5
ネズミの生態以前にジェシーという女についても、ガストゥはあまりにも知らないことが多いのだから、彼女を知ることが先だと思えたのである。
だからガストゥは注意深く彼女の表情を見守りながら聞いた。
「で、店まではどうやって行くんだい。まさかこれだけの広い畑の中を、てくてくと歩いていくわけにもいかないだろう?」
彼女の表情には、やはり変化などなくて。
「車がある。型は古いが、乗り心地は悪くない」
「車か、そりゃあいい、俺は航船だけじゃなく、車の免許も持っているんだ」
「ならば運転は任せよう。私が運転をすると、助手席に乗った人間に危険が及ぶらしいのでな」
そのあとで彼女は首をかしげて付け加えた。
「ジョークだ」
きっと彼女なりにガストゥと円滑なコミュニケーションをとりたいと模索してのことなのだろう。そう思えばいじましいことである。
ガストゥが笑顔を浮かべたのは、そのいじましさが好ましいと思ったからだ。彼はにこやかな声で彼女をほめてやった。
「初心者にしては上出来なジョークじゃないか」
「そうだろう。だからガストゥも気にせず、ジョークくらい言えばいい」
「いや、俺はやめておくよ。ジョークは得意じゃないし、それに、君を悩ませたくない」
「それは私に対する気遣いか?」
「俺は気遣いできるほど人間ができているわけじゃない。本当にジョークが得意じゃないっていうだけさ」
ジェシーはしばらく黙っていた。表情のない顔を軽く伏せて、それは、何かを考え込んでいるようにも見えた。
やがて彼女は顔をあげて、はっきりと言った。
「ならば、私も二度とジョークは言わないと誓おう。君に敬意を表して」
「そりゃどうも。で、車はどこだい?」
彼女はガストゥを家の裏手へ引っ張って行き、ガレージのシャッターを押し上げた。そこにはきょうび地球ではお目にかかれないような旧型の、ガソリンエンジン式のセダンがあった。
「2970年型ポロロッコ社製か! 地球じゃ博物館入りするような代物じゃないか!」
「地球のことは知らないが、ここらでも一番古い車であることは確かだ」
「そうだろうとも! そもそもガソリンエンジンなんて、石油資源の枯渇した地球じゃ使えない」
「この星は人間が移住して日が浅い。むしろ石油資源は潤沢であり、どこもガソリンで走る車を使っている」
ガストゥは興奮を抑えきれず、ジェシーがキーを開くのももどかしく運転席に転がり込む。
いったい、この車のオーナーはどれほどの愛情と情熱と、そして金銭をつぎ込んだのだろうか。シートは特注らしき濃いエビ茶色の皮で張られていて、それがいかにも使い込まれた皮革特有の美しい艶をたたえて光っている。ハンドルにも揃いの色のなめし皮が美しい縫製を見せつけるように巻かれていて、これは特に手の脂で黒光りし始めているのがたまらない味わいだ。
ジェシーはそんな芸術的なシートの上に無造作に身を投げると、猫の名を呼んだ。
「プロキオン」
いつの間に家から抜け出したのか、その黒猫はドアの隙間からするりと入り込んでリアシートにちょいと飛び乗った。そのまま皮シートの表面で軽く爪をとぐ。
「ああ、ああ!」
悲鳴に近い声をあげるガストゥに、ジェシーが不安そうな声を出す。
「君も、車に猫を乗せてはいけない主義か?」
「いや、これは君の車だし、構わないが……シートが……」
「猫は爪をとぐ生き物だ」
「それはそうなんだが……」
「父も、猫が車に乗るのをひどく嫌がった。猫だけじゃない、この車には生き物を乗せなかった」
「生物学の先生なのに?」
「別に生物学を学ぶには生物好きでなければいけないという決まりはない」
「まあ、それはそうなんだが」
ガストゥが言葉に詰まったのは、思い浮かんだジェシーの父親という人物像に危ういものを感じたからだ。
車のシートはマメに手入れがされているのか割れひとつなく、リアシートの猫の爪痕もそんなに古いものではない。特にジェシーがいま座っているサイドシートはビニールを外したばかりであるかのように染みひとつなく、およそ人に座りこなされた気配というものがないのだ。
黙ったままでいるガストゥの態度に不安を感じたのか、ジェシーが小声でつぶやく。
「仕方ないんだ、どこでネズミと遭遇するかわからないのだから、猫は必要だ」
ガストゥははじかれたように返事を口にする。
「ああ、ああ! もちろんわかっているさ、猫を車に乗せることには何の異存もない。ただ、シートで爪をとがない様に言い聞かせてやってくれないか」
猫は気まぐれでワガママな生き物だというのが通説だ。いや、犬だって簡単な命令なら理解できても、たとえば庭にいくつも穴を掘ってしまうなんて『イタズラ』は、人間の言葉で言い聞かせたくらいで辞めさせられるものではない。そんなことはガストゥだって良く心得ているのだ。
