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結局そのまま、少しうたた寝をしてしまったようだ。ガストゥが目を開けると太陽の光は部屋の深くまで茜色の夕暮れを投げていた。
階下に降りればすでに出発の準備が整ったらしく、猫たちは人待ち顔で尻尾を揺らしている。ガストゥはそんな猫たちをまたぎながら、ジェシーのもとに歩み寄った。
「もっと早く起こしてくれても良かったのに」
「何時に起こせばいいのか、命令されていなかったのでな」
「命令って……ジェシー……」
彼女の足元に控えていた黒猫が、「ごめんなさいねえ」とでも言うように長く尾を引いた甘え声を出す。その長い尻尾はゆったりと揺れて、いかにも慈悲深げだ。
ガストゥはその猫がジェシーの母親的な存在であるということに気遣って、ひどく柔らかい声を出した。
「いや、実際に疲れていたし、ゆっくり寝かせてくれたことには感謝している。ただ、君たちを待たせてしまっただろうと思うと、俺も心苦しいんだ」
「別に心苦しくなど思う必要はない。命令を待つことには慣れている」
そう言いながらジェシーは窓越しの夕日に視線を向ける。二つの太陽がお互いに濃度の違う夕日を空に投げ、それが家の屋根の上で溶け合って全く同じ濃度に代わる茜色だけで染められた見事なグラデーションは圧巻だ。
「美しいな」
ジェシーの口元からこぼれた言葉に感応して、ガストゥも空を見た。遠くに巻き上げられた砂埃が茜色の空をわずかに曇らせて、それがフィルターのように茜色を霞ませている……それもまた美しい。
「ああ、美しい」
「ネズミが現れる前も、現れた後も……夕日だけは変わらずに美しい」
ジェシーはガストゥにそっと体を寄せ、重さすら感じないほどわずかに肩先を擦り付ける。ガストゥはそんな彼女の肩に手を回し、重みとぬくもりを引き寄せてささやいた。
「地球の夕日も美しいんだ。俺は太陽が人を守るとか、等しく愛を注ぐとかっていうのは信じちゃいないし大嫌いだが、いつだって夕日を見上げる瞬間だけは、自分が太陽を嫌いじゃないって思い知らされるよ」
「太陽が好きなのか?」
「ああ、好きだ。だから、地球の太陽を君に見せてやりたい」
「ああ、見せてほしいな、地球の太陽を」
ためらいがちに伸ばされたジェシーの手は、まるで探るような静かな動きでガストゥの手を捕らえて握った。
「私は、この星で生まれ、この星で育った。だから、この星を出ていくことに抵抗がある。それでも、君となら……」
その時、表からメディルスの声が聞こえた。
「おおい、そろそろ出発しよう、ガストゥくんを起こしてきておくれ!」
「彼なら、もう起きている!」
怒鳴り返すジェシーの手がするりと指の間をすり抜ける。彼女が言いきれなかった言葉を捕らえようとするようにガストゥは片手を伸ばすが、その指先の動きを遮るように大きな黄虎縞の猫が彼の目の前を横切った。
それが合図だったかのように、猫たちは尻尾を揺らしながら家の外へと向かう。
「ガストゥ、私たちも行こう」
ジェシーに促されて表に出れば、大きなコンテナ式のトラックが止まっている。扉を閉めてしまえば猫たちが表にこぼれ落ちる心配もなく、わずかばかりの振動さえ我慢すれば十分なドライブが楽しめることだろう。
トラックは馬力が出るように改造されているらしく、砂漠の上さえも波間を滑るようにやすやすと走る。その大きな車輪が踏み固めたばかりの轍をたどって……ガストゥたちが砦に戻ったのはまだ夜も早い時間であった。
まずはウェスカーがトラックへと駆け寄る。ドアを開けて猫たちを下ろすのは彼に任せておけばよいだろう。
運転席から這い降りたメディルスは、運転の疲れをほぐそうとするように大きく肩を回した。
「やれやれ、若いころはこのくらいのドライブ、なんともなかったんだがなあ」
セダンの助手席から降りながら、ジェシーが小さくほほ笑む。
「何を言う、メディルス、あなたはまだ十分に若いだろう」
