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瞬間バイバイ

『文学フリマ短編小説賞応募作品』です。

読んでやってください。


~プロローグ~


 久しぶりに会った親戚の子供が、大きくなっていてビックリした。

 メールが来たので見ていたら、歓声が沸いた。流れ星が見えたらしい。

 予定日は一週間後だった。俺はそのとき、出張で東京に行っていた。俺が病院に駆け付けた時には、娘は産声に疲れたのか、スヤスヤ眠っていた。

 危篤の状態が三日続いていた。その時がいつ来てもおかしくないと、医師は言っていた。家族、親せきみんな集まった。手を取り祈った。しかし、祖母は意外としぶとかった。俺は有休をすべて消化してしまい、仕事に戻らなければいけなくなった。その翌日、祖母は逝った。最期に「ありがとう」と呟いたらしい。家族みんなの耳に届いたその残響は、俺にだけない。

―――いつもそうだ。俺はいつだって、『瞬間』を見逃してきた。

 子供が大人になる瞬間。星が流れる瞬間。命が生まれる瞬間。人が死ぬ瞬間。そんな、キラキラと無数に輝く『瞬間』が、みんなの夜空には星のように輝いているのだろう。でも、俺の夜空は真っ暗だ。輝く『瞬間』など、一つもない。

 若いころはそれでもいいと思っていた。でも、今年で俺も、五十歳。年を重ねた焦りなのか、欲を持ってしまった。俺も、夜空に飾りたい。『瞬間』を飾りたい。このまま、暗い夜空の下で、死にたくない。素敵な『瞬間』を思い出しながら、死にたい。

 俺はもう絶対に、見逃さない。そして、取り戻す。


      ○


 俺は商人を探した。

 時は遡ること四十年。当時十歳の俺は、不思議な商人と出会った。それは、小学期の夏休み。三十度を超える真夏日だったというのに、その商人は黒のスーツを着ていた。「暑そうだなぁ」と当時の俺は思ったが、あの時はまだクールビズという文化もなく、取り立ててそれは異質ではなかった。

「坊や、名前は?」

 突然、名前を聞かれた。

「おじさん、何者? もしかして、探偵?」

 俺は黒スーツのおじさんに興味があった。おじさんは、その身なりこそ普通だったが、雰囲気が謎めいていた。炎天下の中、黒スーツを着ているというのに、汗一つかいていなかった。あの熱気の中、ただ一人だけ、その身に冷気をため込んでいるように思えた。さらに、おじさんはその右手にジェラルミンケースを持っていた。俺は当時、「迷惑探偵おっちょこい」というアニメにはまっていて、そのアニメに出てくる探偵がいつもジェラルミンケースを持っていたので、気をひかれた。

 「迷惑探偵おっちょこい」とは、おっちょこちょいな探偵が、おっちょこちょいで事件に巻き込まれ、おっちょこちょいで事件をややこしくし、おっちょこちょいで謎を深め、おっちょこちょいでヒントを見つけ、おっちょこちょいで奇跡的に事件を解決するという、ギャグ要素を含んだ探偵アニメだった。

 探偵はジェラルミンケースを常に持っていて、その中に「探偵七つ道具」を入れていた。しかし、探偵が事件の捜査のために「七つ道具」を出そうとすると、必ず「七つ道具」以外のへんてこりんな物がジェラルミンケースから出てくる、というのがアニメのお決まりになっていた。「しまった! 入れ間違えた!」と言って頭を抱えるのが、探偵の名台詞となっていて、アニメを見ていた子供たちの間で流行っていた。

 だから俺は、おじさんも探偵なのではないかと思った。あのジェラルミンケースの中から何が出てくるのだろうかと、思いを馳せて、ドキドキした。

「私は、商人だよ」

 おじさんは探偵ではなかった。商人だった。俺は少しがっかりしたが、それでもまだ好奇心が溢れていた。有り余る好奇心。何も怖くなかった。

「商人って、何? 何する人?」

「ものを売ったり買ったりするんだよ」

「へぇー。あ、僕、みくにっていうんだ」

 俺は思い出したように、おじさんの最初の問いかけに答えた。

「みくに君だね。君、このジェラルミンケースの中身が気になるようだね」

 おじさんは右の口角だけを器用に上げて笑った。

「え! どうしてわかったの? やっぱりおじさん、探偵じゃないの?」

 俺は自分の興味の先を見破られて、驚いた。やっぱり探偵じゃないのかと思った。

「ふふふ、君の目線を見ていれば、誰でもわかるよ。人と話をするときは、人の目を見て話したほうがいい。目は言葉以上に意味を含んでいるからね」

「そっかー。ねえねえ、それで、その中には何が入っているの? 見せて。見せてよ!」

 おじさんの話は時々難しくて、理解できないこともあった。そんなときは、生返事をして、好奇心が求めるほうへと話を進めた。今になって思う。おじさんの態度は子供に対するなめた態度ではなく、あくまでも、お客に対する態度だったと。商売をするうえで、商人とお客は対等なのだ。たとえ相手が子供であろうとも。おじさんはそれを守っていた。

「この中には、大事な商品が入っているんだ。君がこの中に入っている商品を品定めしたいと言うのなら、見せてあげてもいいよ。あくまでも、商品だからね。見世物ではないんだ」

「でも、僕お金ないよ」

「大丈夫。私の商品を買うのに、お金は必要ないんだ。それに、商品を見て、いらないと思うのなら、買わなければいい。君には品定めをする権利があるからね」

「うーん。じゃあ、品定めするから、見せて!」

 俺は品定めの意味もよくわかないくせに、商品の提示を要求した。

 おじさんは頷くと、ジェラルミンケースを開けた。

「……おじさん、なにこれ?」

 ジェラルミンケースの中には、へんてこりんなものばかりがあった。

 動かないオタマジャクシ。光り輝く金平糖。虹色の卵。懐中時計。黒い歯車。平たい石。明滅する電球。ほかにも、名前も知らない、見たこともない、へんてこりんなものが所狭しと詰まっていた。

