていたらしい。それがいつからかみんなで演奏するときに、初対面だろうとどんな楽器だろうと呼べば答える山彦のように反響するかのように即興で返すと仲間内で言われ出す。それからヤマミコでなくヤマビコだなと冗談で言ったのが定着したようだ。本人もなんとなくそれが気に入ってそう呼ばれるのが嬉しいらしい。
だって。山の神っすよ。あ、ヤマガミって呼ばれたこともあるっすねー。でもカミ呼ばわりは遠慮したっす。ガミコとかガミさんなんてのもあったすね。七つの通り名を持つ女っす。なんて。でも山を姓に持つ者として山の神は嬉しいっすよ。箱根のランナーでなく音を返す山の神は音楽家にはふさわしい気がするっす。凄い音をいっぱいぶつけてくださいっす。凄い音が来るほど燃えるっす。高次元の音で返して見せるっす。
まぁなにはともあれヤマビコと呼んでくださいっす。そう言って笑った。
「よろしくね山の神。頂までいこうぜヤマビコ」
怪我の功名というやつだ。ストリングスはいつか絶対入れたいと思っていたが、伝手がないので今回は機材に頼ろうかと思っていたのだから。それもただのバイオリニストではない。超一流だ。いいのだろうか私で。そんな不安を覚えさせるほどに優れた演奏能力。豊かな表現力。
大神にヤマビコ。神が私の下に舞い降りた。
イロドリノオトはピアノとバイオリンを中心の曲にしよう。ヒナタは、二人の演奏で唄う自分を想像したら至福を感じた。
そのあと郷原と連絡を取ると、手違いで同姓で同じ女性のヤマガミコに連絡してしまったらしいと聞いた。どちらも同じ事務所に所属する音楽家であり、大神のピアノの話なんかをしたあとだけにクラシック関係と誤認した受付の者がヤマガミコのほうと思い送ってきたようだ。なんて素晴らしい間違い。
「ヒナタさんのお父さん、アマネさんの歌は自分も好きでよく聴いてたんでヒナタさんとやれるのは嬉しいっす。一度だけど、昔オケのコンサートの時に観客席にいたのを見かけました。自分も観に行ってたんすよ。オーラ、半端なかったっす」なにげなくヤマビコは言った。ヤマビコがまだ学生の頃のことだと言う。大神もヤマビコも父の音楽を好きだと言う。導かれるものがあるのだろうか。人生は時に運命の神様が粋な計らいをしてくれる。これはそんな出逢いだ。
ヤマビコはクラシックのオーケストラに参加もすればポップ歌手との共演をしたことも何度かあるようだ。動画サイトではアニメなどの演奏をしたものを流している。一部では超絶技巧でアニメソングを弾く個性的な女性バイオリストとして有名なようだ。いくつか動画を見てみたがどれも凄く簡単そうに優雅に弾きこなしている。なによりも好感なのは楽しそうに演奏するところだ。アニメだろうとクラシックだろうと音楽を好きなのだろう。そして音を楽しんでいる。ジャンルにこだわらず敬う姿勢があり、自分の才能をすべてぶつけている。
大神との共演が今から楽しみだ。クラシック出身がポップスやロックのような世界で共演する。それは現代ならではの楽しみなのかもしれない。
郷原との話し合いでギターはあくまでバッキングとして考えてヒナタができる範囲でやり、間奏などで聴かせるソロ部分はバイオリン演奏にアレンジすることでまとまった。ピアノとギターは主張が強いのでぶつかることもある。譲り合っては良さを消すことにもなる。ピアノメインで考えていただけにまさに運命と言える。ヒナタはギターに思い入れはあるが、強い拘りはなくなった。それだけ大神のピアノに魅かれたのだ。そしてヤマビコもいる。十分すぎる援護がある。負けないように唄うことを考えるだけだ。
大きな未来が開けた気がする。偉大な音楽家は周りにも優れた者が揃い、より凄いものを作り出す。
ジョンレノンとポールマッカートニーが出会わなかったらビートルズは産まれなかったかもしれない。産まれたとしても今のような伝説には成り得なかったのではないか。出逢いとは運命であり、必然でもあるのだ。
ヒナタは、自分はツいていると感じている。才能だけでなく天も自分の味方だ。不安を感じていたものが全て消し飛んだ。自分を含めて皆若い。未来は大いに明るいと考えるものだ。
