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◇◇◇
生い茂った植物の向こうにはすでに太陽の端っこが顔を出しているのだろう。闇の気配は薄れ、あたりは薄墨で描いた風景画のような景色に変わっている。
こうしてみれば道の両脇に生える植物は全てが多肉植物で、クッションのように膨れた葉や、逆に葉の一枚もないとげだらけの幹が地面からまっすぐに突き立っている様子や、ずるずるとほかの植物に巻き付いて這いあがった蔓など、地球では見たこともない面妖な光景を作り出している。
朝の冷えた空気は大気中のわずかな水分を霧に変え、植物たちはそれを吸い込むがために大きく呼吸をしている巨人の群れのようにも見えた。
助手席に座っていたジェシーは長い話を終えようと、深いため息をついている。
「その気になれば、私は銃を拾い上げてネズミを撃ち殺すこともできた。銃はいくぶん離れているとはいえ、ほんの一足ほど飛べば手の届く位置にあったのだから」
ガストゥは無言でハンドルを道に沿わせている。ジェシーのため息はさらに深くなる。
「侵入してきたネズミは全部で三匹、それが父の死体を天井に運び上げて吊るすまでの一部始終を、私は黙って見ていた」
後部座席に丸まった猫は、人間の言葉になど興味がないかのように目を閉じて尻尾を揺らしている。しかしその耳だけは、ガストゥの挙動のすべてを拾おうとしているみたいにぴくぴくと震えて。
ジェシーは急に首を横に向けて、ガストゥの横顔をじいっと見つめた。
「私は生物学の道を志す者にあるまじき失態をここで犯した。おそらく、人を捕食するネズミの実態を目の当たりにしたのは私が初めてだろう。そしてあろうことか、同種の性質を持つネズミが三体、つまりは十分に繁殖の可能性があることを知りながら、私は父の死体という餌を置いたまま地下室の扉を閉めてしまった」
彼女は返事を待っている。今まで誰にも話したことのない本心をガストゥだけに聞かせて、さばきを待っているのに違いない。
だから、ガストゥの答えは慎重なものであった。
「俺は生物には詳しくないんだが、たったそれだけのことが一個星レベルでの大繁殖にはつながらないだろう?」
「ああ、もちろん。だが警鐘を鳴らすことはできたはずだ」
「警鐘ねえ、それが本当に世間の役に立つのかい」
「少なくとも最低限の予防策はとられただろう。駆除剤が置かれ、繁殖場所を限定し、爆発的な繁殖を忌避することはできたはずだ。ガストゥ、地球の生物の多くが、なぜ滅んだか知っているか?」
「さあ?」
「繁殖地域に入り込んできた『天敵』が一気に数を増やすからだ。もしも天敵の増加が緩やかであるならば何らかの対抗手段を持つ個体が突然変異的に現れ、種族全体の全滅を防ぐ、そういうふうに自然の防衛機構というものは出来上がっている」
「なるほど、つまりはネズミが増えるスピードをコントロールできれば、こうはならなかったってことか」
「もちろん、生物の……しかも防疫を専門に学んでいた私には、人類にとって脅威となる可能性がある個体の存在をなにがしかの機関に報告し、これに対する策を促す義務があった。しかし、私は……」
ジェシーが言葉をためらうから、ガストゥは答えを促す。
「つまり、父親が死んだ現場を明らかにするべきだったと、そういうことだろう」
「そうだ」
「しかし、君はそれを隠した……いや、違うな、もっと複雑な心の動きがあって、『隠してしまった』んじゃないのか?」
「なぜわかる?」
「勘だよ、勘」
「ふむ、勘か。それも私には理解不能な精神機構だ」
彼女は視線を前に戻して、ガストゥの視線を避けようとするかのようにうつむいた。
「複雑な心の動きなら、確かにあった。あの時の私は、目の前で父が死んだというのにひとかけらの悲しみすら感じない自分自身の気持ちが理解できなかったんだ」
「そうか」
「母が死んだときに、肉親の死は悲しいものだということは理解した。それは世間で広く言われている常識に反するところもなく、合理であった。しかし父が天井にぶら下げられた無様な姿を見たときの私は『いい気味だ』と、反射的に思ったのだ」
「虐待していた相手がその報いを受けたんだ。『いい気味だ』ぐらい思うだろうさ」
「その場限りなら、それはぎりぎり理解の範疇におさめられたものだろう。何しろ父が吊るされたのはちょうど滑車の付近で、そこに足首を粘液で固められてさかさまに吊るされる姿は、父がいつも私にしていた折檻を思わせる姿なのだから」
「その場限りの感情ではないと」
「そうだ。一度として父が死んだことを悲しいと思ったことがない。肉親だという条件や、虐待はあったものの衣食住を与えてくれた恩義などを加味しても、悲しいとは思えなかった」
「じゃあ、どう思ったんだ?」
「自分に暴力を振るう者がいなくなったという安堵の気持ち、それのみだ」
