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進化の終焉を猫は嗤う  作者: アザとー
メディルスのブリーディングハウス
31/48

 ◇◇◇


 その日、何かいつもと違う条件があったとしたら、この星にしては珍しくまとまった雨があったということだろうか。その雨も昼頃にはすっかり上がって、日に照らされてゆっくりと立ち上る蜃気楼が不快な、そんな湿気の多い日のことであった。

 メディルスは庭先の多肉芝の上にデッキチェアを置いてうだるような湿気を楽しんでいたが、これは彼が特別変わり者だというわけではなく、雨の少ないこの星ならではの雨上がりの楽しみ方なのである。

 隣の庭先を見れば同じようにデッキチェアを置いて、若い父親が半裸を晒しながら寝そべっている。その足元を彼の小さな息子が赤い三輪車でよたよたと走り回っている光景は、いかにも幸せの象徴であるかのように見えた。

 メディルスは湿った空気を満足そうに吸い込んで大きく寝返りを打つ。開けっ放しにした窓の向こうから、つけっぱなしのテレビが鳴らす明るい音楽が聞こえる。どこも欠けることのない平和な午後……。

 その時、表からバイクの止まる音とメディルスを呼ぶ声が聞こえた。

「メディルスさん、郵便です」

「やれやれ、よいしょっと」

 メディルスがデッキチェアから身を引きはがすと、背の低い生垣越しに赤いミニバイクがみえた。その前には白い封筒をひらひらと振る若い男が立っている。

 メディルスは、その男の顔に見覚えがあった。

「おお、エディウスくん! そうか、就職したんだっけか」

 それは近所の顔なじみの子供だった。いや、すでに郵便局員の制服をパリッと着こなした彼を子供扱いするのも失礼な話ではあるが。

 メディルスは彼に向かって気安く片手をあげる。

「今行くから、待っておくれ」

「ゆっくりでいいですよ、足元に気を付けて」

 彼の白い歯が笑顔の中で光ったその時、テレビがけたたましい警告音を鳴らした。

「な、なんだ?」

 平和は一瞬で凍り付き、そこにテレビから流れる緊急放送の音だけが響く。

『屋外に出ている人は一刻も早く屋内へと避難を。まずは自分の身の安全を確保してください……』

 何かはわからない。だが、緊急的に回避するべき危険が、この平和な光景のどこかに潜んでいる。

「竜巻……か?」

 メディルスは空を見上げ、遠くを見やった。青く晴れ上がった空は地面から立ち上る湿気の向こうに揺らいで明るく、危険の気配など何もない。

 緊急速報を確かめようと振り向いたメディルスの背後で、短い悲鳴が起こった。

「うわっ!」

 何事かと振り向けば、郵便配達夫が足元に巻き付いたネズミを振り払おうともがいている。

「ネズミ一匹で、大げさだなあ」

 メディルスは笑いながら彼の方へ足を向けた。もちろん、ちっぽけな触手生物を引きはがすのを手伝ってやるつもりだったのである。

 しかし、家の中から飛び出してきた大きな黄虎縞の猫がこれを許さなかった。まるで黄色い風であるかのような速さでメディルスの足元に駆け寄り、この行く手に立ちはだかったのだ。

「デネブ、あとで遊んでやるから、ちょっと今はどいておくれ」

 柔らかい毛皮を押して猫をどけようとしたメディルスは、猫の肩越しに恐ろしい光景を見た。

「助けて、メディルスさん、助けて!」

 こちらに手をさしのベル青年の体は、すでに桃色の触手に覆い尽くされてピンクの塊のようになっている。ネズミは彼が踏みつけているマンホールに開いた小さな穴から次々と這い登ってくるようで、その数はさらに増えてゆく。

 ついに、這い上ったネズミが、触手を大きく広げて彼の顔を覆った。それと同時に甲高い悲鳴が上がり、青年が大きく身を震わせる。

「あああ! ああ! あああああ!」

 しかし体中をネズミの触手でがんじがらめにされていては、そのもがきさえもが無意味だ。彼の悲鳴はすぐに止み、ネズミがずるりと手放した顔面はすでに……

「ひいっ!」

 彼の顔面はすでに白骨と化し、どろどろに溶けた汚い肉を滴らせながら痙攣している。

「ぱぱあっ!」

 隣の家の庭先で幼い悲鳴が上がり、その声にメディルスははじかれたように首を動かした。件の子供はすでに三輪車を下りて父親にしがみついており、その足元には桃色のネズミが這い寄ろうとしている。