血なんて関係ない。自虐的にそう思った。私は私だ。誰の子であろうと関係ない。
人生は起伏に富んでいる。平坦なんてありえない。
5
郁也は本番前はいまだにデビュー前のように緊張する。どんな役であっても慣れることはなく、セリフの多寡に関わらず緊張することは治らない。気付くとトイレに行っている。それでも、本番になると人が変わる。性分なんだろう。ワクワクとドキドキが混在する。いつまでたっても新人のようだ。
『俺がどれだけお前が好きなのかお前は全然わかってない。俺がどれだけ。どれだけ。お前が好きな食べ物も毎朝野良猫を撫でてから会社に向かうことも電車はいつも女性専用車両の上り側の扉から入ることも行きつけの弁当屋ではほとんどから揚げ弁当を買うことも全部知っているんだお前のことを誰よりもわかっているんだ、なのに』額から汗が一筋こめかみをつたう。唇は小刻みに震え、自分の語り口に興奮してきて頬は上気して赤みを帯びる。手はやたら空を掴むように蠢く。ムカデの足が動くようにも見えて気持ちが悪い。無精ひげが青々としている。呼吸がやや早く、鼻息が荒い。はぁはぁという音が耳障りで、背筋をざらりと撫でる。
『や、やめて。ごめんなさい。もう近づかないで』女のおびえる瞳に涙が溜まり始める。体は震えている。生まれたての小鹿のように足元はおぼつかず今にも倒れそうだ。
すっと男の手が女に伸びる。女は逃れるように後ずさる。じゃり。石の多い地面が鳴る。一歩さがる。背には冷たい金網の感触。もう逃げ場はない。
いやぁああああ。女の悲痛な叫びが新月の闇に溶けていく。
「おっけぃ」監督のカットがかかる。
ふぅと息をつく。桐谷社長がタオルを渡してくれた。汗を拭い一息つく。「どうでしたか?」郁也は尋ねる。
所属してから桐谷社長の昔の映像を見た。驚いた。いくつか観た中に父の主演映画もあった。そしてそれは郁也が役者を目指すきっかけとなった盗み屋の映画であった。相手役の女優も畏れを抱くほど凄かった。そして桐谷社長も出番は多くないが艶やかな演技で、若く美しい溌溂さを出していた。どこかで見た事があると最初に感じたのは映画で観ていたのだ。
普段の少し間抜けだったり天然だったりの姿からは想像できないほど役にはまっていた。なり切っていた。驚きで絶句したものだ。まさに声もでなかった。そして演技に見入った。恥ずかしいけども泣いたシーンもあった。父たちに負けない姿がそこにあった。
たった一人で社長も事務も経理も、さらには郁也のマネージャーも務めるしがない事務所だけど、昔の女優の姿を見た今では尊敬の念を抱く。だから監督よりも真っ先に桐谷社長の意見を聞きたい。乞いたいのだ。
「すっ~ごい」長く溜めをつける。「気持ち悪かった!さぶいぼ出たもの。ほれ」と言ってざらついた腕を見せてくる。それなら成功だ。郁也はキモオタのストーカー役なのだ。嫌われ気持ち悪がられてなんぼだ。
「思った通り君には才能がある。そして役を最初から与えたほうが深く潜れる」
どうやったのかわからないが所属して一ヶ月後に二時間ドラマのストーカー役を取ってきた。主人公のOLにまとわりつく役でそれなりに台詞と出番がある。中盤で真犯人に殺されてしまうので最後まで出ている役ではないが、やりようではかなりのインパクトを残せる役だ。
「問題はね」桐谷社長が真剣な表情になって口を開く。「インパクトが強い役だけに役者としてのイメージが固まってしまいかねないこと。見る側は自然であるほど役者本人と重ねてしまう。君がキモイと、ね」だからこの役も取れたんだけど、と付け足した。
「大丈夫ですよ。これで名を知ってもらえればあとは社長がまた役を取ってきてくれるでしょ」郁也は快活に笑う。
オンエアされたドラマはまずまずの評価だった。そして生方郁也は一部の視聴者にうけた。
――ストーカー役超きもかったー。絶対いやだあんなやつ
――よく見ると顔はまぁまぁイケてた
――表情とか動きとか本気で気持ち悪くて目を背けた
――生方郁也っていうのか初耳。新人?
