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進化の終焉を猫は嗤う  作者: アザとー
メディルスのブリーディングハウス
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 しかしジェシーは特に臆すこともなく、軽く首を傾げた。

「心配することはない。森に棲むようなネズミは原種に近い、ごく大人しい性質のものばかりだ。恐ろしい目にあうことはない」

「そういう心配をしているんじゃなくて……」

「私には理解できないような、難しい感情か?」

 この言葉に、ガストゥはぐっと言葉を飲んだ。

 ここで本能的な闇に対する恐怖を説明するのは簡単だが、相手がほのかにでも好意を寄せている女性だと思えば強がって見せたくもなる、それが男の性というものだ。

「別に難しい感情なんかないさ」

「そうか、怖がっているのかと……」

「怖いわけがないだろ、ただ、路面が急に変わったから戸惑っただけだ」

 ガストゥは深い闇色の中へと車を進めた。

「これはまた、ずいぶんと暗いな」

 路面は平らにならされて砂と同じ黄色の鉱物で焼き固められている。その両脇からは生い茂った植物が道にはい出そうとしているかのように枝葉を張り出して、その影が高く空まで隠して暗い。ガストゥはヘッドライトをハイビームに切り替えた。

 猫が「ニャグ」と一声をあげる。

「おい、ジェシー、なんて言ってるんだ?」

 しかし、彼女は答えない。猫はさらに「ニャグゥ」と笑い声を立て、尻尾をゆらりと揺らした。

 これがガストゥの勘に障る。

「おい、ジェシー、構わないから通訳してくれ」

 いらだった声に、ジェシーが口を開いた。

「人間は臆病だと言っている」

「どこが臆病だっていうんだ」

「明かりがないと暗い所へさえいけない、臆病な生き物だと言っている」

「怖いから明かりをつけたわけじゃない、人間の目は暗いところを見通せるほど便利にできちゃいないんだって説明してやれ」

 ジェシーに通訳を頼むまでもなかったようで、プロキオンは即座にフハンと鼻を鳴らした。

「くそ、馬鹿にしやがって!」

「それは違うぞ、ガストゥ、人間は猫から見たら脆弱で臆病な生き物に見えると、これはどうしようもない事実なんだ」

 悔しいが反論の余地はない。

 この星では人間はあまりに弱く、ちっぽけなネズミにとってさえエサでしかない、食物連鎖の底辺生物だ。猫のように戦うための爪を持つ肉食の獣から見れば、それはどれほど哀れに映ることだろうか。

「だから猫は、われわれ人間を守ってくれるのだ」

「はあ、理解したよ、子猫を守るママンの気持ちってことか」

「まさにその通りだ。プロキオンは、母であるかのように私を愛育してくれた」

「本当の母親は?」

「母は、早くに死んだ。私が十四歳の時だった」

 ガストゥは黙って道に沿うようにハンドルを切る。ジェシーの口調はとりとめなくて、重い。

「ガストゥ、父が死んだときの話をしてもいいか?」

「母親のじゃなくてか?」

「母は体が丈夫ではなく、その死は当然の結果だった。私は母の死をそれなりに悲しいとも思ったし、ごくありきたりの葬式をした。改まって話すような特別なことなど何もない」

「父親の死は、そうじゃないってことか」

「私にとって父の死は、悲しいものではなかった。むしろ……」

 少しうつむく姿をミラーの中に見て、ガストゥは声を和らげる。

「ジェシー、ここには俺しかいない。君の話を聞いて君を責めるものなどいない。安心して話してごらん」

「プロキオンがいる」

「プロキオンが君の母親のようなものだとしたら、叱ることはあっても君の敵になるようなことはないだろう。そして俺も、決して君の敵になろうとは思わない。だから、話してしまえばいい」

 覚悟を決めたように、ジェシーはミラー越しにガストゥの目をまっすぐに見据えた。

「私が処女を失ったのは十四歳の時……相手は父だった」

 それが、彼女の長い身の上話の始まりだった。


 ◇◇◇


 彼女が最初の性的暴行を受けたのは母親の死から一週間ほどがたったころだった。

 父親は破瓜の痛みに動くことさえできずにいる彼女を冷たく見下ろして言い捨てた。

「こんな時でも泣きもしないんだな、お前は」

 母親の死後、悲しむそぶりもない彼女を父親が快く思っていなかったことは、彼女自身も心得ていた。そんな怒りと悲しみをぶつける相手が自分しかいなかったのだろうと、彼女は父親を許した。

 だがそれが間違いだったのだ。

 父親は――彼はそれまでも世間のいうような良い父親ではなく、むしろ自分の娘に対して無関心であったのだが、それがこの日を境に『人形扱い』に変わった。

 性的な暴行だけではなく、無言のまま突き飛ばされる殴られる……それは自分のストレスを解消するために綿を詰めた人形をいたぶるような非情な行為であった。

 そんな暴行まみれの日常が終わりを告げたのは半年前、最初のネズミの被害者が出たというニュースを人々が忘れかけたころだった。

 その日も父親は不機嫌で、寝酒が過ぎたのかしたたかに酔っていた。ジェシーはすでにベッドに入って眠っていたのだが、そんなことはもちろんお構いなしで、彼女の部屋のドアをけたたましく蹴り鳴らす。

