大暑
宣言通り、政親兄ちゃんは家でだらだら過ごすようになった。
最初は物珍しくて何かにつけてまさ兄に絡んでいた私たちだったが、そのうちまさ兄がいる生活にも慣れて、だいぶぞんざいに扱うようになっていた。
リビングにいると掃除をしたい母に邪魔だと足蹴にされるし、かつてまさ兄の部屋だった場所は今は私の部屋になっている、ので、最近のまさ兄の居場所はもっぱら物置と化した八畳ほどの和室だった。
今も、簾で日を遮った薄暗い室内で、どこから引っ張り出したのかカラカラ変な音を立てる古い扇風機に当たりながら本を読んでいる。
北向きのこの部屋は、他の部屋よりは比較的涼しい。
積みあがった新聞紙にもたれかかるまさ兄の足元には、いつの間にか仲良くなったのか、チャコが丸くなって寝ていた。
私が出かける格好でその部屋の前を通ると、まさ兄がふっと顔を上げた。
「ちかこどっか行くのか」
「塾。夏期講習に通ってるんだ」
ふーん、とまさ兄は顔をしかめた。
「若いうちから勉強ばっかしてると、ろくな大人にならないぞ」
「まさ兄がそれ言う?中高はザ・がり勉だったくせに」
「だから今こんなんなんだろ」
なるほど。テニサーの幽霊部員で、単位を落としまくる大学生は確かにダメな大人そのもの、な気がした。今も家でダラダラしてるばっかりだし…。
「そういえば、アフリカで足止めくらってる友達は、脱出できそう?」
「それがなぁ、あいつ国際警察に追われているらしいんだよな」
「へ?」
友達からだというメールを見せてもらうと、『スパイの容疑で逮捕状。現在スーダンに潜伏中。アジア行きはもうしばらく待たれよ』と書いてあった。これ、本当だろうか…。
訝し気に眉をひそめた私をよそに、まさ兄はぐーと背伸びを一つすると、言った。
「よし、暇だし塾まで送ってってやるよ。駅だろ?」
まさ兄に車で駅まで送って行ってもらうと、予定していたよりずいぶん早く塾についてしまった。
まだ、生徒は誰もいない。
がらんとした受け付けロビーに、今日は夏期講習初日だったから、事前に受けたクラス分けテストの結果が掲示されていた。
見ると、私は下から2番目のクラスだった。やった!一番下じゃない!
私はこの塾の正規生じゃなくて、夏期講習だけ受けに来ているいわばお客さんだから、どんな人たちがこの塾に通っているのかは知らない。
夏期講習に誘ってくれたさよちゃんがこの塾の生徒ということだけは知っているのだが、他に知っている人の名前はないかと私はクラス分けの名簿を眺めた。
さよちゃんは、思った通り一番上のクラスだ。
やっぱりね!と思っていると、その下に、嫌な名前を見つけた
―――結城大悟。
あいつ、ここの塾生だったのか!
しかも一番上のクラスとか…あの人、頭よかったっけ?
なんにしろ、違うクラスで本当によかった。
夏休みにまであの冷たい目でにらまれるとか、たまったもんじゃない。
そう思いながら、教室に行こうと受付けを出てエレベーターに向かうと、正面からちょうどビルに入ってきた人物と目が合った。
その目がまさにその“冷たい目”だったので、私はわが目を疑った。と言うより、間違っていてほしいと願った。
「あ…」
驚いて固まった私に先んじて、言葉を継いだのは結城氏だった。
「そのパーカー」
結城くんは、私の着ている白い半袖のパーカーを見ていた。でっかいフードがかわいくて一目で気に入り、買ったやつだ。
なに?これがどうかした?
訝し気に結城くんを見返すと、結城くんはふいっと視線をそらして、エレベーターではなく外階段に向かって行ってしまった。
その後姿を見て、はっとした。
結城くんも、同じような白いパーカーを着ている。
その日は無性にイライラして、授業どころではなかった。
なんだよあの結城の態度。服が被ったからご機嫌斜めってわけか?