 俺は正直、ガラクタばかりだと思ってがっかりした。

「がっかりするのはまだはやいよ、みくに君」

 俺のがっかりはすぐに見破られた。自分で言うのもなんだが、俺はわかりやすい子供だった。

「本当は、買ってくれた人にしか見せないのだけれど、特別に一つ商品を見せてあげよう」

 そういうと、おじさんは動かないオタマジャクシを取り出して、手のひらに乗せた。

「死んでるの?」

 動かないから、死んでいるのだろうと推測できたけど、信じられなかったからクエスチョンマークを付けた。死特有の残酷な腐敗が感じられなかったし、肌つやが滑らかでキレイだった。かといって、生きているエナジーは全く感じられず、無機物のようでもあった。まるで冷凍保存されているような、そこだけ時が止まっているような、不思議なオタマジャクシだった。

「みくに君、君はカエルの子は何か知っているかい?」

 おじさんは、俺の問いに答えずに質問をしてきた。

「知ってるよ。オタマジャクシでしょ」

 カエルの子はカエルではなく、オタマジャクシ。それは誰もが知る常識だった。

「それは本当かい? カエルは手も足もあるし、緑色だよね。ゲロゲロ鳴くし。でも、オタマジャクシは手も足もないし、色も黒だよ。全然違うよね」

「でも、教科書に書いてあったよ。先生も言ってた」

「教科書に書いてあることが嘘だったら? 先生が嘘をついていたら?」

「え? うん? あれれ?」

 俺は困惑した。当たり前だと思っていたことを、否定されて、混乱した。

「それじゃあ、君はオタマジャクシがカエルになる瞬間を、その目で見たことがあるかい?」

「そんなのないよ」

 おじさんは、コホンと咳をした。

「今からその『瞬間』を見せてあげよう」

 次の瞬間、オタマジャクシが光った。そして、静止していたオタマジャクシは、時の潮流を泳ぐようにクネクネと動き出し、活力が溢れた。さらに、数秒もしないうちに後ろ足が生え、体表が緑色になり、体積が膨張し、気が付けばゲロゲロと鳴いていた。

「すごい! おじさんすごい! 魔法使いだったの!?」

「いや、だから、商人だよ」

 おじさんは、呆れた顔で笑っていた。

 このとき、俺は完全に商人に心を許した。ターニングポイントだったと、今になって思う。

「ほかにはどんな商品があるの? 見せてよ」

「ダメ。ここからは有料だよ」

「えー。お金ないよー」

「だから、必要なのはお金じゃないんだ」

「じゃあ、何を払えば買えるの?」

「商人にもよるんだが、私は『瞬間』と『瞬間』の売買を生業にしているんだ」

「んん?」

「『瞬間』が見たければ、君の『瞬間』を払えばいいんだよ」

「僕の『瞬間』?」

「そう、君の『瞬間』さ」

 当時の俺は、まったく意味を理解できていなかった。

「ちょっといいかい。覗かせてもらうよ」

 おじさんはそう言うと、俺の頭に手を置いた。

「何してるの?」

 おじさんは俺の問いに答えることなく、静かに目をつむっていた。そして、数秒後、目を開けると、今度はメモ帳とペンを取り出し、何かをサラサラと書いた。

「はい。これが君がこれから経験する『瞬間』だよ」

 おじさんが渡してくれたメモ帳には、十個ほどの『瞬間』が書かれていた。

 子供が大人になる瞬間。祖母が死ぬ瞬間。星が流れる瞬間。夢を叶える瞬間、子供が生まれる瞬間など、いくつかの『瞬間』が箇条書きされていた。

「これが、僕の『瞬間』?」

「そうだよ。もし、ほかの商品が欲しければ、君のその『瞬間』と交換だよ。よく考えて、品定めをするといい。売買するということは、得ることでもあり、失うことでもあるからね」

 そう言うとおじさんは、右の口角だけを器用に上げて、にやりと笑った。


       ○


 あの夏休み、俺はおじさんと毎日遊んだ。いろんな『瞬間』を見ては、感嘆した。

「この虹色の卵は、何かが生まれる瞬間を見ることができるんだよ。こっちの懐中時計は、歴史的瞬間を見ることができるし、この黒い歯車は物が作られる瞬間を見られるんだ」

「へぇー。じゃあこの平たい石は?」

「ああ、これは人が転ぶ瞬間を見ることができる商品だよ。どうだい、買ってみないかい?」

「うーん。それなら、流れ星が流れる瞬間で、買う」

 俺は、『流れ星が流れる瞬間』を払い、『平たい石』を買った。

「まいどあり」

「それじゃあ、さっそく見せてよ!」

 おじさんは頷くと、キョロキョロとあたりを見渡した。

「よし、それじゃあ、あそこを歩いているおねいさんにしようか」

 おじさんは、道を歩いていた一人のおねいさんに狙いを定め、平たい石を足元めがけて投げた。

「きゃ!」

 おねいさんは平たい石に躓き、前のめりに転んだ。地面に顔面を強打し、手に持っていたカバンからは小物が飛び出し、腕には赤い擦り傷ができていた。先ほどまでは、若さを振りまき、フェロモンを醸しながらしゃなりしゃなりと歩いていたおねいさん。どこか偉そうで、悠然としていたのに、無様に転んだその姿は滑稽だった。

 おねいさんはすぐに起き上がると、赤面しながら辺りをキョロキョロうかがった。そして、散乱した小物とカバンを回収すると、逃げるように小走りで駆けて行った。

「どうだい、愉快だったろう?」

「うん。人が転ぶ瞬間って、おもしろいね!」

「そうだ、今度はもっと偉い人が転ぶところ、見てみたくないかい?」

「偉い人?」

「そう、例えば、校長先生とか。校長先生が転ぶ瞬間なんて、見たことないだろう」

 俺は想像した。あの偉そうな校長先生が転ぶ瞬間を。偉そうな人が転ぶというのは、おもしろい。単純にそう思った。

「見てみたい!」

 おじさんは右の口角だけ器用に上げて笑うと、平たい石を目の前に投げた。

「おじさん、何してんの?」

 俺は、校長先生がいるところまで行くのかと思ったが、おじさんは目の前に石を投げただけだったので、意味がわからなかった。

「夏休みが終わった後の、登校初日に全校集会があるだろう。その日を楽しみにするといい」

 後日、おじさんの言う通り、夏休み後の全校集会で校長先生は無様に転んだ。全校生徒は大爆笑。あの日以来、校長先生の威厳は粉々に砕けた。その代り、親しみやすさが増し、結果的に校長先生と生徒との仲は良くなった。


