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だが、ガストゥの言葉は止まらない。
「じゃあ、どういう問題なんだ! いくら感情がないからって、親のない子を道端に放り出していいという法はない、そのくらいは理解できるだろう!」
「誰もあの子を道端に放り出したりはしていない!」
「比喩表現だ!」
ジェシーの声が急に凪いだ。まるで湖水の表面のように、静かに。
「ガストゥ」
「なんだよ」
「私たちに感情はない。だが、意志はあると言ったな」
「ああ、それは聞いた」
「これは、あの子の意志だ。ここにとどまると決めたのは、彼自身だ」
ガストゥが目を遣ると、正面から少年のグレーの瞳がまっすぐにこちらを見つめていた。ずっしりと重みのあるその色は沼のように静かで、そして底知れぬ深みをたたえていた。
「君、本当なのかい?」
ガストゥが問えば、少年は首を大きく縦に動かす。
「僕の家はここだから」
やはり感情のない、抑揚乏しい声。しかし、それが逆に少年の強い意志を表しているようで、ガストゥは口をつぐむ。
ジェシーはそんな彼の肩を押した。
「わかっただろう、帰ろう」
車に乗り込んでも、ガストゥの脳裏からは少年のグレーの瞳が消えなかった。それはひどく複雑な色味で、表情の乏しい顔なんかよりもずっと雄弁だった。
「……本当は、寂しいんじゃないかな」
ガストゥがつぶやく言葉はサイドシートまでは届かず、ジェシーは無言で窓の外を見つめているだけだった。
リアシートでは大きな黒猫が体を丸めて眠っている。その猫もやはり無言で、車内には長い長いため息に似た走行音だけが静かに流れていた。
バックミラーの中に、みるみる遠ざかってゆく大樹の影を見ながら、ガストゥは思った。
(そうだ、この星では地球の考え方で生き物を見てはいけない)
犬も、猫も、ネズミも、そして、人間も。
サイドシートをちらりと見遣るが、窓の外を見ているジェシーの表情まではうかがい知れない。それでもガストゥは、小柄で華奢なその肩がひどく寂しがっているように見えて、ため息をついた。
何か話題をと思考をめぐらせるが、女が喜びそうな話題など思いつきもしない。
(こんな時、デニスがいてくれれば……)
地球で仲間たちと飲みに行けば、デニスは一番モテる男だった。もちろん見てくれだけならばデニスよりもいい男などいくらでもいるというのに、女たちはこぞってデニスの隣に座りたがった。
長い航行の経験が何度もあるデニスは、その大半の時間を娯楽室で過ごす。アニメだけではなくて普通の映画も相当な本数を視聴しており、女性がストーリーの一部を言うだけでタイトルを言い当てるという特技を心得ている。そのうえ生物の専門家であり、知的な会話をも得意としている。人の機微を読むのにも長けており、話すばかりではなく聞き役もできるのだから話好きの女性が集まるのも当然だ。
女たちと芸能ゴシップでキャイキャイ盛り上がっていたかと思えば、しばらくすると妙にまじめな顔で女たちに生物の神秘など語っていたり、時には女の身の上話に耳を傾けて涙ぐんでいたり、会話は途切れることなく笑いは絶えず……そんなデニスならば、今この時にもジェシーを笑わせるための話題を思いつくだろうに。
デニスを失った悲しみがひしひしと込み上げてきて、ガストゥは強くアクセルを踏んだ。ガウンと大きな空音を立ててスピードを増した運転にも、ジェシーの表情が変わることはなかった。ただ、猫だけが乱暴な運転を不満に思ったらしく、尻尾でパタパタとシートを叩く。
このまま、きっと家まで無言が続くに違いない。ガストゥは憂鬱な気持ちで左手に広がる麦畑にちらりと視線をやった。それは一瞬のことであったのだし、前方延々続く道は単調で、ただ麦が揺れるほかには動くものの気配さえないことを確認してのことだったはずだ。
ところが、車内にジェシーの声が響いた。
「ブレーキ!」
慌てて踏んだブレーキが利くよりも早く、ドンと鈍い音と大きな振動。
車は右の畑からふらりと出てきた男の体を大きくはね飛ばして止まった。
「くそっ! やっちまった!」
