第二十五話 師走半ばの十四日——
師走半ばの十四日。
古くは元禄年間、赤穂四十七士の吉良邸討ち入りがあったとされる日、「四ノ宮要」が、随分長く引き込もっていた自宅の玄関を自身の手で開いたのは久しぶりの事だった。
時刻は真夜中、両親は既に床についていた。
カナメとしては、自分が引き込もっている事には多少なりとも罪悪感があった。間違って両親と出会ってしまえば何を言われるかは容易に想像出来た。だから避ける。
せっかく眠っているのだ。顔を洗う、着替える、親の財布から千円札を一枚抜き取る、全てが終わってから玄関から出る。起こさない為にも、これらの行為に細心の注意を払う必要があった。
夜中に小腹が減ったのでコンビニに出かけようと思った。
せっかくなので雑誌の立ち読みでもしようか。いや、冬のコンビニと言えば、おでんか、肉まんであろう。出汁の染み込んだ温かい大根やコンニャクが良い。ふかふかモチモチとした肉まんにかぶりつくのも良い。後は買った食べ物を公園のベンチででも食べて帰ろうか。それとも食べながら帰ろうか。
それだけのつもりだった。
それだけのつもりで玄関を開けるとそこは別世界だった。
明るかった。崖の上だった。眼下には海が広がっていて、潮の香りを含んだ風が肌に当たる。青い空と、青い海、そして白馬のような波が駆けていた。
これは現実だが——。
カナメは首を傾げた。いつから家の外が崖の上になったのかと無意味な妄想をしてみる。そして後ろを振り返った。何もない。あるべきはずの自宅の玄関すらも存在しなかった。
「——何で?」
突如辺りから光が消えた。カナメは真っ暗な世界に立っていた。立っていたというのだろうか。上下も左右もいまいち把握出来なかった。ただそこに浮かんでいるような感覚だった。行った事は無いのだが、宇宙の無重力空間とはこんなものだろうかと思ってみる。
一つの事を思い始めると、心の中に良し悪し事が浮かんで来る。
玄関のドアの鍵、部屋のパソコンのデータ、ゲームのセーブ、両親の事、自分の事、カナメの心の中には様々な事が無数の泡のように浮かんでは消えていった。
「よく来ましたね」
不意にカナメの背後から優しげな、柔らかな声が聞こえた。顔を見ずとも、それだけで好意を抱いてしまうような声だった。それ故に少し惜しい気がする。振り返れば顔が見えてしまうから。
「こちらをご覧なさい」
声の主は言った。カナメは仕方なく振り返った。そこには見た事のない美女の姿があった。
「良い子ですね」
女はそう言って笑った。肌が透けて見えるような薄い衣に身を包み、その豊満な肉体を隠そうともせず、悠々と豪華なソファに寝転んでいた。美しく輝く金色の長い髪を、細く白い指先でくるくると絡め弄っていた。
面と向かって異性の顔を見たのは随分久しぶりの事だった。裸のような格好をした美女など以ての外だ。カナメは少し恥ずかしくなって顔を逸らした。どこに視線を置いて良いのか分からなかったからだ。
「可愛らしい反応をするのですね?」
先月、カナメは二十二歳になった。もちろん、引き込もりの彼が誕生日パーティーなどする訳がない。母親が書いてくれたのか、お店の人が書いてくれたのかは分からないが、小さなケーキの上に『誕生日おめでとう』の文字があったのを覚えている。
「あなたの事は何となく知ってるの。だからまずは私の事をお話ししましょう。ね?」
カナメは女の言う事に頭を下げて頷いた。
「私はこの世界を治める神の一人です。名を『アーデルヘイト』。口の悪い方は、美と嫉妬の神なんて言うわね。ウフフッ——」
この世界には無数の神が存在している。
その中の頂点に君臨するのがアーデルヘイトを含む十人の新鋭神であった。なぜ新鋭の神々が力を得ているのかと言うと、大地や海、水や炎といった古の神々は既にそのものと一体化しつつあり、意識すら保てない状況にあるからである。その為、力を得た新鋭の神々が好き放題していると言う訳だ。
その中でも人間の心から生まれた十人の新鋭神の力は別格で、なおかつ非常に仲が悪かった。
「他の神と同列になんて並んでいられないわ。だからあなたを呼んだのです」
アーデルヘイトは終始優しげな口調ではあったが、要するに神の代わりに喧嘩して来いと言う事を説明した。そしてその為に別の世界の人間を呼び、力を与えているとも説明した。
異世界などという突拍子も無い事実ではあったが、カナメは不思議と拒否をしなかった。むしろ都合が良いとさえ思ったほどだ。
高校を卒業する前に、ちょっとした事で引き込もり、それから五年。同世代の大学生は就職やら、進学やらと忙しく動いている。そんな中に中卒の無職がここにいる。資格もなく、学もなく、先の将来など考えたくも無い。
そんなどん底の自分をチャラに出来る可能性が与えられたのだ。ついつい手を伸ばしたくなるのは道理であろう。
そうしてカナメの手に入れた力は「強欲の王」。美と嫉妬の女神アーデルヘイトの祝福を受けた「奪う」力だった。彼はこの力で一人の来訪者を殺した。
名前は覚えていない。戦国時代から来たと言う侍だった。
剣術の師範をしていたと言うだけあってその剣の腕前は素晴らしいものだった。しかしそれだけだった。全身から力を奪われ、這いつくばる侍の呪いの言葉を受けながら、彼の首に小刀を突き立てた。
