第三話 魚は新鮮な内が美味い
この世界での葡萄酒はあまりアルコールが強いものではない。
アルコール度数は二、三パーセント程度といったところか。一般的な日本のビールよりも下でチューハイと同じくらいのものだろう。例え、樽いっぱいの葡萄酒を飲み干したとしても、元々凶悪なまでに酒に強かったセトではそこまで酔う事もない。
ちなみに葡萄酒に限った事では無いのだが、この世界の酒はアルコールが薄い。おそらくアルコール発酵が足りないのだろうが、これが一般的となると一体どういう作り方をしているのだろうか。
セトは手元のグラスに注がれた葡萄酒を一気に飲み干すと「それでは先にこの二匹を調理してしまいます」と、伸びをしながら言った。その言葉にカーポと、ジャニオンが嬉しそうに返事をした。
魚の下処理は済んでいた。幸い、釣れたのは鮎のような魚だったおかげでそこまで難しい処理は必要ない。焼き魚にするのなら、魚の胴体をしごいて腹に残った糞を押し出す。それだけで構わない。元々鮎は藻などを食べる草食性の魚だ。気になる人もいるかもしれないが、内臓まで安心して食べられるだろう。
釣られた魚は大暴れして逃げようとするのだが、これを鎮めるには氷で冷やす事が一番である。しかしここには氷や保冷剤などは無い。暴れられると魚の肉の繊維が内部でちぎれたり、余計な外傷がついたりで、味が落ちてしまうので、なるべく釣り上げた時点で息の根を止めるようにしなければならない。
串刺しだが、本来和食においてはきちんとした串の刺し方がある。しかしここは異世界だ。セトは串を刺しやすいように刺す事にした。結果、魚の口から突っ込み、尾びれの手前で串の先が飛び出すような形になったが、まあ気にしない。後は削った岩塩を手のひらにまぶして魚の胴体に擦り付ける。
「上手に出来ました!」
後は焼くだけなのだが、実際に焼くのではない。火の近くで炙るのだ。
徐々に火が通っていく感覚が良いのだがそれなりの時間はかかってしまう。しかし文明の利器の無いこの世界では、火を起こすには薪を燃やすしかない。その為、直火だと火の調整がとても難しい上に、火力が分散してしまったりもする。フライパンを持っている腕の方が火傷する事などよくある事なのだ。
「次に生簀を作ります!」
「兄貴! 生簀って何ですか?」
海や湖で、獲った魚介類を一時的に飼育する場所を「生簀」と呼ぶ。主に沿岸に設けられる事が多く、魚介類が生簀の外に出ないように網や壁で区切る事が多い。
「何故、生簀とやらを? 獲った魚を飼育するつもりなのかい?」
カーポが不思議そうに尋ねた。そんな彼を指差しながら「とても良い質問ですね!」とセトは答えた。
「釣った魚を樽にでも、籠にでも、適当に入れておけば良い、というのは素人の考え方です」
「兄貴、そうなのか?」
「おじさん、釣りにはあまり詳しくないけど、とても詳しい友人に無理やり連れて行かれる事が多々ありました。その友人は言いました」
曰く、魚を美味しく食べたければその場で捌け、と。それが出来ないなら帰るまで生かしておけ、と。
「何故、生かしておく必要があるんだい? 逃げられるかもしれないじゃないか?」
「ストレスってやつだな」
「「すとれす?」」
ジャニオンとカーポはまるで分からないという表情を浮かべた。確かに「ストレス」という言葉はまだこの世界ではメジャーではない。
「捕まった魚は逃げようとする。動物だって人間だって捕まりゃそうだ。だが、逃げるために暴れ回られちまったりすると、魚の肉の中が血生臭くなっちまう」
「なるほど。そのすとれす? から、逃げようとして暴れ回る事が魚の味を損なうということなのかい?」
「その通り」
「で、そのすとれす? を、魚に感じさせないように生簀に放り込んでおくってこと?」
「正解」
「じゃあ、生簀なんて面倒なことしないで、さっさと捌いちまえば良いんじゃないっすか?」
「一匹や二匹なら問題ないな。だが、今回はカーポ氏からの依頼なのでこれを使って大量に獲ってみようと思う」
