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その女は、眉根すら動かさずにガストゥを見つめていた。
「君の友人はすでに助からない。せめて君だけでも保護させてほしい」
人の死を告げるにはあまりに抑揚のない、ひどく落ち着いた声だ。それはどこか硬質な金属音を思わせる声だ。
ガストゥは彼女から視線を外して、うす暗いラウンジの床に目を落とした。デニスだったものはすでに頭部を失い、たっぷりと太った手足がびくびくと大きく痙攣している。その体の上を、一匹のネズミが触手をせわしなく動かして這いまわっていた。
やり場のない怒りがガストゥの喉を震わせる。
「ちくしょう、デニスはお前らの仲間を助けたんだぞ、恩返しされる筋合いこそあれ、喰われる筋合いなんかこれっぽっちもないじゃないか!」
女は、そんなガストゥに向かってひどく冷静に言い放った。
「無駄だ、その生き物は人語を解さない」
「わかってるよ、そんなことは! それでもさ……くそっ!」
「友人を亡くした感傷というやつか、理解するように努力はしよう。しかし差し迫って、私たちは速やかにここを脱出する必要がある、ああなりたくはないのならな」
女が指さしたロビーの天井を見上げて、ガストゥはあっと息をのんだ。見上げるほど高い吹き抜けの天井を埋め尽くすように無数の巣が張り広がり、そこには女やら男やら子供やら年寄りやら……かつては人間だったであろう肉体の残骸がぶら下げられている。
ガストゥは息さえも飲み込んで一足飛びに女のもとへ駆け寄り、これに並んだ。
「どうなってるんだ、これは」
用心のために電子銃を天井に向ける。
女はそんな彼の手を押しとどめて言った。
「やめろ、下手に撃つな」
「なぜだ、まさか、ネズミちゃんがかわいそうだからか?」
「それはジョークか?」
「そうだ。少しばかりビターだがな」
「それも理解するように努力しよう。だが今は状況だけを手短に説明させてもらう、あそこのぶら下がっているものはかつては人間だったものでありながら、今はネズミの巣だ。あの生物は死肉に穴をあけ、その中で腐肉をすすりながら繁殖を行う。つまり、あれはネズミをたっぷりと詰め込んだ風船のようなものだ、撃ち破れば無数のネズミが飛び散り、収拾がつかなくなるだろう」
「つまり、くすだまを割ったみたいに中身が俺たちの上に降ってくると、そういうことだな」
「理解が早くて素晴らしいではないか。そういうことだ」
「ち、わかったよ」
ガストゥは銃を引き下げ、女に向かって肩をすくめてみせた。
「で、俺を保護するんだっけ?」
「ああ、保護する。ついてきてくれ」
「嫌だと言ったら?」
「私は別に構わない。だが、君に選択権はないはずだが?」
特に抑揚のない女の物言いが、ガストゥの癇に障った。
「ずいぶんと偉そうだな、おい」
「別に偉ぶっているつもりはない」
やはり抑揚乏しい声。
そもそもがこの女はガストゥよりもずいぶんと年下であるはずだ。童顔に化粧っ気はなく、顔立ちだけならティーンエイジだといっても通用するだろう。肉体の方はタンクトップの頼りない布地を押し上げて女の体であることをアピールするほどに発育してはいるだ、その肌はみずみずしくて、若い女性に特有の奥ゆかしい汗の香りを立ち上らせている。
だからこそ、それに不釣り合いな抑揚のない声が傲慢の表れなのだと、ガストゥはそう感じたのだ。
また一つ、抑揚のない声で女は言う。
「早く来い、こっちだ」
ガストゥはそれに抗った。
「いやだね」
女はそれに対して驚いた様子さえ見せない。表情は顔面の筋肉の動かし方を知らぬのではないかというほど変化なく、ただ、声だけがほんのわずかに上ずった。
「ばかな、死ぬ気か?」
「別に死ぬ気はない。俺は自分の航船に戻って、メインエンジンのスイッチを入れる、そうすればこんな恐ろしいところとはおさらばだ」
「それは不可能だ」
「不可能なもんか、デクスト号のエネルギー庫は地球を発つときに満タンにしてきてある。食料の補充だって、合成食だってことにさえ目をつぶれば帰路に十分なだけの蓄えはあるさ」