だからこれは、ついうっかり口にしてしまった『ジョーク』なのだ。
それでもジェシーはひどくまじめに頷いた。
「わかった、きちんと言って聞かせよう」
それからリアシートに乗った猫に向かって、ぼそぼそと小声で何かを囁き始める。猫はそれに応えて「にゃーお」とあくび交じりの返事をすると、爪をおさめてシートの上で丸くなった。
ガストゥはこれにすっかり感心してしまって、感嘆のため息を混ぜた声でつぶやく。
「すごいな、この星の猫は」
ジェシーは相変わらずの無表情であったが、ここまで彼女の表情を細かく観察していたガストゥには、わずかに上がった鼻先が得意げであるように見えた。
「当たり前だ、この星で一番賢いのは猫だからな」
言いながら彼女は運転席を指さしてガストゥを促す。だから彼はドアを開けて革用ワックスの匂いの中に身を沈めた。
スプリングは少し固め。空気ばかりをたっぷりと抱え込んだ発泡ウレタンとは比べ物になどならない硬派な座り心地だ。
キーを差し込んで回せば、イグニッションは軽くせき込むようにゴフゴフゴフと幾度か鳴った。エンジンの稼働とともに車体は大きく震え、いかにも走りたがっているみたいな細かな振動を続けてガストゥを促す。
「実際、猫が乗っていようが、博物館入りするようなオールドカーだろうが、車は車だ。走りさえ良ければ俺は文句はないさ」
サイドブレーキを外してアクセルを踏めば、その車は機嫌よく滑り出した。
行儀よく茂った麦の青をすっぱりと切り分けたように道はまっすぐに伸びる。未舗装の路面はタイヤに踏まれて土ぼこりをあげるが、それさえも風情というものだ。ガストゥはわざと窓を開けて車窓から吹き込む排ガスを含んだ風の匂いに目を細めた。
「いかにもドライブって感じだな、悪くない」
リアシートにちらりと目を遣れば、ジェシーは吹き込んだ風にかき乱された髪を両手で梳きあげているところだった。大きく脇をあげたその姿勢は、彼女の豊かな胸元をますます強調して艶である。
「うん、悪くない」
ガストゥはフロントグラスの向こうに視線を戻して、軽く口笛を吹き始めた。曲は猫とネズミが追いかけっこをするあのアニメのテーマソングだったが、これは意図あってのことではなくて、単純なメロディが口笛に乗せやすかったからに過ぎない。
しかし図らずも、デニスに対する鎮魂の曲のようだとガストゥは思った。口笛を止めて、助手席に座るジェシーに声をかける。
「デニスの話を聞いてくれるか? なぁに、聞いてくれるだけでいいんだ」
「それは、返事は不要だということか?」
「まあ、そういうことだな。もちろん、相槌の一つでもうってくれればうれしいがね」
「わかった」
彼女が頷くから、ガストゥは静かに語りだした。
「デニスのやつは大人のくせに子供が見るようなアニメが好きでさ、一か月の航行期間中、何回もこのアニメを見ていたよ。それもサイダーとスナック片手にね。そりゃあ太るのも当たり前だよな」
「そうか」
「自分に甘い自堕落な性格で、自室もいつも散らかっていた。いや、地球のオフィスでだって、あいつのデスクの上はいつも散らかっていたんだが、宇宙に出てからはそれが部屋の規模にまで膨らんだって感じでさ、俺は自分の部屋の掃除と一緒に、あいつの部屋まで掃除する羽目になったんだよ」
「それはたいへんだったな」
「でも、悪いやつじゃなかった。他人の気持ちを細かくくみ取って、場を盛り上げるためならばすすんで道化を演じるような人物でさ、あいつといると、誰でもが笑顔になってしまうんだ」
「彼のことが好きだったんだな」
「どうかな、『嫌いじゃなかった』、これだけは確かだけどな」
「そうか、やはり人間というのは複雑だな」
その物言いが、ガストゥの心に小さく爪を立てる。
「君だって人間だろう?」
「ああ、だから他人の心情を『理解すること』はできる。だけど、私には感情がないから……私は父の死を悲しいとは思えなかった。父だけじゃない、母が死んだときも……」
バックミラー越しに見える唇の端が少し震えているのは、あれは感情の発露とは言わないのだろうか……ガストゥはこの女が深い闇を抱えているような気がして、バックミラーにとどめた視線をずらすことができずにいた。
それに気づいたジェシーが、機械的ともいえるほど硬く、感情のない声を出す。
「ちゃんと前を見ろ」
「あ、ああ」
フロントグラスの向こうは青い麦畑と、その間を割って伸びる埃っぽい道、そして二つの太陽。このまぶしい光景が嘘くさいもののように思えて、ガストゥは目を細めたのだった。