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ジェシーは水のボトルをガストゥに差し出しながら、相変わらず表情すらかえない。
「畑の中に『直立するネズミ』がいたのを覚えているか?」
「ああ、あれは……」
長い二本の触手を足のように地面に向かって張り、堂々と立つ姿は……
「人間に少し似ていたな」
「まさにその通りだ。そして、人類の進化というのは二足歩行を始め、脳を高い位置に持ってきたことにより起きたものだと言われている。だから私は、あのパターンでの進化を危険な兆候だと判断した」
「ネズミが人間みたいに知能を持つとでもいうのかい」
「いずれは。しかし脳の発達には複雑な要素が必要であり、数世代ごときの進化では為されないだろう……地球ならば」
「この星の生物を地球の常識で考えるな……ってやつだな」
「そうだ。もっともこうした進化の兆候があるというだけで、それが実際にどのような形で、いつ起こるのかは不明……それこそ明日かも知れないし、数年後かも知れない。それよりもさしあたっての問題は、本体を空中にあげたことにより砂への接地面積が少なくなり、砂漠での移動が可能になったということだ」
「砂漠での移動……つまり、ここへ来るということか」
「可能性としては」
ガストゥは思考に夢中になりすぎて、自分が水のボトルをつぶしそうなほどに固く手を握っていることにようやく気付いた。キャップをひねり捨て、中の液体で唇を湿らせる。
「じゃあ、後発部隊はどうすればいい、どこかほかにネズミの来ないようなところはあるのか?」
「いや、残念だがガストゥ、ネズミに対する砦としてはここ以上の場所はないだろう。食料の備蓄もたくさんある、何よりも砂漠であるのだから、見張りでも立てれば外敵の襲来を察知するにも早い」
「しかし、ネズミは砂漠を越えるように進化するんだろ!」
「落ち着け、ガストゥ、私たちが見た直立型の個体は、あれだけいるネズミの中のたった一匹だった、つまりは突然変異種であり、その性質の固定化にはまだしばらくの時間が必要だ。明日すぐにでもすべてのネズミが砂漠を越えられるようになるわけではない」
ウェスカーが横から口を挟む。
「理解した。砂漠を越えてくる可能性のある個体の数は少ない、だがゼロではないということだな」
「そうだ、だから最低限の対抗手段は必要になるだろう」
「それならばジェシー、君の猫を貸してはもらえないだろうか。あいつらはネズミの気配に敏感だ、それにネズミと戦うこともできる」
「そうしたいのはやまやまだが、予測を超えた事態に備えて突入部隊にもいくらかの猫を同行させる必要がある。それに、猫たちのリーダーであるプロキオンは、私のそばを離れようとはしないだろう」
「つまり、猫の数が足りていないと」
「そうだ。だから私は突入作戦の前に、『ブリーダー』の元を訪ねて十分な数の猫を借り受けてくることを提案する」
「ブリーダー……」
ガストゥは、自分がこの星へ来た本来の理由を、やっと思い出した。
「俺の今回の仕事は、そいつに会って猫をもらい受けてくることだった」
「ならば君の仕事の都合にもちょうどいいだろう」
「いや、この状況で仕事とか言っている場合では……」
「どんな状況だろうと仕事は仕事だろう」
ジェシーがまっすぐな瞳で自分を見上げるから、ガストゥは戸惑って首の後ろを掻く。
「なんて説明したらいいのかな……もちろん、仕事として報酬が支払われる以上はそれに見合うだけの労働を提供するべきだ、それが大人というものだ。だが、たったの二万ゲリスぽっちで命まで売り飛ばすのは少しばかり割が合わないだろ」
「ああ、理解した。」
ジェシーは深く頷く。
「ならばブリーダーのところへは私が行こう。ここからは車で半日ほどの距離だ、その間に突入の準備をしてくれればいい」