演技の評価は上々だ。無名から少しだけ覚えられただろう。まぁ人気や知名度はこれから露出が増えれば勝手に上がる。それよりも。
「美緒ちゃん。彼すごいね。どこで見つけたの?」会う人会う人がそう桐谷社長に声をかけている。業界でのウケが本当に良かった。評価が高いのだ。半分は桐谷社長との縁もあるからお世辞もあるだろう。でも残り半分は本当に評価している。これで次の役も探しやすいだろう。ただ次の役は重要だ。また同じ役をやってはそういう役ばかりになりかねない。次は真逆のものを見せたい。そうすれば幅の広い演技ができるとわかってもらえるだろう。
桐谷社長はオファーを吟味した。また自分からいい役を探して売り込みもした。慎重に考え先に繋がるものを選んだ。
「次の仕事決まったよ」狭いワンルームの事務所で郁也が来るなり告げた。
待ちわびていた郁也は肩から下げたカバンをぼろい二人掛けのソファーに投げると桐谷社長のデスクの前に立つ。椅子をクルリと回して窓のほうを向き桐谷社長は立ち上がる。次の役はね。静かに言う。
「性同一性障害に悩む青年役よ」
なんて難しい役だ。すでに郁也の頭では感情がうごめいている。早くも潜っていきそうになる。
「今度もやりがいありますね」郁也は思わず破顔する。難しいほどやりがいがある。そしてしっかりと演じられれば評価もまたあがる。桐谷社長は最短でかけあがるために難役を選ぶのだ。そしてキモオタストーカーからの振れ幅も大きい。
「ただ気をつけてね」窓から郁也のほうに向きなおって言う。腕を組み眉根に皺を寄せる。「役に堕ちないように」
「え、どういうことですか?」
「はまりすぎて抜けなくなるのよ」表情が翳る。「……役からね」
癖のある濃い役ほどはまった時抜け出せず本来の自分と役が混じり合い、性格から行動から役に支配されてしまう。いきすぎた結果、罪を犯すことさえある。そこまで深刻にはまることはあまりないものだけど、役にはまって相手役を好きになってしまうなんてことはよくある話だ。それが強すぎれば犯罪者役をやったがうえに思考が犯罪者になってしまうこともありえる。
「君の役作りは憑依型だからね。私はそう呼んでいる。深く潜りこんで役になるのか。役に憑かれるのかわからないほど入り込むの。私もそれに近かった」
役へのはまり方はそれだけ強い。だから演技が自然に見え迫力を生み出す。癖が強いほど、鬼気迫るオーラを放つ。
だからこそ恐れているのだ。
「気を付けます」郁也は神妙に言う。
「そうならないようにオンオフをもっともっとはっきりできるようになにか趣味でもいいから自分に戻れるものを持っておくようにしてね」そう言って沈黙が事務所を埋め尽くした。
郁也はいつになく深刻な顔つきで口をきつく結び頷いた。
郁也自身それは感じていたことだ。でも今までは大丈夫だった。これからも。きっと。郁也は台本を読み込み、全てを頭に入れる。そしてそこからはそれを忘れようとする。忘れると共に、イメージを広げていく。そのイメージに自分を重ねていく。そしてそこへ魂までも堕ちていくように、落とし込むように役へと入っていく。
感受性が強く想像力も強い郁也はそうやって常人以上に役にはまる。それが桐谷社長が言う憑依なのだろう。いつしか、役と本人の境目がなくなる。役と同化してしまうので、迫力ある演技ができる。それはもしかしたら演技とはもう呼べないのかもしれない。
役に入り込み演技を超えてしまった時、それは狂気となる。憑依が強くなるほどにリスクは増えていく。それをもっと意識しないといけない。
だが若い郁也は不安を見て見ぬふりをした。
目を逸らした明日は、灰色に染まっていた。
終末は、静かに忍び寄る。
夏の猛暑が和らぐも、きつい残暑がある中、映画の撮影が始まった。
郁也は現場に行くと主演の人をはじめ監督やスタッフ共演者に挨拶をしてまわる。少しは名前を知られるようになってきたとはいえ、まだまだ顔と名前が一致していないと感じる。挨拶をして顔を覚えてもらうのは仕事のためにも必要であり、単純に一緒に仕事をするうえでの礼儀としても大切だ。この先どんなに有名になろうとも挨拶は忘れずにみんなにしていこうと郁也は考える。
「今日はよろしくお願いします」
「あ、こちらこそ。生方くん、こないだの演技凄かったね。どこに埋もれてたの?」監督の如月二葉が笑いながら返してくれる。あまりいない女性監督である。年は桐谷社長と同じくらいで三十代半ばだ。女性ならではの感性で撮られた映画は海外の映画祭にも招待されるほどに評価されている。若手で注目されている一人だ。