「ジェシー」
ガストゥの声は力強く、そして優しい。
「それは君に固有の感情だ、間違っているわけじゃない」
「間違っているだろう。常識的に親の死は悲しいものだと定義されている」
「そうやって常識と照らし合わせるから、間違いかどうかを判じなくてはならなくなる。君は父親が居なくなったことによって自分が暴力から解放されたのだと安堵した、これは『事実』だろう?」
「ああ、事実だ」
「じゃあ、それでいい」
「いいのか?」
「ああ、いい。君は何も間違っちゃいない」
地下室で彼女に投げかけられた問いの答えがたった今、ここで見つかったのだ。ガストゥはそれを伝えなくてはならないと思った。
「ジェシー、君は、悲しいとはどんな感情かと聞いたな。どう行動すれば悲しいに対して正解なのかと。この質問には……正解などないんだ」
「正解がない?」
「ああ、正解など無い。もっと言えば、悲しいなんて感情はこの世にないんだ」
「そんなことはないだろう、君は死んだ友人に涙を捧げていた。自分をなだめるために暴れもした。あれが『悲しい』の正しい姿だろう」
「それは君の目から見て『悲しい』に見えたというだけだろう。俺はあの時、悲しいなんて単一で定型的なことではなく、もっと複雑なことを考えていた」
「ほう、どんなことを考えていたんだ?」
「例えば、デニスはだらしない男だったと、少し腹も立てていた。ほかにはあいつ俺よりモテる男だったなちくしょう、とか、それでもやはり一緒に旅した相棒がいないのは寂しいとか、ともかくいろいろなことだ。そんな複雑な感情の総称が『悲しい』。ね、だから悲しいなんて感情は、実在はしていても存在などしないのさ」
「哲学だな。だが、理解した。私も母が亡くなった時、いろいろなことを即座に判断した。そうして導き出された答えが『悲しい』だったんだな」
「そう、だから君は間違っちゃあいない。『悲しい』だけじゃなくて、すべての感情はそうした個人個人の判断の複合によって生まれるものだ。だから君が父親の死を悲しくないと判断したなら、それはそれでいいんだ」
「じゃあ、なぜ常識は『親族の死は悲しいものだ』と謳う?」
「そりゃあ、人は悲しい気分の時には明るい色の洋服なんか着ないからだろう? 親の葬式には暗い色の服を着ろよっていう、戒めだ」
そのあとで、笑いながら付け加える。
「これはジョークだ」
助手席から聞こえたごくごく自然な笑い声に驚いて、ガストゥはブレーキを踏む。しかし慌てて横を向いた彼の目に映ったのはいつも通りの無表情……
「ひどいじゃないか、ジョークは言わないって約束なのに」
「え、ああ……ごめん」
「あまりにも急だったから、思わず笑ってしまったじゃないか」
「笑った? やっぱり笑ったのか、あ~!」
「何を悔しがっている」
「君が笑う顔をまだ見たことがないからな、見てみたかったんだよ」
「それならば心配ない。君のジョークのせいで笑ったという、あれこそジョークだ」
「愛想笑いってことか?」
「君に愛想を振る必要がない。ただ、君の声を聞いたときに、温かかったり嬉しかったり、逆に泣きたいような気分も混ざった何かがこみあげてきて、私は笑いたいのだと判断した。だから笑った」
ジェシーはサイドのガラスに視線をくれていて、それはガストゥの視線を避けようとしているようにも見える。
「君といると、私は笑いたい気持ちになることが多いようだ。だからきっと、これから何度も笑顔を見せることになるだろう」
「ジェシー……」
ガストゥは彼女を振り向かせようと片手を差し出すが、それよりも先に彼女の髪が大きく揺れて、表情のない顔がこちらを向いた。
「そんなことより、早く出発しよう。メディルスのブリーディング=ハウスはもうすぐそこだ」
「あ、ああ」
アクセルを踏めば、また一つ「ふふっ」っと軽やかな息の音が助手席から聞こえる。
「熱いシャワーと、剃刀をご所望だったな。メディルスの家についたらすぐに頼んでやろう。その山賊みたいな風体を何とかしなければな」
「それはジョークかい?」
「いいや、個人的なものではあるが率直な感想だ。もとはとてもハンサムなのに、その無精ひげのせいで台無しだ」
ガストゥはこうした直球の褒め言葉に慣れていない。にらみつけるようなまなざしでフロントグラスの外ばかりを見て無言だ。
ジェシーはそんな彼の様子を不安に思ったのか声を潜めて聞く。
「何か気に食わなかったか?」
「いや、そういう訳じゃない、そういう訳じゃないんだ」
ガストゥの耳がかすかに赤く色づいたのは、羞恥のせいじゃない。もっと複雑な、気持ちの複合体ともいうべき、とある感情……その感情の正体を思うだけで体の底にぼんやりと不確かな熱がともる。
そんな自分に戸惑いながら、ガストゥはアクセルをさらに強く踏み込んだ。エンジンが吠える。
路面をひっかくようにして車はスピードを上げた。