「まて、一人で行くのか?」
「いや、プロキオンも連れて行くが?」
「そうじゃない、手伝いのための男手はいらないのか?」
「手伝い? 何の手伝いが必要だというんだ」
ジェシーがあまりにさらりと言い返すものだから、ガストゥは困って言葉を飲んだ。
そういえば自分が宇宙港で助けられた時も、彼女はただ一人で猫を従えて現れたではないか。人智と人力の及ばぬ生き物を相手の戦いにおいては、彼女の方が男なんかよりもずっと有能であるに違いない。
それを裏付けるように、ジェシーはぽつりとつぶやいた。
「男など、邪魔になるばかりだ」
ガストゥはこれに返す言葉を考えあぐねて無言だったのだが、言葉なき彼の気持ちをすくいあげるように、ウェスカーが声をあげた。
「ジェシー、命令だ」
「『命令』か」
「そうだ、命令だ」
「わかった、聞こう」
「連れてくる猫は一匹や二匹ではないはずだ、ガストゥを手伝いに連れて行くように」
「しかし……」
ジェシーは大きな瞳をくるりと動かしてまっすぐにガストゥを見る。その瞳は深くまで澄み切って、何の感情も映し出してはいない様に見えた。
「私は、君の労働に対して支払うべき報酬を持ち合わせてはいない」
先ほどの軽はずみな自分を呪いながら、ガストゥは言いつくろいの言葉を探す。
「違うんだ、ジェシー、君から報酬をもらおうとは思わない」
「ならば、君についてきてもらう理由がない」
「理由、そうか、理由か……」
ガストゥはすっかり困り切って、自分の顎先を少しひねった。昨夜は風呂に入りそこない、おまけに今日は砂塵舞うこの星を駆けずりまわったせいだろうか、うっすらと伸びただらしないひげの間に入り込んだ砂がじゃりじゃりと指先に不快だ。
「ひげを剃りたい。あとは、熱いシャワーを……」
「確かにブリーダーの家ならば、それはあるかもしれない。だが、そんなものが報酬として見合うものなのか?」
「会社から給料をもらおうっていうんじゃない、俺自身が欲するものを、俺自身が得るために行動する、これは行動理由としては十分だと思うが?」
「なるほど、合理だ」
「それに、君を……」
「守りたい」と言いかけて、ガストゥはあきらめた。
ジェシーにはプロキオンという《ナイト》がついている。むしろ守られることになるだろうはガストゥの方だろう。
「それでは君の気が済まないというなら、ビアの一杯もごちそうしてくれ。ただし、地球についてから、こじゃれたバーでな」
「そんなことでいいのか」
「ああ、そんなことでいい。今の俺には会社が出してくれる二万ゲリスなんかより、たった一杯のビアの方がよっぽど価値があるんだ」
「わかった。では、出発の準備をしよう」
ジェシーがするりと離れると、ウェスカーが深いため息をついた。
「いやあ、ジェシーが『命令』に逆らうの、初めて見ましたよ」
「あれで『逆らった』のうちに入るのかい?」
「ええ、何しろ相手は『あの』ジェシーですから、命令だといえば口答えひとつしなかったんですよ」
しばらくじっとガストゥの顔を見つめて、ウェスカーはふっと頬を緩めた。
「あなたはきっと、『違う』んでしょうね」
「何が違うっていうんだ」
「良くも悪くも、この星で育った人間とは違う雰囲気がある。だからジェシーも、今まで接した誰にも見せなかった心というものを、あなたにだけは見せようとしているんでしょうね」
その時、二人の会話を遮るようにジェシーの声が洞窟に響いた。
「ガストゥ、出発するぞ」
「ええっ、もう?」
あわただしく立ち去ろうとするガストゥに向かって、ウェスカーはひどく真剣な評じょゆを見せた。
「よろしくお願いします」
「あ? ああ、任せておけ」
あまり深い考えもなしに答えて、ガストゥは洞窟を出たのだった。