「デネブ、お隣さんを助けるんだ!」

 メディルスが叫んだのは、パニックを起こしたらしい父親が小さな息子の体を抱え込んで立ち尽くしていたからだ。

 しかし猫はこの言葉を「ふん」と鼻先だけで笑い飛ばし、動こうとはしなかった。

「デネブ、命令だ、あの親子を助けてやれ!」

 叫んだメディルスの体を、猫は爪の先で軽く引き倒して前足一本で芝の上に押さえつけた。

「デネブ、いったい何を!」

 哀れに叫んでもがくメディルスを見下ろして、猫は勝ち誇ったように「にゃお」と鳴く。軽く開いた口の間から、きれいに並ぶ尖った歯がちらりと見せつけられた。

 この瞬間、メディルスは自分が猫に比べていかに脆弱であるかを理解した。

「デネブ、頼むよ、お隣さんは、お前たちのためにミルクを分けてくれたりしただろう?」

 この懇願がお気に召したのか、デネブは家に向かって鳴き声を聞かせた。それを合図に無数の猫たちが家の中から飛び出し、生垣を飛び越えて隣の庭へなだれ込む。

 ネズミたちはすでに二十匹ほど、親子を取り囲むように迫っていたのだが、猫たちの闖入に驚いて動きを止めた。

 猫たちの方は、気の早い一匹はすでに顔をべろりと剥いてネズミどもを捕食しようと身構えている。もう一匹は慎重に、抱き合っている親子に近寄ってその匂いを嗅ぎまわった。

 何事を話し合っているのだろうか、猫たちがニャアニャア、ニャゴニャゴと鳴き交わす。その間にも気の早いネズミの一匹が触手だらけの体を跳ね上げて、小さな子供の太ももに飛びつこうとしたが、これは爪を出した猫の前足に叩き落されて地面の上に汚らしくつぶれた。

「何をしているんだ、早くその親子を家に……」

 本当は強い言葉で猫を叱り飛ばしたいところだが、ここでは自分は猫たちよりも格段に弱い存在である。メディルスはぐっと言葉を飲む。

 その目の前で、猫たちは恐ろしい行動に出た。

「にゃあ」

 いちばん最初に動いたのは少し虎模様の濃い一匹で、これは小さな子供の服をそっと咥えて小柄な体を父親から取り上げた。

「いったい何を……」

 次に動いたのはくすんだ白い毛並みの猫で、これは戸惑う父親をネズミの群れに向けて突き飛ばす。

「あ……あ……」

 よろけた父親はネズミたちが身を寄せ合う真っただ中へ、顔から倒れ込むように沈んだ。

 あとはわずかな悲鳴が聞こえたばかり……父親の体はわずかな痙攣の後に完全に動かなくなり、溶かされた肉が膿色の液体となって芝生の上に流れた。

「なんてことを! おまえたち、なんてことを!」

 メディルスの叫びにも猫たちが動じることはない。彼を押さえつけているデネブでさえ、興味なさそうに「ふふん」と鼻を鳴らしただけだ。

 他の猫たちは父親から取り上げたばかりの子供に体を擦り付け、これの顔を舐めまわし、幼児がお気に入りの人形をなで回すかのようにこれをもてあそんでいる。

 その光景を見せつけられているメディルスは、自分の体温さえ恐怖に奪われて背筋が定まらない、そんな気分に陥っていた。

(私たちは間違っていた。私たちが猫を飼っているんじゃない、猫が私たちを飼っていたんだ……)

 テレビはいまだにけたたましい警戒音を鳴らし、早口のアナウンサーが何かをがなり立てている。その声さえも立ち上る蜃気楼の向こうに揺らぐ幻であるかのように……遠い。

 この日を境にネスニア星の各地ではネズミによる襲撃が始まり、人口の約半数があっという間に死滅した。


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