「いやいやいや、君も僕の年になればわかるよ。やはり若いころのようには動けなくなるもんだとね」
猫たちを下ろし終えたウェスカーは、二人のところへ駆け寄って聞いた。
「さて、これで砦の守備は万全かな?」
メディルスが胸を張る。
「任せておきたまえ、うちの猫たちはネズミを捕るのが得意なんだ。ネズミの百匹や二百匹、たいしたことはないさ」
「そいつは頼もしい」
「時に、うちの猫たちはどうしている?」
「ああ、トラックを開けたとたん、砦の中に駆け込んでいって……」
岩場の間に、子供たちの歓声が響く。
「ああ、どうやらここには、あれらの眼鏡にかなうような可愛らしい第二世代がいたようだな」
車のキーを外していたガストゥは少し遅れて話の輪に加わったのだが、この言葉を聞いて少しほっとした様子だった。
「猫たちが気に入ったってことは……」
「ああ、きっと自分のかわいいペットを守るために戦ってくれるだろうさ」
「そうか、ならば良かった」
メディルスも安心したようににっこりとほほ笑む。
「さて、これからどうするんだね、作戦は?」
ウェスカーが一歩を進み出て説明をする。
「まず、生存者を三部隊に分けた。ガストゥ、君は先発部隊だ、サポートにはジェシーをつける。他にも体力のある者、銃の扱えるものを一緒に行かせる。実質、これが本隊だ」
「つまり、責任重大というわけだな」
「そうなるな。君たち先発部隊が全滅したら、あとは年寄りを中心とした第二部隊、子連れや、体の弱いものを擁した第三部隊が出ることになる」
「本隊がつぶれたら、どんどんと突破確率は下がるばかりだということか」
「そうだ。だからこそ、万全の装備を。ここは幸いにマリーが倉庫に使っていたから、銃火器類も少しはある、集落も者たちが逃げるときに持ち出してきた分も合わせれば、十分な装備になるだろう。だからって留守番部隊も丸腰ってわけにはいかないから、あくまでも最低限になってしまうがね」
「装備の足りない分は、猫で補えばいいだろう。こちらはプロキオンをはじめとしたジェシーの猫たちを連れてゆく、それでいいか?」
「ああ、さっき連れてきてくれた猫の数、あれを見れば砦を守るには十分だろう」
メディルスがきょとんとした顔で首をかしげる。
「レグルスはどうした? あれが居れば、並みの猫の三匹分は働くだろう」
その瞬間、ガストゥはプロキオンの低いうなり声を聞いた。
件の黒猫は少し離れたところで呑気に毛づくろいなどしていたのだが、その名前を聞いた途端、わさっと全身の毛を逆立てて触手をむき出し、いかにも不快そうに呻いたのだ。
ガストゥはこれを不信に思った。
「その、レグルスっていうのは?」
ジェシーが顔色一つ変えずに答える。
「うちにいた猫だ。プロキオンより、デネブよりもずっと大きくて、ずっと賢い猫だった」
「その猫は、今どこに?」
「父が死んですぐ、ふらりと姿を消した。あれは変わり者で、ほかの猫たちがあれほど嫌っていた父に懐いている唯一の猫だった。だから、父が居なくなった家などに用はなかったのだろう」
メディルスが納得したように頷く。
「なるほど、確かにあれは変わり者だった。まあ、いなくなったのならば仕方あるまい」
プロキオンは不安をなだめようというのか、顔の皮をすでに戻して、一心不乱に毛づくろいをしている。ザリザリと音が立つほどの舌の動きがガストゥの心の端に小さな引っ掛かりを残した。
「レグルスか……」
「いなくなった猫の話よりも、これからの作戦の詰めをしようじゃないか」
ジェシーはきっぱりと言い切って砦に足を向ける。
「ウェスカー、まずは先発部隊を集めてくれないか、ガストゥを紹介しなくてはならないだろう」
「ああ、わかったよ」
一同が砦の入口へと向かうその中で、砂漠に……一発の銃声が響き渡った。
メディルスが膝を押さえて砂の上に倒れ込む。その指の間からは抑えきれない真っ赤な鮮血がこぼれだし、乾いた砂の上に垂れ落ちては吸い込まれてゆく。