       ○


 誰も信じないから、誰にも言わなかった。俺自身、年をとるにつれてあの夏休みの出来事は夢だったのではないかと思うようになっていた。

 でも、俺は確かにいろんな『瞬間』を目撃した。

 織田信長が本能寺の変で討たれる瞬間を見たし、クジラが生まれる瞬間も見た。携帯ゲームが製造される瞬間も見たし、人がアイデアを思いつく瞬間を体験したりもした。

「この電球は、どんな『瞬間』が見れる商品なの?」

「これはちょっと特殊でね、見るのではなく、体験できるんだ」

「体験?」

「そう。アイデアを思いつく瞬間は、外から見えないからね。思いついた瞬間の心の高揚を体験できるんだよ。心で見る、ということさ」

「よし、買います!」

「いいのかい? そんなに簡単に決めて。この『瞬間』は、少し高いよ」

 俺はおじさんに言われて、少し考えた。おじさんにもらったメモ帳の切れ端を改めて見た。そこに書かれている、俺が将来経験する『瞬間』は、だいぶ減っていた。おじさんの商品を買うために、いくつか払ってしまったのだ。

「おじさん、その電球は、どの『瞬間』で買える?」

 俺はメモ帳の切れ端をおじさんに見せた。おじさんは一瞥すると、「うむ」と唸った。

「この中でなら、子供が生まれる瞬間だね。これを払うのなら、売ってあげよう」

 俺は悩んだが、好奇心が勝った。

「じゃあ、買います」

 俺は、『子供が生まれる瞬間』を払い、『明滅する電球』を買った。

「まいどあり」

 おじさんはそう言うと、『明滅する電球』を俺の頭の上に乗せた。

「みくに君、君には特別に、アインシュタインが相対性理論の概念を思いついた瞬間を体験させてあげよう」

 アインシュタインについて、あまりよく知らなかった。頭の良い偉い人、という印象しかなかった。それでも、そんなことはどうでもよくて、あの日の俺は訳も分からずドキドキした。

「はうぅ!」

 あぁ、あの体験を、どうやって表現したらいいのだろうか? 五十年生きてみても、あの体験をうまく表現できる言葉を俺は知らない。

 相対性理論の概念を思いつく前までは、重苦しい暗黒の中をさまよっているみたいだった。その暗闇が、一瞬で晴れたのだ。アドレナリンが脳内に溢れ、世界が一変した。今までいた世界が嘘に思えた。ようやく、正しい世界を見つけることができたと思った。思いついた瞬間、すべてのエネルギーを消費した。それなのに、体は不思議と軽かった。

「おじさん、アイデアを思いつく瞬間って、なんか、すごい!」

「そうかい。それは良かった」

 おじさんは、右の口角だけを器用に上げて笑った。


       ○


「みくに君、君は大変優良な顧客だったよ。ありがとう」

 夏休みが終わるころ、おじさんは街を出ると言った。

「おじさん、ありがとう。楽しかったよ!」

 俺は深々と頭を下げた。

「お礼と言ってはなんだが、さよならの瞬間は、君にあげよう」

「え? どういうこと?」

 俺は頭を上げておじさんに問いかけた。しかし、目の前におじさんはいなかった。

「おじさん、消えちゃった……」

 俺はおじさんが消える瞬間を見逃した。


       ○


 十歳の夏休みが終わった。俺は多くの『瞬間』を得た。その代りに、俺が人生で経験するはずだった輝かしい『瞬間』を失った。

 あの夏は、幻だったのだろうか? 猛暑日の陽炎のように不確かな夏休み。あれは夢だったと言われても、信じただろう。でも、払った『瞬間』は、確かに失われていた。長い年月をかけて、やっぱりあの夏は夢でも幻でもなかったと、俺は実証してしまったのだ。

 子供が大人になる瞬間、子供が生まれる瞬間、祖母が死ぬ瞬間……あの夏に払ったすべての瞬間を、俺は見事に見逃した。


       ○


 俺は、俺の輝かしい『瞬間』を取り戻すために商人を探すことにした。当時、商人は見た目三十歳くらいのおじさんだった。だとしたら、今頃は八十歳前後のおじいさんということになる。果たして生きているのだろうか? 存在しているかどうかも怪しい。

 それでも、俺は探すことにした。子供の頃には、わからなかったんだ。俺が人生で経験するはずだった『瞬間』の価値を、理解できていなかった。


       ○


 商人は意外とすぐに見つかった。それは、出張先の大阪。道頓堀の近くにあるお好み焼き屋さんに商人はいた。

 びっくりした。

 はっ、ふっ、ほぉ、と変な呼吸が漏れて、息が止まりそうになった。

 突然目の前に探していた商人が現れたことにも驚いたし、商人の姿が四十年前と全く変わっていなかったことにも驚いた。そして、同時に懐かしく思った。後悔はしているけれど、あの夏は、楽しかった。それは、まぎれもない事実だった。