くそう、悔しいのはこっちだい。せっかく気に入ってたのに、もう着れないじゃない!
困ったことに、夏期講習は二週間ぶっ続けである。勉強しなきゃってだけでも憂鬱なのに、結城くんという新たなマイナスポイントが加算されて、夏期講習に行きたくない気持ちが加速した。
だけど次の日も私はちゃんと授業に出た。お金を払ったからには、出ないともったいないもんね。
休み時間になってさよちゃんが目を輝かせてクラスにやってきた。
「ちかちゃん!どうして教えてくれなかったの?」
「え?なにが?」
「とぼけちゃって、驚かそうと黙ってたんでしょ?ほら、こっち来て!」
さよちゃんは私の腕を引っ張ると、自分の教室であるAクラスに引きずり込んだ。無機質な狭い教室には小さな教壇があって、そこに生徒に囲まれた若い男性がいた。
教師にはふさわしいとは思えない派手な金髪をした人だ。そのチャラ髪に見覚えがあって、私は思わず目を瞬いた。まさか―――
「まさ兄!」
思わず叫ぶと、その人物は顔だけこちらに向けた。周りを囲んでいた生徒も、何事かとこちらを見た。
「マサニイ?」
周囲の生徒が、不思議そうに繰り返した。
まさ兄は笑顔のまま、あー…と言うと、「俺下の名前がマサニイなのっ」と、意味のわからないことを言った。
「古河、ちょっと」
まさ兄が生徒をすり抜けて、教室からでながら手招きをした。
塾が入っているのは雑居ビルの4、5、6階だ。まさ兄は教室を出ると無言のまま鉄製の外階段を登って、屋上に向かった。
屋上は、真夏の太陽に熱されてものすごい暑さだった。加えて、いくつも置かれた換気扇がクーラーの廃棄熱を容赦なく噴出している。そうかここが地獄か。
屋上の隅には小さな甕が置いてあり、中に水がたぷたぷ入っていた。地獄の中にあって、それだけが唯一の涼だった。そして、その水瓶の隣には、小さな―――鳥居?
だが、まぶしい光の中に沈む景色は、すぐに揺らめく空気の奥にかすんだ。
私は目に入る汗をぬぐって、まさ兄に視線を向けた。
「ね、ちょっと!なんでまさ兄が先生やってるの?!」
「地元の大学行った友達が、短期バイトで夏期講習限定の塾講師をやるはずだったんだけど、急用で行けなくなったからって、ピンチヒッター頼まれたんだよ。いや、なんかアメリカに留学行った彼女が現地で彼氏作ったとかで、破局の危機らしくてねー。昨日急遽会いにアメリカに飛ぶって言うから、俺が代わりにバイト引き受けてあげたの」
「なにそれ。そんなのありなの?」
「俺の大学有名だし、経営者側にはむしろ歓迎されたけどな。と言うわけで、今日から俺は坂東マサニイ、25歳だ。あ、坂東ってのがアメリカ行った友達ね。25歳ってのは塾講師が大学生のアルバイトってんじゃ生徒になめられるから、そういう設定でよろしくっていう、上からの指示」
5歳もさばよんでるし…
「正直に古河先生じゃダメなの?」
「坂東っていう名前が、事前に生徒に配った夏期講習の日程表にも書かれちゃっているからな。予定と違う人が講師ってのがばれると親からのクレームも来るかもしれないし、その予防線だろ」
大人は考えることが難しい。
「正直に言っちゃえばいいのに…」
私は心底あきれて、そういった。
「とにかく、そういうわけだから、ここでは他人ってことでよろしく」
うーん、さよちゃんにはなんて説明しよう…。
幼稚園の時からの友人であるさよちゃんは、お兄ちゃんが小学生だったころから知っている。小さいころはよく二人してまさ兄に遊んでもらっていたらしい。
私はAクラスに戻ると、さよちゃんを教室の外に連れ出して、一部始終を説明した。
「そうだったんだ。ちかちゃんのお兄さんがいきなり来て、『坂東です』とか言うから、何事かと思ったよ。でもすごいね、ちかちゃんのお兄さん、本物の先生より教えるのがずっと上手だったよ」