「ジェシー、ジェシー! すぐに地下室に来い!」

 もう何回も同じパターンで暴行を受けているのだから知っている。地下室の天井には小さな滑車が取り付けてあって、父親はそこにジェシーを吊るして鞭で打つのだ。

 知ってはいても、ジェシーは父親に逆らう方法というものを知らなかった。素直に返事をする。

「わかりました、いま行きます」

 ドアの外から舌打ちと、呪いに似た低いうめき声が聞こえた。

「従順なことだ。本当に人形みたいだな、お前は!」

 顔色も変えずにその声を聞き流して、ジェシーは急いで着替えを済ませた。

 父は鞭での折檻の前に、乱暴に衣服を裂くことを好む。時には刃物で身のすれすれをなぞりながら切り裂くような行為もされるため、どちらにしても着ているものが無事であったためしがないのだ。

 それでもわずかな抵抗だろうか、ジェシーはわざと引き裂きにくい純毛のセーターを選んで着た。

 地下室に降りれば、父親はすでに滑車に細いロープを通し終えていた。

「見ろよジェシー、このロープの細さを、これは肉に食い込んで、さぞかし痛いだろうなあ」

 実際に縛られるなら、太いロープの方がよほど痛くない。細いロープは無駄に肉に食い込み、責め苦を倍増させるものなのだ。

 それでも、ジェシーは黙って両手を組んで差し出した。父親はこれを鼻先で笑う。

「手首で吊るしてほしいってか。だがな、俺はそんなお願いを聞いてやるほど優しくはないんだ」

 父親はジェシーの左の足首にロープを巻き付けた。あざとくも片足だけで釣り上げて、より大きな苦痛を与えようという算段だ。

「ほら、どうだ、怖いだろう、泣いてもいい、暴れてもいいんだぞ」

 それさえもジェシーが逆らわないことを知っての挑発だ。

「まあ、逆らうわけないか。逆らったらズドン! ……あの世行きだ」

 こうした行為の時、父親はいつも脅しのための猟銃を傍らに置いている。この時もそれは父親の足元に無造作に置かれ、くろがね色の銃身をジェシーに見せつけていたのだが、幸いにも今まで一度もこれが使われたことはなかった。

 ここまでの虐待を平然とやってのける男なのだ、おそらくは自分の娘に何のためらいもなく銃弾を撃ちこむことができるであろう。だからジェシーは一度として父親に逆ったことなどない。

 それでもこの日、酔いが過ぎたのか、父親は滑車から垂らしたロープの端を嬲るように軽く引っ張りながらこんなことを言いだした。

「ジェシー、母さんが死んだとき、お前は悲しくなかった、そうだろう?」

「そんなことはない。とても悲しい出来事だった」

「ならばなぜ泣かない!」

 突然にロープが強く引かれ、ジェシーは片足を引っ張り上げられて宙に逆さづりになった。さすがの彼女も小さく苦痛の呻きをあげる。

 父親は地面に沈み込むように強くロープを引いたまま、かすかに笑っている。

「悲しくなんかなかったんだろう? 母さんが死んでも」

「そんなことは……」

「悲しくなかったって言えよ! 私は悲しいことも、苦しいことも知らないただのお人形さんですってな! いい加減認めろ!」

 この時、ジェシーは生まれて初めて父親に逆らった。

「言わない……」

 外れそうになる股関節の痛みと、頭目指して下がってきた血流の不快さに悶えながらも、ジェシーの口調は強くて明朗だった。

「母が死んだとき、私は自分の中の世界が一つ消えたような気分になるほど悲しかった」

「ならばなぜ泣かない! 悲しいなら、泣くもんだろう!」

「それは私の悲しみを表す行為ではないと判断したからだ」

「合理というやつか」

「そうだ」

「俺はお前の、そういうところが嫌いなんだ!」

 父親は片手を放すためにロープを手繰って手の側面で巻き取った。自由になった方の手を猟銃に伸ばす。

「ぶっ殺……」

 しかし彼はその言葉の続きを言うこともなく、悲鳴を上げた。地下室の隅、突き固めた砂の間から目にもとまらぬ速さで飛び出してきた何者かに顔を塞がれたからだ。

 ロープが緩み、ジェシーは一気に地面に叩きつけられる。頭が低い位置にあったために脳震盪を起こすような衝撃がなかったことが幸いであった。一気に体を引き起こし、数歩を後ろに飛びのく。

 彼女の目の前でもがく父親は、顔を覆うように張り付いた桃色の触手動物を引きはがそうとしている最中だった。

「ジェシー、ジェシー、命令だ、こいつを何とかしろ!」

 触手の間から叫び声が上がるが、ジェシーは動こうとはしない。

 甲高い鼠鳴きと液体のほとばしる音が幾分聞こえた後で、彼女の父親は声もなく大地に倒れ込み、それきり二度と……動かなくなった。


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