大暑
塾の入っている雑居ビルに、工事が入るらしい。朝から作業着を着た男の人たちがビルの階段をせわしなく行き来していた。
なんとなく騒然とした雰囲気の中、私は逆に、極力自分の教室から出ないようにして、静かに過ごしていた。結城くんと顔を合わせないためだ。
なんてったって、顔を合わせるのが気まずい。泣いていた結城くんをほっぽりだして逃げた後ろめたさもあるし、結城くんだって泣いていたとこを見られて恥ずかしいに違いないし。
しかし、だ。どうしようもなくトイレに行きたくなって、私は席を立った。
仕方ない、人間だもの!
というわけで私は5分間の小休止の時に、さっと教室をでて、下の階にあるトイレに向かおうとした、ところまではよかったんだけど…
「古河」
待ち構えていたように結城くんが、教室のすぐ外に立っていて、低い声で私を呼んだ。
はい、撤退!総員回れ右!
…と、そういうわけにもいかず、私は理性を総動員してその場にとどまった。
「今日は、あの犬を連れてきてるんだな」
あれ、昨日のことについて話されるかと思ったのに。私は少し拍子抜けながら答えた。
「うん…チャコが仲間はずれだってごねるから」
「それでいい。いいか、この塾には変なものがいる」
「!…屍神?」
「分からない、けど、気を抜くな。…それから坂東とかいう講師にはあまり近づくな。屍神とは違うが、ただの人間にしては変な感じがする」
それだけ言うと、結城くんは自分の教室に戻ろうと、背を向けた。
私は思わず、その背に向かって声をかけた
「あっ、ねえ!……昨日は、ごめん」
「なんのことだ」
「え?いや、バスで一緒に帰ったとき「俺が?お前と?…一緒に帰るわけないだろう」
結城くんは冷たくそう言い放つと、くるりと背を向けて行ってしまった。私は茫然として、その後姿を見送った。
―――覚えてないの?それに、
「まさ兄に、変な感じがするってどういうことじゃ」
「そりゃぁ、政親は腐っても古河家だからな」
どこにいたのか、チャコが足元からひょっこり現れた。
「結城の者は、屍神を葬る神力はないが、神力を感じ取るセンサーは古河よりもずっと優れている。だから古河家の者が持つ神力を政親から感じ取って、変だと思うんだろうな」
なるほど。でも
「古河家の人間だってことまではわからないの?」
「分からないのは、結城のせいじゃない。政親のせいだ。あいつは古河家の者にしては神力に乏しいからな、結城が政親のことを古河家だと思わなかったとしても、頷ける。低級の屍神が憑りついている人間かなにかと思われても仕方ない」
「そうだったんだ。じゃぁ、結城くんが言ってた『この塾には変なものがいる』ってのも、本当かな」
「うーん今のところ俺には何にも感じられないが、結城が言うならそうかもしれねぇな」
しかし、結城くんの心配をよそに日々は平穏に過ぎていった。
変わったことと言えば、例のまさ兄‘sフレンドが、国際警察の追っ手を逃れて、アルジェリアに入国できたことぐらいだろうか。
まさ兄と一緒に読んだメールには『当方、密入国仲介業者の助けで、無事アルジェリアへ。このまま難民船でスペインへの脱出を図る』と書いてあった。
「アジアから遠のいてるじゃねえか…」
と目を覆ったまさ兄の姿が忘れられない。
後は、ビルの工事が終わったのも、ひとつ、変化と言えるだろうか。
塾の上の階に入っていた会社の退居に伴う改装工事らしかったのだが、それも一週間ほどで終わり、夏期講習残り4日を残してまた外階段の使用が許可された。
私はエレベーターより階段派だったから、これは地味にうれしい変化だった。
ところが、夏期講習も残り3日となった日から立て続けに3件、ちょっとした事件が起こった。
1件目は、Bクラスの女の子が、授業中、急に教室を飛び出して、止めようとした教師を殴って「塾なんてやめる」と騒いだというもの。