「おじさん……」

 おじさんという懐かしい響きが、完全に俺の心を童心に戻した。訳も分からず落涙した。

「おや? どこかで見た顔だね」

 おじさんは日本酒を飲みながら、こちらを振り向いた。

「僕です。みくにです。覚えていますか」

「あぁ! 君か。ずいぶん年をとったね。もう、君の方がおじさんじゃないか」

 おじさんは右の口角だけを器用に上げて笑った。笑い方も四十年前と全く変わらない。

「ちょうどいい。話し相手が欲しかったところだ」

 おじさんはそう言うと、テーブルの向かいの席をすすめてくれた。俺はおじさんにすすめられるがまま、席に着いた。

「元気かい?」

「はい。それなりに」

「それなりか。いいことだ」

 おじさんは新たにお好み焼きと日本酒を追加注文した。

「日本酒で良かったかな?」

「はい。好物です」

「それは良かった」

 おじさんは俺にお猪口を渡すと、日本酒を注いでくれた。熱燗だった。

「おじさん……そう言えば、僕はおじさんの名前すら知らなかった。あの夏休み、あんなに遊んだのに」

「ふふ、呼び方なんて何だっていいさ。おじさんのままでいい。それに、君はあの夏遊んでいたつもりでも、私にとっては商売だったからね。名乗る気もなかったよ」

 商売、という言葉にドキッとした。目的を思い出した。やはりおじさんは、俺のことを子供としてではなく、客として扱っていたのだ。

「おじさん、実は、おじさんのことずっと探していたんです」

「そのようだね」

 おじさんは熱燗を口に含み、うんうん頷いた。どうやらおじさんには、すべてお見通しのようだった。

「返して欲しいんです。『瞬間』を」

「ふふふ。バカなことを言うね。返して欲しいだなんて。君は『瞬間』を売買したんだ。私に奪われたわけじゃない。もう、君の『瞬間』は私のものだ。返すも何もないよ」

 少し強めの口調でおじさんは苦言を呈した。俺は一瞬たじろいだが、ここで引くわけにはいかない。

「それなら、もう一度、売ってください。僕がおじさんに払った『瞬間』を、買い戻します」

 おじさんは手酌で酒を注いだ。水滴が二、三垂れてから止まった。どうやら空になったらしい。

「君は客だろう? 商人のノウハウも、酸いも甘いも、歴史も、何も知らないくせに、大そうなことを言うじゃないか」

 初めて怒気を感じた。体が震えた。

「君みたいな愚か者が市場をかき乱すから! ……失礼。私としたことが私情を挟んでしまった」

 おじさんは一度深呼吸をしてから、日本酒を新たに頼んだ。

「少しいい酒を頼んだから、それで今の無礼を許してくれ」

 俺は無言でうなずき、酒を注いでもらった。おじさんが頼んだ日本酒は、『真中~まなか~』と云う名だった。

「すべての旨みは重心に集まる。という考えのもと、造られた酒なんだ」

 俺はいったん言葉を切り、『真中~まなか~』を含んだ。滑らかな舌触り。初味は甘く、後味には微かな辛みが気泡のように浮かんだ。鼻腔を通り抜けるかほりに、幼い記憶を連れて行かれた。味覚を刺激するだけに収まらず、大切な記憶の扉をこじ開ける力を持った、力強い酒だ。そう思った。

「おいしいです」

「だろう? よかった。気に入ってもらえて」

 おじさんは右の口角だけを器用に上げて笑った。そして、少し和らいだ表情で続けた。

「君も言いたいことがあるだろうが、少し私の話を聞いてくれないか。君の『瞬間』にもかかわる話だから」

 俺は再び『真中~まなか~』を口に含んだ。気のせいだろうか? 先ほどとは味が違う気がした。


       ○


「まず結論から言おう。君の『瞬間』はもう、私の手元にないんだ」

 俺は少しがっかりしたが、絶望はしなかった。この展開は薄々予想していたからだ。おじさんは商人で、『瞬間』の売買を行っている。当然、俺が払った『瞬間』も商品に成りうることは、容易に想像できた。おそらく、他の誰かに買われてしまったのだろう。

「がっかりするのはまだはやいよ、みくに君」

 おじさんはいつかの夏休みと同じセリフでほほ笑んだ。俺のがっかりはまたもや簡単に見破られた。大人になっても、わかりやすい性格は変わっていなかったらしい。

「本当はね、商品の対価として払ってもらった『瞬間』を、新たな商品として売ることはしない主義だったんだ」

「でも、市場の変遷が、私の望まぬほうへと進んでしまったんだ」

「『瞬間』の価値が暴落したんだよ」

「科学が進歩したからね。今では、二十四時間カメラが回っていて、『瞬間』を見逃さない体制が整っている。四十年前より『瞬間』の母数が増えたんだ」

「そして、増えた『瞬間』を新参者の商人が乱売した。市場が荒らされたんだ」

「仕方なく、『瞬間』と『瞬間』の売買だけではなく、『瞬間』以外のものとの売買も考えなければいけなくなった。例えば『お金』や『時間』とね」

「悩んだ末、『瞬間』の価値が下がりきる前に、売る決断をしたよ。いわゆる損切というやつだね。私は商人だから、売買なくして生活はできなかった。『瞬間』を保持するだけでは、ただのコレクター。そんな体たらくは、商人としての死を意味する。私はまだ、死にたくなかった」

「価値が下がりきる前に『瞬間』を売り、その対価として私は『時間』や『お金』を受け取った。おかげで、若さを保つことができているし、こうして旨い酒を飲むこともできる。これはこれで、価値あることだと理解しているよ」

「でもね、やっぱり私にとっては『瞬間』のほうが価値あることだったんだ」

「『瞬間』を売ってしまったこと、後悔しているんだよ」

 おじさんは、酒をぐいっと飲み干し、強めにテーブルを叩いた。

「だから、取り返しに行く。ありがとう、君のおかげで今、その決心がついたよ」


       ○


 かくして、俺とおじさんは、大富豪の屋敷にやってきた。

「で、でかいですね」

 俺は三百六十度を見渡して、月並みの感想を漏らした。目の前には、絵に描いたような大豪邸がある。門は金でできていて、天を摩するほどに高い。夜だというのに、月明かりを反射して眩しい。灯篭いらずだ。右手側には月を映す湖がある。ブラックスワンが優雅に泳いでいる。ここからでは対岸が見えないほど広い。左手側には森林が広がっている。時折、不気味な遠吠えが聞こえた。何かが潜んでいるようだ。後側には、テニスコート、陸上競技場、競輪場、サーキット、ロッククライミング用の岸壁などなど、開けた土地に様々な施設が整備されていた。

 このすべてが、大富豪の所有する敷地であるという。東京ドーム百個分は優に超えているだろう。大富豪の敷地に入ってから、この大豪邸に到達するまでに、車で一時間かかった。さすがは大富豪だ。

「すべての富はここに集まる。旨みが重心に集まるのと同じようにね」

 おじさんはそう言って苦笑していた。

「商人の世界では、超有名人。通称は『大富豪』。そのまんまだけど、これ以上に適した言葉もないからね。彼は『富』そのものさ」

 おじさんはお手上げといった表情で大富豪の説明をしてくれた。かなわない相手だということが、おじさんの表情から感じ取れた。緊張で、ゴクリと喉が鳴った。

「みくに君、そこまで緊張する必要はないよ。私も過去に二、三度会ったことがあるが、物の怪の類ではない。節度ある人物だったよ。彼には富が溢れているからね、余裕があるんだ」 

