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その時だ、バックミラーの端に何か桃色のうねうねとした物体が映りこんだのは。
目ざとくそれに気づいたガストゥは、バックミラーを凝視する。そこには一本の消火栓が映り込んでいて、その影に潜んでいた触手生物が今まさに、はい出して来ようとしているところだった。
「ぷっ、プロキオン!」
振り向けば猫はすでに背中を大きく丸めあげてシートに四本の足を踏ん張っており、背中の毛を全て逆立ててうなっている。
ガストゥが窓を開けてやると、その生き物はまるで黒い風の化身であったかのようにいくらかの残像を残して飛び出し、一目散に消火栓の足元へと駆け寄った。
ガストゥの方は用心のために窓を閉め、キーを抜いて車から出る。
「ジェシー!」
彼女の背後数メートルの距離に桃色の生物が這っていることに気づいて、ガストゥは一足飛びに歩道を横切った。
そのまま、靴底で触手生物をしたたかに踏みつけてつぶす。振り向けば、顔の皮をすっかりひん剥いたプロキオンが、消火栓の影にいたネズミを長い触手で搦め取っているところだった。
「ジェシー、こっちへ!」
驚いて振り向いた彼女の体を抱え込み、見通しのいい歩道の真ん中へと引きずり出す。
「くそっ! やっぱりネズミだらけじゃないか!」
マンホールのふたに開いた穴から、隣の家の生垣から、さらには少し離れた車の下から、無数のネズミがはい出してくる。どれも新種ではなく短い触手を握り固めたような小さな体であることだけが救いだが、それだってこんなに数がいては確定された絶望を慰める些細な言い訳程度のものだ。
「ジェシー、なんとかして車に戻ろう。プロキオンにも、そう伝えるんだ」
「それでは猫が借りられない。私はメディルスの家の呼び鈴を押さなくてはならないんだ」
「そのメディルスってのも死んでる! 常識的に考えろ、これだけのネズミの中、どうやってたった一人が生き残って、しかも今日まで生きていられるっていうんだ!」
「たとえそうだとしても、ここで車に戻ってしまっては何も始まらない」
「呼び鈴を押せば、何か始まるっていうのか!」
「あるいは」
「ちっ!」
ガストゥはズボンの尻ポケットから、電子銃を取り出す。
彼はデクスト号から持ち出したこれを、『最後の切り札』としてずっと隠し持っていた。若しも切り札を出すべき大勝負があるとしたら、ここしかない。
「残電子量は十分だが、それだって無限じゃない。それに、俺は射撃が得意じゃないからな、ここからの距離を考えれば車に戻る方が簡単だと思うが、それでも?」
「行く。援護してくれ」
「オーケイ、仕方ない」
ガストゥはジェシーを背後に突き飛ばし、彼女の背中を守るように電子銃を構えた。
「走れ、ジェシー!」
その声を合図に、彼女のたおやかな脚が大きく一歩を飛んだ。そのままの勢いで、芝の上を飛ぶように走る。
背後で電子銃が打ち出される雷鳴に似た音、それにプロキオンの鳴き声……それを遠く感じながら、ジェシーはひたすらに走った。足元は踏みつぶした多肉芝の汁で滑るが、それさえも踏みつぶすようにつま先ばかりに意識をやって、ただ、ひたすらに。
ポーチに飛び込むと、ドアの横に呼び鈴のボタンが見えた。行きもつかずにそれを押し込む。
「メディルス、メディルス! 助けてくれ!」
家の中から聞こえるのは寝ぼけたようなチャイムと、眠たげな男の声。
「おや、その声はジェシーかい?」
「そうだ、私だ、助けてくれ!」
「はいはい、いま開けるからね」
「早く、早くしてくれ! プロキオンと……ガストゥが!」
待ちきれずにドアを叩くジェシーに、またもやのんびりとした声が返された。
「おいおい、そんなに叩かなくても聞こえるよ~」
「お願いだ、メディルス、本当に……早くしてくれ」
いまだ背後から聞こえる電子銃と猫の声、ジェシーの膝は大きく震え、いまにも崩れ落ちそうだ。
「はいはい、よっと」
やっと開いたドアの中からは、ぷっくりと太った人の好さそうな壮年の男性が顔を出した。彼はジェシーの肩越しに庭に視線をやって、少し薄くなった頭頂をくるりとなでる。
「や、や、これはいかん。デネブ!」
彼の声に応えて、あたりに咆哮が響き渡った。
――にゃ~お
あたりの空気をさえ怖気させる声量は、確かに咆哮。しかし、それは紛れもない猫の声。
さらに沸き上がる、無数の猫が鳴き交わすニャグニャグした囁き声。