「見てくれたんですか?ありがとうございます」映画監督に褒められるとなおさら嬉しいものだ。
「いい役者が出て来たなと思った。猟奇的な役をできる人って限られているから選択肢が増えるのは監督として素直に嬉しい。さっそく呼んじゃった」ふふっとうっすら笑う。
「ありがとうございます」
「フタバと呼んで。芸能界っていつでも下剋上の世界だから気を付けてね。役者も監督も慢心したら失墜するのも早い。だから他人の作品には注目しているし、いい役者も見逃さないように気を付けている。いい監督はいい役者と信頼を築いて多くの作品に出てもらうようにするの。いい役者をどれだけ集められるかもいい映画には欠かせない」そう言って、誰かを見つけたのか手を振る。視線の先には一人の女性。こちらにやってくる。
「紹介するわ。脚本家の……」二葉が女性に手を向ける。
女性は自分で名乗った。「キサラギミツエ。よろしく郁也くん」如月三枝――二葉の双子の妹だと言う。
三枝は最近人気のある脚本家だ。双子で組んで映画を作ることが多い。原作付きが多い中で、オリジナルに拘る二人は、そういう意味でも注目を浴びている。脚本も独創性がありながら、社会性のテーマを組み込み評価されている。そんな二人と仕事をすることに郁也は興奮していた。
「美緒いい子見つけたね。手を出しちゃだめよ」二葉は軽口をたたく。
「ば、ばかぁ。だ、出すわけないでしょ。うちの事務所唯一の商品だもの」桐谷社長が狼狽えながら応える。
「でもあんたのタイプでしょ」三枝がチャチャを入れる。
「な、なに言ってんの」桐谷社長が少し焦っている。
「三人はお知り合いですか」郁也は間に入って尋ねた。
「腐れ縁よ」桐谷社長が説明してくれた。
昔、二葉、三枝と一緒に仕事をしたことがあるとのこと。年が近く、しかもお互い新人。意気投合して、仕事の合間にはよく飲みに行ったそうだ。監督や脚本家と撮影中に役者が飲みに行くのは珍しいが、新人なのでお互い愚痴を言って吐き出していた。そしてお互いの仕事ぶりを、時に詰り、時に褒めたたえ、慰め合い励まし合った。興行的には失敗に終わった作品だが、意外にも作品自体の評価は高かった。ただ売れる作品ではなかっただけだ。
いい作品が売れるとは限らない。狙って売るのは難しいのだ。思いがけず大ヒットしてしまうこともある。だから難しくも面白いのだと二葉と三枝は声を揃えた。
その映画は女性精神科医が主人公の物語。精神科医ミチコが患者のカウンセリングをしながら奮闘する物語である。郁也はそこの患者として性同一性障害の相談治療をする役――ヨシオを演じる。LGBTという言葉が一般的にも知れ渡り、性というものが注目を集めている今ならではのテーマでもある。
『なんでだ』ヨシオは拳を空に振るう。やるせなさが舞い散る。小さい頃から憧れるのは女の子のひらひらした洋服。それなのに着せられるのは男の子のものばかり。自分がおかしいのか。小学校低学年まではまだよかったが、高学年になり、さらに中学生となると女の子と遊ぶのも目立つし、まして女物の服を着るなんてありえなかった。世間の目はまだまだ厳しい。オネエキャラは画面を席巻して知名度はあがってはいるが、自分の周りでなく、画面の向こうだから世間は寛容だ。自分の子が、友人がそうだったとき同じように接してくれる人は少ない。それがわかるだけにずっと我慢していた。でも二十歳になり自立をすると本能が女であると訴えてくる。好きになるのは男性であり、好きなのは可愛いモノであり、スカートに強く憧れる。
かつて母親のスカートを穿いてみたことがある。初めてのそれは、股が落ち着かない感じがした。それなのに気持ちは求めていたのはこれだとしっくりした。そのまま外を歩きたかったが、母親にばれるのが怖くてすぐに脱いでしまった。
そういった気持ちをミチコに告げる。
『僕は、私は、おかしいんでしょうか……』そう言って項垂れる。
ミチコは、優しく微笑みかける。
『あなたはおかしくないわ』と言って手を握る。体温は人を安心させる。言葉を急かさずゆっくりと待つ。言いたいことを言いたいタイミングで言わせる。それがカウンセリングには大切だ。アドバイスはするけども基本的には患者に話をさせる。それから必要な治療があればする。まずは心を開放し元気にするのが精神には必要だ。
『私はゴスロリの洋服が着たいんです。下着もかわいいものをつけたい。男子トイレになんて入りたくない』ヨシオはゆっくりと願望を話す。次第に激昂したり、失望を交えて悲しみを携えたりと感情は複雑に揺れる。こんないかにもな男の名前も大キライ!