ガストゥは車を下りようとシートベルトを外すが、ジェシーはそんな彼の腕をつかんで強い声で言った。
「ダメだ」
「まだ死んだわけじゃないだろ、早く手当てをしてやらなくちゃ!」
「開けてはダメだ」
「どうしてだ! この星では人をはねたら捨てておけっていう決まりでもあるのか!」
「普通のけが人なら助けなくてはならない。だが、プロキオンを見ろ」
振り向けば件の黒猫は尻尾をぴんと立てた尻を高く上げ、頭は低く構えてうなり声をあげている。ジェシーの表情も心なしかこわばっている。
「みろ、あれを」
彼女が指さすフロントガラスの向こうには、絵の具をこねりだして塗り伸ばしたような麦の青。その間に伸びる道は二つの太陽に強く照らされて黄色く、その真ん中に倒れた男は白いシャツを土色に染めながら両手を無意味に振り回し、両足を不規則にばたつかせながら悶えている。
そのシャツの裾のあたりを、桃色の小さな触手が這いまわっていた。
「ネズミか! 助けてやらないと!」
ガストゥは叫ぶが、ジェシーは静かに首を振る。
「手遅れだ」
「猫がいるじゃないか、宇宙港で俺を助けてくれたときみたいに、こいつで!」
「手遅れだと言っているだろう。いくらプロキオンでも、死体になった者までは助けられない」
「死体?」
道の真ん中に転がった男の体はいまだにもぞもぞと動いているが、何かがおかしい。よくよく見れば肘は曲がるはずのない外側へと折れており、膝から下の足の動きも風に吹かれてたなびくボロ布のように規則性も生命感もないのだ。
さらにその首がグルンと勢いよくこちらを向いた。その顔面を見たガストゥは、この男が完全に死んでいるのだと理解した。
顔の下半分、ちょうど鼻のあたりから下には肉などひとつも残っておらず、骨がむき出しになっている。歯牙が行儀よく顎の骨の上に並んでいる様子が凄惨にも見えた。
眼窩はすでに目玉を失い、桃色の触手を蠢かせた小さな生物がすっぽりと収まっている。
「うわあ!」
ガストゥは悲鳴を上げたが、ジェシーは表情すらかえなかった。
「すべてのネズミを追い払っても、彼はすでに生命を奪われているのだから生き返りはしない。死体を回収して墓でも作ってやるつもりか」
「そうしてやるのが人としての情けってもんじゃないのか? 今はたとえ死体だとしても、あれはこの集落の、君の仲間だろう」
「だが、今は死体だ。もはや生命活動を停止したもののために生きているものが生命的なリスクを冒す、それが地球のやり方なのか?」
「地球だとか地球じゃないとか関係ないだろ! 死んだからといって人間がいきなり土くれになるわけじゃない、それが生きていたころはどんな喜びがあったか、そして苦しみがあったか、残された家族や友人の悲しみや、人間であれば理解しうる限りの感情がどっと吹き上がって、何かをしなくちゃならないという気分に突き動かされるもんだろ」
「ガストゥ、私はそうした感情を理解できない。論理だてて説明してくれないか」
「論理立ててって……」
「先ほどの説明を聞く限り、それが他者に対する共感であることは理解できた。しかし、その共感は相手との親愛度と無関係であると、ここが私にはどうしても理解できない。あそこに転がっている男は、私にとっては挨拶も交わす同郷の知己であり、なるほど、その挨拶も二度と交わされることはないのだと思えば悲しいと思える。しかし、あれは君にとっては顔さえ知らぬ異郷の一住人に過ぎず、共感するべき思い出もないだろうに」
「それはそうだが……」
ガストゥを茶化すように、猫が大きな声で鳴いた。それですっかり冷静を取り戻した彼は、自分が何を怒っていたのか、また、何を悲しんでいたのかをじっくり考える羽目になった。
「死は悲しい……のか?」
ジェシーが首を振る。
「わからない。少なくとも私は、父が死んだときも悲しくはなかった。今もそうだ、あそこに死んでいる男の悲しみを共感するよりも、君や自分の安全を確保することを最優先にするべきだと理解している、ただそれだけだ」
猫は尻尾をこねりと揺らし、満足げに一声鳴く。しかしジェシーは俯いて、ぽつりと言葉を漏らした。
「理解はしている……」
あとはただ無言が続くばかり。車内にはただ、猫が小さくうなる声だけが響く。