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「どう思う、デニス」
ガストゥが囁けば、デニスが頷く。
「たぶん……たぶんだよ、僕の記憶が確かなら、オートシステムの掃除用ロボットの音じゃないだろうか」
「やっぱりそう思ったか。さらに俺の見立てが正しければ、地球式の旧型機だと思うんだ」
「なぜ、そう思う?」
「リズムだ。ゴンゴンと鳴った後に小さく何かを引きずる音がするだろう。あれはリア・シャフトのベアリング調整が固めだからだ。そういった調整を好むのは地球のエオアク社くらいなもんだろう」
「詳しいな」
「ああ、親父が整備士なんでな、あの手のロボットがガレージにごろごろあったんだよ」
すでに危険は去ったとでも思ったのだろうか、デニスはひどく呑気な声を出した。
「へえ、親父さんは現役かい?」
ガストゥはそんな彼に厳しい視線を投げて短く告げる。
「それは今、しなくてはならない話か?」
「え、いや……」
「稼働している│掃除用ロボット《ダスティ ボーイ》がいるってことはだ、宇宙港の建物すべてが電力の供給を絶たれているというわけじゃない」
「小さな、非常電源かも知れないじゃないか」
「そんな貴重な電力を掃除の役にしかたたないロボットに回すか? たぶん、あの扉の向こうは普通に電力が供給されているはずだ」
「つまり、あの扉の向こうは明るいんだね」
「察しがいいな、デニス。その通りだ」
ガストゥが身を引き起こし、そのまま電子銃を両手に握りなおす。
「いいか、俺が扉を開けてやる。そうすればここももう少し明るくなるだろうさ。それまで、ここで待っていろ」
「分かったよ、気を付けてね、ガストゥ」
こんな時でも、デニスは場を和ませることを忘れない。
「このミッションが終わったら、ホットドックと冷たいビアをおごるよ」
「スナックスタンドが開店していることを願うよ」
「大丈夫だよ、僕には『食いっぱぐれない運』があるからね」
「そりゃあ、結構」
笑いをおさめたガストゥは電子銃を扉に向けて構え、一歩を踏み出した。
普段なら何気ない扉の開閉……どこにどんな敵が隠れているかわからない状況下において、これほどに危険な行為はない。扉は敵から身を隠す壁であり、敵の攻撃を緩衝する盾でもある。その盾を自ら放棄し、敵の前に自分の姿を晒すというのは、戦いであれば悪手であろう。
しかし扉は扉でしかなく、開かねば前には進めない。
ガストゥは数歩を一気に飛び進んで、扉の裏にぴたりと張り付いた。
表では相変わらず規則的に床を磨く金属感のある駆動音のほかには物音ひとつない。本来ならこの先は売店の立ち並ぶロビーであり、行き交う靴音や航船の発着を告げるアナウンス、それに浮かれた旅客たちの笑い声などでざわついていてしかるべきなのだ。
ガストゥは静寂を吸い込むかのように大きく息を吸って、ドアに手のひらを押し当てた。
ここを開く以上は、必ず物音を立てる羽目になる。もしもこの扉の外に攻撃手段を持った何者かが潜んでいれば、必ずやドアの開く音に反応するに違いない。表がこれだけ静かならば、そっと忍んでドアを開く音さえ反響するだろう。
ならば、一気に!