目が宙をふらつく。ミチコを見ていながら何も見ていない。視線は安定せずにさまよい続ける。見た目はまったくの男性だ。髪はやや長いが今の男性ならおかしくない程度だ。耳にかかる髪をかきあげる。そのしぐさはすでに女性だ。
ヨシオのとめどない告白が落ち着くと、ミチコはいくつかの質問をする。トイレはどうしているのか?誰かにカミングアウトしたことはあるのか?好きになるのは男性女性どちらか?家族は知っているのか?ヨシオの告白から推測できることは多いし、重複することもあるが、まずははっきりさせるためにも一つ一つ基本の質問をする。
『脳的には女性と言えるでしょう。今後の流れとして』ミチコはカルテになにやら書き込みながら話す。
『染色体検査をしましょう。それによって身体的に男性か女性かの判別ができます』カルテから目をあげてまっすぐにヨシオを見つめる。
『そして大切なのは、これからあなたがどうしたいか。どう生きていきたいかです』
『どうしたいか……?』ヨシオは困惑した目の色をする。
『そう。女性として生きていくか。診断結果にもよるけど、GIDと認められれば戸籍を変えることができます。そして望めば改名をすることも。さらにその先はホルモン注射などにより肉体も女性へと変えていく治療となります』
『私は、オンナです。オンナとして生きたい』郁也は上ずった声で、でもはっきりとそう言い切った。決意は固い。悲痛な叫びは観る者の胸をも痛めた。まるで我がことのように苦しく息が詰まった。
『大丈夫。あなたは女性として生きていける』ミチコの優しさがヨシオを包む。
『……』声にならない声で、お願いしますと郁也は言い、頭を垂れた。
撮影は順調に進んでいる。郁也の演技もいい。うまく役に入れている。
「郁也くん、その気があるんじゃない。いい演技だ」二葉が休憩の時に声をかけてきた。
「いやだぁ。やめてくださいよ~」ヨシオは女声で言った。
「やっぱり」アハハと三枝は笑った。
「いや、ちょっとさっきの今で抜けてないんです~」郁也は自分で自分の話し方がよくわからなくなりおかしな声色や口調となっていた。郁也とヨシオが交じり合い区別が曖昧になっていた。境界線が溶けていく。
それを桐谷社長は難しい顔で見つめていた。
場面は変わりクライマックスシーン。
ヨシオがアパートで鏡を前に一人座り込んでいる。手には真っ赤な口紅。
『私はオンナよ』息を吐くように声に出してから紅を引く。血のように真っ赤に唇が染まる。口角を上げて鏡の中の自分に笑いかける。鏡の中に深紅の薔薇が咲いた。窓から夕陽が差し込む。横顔が朱に染まる。ヨシオは震える。頬を雫がつたい、唇へと達する。紅が溶けるように滲んだ。
郁也の顔がアップで映し出される。
それは喜びの顔なのか悲しみの顔なのか。すごく曖昧で複雑な表情を作り出す。夕日に照らされた顔は、凛々しい顔立ちの郁也を美しい女の顔へと変えていた。潤んだ瞳が、情念を感じさせる。
ぼやけた紅い唇が艶やかに浮かぶ。
『私は、女よ』郁也は、もう一度囁くように言う。その顔は、艶めかしさを漂わせていた。
それを見守るスタッフが思わずため息を吐いた。
二葉のカットの声がかかる。モニターで確認をする。それを囲むスタッフや俳優陣が思わず息を飲む。空気が薄い。
芝居では心の声は聞こえない。本のように内面を読むことはできない。それを見るものに伝える、もしくは想像させるのが芝居だ。それはちょっとしたしぐさであり、表情である。セリフを読むのは誰でもできる芝居だ。セリフ以外で伝える部分が役者の器となる。
この時の郁也の器はいかほどに評価されたのだろうか。
満足そうにうなずく二葉。称賛と悔しさの混じった表情の共演者。三枝の笑顔。
それが答えだろう。
郁也は女優にも負けない艶を出したいと思っている。男にも色気は必要だ。役者であるなら色気も艶も手にしたい。男役はもちろん、女役さえも演じたい。だからこそ、この女役には並々ならぬ気持ちが入った。最後には完全に憑依していた。
評価と危険が比例して上がっていく。
◇
山が紅く化粧する頃、ライブツアーが始まった。朝の空気は冷たくなってきていた。