セトが取り出したのは「網」だった。それも虫取り網程度の大きさではない。本格的に魚を獲るための「投網」だ。
「網? っすか? こんな大きなのどうするんだ?」
ジャニオンは首を傾げていた。
投網は海や川などで大量に魚を獲る為の道具なのだが、この地方の最大の漁場といえばアンテラの南に広がるマグ湖である。湖には多くの船が行き交うのだが、その中には漁船も多く存在している。
湖上での漁はもっぱら投網漁になる。しかし網のサイズはそれ程大きくなく、比例して収穫量も多い訳では無い。その為、漁船は何度も陸と湖を往復し漁獲量を増やさなければならなかった。
「これはおじさんが(珍しく)朝早く起きて(仕方なく)作った秘密兵器です。少し予算がかかりましたのでカーポ氏には後で必要経費として請求いたします」
セトの作ったそれは虫取り網を三十個ほど潰して繋ぎ合わせ、その端に錘を取り付けた単純な作りのものだった。それでも虫取り網とその他諸々の材料費は、金の無い下っ端冒険者の懐を著しく痛めつけるには十分なものになる。
ちなみに網を作る前の話だが、セトは漁師に「網を売ってくれ」と交渉をしている。しかし「網は漁師の魂だ!」と、全く相手にされなかった。ならば自分で作るか、と、頑張ってはみたのだが——。
「構わないよ。僕の私費から言い値で払うから」
それに対して中堅貴族の懐は安泰だ。その上カーポは何かをするには金がかかることや、その為の投資の必要性を理解している。だから金払いも良い。
「さて、それでは君たちはお魚さんが好きですか?」
「いや」「いいえ」
保冷技術の未発達。魚は陸に上げるとすぐに死んでしまう。そしてすぐに腐敗が始まるのだが、その腐敗を緩める技術が存在しない。現代世界でなら、釣った魚を氷に満たされたクーラーボックスの中にでも放り込んでおけばある程度の腐敗を防ぐ事が可能だ。しかしこの世界にはまず氷を作る技術がない。
そもそもこの世界においての氷とは、冬の冷気で凍らせておいたものを集めて、年中気温の低い洞窟などで保管しておくものである。そしてそれを冬以外の季節に楽しめるのは、有力貴族や王族くらいのものだった。それだけ貴重で高価なものを、魚の腐敗防止の為だけに割くにはコストがかかり過ぎる。つまり一般的に出回る腐敗の防がれていない魚は「生臭い」ものなのだ。
「だって臭いし」
「そうそう。あの生臭さが好きになれないんだよね」
それ故に、念入りに、炭になりそうなくらい火を入れる。そして腐臭を消す為に調味料を大量に投入するという調理スタイルが出来上がったのかもしれない。
「では、今日はお魚さんを好きになってもらいましょう」
生簀といっても本格的なものを作る訳ではない。河原の砂利を掘り、少し大きめの石を使ってスペースを作るだけだ。大きさは魚が自由に泳げる程度で構わない。それだけで魚のストレスは軽減される。しかし魚を入れすぎてはいけない。魚の二、三倍のスペースに一匹くらいの割合が丁度良い。
簡単な生簀が完成したので次に網を投げる。
一回目失敗。漁獲無し。
二回目失敗。漁獲無し。
三回目失敗——。
「諦めます!」
「ええ!?」
「諦めてしまうのかい?」
「やっぱり知ったかぶりは良くないね。おじさん、投網の作り方なんて全然知らなかったし」
さすがに現実は厳しい。原理を知らないセトが、何となくで作ったお手製の投網の性能は著しく低いものだった。
「知らないで作ったのか!?」
「うん」
「知らないのに資金を投入して!?」
「うん」
「何、考えてんだ? 兄貴」
「はい、おじさんへの文句はそこまでにしましょう。網を売ってくれなかった漁師が悪いのです。おじさんは全く悪くありません」
「うわぁ……」
「人間には得手不得手がありますし、思っていた事が必ず実現する訳ではありません。おじさんだって完璧な人間ではないので、失敗する事もあります。ですが、挑戦を諦めてはいけません。挑戦こそが人類の進歩に繋がっているからです」