 おじさんは真面目な顔で続けた。

「ただ、簡単に富を手放す人間でもない。彼は物の価値を知っているからね。一筋縄でいかないのは、確かだろう」

「『瞬間』……返してもらえるでしょうか?」

「ふふ、わからんよ。交渉次第といったところだろう。まぁ、当たって砕けろだよ。行こう」

 黄金の門が開く。我々は静かに大富豪のお屋敷へと足を踏み入れた。


       ○


「やあ、よく来たね。二人とも座りなよ。今お茶を用意しよう」

 俺は自分の目を疑った。目の前にいたのは、見た目十歳くらいの子供だった。おじさんの話では、彼が大富豪で間違いないらしい。

「私は今年で、百五十歳だよ。これでもね」

 大富豪は俺の心を見透かしたように、ウインクした。俺はドキッとして、思わず背筋を伸ばした。

「私はすべての富を所有しているからね。富とは、お金や宝石だけではない。時間も、存在も、知識も、出会いも、記憶も、瞬間も、すべてが富であり、そのすべてを私はもっている」

 数秒もしないうちに、メイドらしき人物がお茶を持ってきた。紅茶だ。芳醇な香りが鼻腔を通り抜ける。

「ただ、富は有限だ。私が富を所有しているということは、他の人間には富が行き渡らないということでもある。それは大変申し訳ないと思う。しかし、『富』とは『豊富である』という意味だから、溢れるほど集めなければ、富じゃないんだよ。富は価値の集合体。一つでは成立しない。つまり、世界中のみんなに富が行き渡れば、それはもう富ではないというパラドックスが生じる。一所にまとまっていなければ、富ではないのだよ」

 大富豪は何が面白いのか、ケラケラ笑った。俺は大富豪の言っている哲学的な言葉の意味を全く理解できなかった。

「よって、私を重心として、すべての富はここに集まる。『集まらざるを得ない』と言ったほうが正しいかな、富が富であるためにね。富には群れる性質があるということさ。そして、君らがここに来たということは、君らとの出会いも私にとっての富であるということ。改めて、よく来たね。歓迎するよ」

 大富豪はそう言うと、紅茶を飲むよう促してくれた。気後れして、自ら紅茶に口をつけられずにいたのだが、今度は大富豪の気遣いを無下にするわけにいかないので、急いで紅茶を口に含んだ。甘くておいしかった。

「単刀直入に、要件を言います」

 口火を切ったのは、おじさんだった。俺はまだ屋敷に入ってから、一言も発していない。それなのにもう、喉がカラカラだ。紅茶の水分がありがたい。

「『瞬間』を、売ってください」

「いいよ。というか、あげるよ。好きなだけ持って行くといい」

 大富豪はあっけらかんとした態度で即答した。

「え? いいんですか?」

「ああ、いいとも。さっきも言ったように、ここには富が集まるんだ。逆に言えば、富ではないものは、ここから去る運命なのだよ。君らが『瞬間』をもらいに来たということは、『瞬間』の富がなくなったということ。むしろ持って行ってもらうと助かるよ」

「はぁ、そういうもんですか」

 拍子抜けとはまさにこのことだろう。一悶着あるかと思ったが、大富豪はあっさり承諾してくれた。

「ただ、君らが求める『瞬間』は、君たち自身で探してもらうよ。この屋敷にはたくさんの『瞬間』があるからね。君たちが求める特定の『瞬間』を探すのは一苦労。私がわざわざ君たちのためにその労力を消費する義理はないよね? だから、君らで探してね」

 大富豪はそう言ってウインクをした。そして、メイドを呼んだ。

「部屋の案内はこのメイドにさせる。きっと、『瞬間』を見つけるのに時間がかかるだろうから、食事と寝室も用意させよう。君らが望む限り、この屋敷に何日でも滞在していいし、屋敷にあるものは好きに使っていい。気に入ったものがあれば持ち帰ってもいい。とにかく好きにしなよ。君らがどうあがいても、すべての富はここに集まるからね。気にすることは何もない」

 大富豪はメイドに合図を送り、「後は任せた」と耳打ちした。それを聞いて、メイドは無言で頷いた。そして、こちらに近づき、深々とお辞儀をした。背筋がピンと伸びていて、きれいなお辞儀だと思った。

「私はメイドのマルンです。お二人が滞在中、お世話させていただきます。なんでもお申し付けください」

「よろしくお願いします」

 俺はマルンさんに頭を下げた。

「それではさっそく、『瞬間』を保管している部屋までご案内致します」

 マルンさんはそう言うと、大富豪の部屋から出た。おじさんもマルンさんの後を追うように部屋を出た。俺はもう一度大富豪にお礼を言ってから部屋を出ようと思い、大富豪を見た。

「礼はいいよ」

 大富豪は俺の心を見透かしていたようで、いたずらな子供の顔でウインクした。

「私は礼を言われるようなことは何一つしていないからね。ほら、はやく行くといい」

 俺は無言で頭を下げて、背を向けた。そして、部屋を出ようとした。そのとき、大富豪が独り言のように呟いた。

「君たちも富の一部だということ、忘れずに」

 俺は振り返らずに、そのまま部屋を出た。

大富豪はきっと、今、笑っている。俺は大富豪の声を聞いて、なぜかそう思った。


       ○


「こちらが、『瞬間』を保管している部屋です」

 マルンさんが案内してくれた部屋に入って、思わず感嘆が漏れた。

「これ全部、『瞬間』ですか?」

「はい。そうです」

 部屋の広さは室内陸上競技場と同じくらいで、四百メートルトラックが丸々入るほど広かった。そして、その広い空間の八割を『瞬間』が埋め尽くしていた。山のように『瞬間』が積みあがっていたのだ。