初めてのライブツアーは、観客席数百人程度の小規模から三千人程度の中規模ホールで回ることにした。生音に拘り、それを届けることのできる規模にだ。音の聴こえ方にこだわり、すみずみまで自ら立ち音を聴く。反響の仕方などもチェックする。光などの色合いや見え方もチェックしていく。派手な演出はなし。初めてのツアー、まずは純粋に音楽で楽しませたい。光の演出は最低限のものにした。
そして初日。
開演を告げるブザーが鳴る。照明は落とされ闇がホールを包む。ざわついていた客席が静まり返る。どういう演出なのか?オープニング曲はなにか?衣装は?など観客はいろいろな想像をして待ちわび、ついにその時を迎え胸の鼓動が速まる。
暗闇の会場に鳴り響くのは印象的なバイオリンの音。空気を切り裂くような鋭い響き。弓をゆっくりとぶれずに引く音が静寂を破る。こだまするかのように、音の余韻に呼応するように音を鳴らす。次第にリズミカルに音が踊り出しテンポがあがる。指で弦を弾きピチカート奏法となる。その音が心地よく観客は次第に体が浮きだっていく。小刻みに揺れ始め音に身を委ね出した。
ビブラートで音を揺らし、その音が天に昇る。
一瞬の無音。そして光が照らされ人影が浮かび上がる。ストラディバリウスを構えた、まるで武士のように隙のない構えの人物が中央にいる。ヤマビコこと山賀美子だ。今日は勝負の日。お披露目。そこで事務所が所有するストラディバリウスを借りることができた。
名手は楽器を選ばないとも言うが、名手が名器を持てば鬼に金棒だ。
ヒナタは野外フェスでは都合で一緒にできなかったヤマビコをツアーで真っ先に紹介したかった。それゆえのオープニングでのイントロ独奏の演出だ。
長めのイントロを用意したのでさながらソロコンサートのようだ。
おもむろにヤマビコは歩き出す。まずはステージの左に行き、スポットライトを浴びながらバイオリンを高らかに奏でる。そして軽く礼をすると、右へと歩む。そこで、また光の中で踊るように弓を引く。重心が安定している。体幹の強さを感じる。だから歩いても音は乱れない。弓は馬の毛で作られている。一本二本と毛が切れる。最初からヒートアップした演奏で切れたのだ。そんなこともおかまいなしにさらに情熱的に音を鳴らし続ける。礼をしてセンターに戻る。低音から高音にしていき、厚い音を細くしていき、弓をそっと弦から離す。
ギターのチャキッとした音が鳴らされてヤマビコの後ろにヒナタを始めとしたメンバーも浮かび上がる。
地鳴りのような拍手と歓声が沸き上がる。それは空気を震わし、ヒナタの頬にぶつかった。その衝撃を受けて笑みを浮かべる。すっと息を吸う。
♪ねぇ、ほの暗い穴から救い出してちょうだい
ねぇ、私に明日を望める今日をちょうだい
静かに囁くように歌い出す。
ピアノの音が寄り添う。静かなのだけど力強く心に入り込む声。それを後押しするピアノ。
光が赤くなる。まるで今日が始まる朝陽のように。
赤が変わっていく。まるで今日が終わる夕陽のように。
ドラムがリズムを刻む。ベースがそれに続き、ギターの音が重なり音に厚みをもたらせる。バイオリンとピアノがクラシカルな響きを与え、音楽は過去も未来もすべてを飲み込む。そこにジャンルの垣根はなくなった。この音楽はヒナタの音楽だ。そして大神のヤマビコの音楽だ。唯一無二。誰も真似できない、真似させない。どうだ。これが私たちだと告げる。
曲はサビへと移る。
♪君にあげるよ 今すぐあげるよ 光指す未来を 希望の声を
昨日あげるよ 今日もあげるよ 笑顔の記憶を 明日の声を
音が高まり、ボルテージは最高潮。ヒナタが頭を振る。汗が光に反射する。マイクを握る手に力が入る。
大神が体ごと鍵盤に叩きつけるように力強く躍動する。しかし、手の先だけは別の生き物のように繊細に赤ん坊を撫でるように鍵盤を舐める。その指がしなやかに動く。黄金の糸を引きながら色が溢れだす。
バイオリンの情熱的な響き。ヤマビコは優雅に体を揺らしながら奏でる。上体は軟体生物のように滑らかに動くのに下半身は大木のようにどっしりと根を張り安定している。重心は左足に取り、背筋はきっちりとまっすぐに天に伸びている。まるでバレエダンサーのようだ。
音を大きく鳴らすときに背中を反らす。膝を曲げ、くの字になる。リズムに合わせて、切れのある動きを見せる。画になる姿がそこにあった。大きく大きく見せていた。