2件目の事件。これは、休み時間に男子学生2人が殴り合いのけんかをした、というもの。普段は仲の良い二人だったようだが、お互い腹に秘めたる不満があったようだ。
3件目、これが私的には一番衝撃的だったのだが、Aクラスの女子生徒が坂東先生に、つまりまさ兄に、授業中いきなり愛の告白をした、というもの。
3件とも、当事者たちは普段の様子からは想像もできないような突飛な行動をとっていて、周りのものを唖然とさせた。しかも、事が落ち着いた後に当事者たちにその時のことを尋ねると、口をそろえて『覚えていない』、と言うのだった。
「こりゃ、怪しいな」
夏期講習最終日、まさ兄が告白されたという衝撃事件の後で、私はチャコと外階段の踊り場でこそこそと言葉を交わした。
「やっぱり、これ、屍神が絡んでる?」
「十中八九、そうだろうな」
後ろから誰かが話しかけてきたので振り向くと、思った通りというか、やっぱり結城くんだった。
「今日調べるぞ」
「え?調べるって何を?」
「このビルをだ。ここのどこかに何かがいるのは間違いないんだ。一階からしらみつぶしに調べるしかないだろ。神崩れが暴れた時に危険だから、生徒が全員帰った、8時以降に捜索開始な」
「でも、それ、私たちも8時になったら帰れって言われちゃうと思うけど」
「…」
そのことは考えていなかったようで、結城くんが言葉に詰まった。珍しい。
その顔を見てるうちに、私はピン、とひらめいた
「わかった。私に任せて!」
生徒は8時まで塾に残ることが許されている。そのため、8時近くになると解放されている自習室に戸閉め担当の先生がやってきて、生徒は追い出される。
私と結城くんは8時まで自習室で時間をつぶしたのち、戸閉の先生に従うふりして素直に教室を出て、トイレに駆け込んだ。
結城くんも問答無用で女子トイレに押し込む。ついでにチャコも、トイレに連れてきた。チャコはどうせ私たち以外には見えないだろうけど、そばにいたほうがなんとなく安心なので、結城くんの頭にしがみついてもらっている。
「くさい」
チャコなんか言っているが、無視。
「おい、こんなんで先生たちだませるのかよ」
「しっ」
戸閉の先生が教室の電気を消して回ってる。女子トイレの扉にはめ込まれたすりガラスの前に先生の影が見えた。その時、
「米沢先生、あと、やっときます」
別の人影が現れて戸閉の先生が動きを止めた。
「みんな、もう飲み屋に行っちゃいましたよ。僕あとやっとくんで、米沢先生も先行ってて下さい」
「そうか、悪いな」
「いえ、僕が一番新米なんですから、僕にやらせてください」
その後もいくつかやり取りをすると、戸閉の先生は去っていった。代わりに後からきた人物が一人残され、ガチャリと女子トイレのドアを開けた。
「おい、やばくないか?」
結城くんがつぶやいたが、むしろ私はその音を聞いて、個室を飛び出した。
「まさ兄!」
「うまくいったぜー」
扉の前で、まさ兄がにやにやしながら、ピースサインを出した。作戦大成功だ。
まぁ、“まさ兄が戸閉を担当してくれれば、私たちは自由に動けるんじゃない?”という単なる思いつきを、作戦と言うかどうかは微妙だが…。
「坂東!?」
結城くんもトイレから出てきて、驚いた声をあげた。
「なんでこいつが…」
そりゃそうだよね。ここいらでネタばらしといたしましょうか。
今まで隠していたことにちょっと罪悪感を感じながらも、私は言った。
「坂東先生は、私のお兄ちゃんなの」
「はぁ?」
「俺、本名は古河政親ね。坂東は俺の友達の名前。訳あって、夏期講習の間だけ代わりに仕事を引き受けたんだ」
夏期講習も終わるし、結城は塾の正規生じゃないから、ばらしてもいいだろう、という判断らしい。
「なんだ、そういうことかよ…」
結城くんが脱力したようにつぶやいた。そんな結城くんの肩を叩いて、まさ兄がだましてて悪かったなーと笑った。
「さて、お二人さん。ちかこから話は聞いた。このビルに、屍神がいるんだろ?俺が戸閉に手間取ったって許してもらえるのはせいぜい20分かそこらだな。それまでに片付けてくれ」