 俺はこの時初めて、『瞬間』を見た。『瞬間』はガチャガチャのカプセルのような容器に一つ一つ入れられていた。カプセルの中には、映像が見えた。『瞬間』の映像だ。

たまたま近くに転がっていたカプセルを拾い上げ、中を見てみた。そこには、見知らぬ男性が女性にプロポーズをする『瞬間』が映像として映し出されていた。

「それでは、次の部屋を案内致します」

 マルンさんはそそくさと次の場所へ移動しようとした。

「え? ちょ、ちょっと。マルンさん、まだあるの?」

「はい。『瞬間』を保管している部屋は全部で十六部屋あります」

「え! 嘘!」

「嘘ではありません。事実です」

「そ、その十六部屋って、全部この広さ?」

「はい、すべて同じ広さの部屋です」

 大富豪の言う通り、これは時間のかかる作業になると思った。心のどかで、すぐに見つかるだろうと思っていたのだが、その考えは甘かった。下手したら、一年くらいかかるかもしれない。仕事もあるし、家族をほったらかしにするわけにもいかない。でも、『瞬間』を本気で取り戻すならば、一年を費やす覚悟が必要だ。

俺はここにきて、覚悟が足りていなかったことを悟り、悔いた。

「それでは、案内致しますので、付いてきてください」

 マルンさんは一切表情を変えることなく、淡々とした様子で案内を続けた。


      ○


「最後に、寝室をご案内致します」

 『瞬間』を保管している十六の部屋と食堂と風呂場とトイレ、さらには遊技場や図書館を案内され、最後に寝室にやってくるのに、一時間かかった。このお屋敷、とにかく広い。部屋の案内だけで一時間かかるなんて。

「それでは、ひとまずわたくしは失礼いたします。もし、何かございましたら、このベルを鳴らしてくださいませ。すぐに駆けつけます」

 マルンさんはそう言うと、ベルを一つ渡してくれた。

「ありがとうございました」

 俺はマルンさんに礼を言い、寝室へと入った。

 寝室にはキングサイズのベッドに冷蔵庫、鏡台、クローゼット、テレビ、パソコンが置いてあった。俺はひとまず荷物を置き、ベッドの上で横になり、一息ついた。

「一度帰ろうか……」

 今回、俺に許された滞在時間は五日間。土日休みと有休を組み合わせてどうにか都合をつけた日数だ。これ以上は、会社を辞める覚悟がいる。おそらく、奇跡でも起きない限り、五日で俺の求める『瞬間』を見つけ出すことは不可能だろう。一度帰り、毎週通いながら探すほかないだろう。

 あぁ、それにしても、長距離の運転と緊張で、疲れたな。少し、目を瞑ろう、か……。


       ○


 夢を見た。

 それは、幼いころの夢。小さいころは毎日みていたのに、いつからだろうか? 夢をみなくなったのは。

 夢の中、俺はいつでも十歳の幼顔。俺の背には六枚のシャボンの羽が生えていて、縦横無尽に空を飛び回る。右手には絵筆を、左手には七色のパレットを持っている。景色が少し寂しいなぁと思えば、絵筆を振り、花を咲かせる。秘密基地が欲しいと思えば、黒の絵の具でお城をつくる。妄想がすべて、実現した。形となって、実在した。

<それこそが、俺の夢だった>

 俺は、サラリーマンになんかなりたくなかった。自分の妄想を表現して、あわよくばお金をいただく職業に就きたかった。それこそが俺の夢だ。ミュージシャン、画家、小説家。そういう生き方を、したかった。でも、現実はあまくなかった。努力を全くしなかったわけじゃない。大学時代は軽音部にいて、作詞作曲をした。ライブハウスに通ったりもした。画材道具を一式買って、名画の模写をした。彫刻にも挑戦した。小説を書いて、新人賞に送った。一回や二回ではない。二十回以上送った。最終選考に残ることもあった。でも、夢への最後の一線を越えることは、ただの一度もなかった。

 俺の記憶が正しければ、おじさんがくれたメモに『夢を叶える瞬間』という文字が書いてあった。幼い俺は、その価値を知らなくて、憧れてはいたけれど、どうせ実現することはないだろうと高を括っていて、でも、年を重ねて、出来ることがどんどん増えて、たくさんの可能性を見て、応援してくれる仲間とも出会えて、俺は夢のしっぽをつかんでしまった。頑張れば、夢が叶うのではないかと、気づいてしまった。でも、それに気づくのは、遅すぎた。気づいた時にはすでに、俺のもとにその『瞬間』は、なかった。どうせ叶わないのなら、他の『瞬間』と交換してしまおう。そんな愚かな考えを、幼い俺は選択してしまった。幼い俺は一瞬の快楽しか見ていなかった。一瞬の快楽は気持ちいいが、それだけだ。苦しくても、積み上げていくことで、得られる輝きがある。俺はその輝きのほうが、欲しかったのに……幼い自分が、憎らしい。

 夢のエンドロールはいつも同じ。

<続く>

 俺は夢の過程じゃなくて、結末が見たいのに。夢の終わりはいつも続くだった。


       ○


「ドンドン」

 扉をたたく音がした。目が覚めた。俺はベッドから起き上がり扉を開けた。そこにはおじさんがいた。

「おい、行くぞ」

 おじさんはやけに興奮している様子で、鼻息をふんふん荒げていた。

「ちょ、ちょっと」

 おじさんは俺の腕をつかむと、ズンズン進んだ。目的地は『瞬間』が保管してある部屋だ。俺はまるで金魚の糞のように、おじさんの後に続いた。

 『瞬間』が保管してある部屋は、やはり広かった。目の前には山のように積まれている『瞬間』がある。『瞬間』は、ガチャガチャのカプセルのような容器に入っていて、のぞけば『瞬間』の映像が見えた。

「おぉ! おお! おお! 素晴らしい!」

 おじさんは『瞬間』の中に飛び込み、クロールで泳ぎだした。おじさんを避けるように、カプセルがころころ揺れた。

「おじさん、子供みたい」

 俺はおじさんのはしゃぐ様子をみて、思わず笑ってしまった。

「よし、気合い入れますか」

 俺は腕まくりをして、『夢を叶える瞬間』を探し始めた。

 まずは手あたり次第、近くにあるカプセルを拾い上げて、中を覗き込んだ。

 中を覗くと、映像が流れた。子供が生まれる瞬間や一位でゴールする瞬間、結婚する瞬間や愛が憎悪に変わる瞬間など、十人十色の『瞬間』が見えた。一つにつき、映像は十秒ほど流れた。映像が終われば、次のカプセルを拾い、また覗いた。