唄いながら、あっ、とヒナタは思った。
共鳴してる。音が音を呼び、さらなる音となる。今ほんとうにわたしたちはひとつになれた。この二人と出逢えてよかった。観客と二人へ届けと願いながら唄いあげる。
♪ねだるな 望むならまずは君が動け
さすれば 陽はまた君を照らすでしょう
ヒナタがギブソンを地面に叩きつけるように振り下ろし、音が止む。
観客の顔が綻ぶ。各々が何かを叫ぶ。右の手を左の手に打ち付ける。弾かれた音が鳴り響く。それはまるで大地に降り注ぐ雨のようだ。ゆっくりと大きくなり、次第に雨脚は速くなる。盛大な祝福の雨がホールを満たした。この瞬間のために音楽家は己のすべてを賭すのだ。そして束の間の安堵と喜びを手に入れる。
人は鏡だと誰かが言った。それは本当だと思う。だってそこにいる十代の女の子、いい笑顔だ。向こうの三十代くらいの男性も笑顔だ。あっちにもこっちにも笑顔の花が咲いている。
それを見ているヒナタも大神もヤマビコも一面に咲く花の一部となっている。
白い歯がまぶしいね。窪んだ頬がかわいいね。目が糸を引く。
音楽が世界を笑顔にする。
観客の歓声がホールに響き渡る。興奮が醒めない。
興奮のままにライブは進む。楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
「貴様ら、楽しんでいるか?」
観客の大きな歓声がホールを埋めつくす。汗を拭くことも忘れ流れるままに気持ちよく高揚するヒナタ。ヤマビコ、そして大神。
「次はデビュー曲をやります。でもオリジナルとはアレンジを変えています。それを嫌だと感じる人もいるでしょう。その気持ちはわかります。でも、音は一期一会。同じ音は二度と鳴らせない。今日のために別の色を見せたいとアレンジしました。今日の音は今日の音として楽しんでください。音を楽しむのが音楽だ、ぞ」
大神のピアノから始まる。それはジャズのように多くの音が連なり重なり観客を奮い立たせる。ヤマビコのバイオリンが重なり、幻想的な雰囲気を醸し出す音となる。
アカペラから始まり、ギターを鳴らしたオリジナルとは全く違う雰囲気に観客は一瞬戸惑う。だが、すぐに、二人の天才の共演に身を委ね始める。その長めのイントロにヒナタも酔いしれ堪能する。
そして、音が鳴り止む。と、共にヒナタのボーカルが響く。すぐさま、ピアノとバイオリンが追いかける。疾走するように風を感じる演奏。それは爽快であり、みんなを照らす太陽のように温かくもあった。観客は拳を突き上げながら体を揺らしていた。
セットリストをすべて終える。袖にはけていく。そして手拍子が鳴り、歓声がこだまする。お約束とも言えるアンコール。着替えてステージに戻る。初のライブツアーにヒナタも興奮している。野外フェスとは違い、多くの歌を唄う。そこには流れもある。そしてすべての観客が自分を聴きに来てくれていることに涙する。
本当にありがとう。その感謝を込めて、新曲を発表する。
「聴いてくださいイロドリノオト」ヒナタの声が静かに告げる。
ピアノの高音が場を支配する。印象的なフレーズだ。ざわつく観客席が静まる。無駄のない少ない音でメロディーを奏でていく。水が地面に沁みていくように、観客の体に音が染み込んでいく。
リフレインによりさらに聴衆の耳は研ぎ澄まされ釘付けになる。ピアノのリサイタルに来たかのようだ。そしてそれだけの価値が大神のピアノにはある。
不意に音が止む。静寂が広がる。
ヒナタが息を吸う。
♪私の見た世界 それは紅い血が流れ 空は黒く塗りつぶされた
残酷な刃は人の心 撃ち込まれる弾は人の声
色が失われた 色を忘れた 沈黙の色が降りてくる
アカペラで唄いあげる力強い低音。聴く者はその音圧にぞくりとさせられる。目をつぶり大神のピアノに耳を澄ましていた聴衆は反転、目を見開きヒナタの声に打ち震える。剣呑な歌詞が恐れを抱かせる。
♪音符が踊りだせば 色が戻ってくる
音が鳴り響くまばゆい世界 歓喜の色を鳴らせば温かい鼓動が聴こえる
剣呑な歌詞から色が溢れる世界。温かい世界へと変わっていく歌詞。それを優しく包むヒナタの歌声。
ピアノが声に寄り添う。声がピアノに寄り添う。それはまるでランデブーのようで。息が合うとはこういうことか。うっとりする。まるで最初からひとつだったように。声とピアノの音は抱き合ったまま疾走する。
