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ガストゥはこの様子にすっかり感心した。
「よく訓練されているな。地球では猫っていえば、犬と違ってしつけのできない生き物ってのが通説なんだがな」
「地球の常識でこの星の生き物を語るな。この星でいちばん賢い生き物は猫だ」
「犬はいないのか?」
「いる。しかし、太陽は犬を選ばなかった」
「太陽が選ぶだって? 君も太陽教の信者なのか?」
「太陽教……今現在、地球で最大勢力の宗派だな、知ってはいるが信心はしていない。私は無宗教論者だ」
「でも、太陽が選ぶだの、選ばないだのって……」
「それは、今するべき話なのか? だったら、地下室は後でにするが?」
彼女はすでに地下に続く扉を開けていた。その先には裸電球一個のみが照らす、薄暗い階段があった。さらに奥は完全な闇に沈んで漆黒が深く口を開けている。
ガストゥは少しだけ臆した。何か小粋なことでも言って気を紛らわそうかとも思ったが、先ほどジェシーに「ジョークは言わない」と約束したばかりではないか。
だからガストゥは、ひどくまじめぶって聞いた。
「こんなところに、君のお父さんが?」
「そうだ、いる」
嫌な汗が脇下を伝ったが、ジェシーはすでに階段に足を下ろし始めているのだから、止められるわけがない。ガストゥは下腹にぐっと力を入れ、彼女について階段を降り始めた。その足元には、黒猫が付き従った。
地下室の換気口は開かれているらしく、頬の産毛を撫で上げるような風が吹きあがってくる。ドブの底にたまったヘドロみたいな悪臭をたっぷりと含んだ風だ。
胸のあたりを突き上げる嘔吐感をこらえようと、ガストゥは鼻をふさいだ。
「ドブでも詰まっているんじゃないのかい」
「地下にドブはない」
ジェシーは足さえ止めようとはしない。それは二匹の猫も同じだ。
ゆらり、くらりと尻尾をくゆらせながら階段を下りてゆく猫を追うように、ガストゥは一段跳びに階段を下りた。ジェシーはすでに階段を下りきっていて、つき当たりの壁に手を伸ばしているところだった。
「電気をつける。待ってくれ」
彼女の左側には地面を切り取ったような四角い入口がぽっかりと闇色の口を開いていて、悪臭はますます強く噴き出してくる。目を背けたくて仕方がないというのに……ガストゥは鼻先を押さえたまま、呼吸すら失って立ち尽くす。不愛想な裸電球が何度か瞬いた後、闇は取り払われて土壁がむき出しになった地下室の全貌が明らかになった。
裸電球は二つ、奥にひとつと手前にひとつ。低い天井にそっけなく吊るされて揺れている。
その真ん中には、一抱えもある大きな『巣』がぶら下がっていた。白い膜に覆われた中に、青いチェックのシャツを着た人骨が包まれている。
「父だ」
ジェシーの声はやはり抑揚なくて。
「今は死んでいる」
もちろんジョークなどではない。彼女はありのまま、目の前にある明らかな事実だけをガストゥに告げた。
ネズミの巣は古いものだろう、白い膜はホコリを被って灰色にくすみ、中に生き物の気配はない。二匹の猫もひどく落ち着いたもので、巣の真下に座り込んで毛づくろいを始めている。
ジェシーも特に恐れることなく巣に近づき、白骨を指さした。
「もうすでに巣は枯れているから安全だ。猫たちがくつろいでいるということは、新たなネズミの侵入もない。もっと近づいても構わない」
ぼんやりとした裸電球の明かりに照らされたジェシーの表情には、およそ感情らしきものなど何もない。美しい目は開きすぎもせず、閉じすぎもせず、何も曲がることなくまっすぐにガストゥを見つめている。
きっと彼女には何の感慨もないに違いない。そこに垂れ下がっているのが父親の白骨だろうが、枯れ木だろうが大差ないのだろう。
ガストゥはこみあげる胃液を抑え込むように唾を飲み下して言う。
「弔いもせずに吊るしておくのは、このあたりの風習なのか?」
ジェシーはこの言葉の意味を拾い損ねたらしく、首を傾げた。
「それはジョークか?」
「俺は君にジョークは言わないと誓った。これはまじめな質問だ」
「ならば真面目に答えよう。私には父をここから引き下ろして弔うべき理由がない。そもそもが私は女で、体も小さく、作業負担も物理的リスクも大きい。もしも腐敗による感染症などを恐れてのことならば、ごらんのとおり、すでに石よりも清潔な乾ききった白骨であるのだから、弔いのために高所から重たいものを下ろすという作業に伴う危険の方が大きいのだ」