「らじゃっ!」
私はぴしっと敬礼すると、チャコに尋ねた。
「屍神の気配がどこからするとかわからないの?」
「正直、俺はいまだになんの気配も感じないんだ。まぁ、ここは専門家に任せようぜ」
そう言うとチャコは結城くんの頭に乗ったまま、ぺしぺしと彼のおでこを叩いた。
「結城の守護職―出番だぞー」
結城くんは迷惑そうに顔をしかめたが、特にチャコを引きずり降ろそうとすることもなく、されるがままに言った。
「…そうだな、上に行くほど気配が強くなる気がする」
上か。私たちが今いるのは6階で、ビル自体は8階建てだ。
「7、8階部分は入っていた会社が退居したばっかりで、何にもないぞ。はら、この前工事していただろう?」
まさ兄が困ったように言った。確かに、この前の工事は私たちの教室の真上でがたごとやっていてうるさかった。
でも、もし7,8回に屍神が巣くってたなら、工事のおっちゃんたちが被害にあっててもおかしくはないはずだけど、そんな話は聞かなかった。
7,8階にはいないのだろうか。それよりも上って言うと、もう屋上しかないけど…。
そこまで考えたところで、私は一つ思い出した。
「ちょっと待って。このビルの屋上に、小さなお社がなかった?」
「え?」
「ほら、まさ兄が初めて来た日、屋上で坂東さんについて話したじゃんか。あの時、ミニチュアの赤い鳥居みたいのが見えた気がしたんだよね」
「…そういえば、聞いたことある。このビルのオーナー、現塾長のおじいさんらしいんだけど、かなり信心深い人らしくて、自費でお社を建てたとか」
まさ兄が言った。
「そのお社の神様が屍神になったってことか?」
結城くんが、誰に聞くでもなく言った。私はこくりとうなずいた。
「可能性は、あるよね」
8時を過ぎると、真夏とはいえあたりは真っ暗になる。
生ぬるい風を肌に感じながら、私たちはビルの外階段を使って、屋上に向かった。
このビルは周りのビルに比べると高さもないし、敷地も小さい。背の高いビルに四方を囲まれて、屋上と言うよりは、くぼ地のような正方形の空間で、私たちは月明りと周囲のビルの窓から漏れ出る人工の明かりを頼りに目を凝らした。
「あれか?」
結城くんが、すっと目を細めた。「確かに、神の気配が強くなった気がする」
換気扇や物干し竿など、雑多にものが置かれた屋上の隅に、そのお社があった。
普通の神社を10分の1くらいの大きさで、真っ赤なペンキで塗られたいかにも安っぽい鳥居と、真新しい小さな祠が置いてあった。
「こりゃぁ…」
チャコがぴょんと結城くんの頭から飛び降りると、何の警戒もしないでお社に近づいて行った。
「あっチャコ!」
私の制止も聞かずにチャコは鳥居の前にとことこと進み出ると、そこでちょこんとお座りをした。
すると、ぱぁっとお社が白く光って、むおん、となにかどでかいお餅みたいなものが現れた。お餅は、内側から発光しているように白く輝いている。
「な、なに!?」
叫んだ私の隣で、結城くんが懐から小刀を取り出して、そのお餅みたいな何かにとびかかった。
「やめろ結城!」
チャコの叱咤が鋭く飛んで、結城くんは動きを止めた。
「なぜだ。こいつは屍神じゃないのか」
「あぁ、これは、正真正銘、このお社に宿っている現役の神さんだ。屍どころか、まだ生まれたばっかりだぞ」
そう言うチャコの後ろで、お餅みたいな神様はふよんふよん揺れながら、幾重にも重なった小さな子供の笑い声のような音を立てていた。
よく見ると、お餅はまん丸の頭部と突起のような四肢のついた胴体部分に分かれていて、赤いべべをきた赤子のような姿をしていた。顔の部分には子供が落書きで書いたような点目とお口がついていて、巨大だということを除けばなかなかにかわいい。
「これが、騒ぎの原因?」