スピードが落ちていき、抱き合っていたものが離れていく。そこからはボーカルとピアノのバトルのように。お互いがお互いを煽り高めあう。
色と音が踊り出す。世界を包み、残酷さを温かさで塗りつぶす。伝えたいのは……。
♪音がこの世界を変えていく それはほんの一滴だけど だけど
イノチの声が 天より舞い降りて 地上に華を咲かせるでしょう
イロドリの華は 甘く切ない香りですべてを包み込む
大神の運指が神がかる。光の筋を垂らしながら鍵盤を叩き、天に昇る。そして天の祝福。雲間から降り注ぐ閃光のように音を鳴らし、そして静寂を奏でる。
不意にバイオリンの凛とした音色が静寂を壊す。
優雅にリズミカルに弓を操る。おもむろにヤマビコは歩き出す。背筋は伸びたまま。バイオリンを持つ左手はくの字に曲げられたまま完全にホールドする。手の甲にはうっすらと筋が浮き上がる。固定することにより音のブレを防ぐ。強靭な背筋とぶれないバイオリンがあるからこそ、歩くこともできる。
優雅に歩きながら弓を弾き音を右に左にまき散らす。花にホースで水を与えるように。
十分に音という潤いに満ちたところで、ヤマビコは動かなくなり音もなくなる。一瞬の間。照明が落ちる。静けさだけが在った。
そしてヒナタの声が天から降ってくる。それは天使か悪魔か。甘い囁きはまるで毒のようでもあり、麻薬のようでもある。聴衆はトリップする。息を吸う音が官能的に降り注ぐ。
青白い光がヒナタを浮かび上がらせる。その姿は幻想的。
♪君のために唄うよ 君のために奏でるよ
音が君に色を与える 音が僕に命を与える
降り注ぐ音色はイロドリノオト
セカイは色で溢れている
ふうっと息を、囁くように小さく小さく吐き出す。甘美な余韻となる。
余韻にピアノの音が肩寄せ合う。
最後となる五つの音を大神が奏でる。その五つの音は人それぞれになにかのメッセージとなり胸に残るだろう。ありがとう。あいしてる。ごめんなさい。さようなら。それぞれがそれぞれの想いを持っている。そんなたくさんの想いを包み込み、いいんだよわかってるよと労わる音に抱かれる。
世界は五つの音で成り立っている。のかもしれない。
地鳴りがするほどの拍手。音が空気を埋め尽くす。太陽がひるむように震えた。
「貴様たちありがとう」ヒナタは満面の笑みで応え頭を下げる。貴様と言う癖にみんなもう慣れたものでそれを聞くとヒナタらしいなぁとみんな思うようになっていた。
感謝を伝えたい。生きているあなたに。今日も変わらぬまま在る日常に。
だめだしを食らい何度も書き直した詞。英語?らしくないな。ヒナタの詞に英語は似合わないよ。それに英語は逃げだ。音に逃げずに日本語で意味を持つ言葉で届けなきゃ。これに関しては絶対にそうだ。英語詞はまた別の機会にしなよ。なんだか色気がないなぁ。色が見えてないんじゃないの?だからつまらないんだよ。あの優しい大神がこれほど烈しく言うとは。悔しさと嬉しさが混じり合った感情が沸いた。まだまだだ。もっと上にいける。世界はもっと大きい。そう思えた。とりあえずOKが出たがまだ納得しきれない。もっといい歌詞を書ければもっといい歌を唄える。満足と不満のはざまで揺れながらも今の自分の全てを出した。そして唄い切った。みんなの拍手がなによりのご褒美だ。もっとみんなのことを楽しませるよ。もっと上まで連れていくよ。ひとまず今はこれで勘弁な。
ありがとう。
多くの想いを歌に託して唄った。
次はもっと違うステージを見せる。
大神が手を差し出す。力強く握り返す。ヤマビコが笑いかける。ヒナタも笑い返す。
今日の大神の音は最高にカラフルでビビッドだった。イロドリノオトは君だよ大神。君には見えたかな、あの色たちが。
ヤマビコは音を自在に操り大神のピアノに返していった。そして時に主役としてバイオリンを鳴らし観客を震わせた。艶やかだったよヤマビコ。美しくも怪しく光る。
ヒナタは大きく息を吸い吐き出す。観客に向かって拳を突き上げる。観客もそれに呼応して拳を突き上げる。ボルテージは最高潮になる。生の演奏は人々の我を奪う。至福の時間。至福の音。
嗚呼。音楽は素晴らしいな。一つになれる。