「そういった航行上の計画を判じたのではない。君がここから自分の航船に戻ること、これが不可能であると私は言っているのだ」
女はわずかに顔を伏せ、耳を天井に向けた。それから片手を耳介に沿って当て、ガストゥに目配せをする。
「聞け」
彼女の真似をして天井に耳を向けたガストゥは、宇宙港の雑踏に似た音を聞いた。
無数の生き物が動き回るわさわさとした足音、それを引き裂くように「チチッ、チチッ」と鼠鳴きが混じり、それは人々が行き交うロビーの喧騒に似ている。
視線も天井に向けたガストゥは、白い巣の内側で動き回る桃色の物体を認めて舌打ちした。
「たかがネズミ位!」
「『たかが』じゃないのは、お友達の最期を見れば明らかだろう。しかもあのラウンジの中では、仕留めた獲物を食い漁るべく無数のネズミが這いまわっている。その中を無事に通り抜けることができるとは思えない、ゆえに不可能」
「わかった、この場は君に従おう」
「賢明だ。こっちへ」
彼女がガストゥに差し伸べた手元ぎりぎり、まるで二人を遮るように桃色の物体がかすめて通る。
「く!」
間一髪、手を引いた二人が傷つくことはなかったが、その足元には無数の触手を蠢かせる小さなネズミがいた。
「やられた。どうやら私たちは餌だと認識されたようだ」
どこか遠くで肉質のものが落ちる音が、ぽたりと。それよりも近くで、やはり肉の質感が床を叩く音が、ぼたりと。
女は大声で何かの名を呼んだ。
「プロキオン、来い!」
その声に応えたのは、売店の商品棚の間から響く眠たげな鳴き声だった。
「ニャ~オ」
次の瞬間、漆黒の風がロビーを駆け抜け、床を這っていた触手たちは小さな鳴き声を上げて逃げ惑った。
「なんだ?」
ガストゥは目を凝らす。
風が黒く見えるのは中心に大きな獣を内包しているから――それは風などではなく、しなやかな筋肉を持つ細身の獣が走り回る姿なのだと気づいた時には、すでに目の前のネズミはほっそりとした獣の爪の先にとらえられていた。
「猫か?」
なだらかなフォルムを描く細身の体、とがった耳、気まぐれに揺れる長いしっぽ……それは、どこをとっても間違いなく、ガストゥが見知った猫の特徴を備えた生き物なのである。
だが、その大きさは地球の猫とは違い、金色を湛えた釣り目はガストゥの腰の高さにあった。
「ずいぶんとでかいな」
ガストゥが驚いたのは大きさだけではない。すました顔をネズミに近づけた猫は、大きく避けるほどに口を開けて、顔の皮を裏返した。何かの比喩表現ではない。口を中心に大きく皮がめくれ上がり、鮮やかな内臓の色をむき出しにしたのだ。
そこにあったのは骨格ではなく、わさわさとイソギンチャクのように揺れる幾千もの細い触手だった。
その醜悪な見た目にガストゥは両手で口元をふさぐが、女の方は依然平然とした様子で猫に声をかける。
「プロキオン、喰え」
じゅろっと粘液じみた音とともに猫は触手を伸ばし、あっという間にネズミを絡めとった。小さな触手は抗うように暴れたが、いくぶん、リーチの差が違いすぎる。小さな触手はあっという間に長い触手の奥へと消えた。
「ううっ」
胸が悪くなるような光景にガストゥはえづくが、女はそんな彼の袖をしっかりとつかむ。
「ともかく、脱出する。いくらプロキオンでも、この数のネズミ全てを食い尽くせるわけじゃない」
惹かれるがままに走り出したガストゥは、いま一度、ラウンジの扉に目をやった。あの奥にデニスが倒れているのだと思うと……その亡骸を葬ってやることも、せめて遺品となるであろう陽光のペンダントさえ拾ってやれないのだと思うと、ひどく悔しい。
「ちくしょうが!」
短く悪態をつけば、女がこれを聞きとがめた。
「いいから、今はただ走れ」
「うるさいな、走ればいいんだろ、走れば!」
女の手を振りほどいて、ガストゥは走った。ロビーを抜けるガラス扉の向こうは砂漠に似た黄色い砂に覆われたネスニアの大地だ。
ネズミたちから逃げるため、そして生き延びるために、ただ。
ガストゥは体を当てるようにしてガラスの扉を開き、ネスニアの大地へと足を下ろしたのだった。