「そうだろうな。…この神さんの性質は、“子供の願いを叶える”だ。誰かの願いを叶えようとした結果、この社にお参りに来た別の子を巻き込んだって感じだろう。どうみても新しい神だし、全然神格は高くないから、本来、人に干渉できるほどの神力はおろか、こうやって顕現できるほどの神力すらないはずだが…」
「まさか、また藤代の時みたいに、誰かが私を困らせようと?」
「いやー、ちがうだろうなぁ。こういうことができるのは…ちかこ、お前このお社にお参りしたことあるか?」
「え、ないよ」
「このお社の近くでなにか願いごとを口に出したりは?」
「うーんどうだったかな。だいたい、ここは夏期講習が始まってすぐ工事のせいで出入りできなくなったしなぁ」
まさ兄があっと手を叩いた。
「そうだ!ちかこ、俺と屋上で少し話したろ?あの時は?」
「あ」
思い出した。
「嘘つくのがあんまりにも馬鹿らしく思えて、“正直に言っちゃえばいいのに”って言った気が…」
「それだ!」
チャコが、びしぃと前足を突き付けてきた。
「この神さんはな、ちかこの神力にあてられて、急激に成長しちまったんだ。ちかこから流れ出てる神力を食ってでかくなったから、ちかこの願いを叶えることを、行動の第一原理にしちまってる。子供の願いを叶えるっていう元々の性質とも相反しないし、自分の一部を構成する神力はちかこのものだしで、“正直になってほしい”っていうちかこの思いを成就させようと必死になっちまったんだろうな」
なんてはた迷惑な神様なんだ!いや、もとはと言えば、私が悪いのか…?
「私は、塾のお偉いさんたちに向かって“正直に言えばいいのに”って言ったんだけどな」
「そんなのは神さんの知ったことじゃないからな。だいたい、こういうベイビー神さんに、そこまでの分別はない。今こうやってでっかい体してられるのもちかこがそばにいるおかげだし。未発達な神格に不釣り合いな神力が与えられて、神さんも戸惑ってるんだ。ちょうど、赤子がムキムキマッチョの体を与えられたようなものだからな」
見た目はマッチョ、頭脳は赤子…ってそれなんかいやだなぁ!
「どうすれば、もとの状態に戻してあげられる?」
「簡単だぞ」
チャコが、背中側の毛の中から何かを取り出し、それを咥えて、トコトコと私のもとにやってきた。しゃがみこんで受け取ったそれは、藤代戦の時にも使った飾りのようにきれいな短刀だった。
「これで、軽くあの神さんをつついてやれ。そうすれば、膨らんだ水風船を割るように、余計な神力を取り除いてやることができる」
「わかった」
「いいかくれぐれも屍神を斬るように深く刺しちゃだめだぞ」
チャコの忠告を背に受けながら、私はお餅みたいな神様の前に立った。神様は、相変わらず間の抜けた顔をくっつけて、アドバルーンのように右へ左へゆらゆらしていた。
「おい、危険じゃないのか?」
結城くんは心配そうな声だけど、私は神様のそんな姿を見るにつれ、自分が神妙な顔して立ってるのがあほらしくなってきて、気軽に近づくとその胴に短刀の刃先を小さく滑らせた。
「えい」
ぷしゅう、と空気の抜けるようなおとがして、お餅はパンクしたタイヤのようにしぼんでいった。
小さくくぐもって聞こえていた子供の笑い声のような音が、明瞭さを増して空気中に響き渡る。
その音が消えたとき、後に残ったのは私の手に収まりそうなほど小さな、童人形だった。
「これが本当の姿なの?」
呟くと、童人形は頭を縦に振った。肯定の意を示しているらしい。
相変わらず点と線だけでできたシンプルな顔は、神様というよりは、よくある何かのキャラクターのようだった。
白く輝いていたお社も次第に光を失い、周囲は再びなんでもない夏の夜の闇に包まれた。
どこかで車の鳴らすクラクションが小さく聞こえる。
「っべ。もう20分過ぎてるじゃねーか。行くぞ」
まさ兄が腕時計を見て言った。
私は手に乗せた神様をお社の前にそっとおろすと、その場から離れた。
ばいばい、と子どもが笑う小さな声が聞こえた気がした。