ガストゥは精一杯に腕を突っ張って、弾き飛ばすようにドアを開いた。戸板が壁に当たる大きな音が、静寂の中に響いた。
「く!」
素早くドアを体で押さえ、表へと躍り出る。電子銃を構えて見晴るかすが、そこはやはり、完全な無人であった。
ガストゥの見立て通り、エオアク社製の見た目も古い│掃除用ロボット《ダスティ ボーイ》が黙々と床を磨いている。その背後にある売店は商品を並べたまま、商品を冷やかす客どころか店員さえいない。
搭乗機を告げる電光掲示板の前にも、二階へ上がるエスカレーターの周りにも、もちろん通路にも搭乗手続き口にも、完全に、全く誰ひとり、猫の子一匹いないのだ。
ガストゥは電子銃の引き金にかけていた指を緩め、笑顔で振り向いた。
「デニス、大丈夫だ、来い!」
その声に笑顔で応えたデニスは、太った腹をたゆんと揺すって一歩を踏み出した。しかし、たった一歩進んだだけで、彼は何に心とらわれたか足を止める。
「あ……ああ……あ……」
言葉さえも失ったかのように呻いて、デニスは天井からぶら下がったシャンデリアを指さした。
そこには扉から差し込む光を浴びて、幾百ものガラス玉がキラキラときらめいている。しかしそのきらめきも上へ行くほどにかすんで、天井近くにはシャンデリアの根元すら見えぬほどにびっしりと、白い汚れが膜状に張り詰めていた。
「なんだ、これは」
ガストゥはドアを足で押さえたまま、身を乗り出して膜の中に目を凝らす。目にも鮮やかな蛍光色のボロが中心にぶら下がっていた。
「まるで蜘蛛の巣だな」
うっすらと明かりを得た天井には、シャンデリアを中心として薄膜状の白い物体が大きく張り出しているのだ。中心となったシャンデリアは特に念入りにぶ厚い膜でくるまれ、その中に異質なぼろ布蛍光色が鮮やかに守られている様は、庭木の間に張った子持ちの蜘蛛の巣によく似ている。
デニスがのどの奥から苦しそうに声を絞り出してつぶやいた。
「そうだ、これは巣だ」
巣の素材とされた白い膜には見覚えがある。どろりと濃度の高い白い粘液が乾ききって薄く張り付いた、汚らしい素材……。
「ネズミだ、これはネズミの粘液で作られた巣だ」
デニスは恐怖に乾く喉をなだめようと、大きく唾を嚥下した。それでも声は乾いて震え、言葉は途切れがちだった。
「ありえない……こんな習性はなかったはずだ……ありえない……」
ガストゥは黙って、ただ眼を凝らしていた。シャンデリアの中心にぶら下がったボロの色に見覚えがあるような気がして仕方なかったのだ。形こそ四方八方に引き裂かれて垂れさがっているが、それは宇宙港によることの多い彼にはあまりにも見慣れた色合いなのだ。
「おい、デニス、あれって、まさか……」
彼はその正体に気づいた。黄色い蛍光色をベースに銀の反射材をいくつも縫い付けたかぶりのベスト――宇宙港の中で働く職員がよく着ている安全着だ。
嫌な予感がするというのに、そのボロ布から目が離せない。ガストゥもこわばった舌先をなだめようと、大きく音を立ててつばを飲み込む。
「まさか……」
ボロ布は絶妙な形を保っていて、その中に何かを内包していることは明らかだった。ふいに、その正体に思い当たる。
「ちくしょう!」
ガストゥはしゃがれた声で喚いた。そのボロ布の端からは枯れ枝のように細いものが垂れ下がっており、これが明らかな石灰質の白色をしていたからだ。
さらに奥、敗れきった安全着の胴のあたりで、何か桃色の塊が蠢いた。
「デニス! 上を見るな、走れ!」
ガストゥは叫んだが、すでに手遅れだった。ボロ布を、そして白い膜を突き破った一匹のネズミが、馬鹿みたいに上を見上げていたデニスの顔面にとびかかる。
「デニスっ!」
「はああ! ガストゥ、助けて、ガストゥ!」
デニスはめちゃくちゃに手を振ってこれを叩き落そうとしたが、それよりも早く、ネズミは触手の先から垂れる粘液をデニスの顔に塗りつけた。
「ガストゥ、ガス……」
声が途中で途切れたのは、たっぷりと粘液を塗りつけられた唇が解け落ちたから。デニスの顔の皮膚は真夏の日向に置いたヌガーのように粘っこい半液体となって、どろりと流れ落ちる。それが気道にでも入ったか、彼は喉を掻きむしって倒れた。
「デニス、おい、デニス!」
駆け寄ろうとしたガストゥの背後から、凛とした声が響く。
「いけない、近寄っては!」
明らかに若い張りに満ちた女の声、それが今一度……
「近寄ってはいけない。下がれ」
ガストゥが振り向くと、その女はロビーの真ん中に立っていた。たった今、表から駆け込んできたばかりなのか、呼吸で肩を弾ませて。
キュートな女だ。こざっぱりと肩口で切りそろえた髪色はグレー、丸い輪郭の中に大きく光る瞳もグレー、どちらかといえば童顔で、それが気の強そうな様子できゅっと唇を結んでいるのだから格別の風情がある。背丈は小さいが肉感的な体つきをしたトランジスタグラマーで、そこに戦闘員風のミリタリーパンツに白のタンクトップという野趣あふれた衣服で惜しげもなく二の腕を晒している。