そうして奪った小刀が今、カナメの背中に突き刺さっている。別の神の祝福を受けた神金を超える金属の刃だ。
因果は回る。因縁は巡る。風は北から吹く。
◆◆◆
「お前、喧嘩した事なかっただろ?」
セトはそう呟きながら突き刺した小刀の柄を捻った。
カナメは苦悶の表情を浮かべた。痛みと言うよりも、燃えるように刺された部分が熱かった。まるで、そこだけ火を着けられたような感覚すら覚える。
「ヒヒイロカネの刀? だっけ? いや、これなら刺さると思ったんだよね」
セトが殴っても、蹴っても、カナメにはさしてダメージを与えられなかった。しかし衝撃や反動というものは何とか通っっていた。
つまりカナメの体がいかに固かろうが、それは完全に無敵という訳では無かったのだ。それならば、あまり腕力を必要としない強力な武器で不意打ちすれば良いだけの話。
セトが刀を引き抜くと、カナメは血を吐いて前のめりに倒れ込んだ。背中から流れ出た血液が波紋のように広がっていった。
「死んだか?」
セトの問いにキヘイが「まだ生きていますが、この出血ではもう……」と答えた。
側から見ても、危険な出血量だった。しかしこれで生きていられたら完全な化け物という事だろう。
「止めを刺すか?」
セトは迷っていた。このまま止めを刺してやるのが武士の情けというものだろう。実際にこの出血量だ。遅かれ早かれカナメは死ぬ。しかし瀕死の人間を目の前にして、最後の一撃を振り下ろすのはなかなかにやり辛いものでもある。
そんな状況に揚々と足を踏み入れたのはマルコだった。
「おお。……死んでしまうとは情けない! もう一度、やり直しますかな?」
マルコは死にかけているカナメの顔を覗き込むと「何てね」と、嬉しそうに口角を上げた。
「そんな力、私にはあーりません! 生物は等しく生まれ、等しく死ぬものなのです! 王よ! いや、今は四ノ宮要君でしたか? あなたも同じく死に至るだけの話でございますよ!」
「おい!」
セトがマルコの胸ぐらを掴んで引き寄せた。まるで仁王のように怒りに燃えたセトの顔を眺めながら、マルコは「おっと! 私が何を?」と、とぼけた顔をした。
「ここにいるのは王ではございません。ただの敗北者でございます。負けた時点で王は王では無くなるのでございます。そして敗れた王の最後は断頭台の露と相場が決まっておりましょう?」
敗北者を貶めるのがこのマルコという男の性質なのだろうか。とにかくセトの感に触る言動をする。
「そ・し・て! 過去の日本でも行っておったではありませんか? 切腹、介錯。ただ死ぬのは侍の恥! それならばどうぞカナメ君に介錯を授けてもらえないでしょうか?」
やはりこの男は来訪者だった。見た目は顔の濃い外国人風なのだが、知識と言動は日本人のそれに近い。さすがにここまで陽気ならば日本という枠の中では生き辛かったとは思うのだが——。
「やめい!」
突如、カナメの身体が輝いた。
「ちーちゃん?」
チハヤだった。カナメに切り倒されたはずだったのだがどうやら無事だったようだ。そして彼女の癒しの力は対象に触れなければ出来ないという訳では無いようだ。この分なら数メートルの距離からの治癒も可能だろう。
「『ちーちゃん』と呼ぶでない! それよりも介錯は待て。この男にはしてもらわなければならない事がある!」
チハヤは颯爽とカナメに近寄るとその体に手を触れた。
「触れなくとも治癒は可能だが、触れた方が早い。それにこの男にはきちんと頭を下げてもらわねば気が済まぬ!」
そんなチハヤの様子を見ながらマルコが「これだ!」と吐き捨てた。
「今回、カナメ君の悪いところが全部出ましたよね! 血を見るのが怖くて、生き物を傷つけるのが嫌で、ギリギリになるまで戦いたくないという弱い部分が全部出ましたね! あれほど王に相応しくないと私が申しておりましたのに! あの時、チハヤ殿を切っておけば良かったのに! 逃げようとする名前付きをさっさと始末すれば援軍は来なかった! セト殿もサクッと刺しておけばこんな事にはならなかった! 全部後手後手ではありませんか? こんな事だから——」
「——お前、黙ってろ」
セトがマルコの顔面を殴りつけた。彼の体は地面に叩きつけられ小さく跳ねた。そして意識を失った。
「ここまでやっといて何だが。……回復しそうか?」
セトが尋ねた。しかしチハヤは頭を横に振った。
「最早手遅れだ。私には終わりを少々伸ばす事しか出来ぬ」
「そうか」
セトはカナメを抱き起こすと「最後に言いたい事は無いか?」と問うた。
カナメは軽く息を吸い込むと、器官に溜まった血を吐き出した。
「王は十人いる。……来訪者はその数倍だ。刀はやる」
「分かった」
「……鉱族。……すまない」
「分かった」
セトが答えた。チハヤも小さく頷いた。
「なあ。……俺、死んだら、どうなるんだろうな?」
そう言ってカナメは事切れた。まるで糸の切れた人形のように身体の支えはなくなり、セトの腕にそのものの重さがのしかかった。
「そうか。死んだらただの物になるのか……」
動かなくなったカナメの体を腕に抱き、セトは一人言ちた。