セトの言葉に「分かるような、分からないような……」と、軽く首をかしげるカーポに対し、ジャニオンは、目をキラキラと輝かせながら「分かったぜ、兄貴! 挑戦だよな! 大事だよな!」と、尊敬の眼差しを向けていた。しかし、この網にはそれなりの経費がかかっている。ならば、思い切って考え方を変えてみるか。
「えー……。それではみなさん、網の使い方を変えて見ることにします」
まず比較的浅い川底に網を敷く。それを三方向から中心に向かって進みながら魚を掬い取る方法だ。しかしその為には、深瀬で網を持つ人間が腰くらいまで川に浸からなければならないのだが--。
「良いよ。服なんて洗えば良いだけだからね」
貴族は絶対やらないような、きつい、危険、汚い、の三拍子揃った3K行動ではあったが、思いの外カーポが乗り気だった。
「いや、カーポさんはやらなくて良いぜ。俺と兄貴で何とかするから」
さすがに空気を読んだジャニオンが言ったが「何、言ってるの? 三人でやった方が効率良いじゃないか!」と、カーポは相手にしない。むしろ率先して深瀬に向かって歩いていく。
「転ばないようになー」
「ああ」
三人で協力し、二度、三度と場所を変えながら繰り返し、ようやく彼らは十匹の川魚を獲ることが出来た。それらの魚を生簀に放り込みクタクタになった三人は一斉に河原に寝そべった。
「水の中を歩くのがこんなに疲れるなんて……」
「もう、限界だ」
「おじさん、腰が痛いです」
水中で歩くのは普通に陸で歩くよりもよほど疲れるものだ。ましてや服を着たまま、腰まで水に浸かった状態で動くのは非常に労力を使う。今ここに、三十代、二十代、十代の男がそれぞれ揃っているが、各自それなりのダメージを受けている事だろう。しかし真っ先に立ち上がったのは三十代の自称おじさんだった。
「イタタタ……」と、腰を押さえながら立ち上がったセトは生簀に小さな網を入れると一匹の魚をすくい上げた。そして素早く頭を下ろすと、エラや内臓を取り出して、そのまま三枚に卸した。そして小骨を削りながら「川魚はあんまり刺身にしないんだったっけ?」と、呟いた。
実際のところ川魚を刺身にしないという事は無い。ニジマスや、イワナ、コイなど生食に適している魚は少なくない。
「試しに食ってみるかな」
セトは、魚の切り身を一切れ口の中に放り込んでみた。まぶした岩塩の塩味と、川魚の淡白な味が口の中に広がっていく。さすがに綺麗な川で釣った魚だ。泥臭さも特に気にならない。
「良いね。でも本当、醤油と山葵が欲しくなるね」
日本人なら刺身には醤油と山葵なのだろうが、軽く塩をまぶして食べるのもまた美味い。しかし塩を振って食べるのなら——。
「焼き魚だよね!」
セトは河原に転がっていた二人を引き起こすと、先ほどから炙っていた魚串を手に持ち彼らに向かって「食え」と突き出した。
「こ、これは!」
セトは驚く二人の顔を見ながらニヤリと微笑むと「塩焼き」とだけ答えた。香ばしい焼き魚の匂い。未だジュウジュウと漏れる脂の音。二人の喉がゴクリと鳴った。
◆◆◆
食事を終えた三人は相変わらず河原に寝転んでいた。特にカーポとジャニオンの表情は満足そのものだった。しかしセトの表情だけは少々浮かないものだった。理由は些細な事だった。
「ご飯、食いたいな」
湯気の立つ白飯、塩味の利いた焼き魚、熱い味噌汁、そして漬物。これらは和食の定番メニューだ。他にも海苔やら納豆やら梅干しやら。セトの頭に浮かんでくるのは日本の食べ物だった。
セトは二週間もの間、まともな食事から離れていた。硬いだけのパン。塩味しかしないような具の少ないスープ。飲み物は水か白湯ばかり。手の込んだ料理はとにかくまずい。そんな世界で今彼は軽いホームシックにかかっていたのだ。
「米が食いたい」
その言葉を聞いてカーポは答えた。
「ありますよ?」
「んん?」
「米なら私の屋敷にありますけど?」
それは、ホームシックにかかりつつあったセトの異世界生活に光明が差した瞬間だった。