「デネブ、客人を家の中へ」
もう一声の咆哮とともに、プロキオンより二回りは大きいだろうかという黄虎縞の猫がドアから飛び出した。その猫はジェシーを突き飛ばすようにして走り抜け、あっという間にガストゥを背中にかばいこむ。
木虎縞の尻尾を追うように、家の中からは数え切れないほどの猫たちが飛び出してきて、これがめいめいネズミの群れに躍り込んだ。
「ガストゥ!」
悲鳴のように呼ばれて彼がポーチへ駆け寄れば、待ち構えたジェシーがその腕の中へと飛びつく。
「生存を確認。本当に……良かった」
触手を振るって孤軍奮闘していたプロキオンの方は、突然助っ人に入った猫たちがよほど気に入らないらしく、肉球の下にかじりかけの獲物を挟み込んで顔面の触手を逆立てる。
「フシャー!」
明らかな敵意が触手の間から漏れるが、木虎縞はそれさえ聞こえなかったかのように呑気に鳴いた。
「にゃあ」
それを合図に猫たちはぞろっと顔の皮を裏返し、むき出しになった触手をネズミの群れへと突っ込んだ。
哀れに悲鳴を上げて逃げ惑う小さな触手たちと、それを拾い上げては次々と腹におさめてゆく大きな触手と……恐ろしい光景だというのにどこかコミカルで予定調和な、例の猫のアニメ映画のひとこまを見ているような現実との乖離。ガストゥは急に脱力した膝を支えきれずに、ポーチの階段の隅に座り込んだ。
太った男が慌てたようにその隣にしゃがみ込む。
「大丈夫かね、君」
「ああ、なんとか」
「こんな所より、家の中に入り給え。うちのソファはふかふかで、とても座り心地がいいぞぅ」
陽気な声と肉付きのいい太い腕が、ひどく親切な仕草でガストゥを引き立たせる。
「でも、プロキオンが……」
ガストゥが顔をあげると、ネズミはほとんどがどこぞ狭い隙間に逃げ込んでしまったらしく、猫たちが前足で押さえた獲物を上手に食いちぎっては飲み込む、ごくありきたりの食餌風景がそこにはあった。
「なあに、腹がいっぱいになったら、ほかの猫たちと一緒に戻ってくるだろう。それよりも、さあ、お茶でもいれてあげようじゃないか」
ガストゥの手を引くメディルスに向かって、ジェシーが言う。
「それより、熱いシャワーと一本の剃刀を。それが彼の望みだ」
「そうなの? いやあ、君は運がいいねえ、うちのボイラーは業務用だから、シャワーはうんと熱いのが浴びれるんだよ」
ガストゥは彼に手を引かれるようにして家の中へと足を踏み入れる。ジェシーの方は家の勝手がわかっているようで、玄関から入ってすぐ隣のキッチンに勝手に入り込んでしまった。
「メディルス、私はソーダが欲しい。もらっても?」
「ああ、いいよ~、冷蔵庫の、いつもの棚にあるはずだ」
冷蔵庫の開く音と、不服の声と。
「なんだ、メロディ・ソーダじゃないか。私はカレストのソーダの方が好きなんだ」
「知ってるけど、こんな状況でしょ、お店が開いてなくってさあ」
「ううむ、仕方ない」
気安く遠慮のないやり取りは、まるで父娘のようだ。
「そうだ、ジェシー、ビスケット食べるかい? そっちの、え~っと……?」
目配せされて、ガストゥは慌てて片手を差し出す。
「ガストゥ=メリアドだ」
「ああ、そう、僕はメディルスだ。よろしくね」
返された握手はふんわりと優しく握るようなもので、ガストゥはこの男は悪人ではないのだろうと判じた。
「君は、ジェシーのボーイフレンドかい?」
「いや、そんな、ええと……」
戸惑うガストゥに代わって、ソーダの瓶を手にしたジェシーが答える。
「先ほど、愛の告白をされた仲だ」
メディルスの握手が、いくぶん固く締まる。
「へえ、つまり彼氏?」
ガストゥが慌てて首を振る。
「いや、いやいや! まだ返事ももらえていない、哀れな片思い男だ!」
ぱっと握手が放される。
「あっ、そうなの」
彼はにこにこと笑って、ガストゥに背中を見せた。
「まあいいや、ついておいで、バスルームに案内しよう」
「いや、俺たちはあんたにお願い事があってきた、その用事を済ませるのが先じゃないか」
ジェシーがぐびりとソーダを呷る。
「それは、君が身を清めている間に私の方から話しておこう。とりあえずバスルームへ行ってくるといい」
「いや、でも……」
煮え切らぬ態度に焦れたか、メディルスはガストゥの背後に回ってその背中を押す。
「はいは~い、大丈夫、話はジェシーから聞くので、君はこっちね」
リビングから押し出されて、階段を上がる。