 最初こそは、いろんな『瞬間』に見惚れた。様々な『瞬間』を見るのは楽しかったし、ドキドキした。でも、人間は慣れる生き物だ。途中からは、他人の『瞬間』を見るのが苦痛になった。どいつもこいつも、似たような『瞬間』ばかりだ。俺は『瞬間』というものは、希少価値が高くて、素晴らしいものだと思っていたが、それは間違いだった。こんなにも、同じような『瞬間』が溢れている。『瞬間』は、ありきたりであり、平凡であることに、今気づいた。

 今思えば、オタマジャクシがカエルになる『瞬間』なんて、ありふれていることだった。注目していないから、その『瞬間』を見ていなかっただけで、ひとたび注目してしまえば、オタマジャクシなんて何億匹もいるのだ。つまりは、『瞬間』も億分あるということ。そういう考え方もある。そう思うと、幼い俺はおじさんに騙されていたのだと気づき、腹が立った。

 『瞬間』がありふれているということに気づいてからは、作業になった。単純作業。拾って覗いて、拾って覗いて、拾って覗いてをただただ繰り返した。覗いても、心は一切動かなくなった。

 一方おじさんは、いつまでたっても陽気なままだった。『瞬間』の山の中をクロールで泳いだかと思えば、一つの『瞬間』を手に取り、一時間かけてしげしげと見つめていた。時には感嘆をもらし、時には笑い、時には涙していた。情緒不安定に見えるが、楽しそうだった。おじさんは、『瞬間』に瞬間で向き合っているのだと思った。きっと、『瞬間』を覗くことこそが、おじさんにとっての『瞬間』なのだろう。

 俺にとって他人の『瞬間』を覗くことは、もはや心の動かない単純作業だったが、おじさんの『瞬間』を客観的に見るのは、少し面白かった。


       ○ 


 時が経つのは無常ではやい。俺に許された滞在期間はあっさりと消費された。当然ともいうべきか、俺が求める『瞬間』を見つけることはできなかった。

「おじさん、俺、一度帰ります。おじさんはどうしますか?」

 俺は荷物をまとめてからおじさんに声をかけた。

「私はまだここにいるよ。飯もうまいし、風呂もでかい。遊技場もあるし、何よりこんなにも『瞬間』に溢れている。ここは楽園だよ、まったく」

 おじさんは、まいったねという表情で笑っていた。

「それじゃあ、また一週間後に来ます」

「ああ、気を付けて」

 俺はおじさんに別れを告げて、おじさんの部屋から出た。

「出かけられるのですね」

「はい。でも、またすぐ戻ってきます」

 部屋の外にマルンさんが待っていた。マルンさんは本当に優秀で、滞在中、俺の願いをすべて叶えてくれた。大変感謝している。

「出口までお送り致します」

「お願いします」

 俺はマルンさんの後ろについて歩いた。

「ご主人様に、挨拶をしていかれますか?」

「いや、またすぐに戻ってきますから」

「…………そうですか」

 マルンさんは少し間をあけて答えた。なんだか、悲しい顔をしているように思えたが、気のせいだろうか?

「それでは、わたくしはここまでです。どうかお気をつけて」

「はい。ありがとうございました」

 俺は車に乗り込み、エンジンをかけた。

「さようなら」

 アクセルを踏み、数メートル進んだところで、マルンさんがそう呟いたように聞こえた。でも、エンジン音がうるさくて、はっきりと聞き取れなかったから、俺は言葉を返すことなく、そのまま車を走らせた。


       ○


 俺は仕事をした。たまっていた書類を片付け、外回りをした。長年働いていると、ほとんどがルーティンワークになっていた。同じことの繰り返し、つまらない。でも、働かねば食っていけない。俺はいつからか、心を無にして働くようになった。もう俺も五十歳。娘も今年から高校生だ。大きくなったものだ。俺はほとんど何もしてやれなかったが、子供は勝手に育ってくれた。成長に、ただ感謝だ。

 五日間働き、再び週末がやってきた。俺は意気揚々と車に乗り込み、大富豪の豪邸へと向かった。

 異変に気付いたのは、運転を始めて三時間経った頃だった。俺の家から大富豪の豪邸まで、二時間半もあればつくはずだった。しかし、一向に大富豪の大きな豪邸は見えてこない。どこかで道を間違えただろうか? 俺は近くのパーキングに止まり地図を確かめてみた。

「うーん。前回来たときは、おじさんに道案内してもらったしなぁ。困ったなぁ」

 俺は地図とにらめっこをして、どこで道を間違えたのかを考えた。しかし、わからない。困った。とにかく、疑わしい分かれ道まで戻って、選択しなかった道に行ってみよう。そう思い、俺は再びエンジンをかけた。


 日が暮れた。結局、大富豪の豪邸までたどり着けなかった。俺はあきらめて家に帰ることにした。

 おかしい。前回来たときは、それほど入り組んだ道ではなかったはずなのに。俺は不思議に思ったが、長い運転に疲れたので考えるのをやめた。とりあえず、また明日向かうことにしよう。


       ○


 翌日、俺は朝早くから車に乗り込み、大富豪の豪邸を目指して出発した。

 しかし、どんなに車を走らせても、大富豪の豪邸にたどり着くことができなかった。

 気が付けば、西の空に夕日が浮かんでいた。

 俺はどうしてたどり着けないのかと、呆然としながら帰路に就いた。

 俺は朝からの長距離運転に疲れたので、途中のパーキングで一休みすることにした。車を止め、自販機でジュースを買って飲んだ。トイレに行き、背伸びをして首を鳴らした。再び車に戻り、車のシートを倒して、一息ついた。目を瞑り、考えを整理した。