「そうじゃなくて、君の気持だ。これではあまりにもかわいそうだとか、悲しいとか、そういうことは思わないのか?」
「言ったはずだ、私には感情がないと」
ジェシーは顔をあげて、ガラス玉のように精彩のない瞳で頭上を見上げていた。
「弔いとは、生きているものが自分の悲しみを癒し、死者に対する愛情に区切りをつけるための行為だと知っている。だが、私には感情がない。したがって父の死も悲しくはなく、弔いの必要がない」
「そんな、いくら感情がないからって……」
「君はどうだ、同僚に対する弔いはすんだのか? 起きた後でずいぶんとわめいていたようだが」
「聞こえていたのか」
「ああ、こんなボロ家なんだから、声は聞こえる。だが、君が悲しむ声を聞いてもやはり……私には『悲しみ』は理解できなかった」
ジェシーはいまだに上を見上げたままだ。言葉の通り、悲しみなど本当に理解できないのだろう、ただ眼を見開いて白骨の顔を見つめ続けている。
ガストゥはこの女がすっかり哀れになってしまって、鼻を押さえていた手を下げた。
「ジェシー、君は……」
「教えてくれ、悲しいとは、どう行動すればいい? 父がここでネズミに食い殺されるのを見たとき、私はうろたえて泣くべきだったのか? 父と一緒にネズミに殺されてやれば、悲しいに足るのか?」
彼女はゆっくりと振り向き、ガストゥを見た。
「教えてくれ、悲しいとは、どんな感情だ?」
この時の彼女の姿を、ガストゥは決して忘れないだろう。
裸電球の光は頼りなくて、もろい膜を張ったようにすべての輪郭を溶かしていた。その中に立つ美しい女は胸を張って、凛とこちらを見ている。その足元には神話の女神の従者ででもあるかのようにきちんと足をそろえて座るしなやかな獣が……すべては教会の天井に描かれたフレスコ画のように淡いベージュの光を放っていて、ガストゥはこれを『無垢』であると感じた。
何か言葉を、と彼は思った。もしかしたらジェシーが望む『悲しい』には届かないかもしれない、それでも何か一言を、と。
その時、彼女の足もとで猫たちが鳴いた。
「ネズミか?」
ガストゥはとっさに身構えたが、ジェシーはゆるりと首を横に振った。
「いや、人間の客だ」
二人は地下室を後にして、リビングへと戻った。そこに残してきた猫たちは、入り口をにらみつけて低いうなり声を上げている。一匹や二匹が気まぐれでしているわけではなく、すべての猫が姿勢を低くして尻尾を突き上げて怒っているのだ。
地下室から戻ってきた黒猫と縞猫もこれに加わり、ことさらにドスの利いたうなり声を上げた。
ジェシーの眉根がわずかに曇る。
「警告しておこう、今から通す客は君にとっても、ネズミの方がまだマシだと思えるかもしれないと」
彼女の言葉に含まれた違和感に、ガストゥは首を傾げた。
「それはジョークかい?」
「いいや、私はそんな高度なコミュニケーション手段を理解できない。あくまでも私が観測し、そして予測される結果を伝えたに過ぎない」
「そうか?」
ガストゥは考え込むが、違和感の正体に思い当たらない。どこか特殊な節回しでもあっただろうかと、彼女の言葉を反芻する。
その間にジェシーはリビングの先にあるドアを開けてしまって、客人を中に迎え入れた。それはひょろりと背の高い、若い、骨ばった男だった。
男が真っ先にしたことは、自分に向かって牙をむき出している何匹もの猫たちを一瞥することだった。
「相変わらず礼儀のなってない奴らだな。おい、ジェシー、こいつらを黙らせろ」
ジェシーの声がリビングに響く。
「休め」
この声に、黒猫が不服そうに鳴いて答えた。ジェシーはこの猫に向かって頷いてみせる。
「心配ない、今日は一人ではなく、ガストゥがいる」
黒猫はさらに不服そうな一声を上げながらも振り向き、階段を上って二階へと姿を消す。リビング中のすべての猫が、これに付き従うように二階へと上って行った。
男は満足げに頷き、さっきまで猫が座っていたソファにどっかりと腰を下ろす。
「礼儀はなっちゃいないが、お前の言うことはよく聞く、いい猫たちじゃないか」
ジェシーはふいとそっぽを向いて、口の中だけで「どうも」と短く答えた。