 俺はこの二日間、あることを考えていた。自分自身、薄々気づいていた。どうして、大富豪の豪邸にたどり着けないのか。大富豪の言葉を思い出す。

「君たちも富の一部だということ、忘れずに」

 そう、あの時、俺とおじさんには富があったんだ。だから、大富豪の豪邸にたどり着くことができた。そして、大富豪はこうも言っていた。

「富は集まるが、富ではないものは去って行く」

 あの日、大富豪の豪邸を出た瞬間に、俺の富はなくなっていたのだろう。今の俺に、富はない。だから、たどり着けない。そう考えると、一応の筋は通っているように思えた。

「はは、俺は『夢を叶える瞬間』を取り戻すこともできず、富を失い、いったい何をしているんだか……」

 俺は苦笑しながら落涙した。


       ○


 あれから十年が経過した。俺ももう、還暦だ。俺はあの後も何度か試みたが、結局大富豪の豪邸にたどり着くことはできなかった。おじさんとも会っていないし、『夢を叶える瞬間』と出会うこともなかった。平凡な日々をただ、享受してここまできた。

「おじいちゃん、どうしたの?」

「あぁ、少し物思いにふけっていてね」

「物思い?」

 俺の右手には小さな左手が握られている。今年で三歳の孫だ。娘によく似た、かわいらしい女の子。目の中に入れても痛くない。

「ああ、人生を振り返っていたんだよ。今日は星がキレイだからね。なんだか、そんな気分なんだ」

「ふーん」

 孫はよくわからない表情で首をかしげていた。今は夏。近くの河川敷で花火大会が行われるというので、孫と一緒に夜の街を歩いている。星がキレイだ。疑うことなく輝いている。まるで『瞬間』のように。

「おじいちゃん、アイス食べたい」

「さっきも食べたろう?」

  俺の夜空は相変わらず、真っ暗なままだ。娘が結婚する瞬間も見逃したし、孫が生まれる瞬間も見逃した。死の間際に思い出す『瞬間』なんて、ほとんどない。人生のハイライトは『日常』ではなく『瞬間』だ。まるでシャボン玉のように無数に漂う『瞬間』に囲まれて、死にたかった。

 本当に年をとった。最近は、いかにして死ぬかということばかり考える。

「おじいちゃん。あれ、誰?」

「ん?」

 孫が急に立ち止まり、暗闇の中を指さした。暗闇から出てきたのは、杖を突いて歩く、ヨボヨボの年寄だった。年寄の足は骨と皮しかなく、小枝のように細かった。腰は九十度以上曲がっていて、その背には、大きな風呂敷を背負っていた。

 暗闇から現れた年寄りは、俺の顔を見ると、右の口角だけを器用に上げて笑った。

「やあ、みくに君、久しぶりだね」

「え!? お、お、おじさん??」

 その声は間違いなく、おじさんの声だった。十年前は俺よりも若々しい見た目をしていたのに、いったいどうして?

「ふふ、驚いているようだね。無理もない。でもね、これが私本来の姿なのだよ。富を失った、私本来のね」

 おじさんはゴホォゴホォと死を連想させる咳をした。俺は心配になり、おじさんに駆け寄った。

「大富豪に追い出されてしまったよ。富を失くした人間に用はないってね。私に残ったのは、『瞬間』だけ。後悔はしていないよ。これは私が望んだことだからね。ただ、このまま『瞬間』を抱きかかえて一人死ぬのは、なんかやだなぁと思ったんだ。そう思ったとき、君の顔が浮かんだんだよ」

 おじさんは九十度に曲がった腰をゆっくりと上げて、俺の顔を見た。はは、君も老けたねと笑った。

「さあ、あの夏の日と同じように、一緒に『瞬間』を見て遊ぼう」

 おじさんは、まるで少年のようにキラキラとした目で笑った。少し興奮したのか、再び人を心配させる咳をした。俺はおじさんの背中をさすろうとして、おじさんが背負っている風呂敷に手をかけた。

「ちょっと待って! この中には」

 おじさんは慌てた様子で俺の手をどけた。その拍子に、風呂敷の結び目がほどけた。

 風呂敷の中には、たくさんの『瞬間』が入っていた。『瞬間』はガチャガチャのカプセルのような容器に入っていた。大富豪の屋敷を出た『瞬間』は、富という重力を失い、シャボンのように空へと向かって浮遊した。空に漂う無数の『瞬間』は、眩しいくらいにキラキラと光っていた。

「あぁ、あぁ!」

 おじさんは、浮遊する『瞬間』をつかもうと、必死に手を伸ばしていた。しかし、その手がつかむのは空ばかり。おじさんの手をスルリとすり抜けて、『瞬間』はどんどん天へと向かっていく。

「みくに君、君も手伝って! あの中には、君の『瞬間』もあるんだ! あのあと私は十年かけて見つけたんだよ! 君が『夢を叶える瞬間』を!」

 おじさんのその言葉を聞いたのと同じタイミングで、俺の視線はある一点にくぎ付けになった。ふわふわと浮かぶシャボンの中に、俺の姿を見つけた。シャボンの中には、俺が夢を叶える瞬間が映像として映し出されていた。今ならまだ、手を伸ばせば届く距離に、それはあった。

「あぁ……」

 俺は感嘆を漏らしながら、静かにそのシャボンに向かって左手を伸ばした。あともう少しでシャボンに触れるというところで、右手を強く引っ張られた。

「おじいちゃん。はやく花火見に行こうよ」

 俺は孫の方を向いた。それはわずか数秒の出来事だった。孫の手を離して、飛び上がればまだ、シャボンに手が届く。でも、俺は、理由はわからないけれど、孫の手を離してはいけないと思った。

 数秒間思案して、再び空に目をやると、俺の手の届かない空域にシャボンは到達していた。もう、どんなに頑張っても、届かない。

 瞬間、俺の中で迷いが消し飛んだ。すがすがしい風が心に吹いた。

「瞬間、バイバイ」

 俺は晴れやかな顔で宇宙へと向かうシャボンに向けて手を振った。還暦になるまで、夢にしがみついて、俺は愚かだったなぁ。ようやく、あきらめることができる。残りの人生は、この手に握ることができる、小さなもののために生きよう。

「おじいちゃん、何にバイバイしてるの? 私もする!」

 孫が俺の真似をして空に手を振ろうとした。俺は慌てて孫の手を押さえた。

「お前はまだ、バイバイしなくていい」


 ~了~

私は小説家を目指しています。

小説家になる『瞬間』を夢見ています。

そしてまだ、私は瞬間バイバイするつもりはありません。

妄想を表現して、あわよくば金を貰える人間に、なりたいのです!

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