まさ兄は歴史と国語を担当しているらしい。ただ、AクラスとBクラスしか持たないから、私が兄の教えぶりを見ることはないだろう。残念。
二人で壁にもたれかかり、とりとめのない話をしていると、さよちゃんの後ろから人影がぬっと現れた。
「おい、古河」
げっ結城だ。
「…さっきの先生、お前のなんなんだ」
「なにって、別に、何でもないよ。なんで結城くんがそんなこと気にするの」
結城くんはちらっとさよちゃんのことを見ると、別に、と言った。それきり、ふいっと、また教室に戻って行ってしまった。
「あーこわい。何なんだろう、あいつ。…そういえば、さよちゃん結城くんと同じ塾だったんだね」
「え?ううん。違うよ。結城くんは夏期講習だけ受けに来てる外部生」
そうなの?同じ塾を選んじゃうなんて、ついてないな。
夏期講習は毎日4コマあって、朝10時に始まり夕方4時には終わる。
自主勉をするために残る子もいるけれど、私は最後の授業が終わるとさっさと塾を後にした。
さよちゃんも、今日は塾に残らないというので、駅の改札まで一緒に歩いて、そこで別れた。
私は東口、さよちゃんは西口のバス停から家に帰る。
どうせお兄ちゃんも同じ場所にいたのだから、一緒に帰ろうかと思ったが、塾講師というのは塾生が帰った後もいろいろな雑務がのこっているらしく、あえなく却下されてしまった。
しかたなく私は一人バス停に向かい、5分遅れでやってきたバスに乗り込んだ。
私以外に乗り込む人はいなかったが、ブザーが鳴って扉が閉まりかけたその時、扉の隙間をすり抜けるようにしてもう一人、バスに乗り込んできた。
「結城くん」
走ってきたのか、肩で息をしている結城くんは、私がいるとは思わなかったのだろう、驚いて顔を上げた。一方の私の顔も驚いていたに違いない。でも考えてみれば当然だ。結城くんの家は駅と私の家をつなぐ道路の延長線上にある。
「間に合ってよかったね」
こっち方面へ向かうバスは、一時間に2本しかない。一本逃すと30分待たなくてはならないから、乗れるか乗れないかは死活問題だ。
「うん」
無視されるかと思ったが、意外にも結城くんは素直にうなずいてくれた。しかも、ガラガラの車内で、あえて私の隣に座りやがった。なんじゃこりゃ。なんか調子狂う。
…でも、そういえば今日の昼間だって(態度は悪かったけど)自分から話しかけてきた、こんなの今までだったらありえない。
―――あれ、これもしかして仲良くなるチャンスなんじゃ?
私は調子に乗ってさらに言葉を重ねた。
「結城くんも、夏期講習だけ塾通ってるんだね」
「ああ。別に塾なんて行きたくもなかったけど、お前がいるからな」
ん?どういう意味だろう。お前がいるから別の塾にした、ならわかるんだけど。
「でもお前、本当に頭悪いんだな。同じクラスになれなきゃ意味ないのに」
ますます意味が分からない。あでもそっか、結城くんが私と同じクラスになりたがる理由は一つしかない。
「もしかして、守護職の務めを果たすために、わざわざ夏期講習を受けたの?」
結城くんは私のことが嫌いなのに、その家系のせいで私の傍にいなくてはならない。本人にとってはかなりのストレスだろう。なんとなく申し訳ない気持ちになって、私はへらっと笑いながら言った。
結城くんはそんな私の顔を無表情で見ていたが、しばらくしてぽつりと言った。
「…ちげえ」
「え?」
「…守護職とか、結城の血とか、お前が古河だとか、関係ない!!」
いきなり結城くんが大声を出した。
「俺が結城じゃなければよかったのに…」
怒っているような、苦しんでいるような、複雑な表情で、結城くんが続けた。私はちょっと、なんて言えばいいかわからなくて、視線を宙にさまよわせた。
そ、そうだ、話を変えよう。
「そういえば、Aクラスなんてすごいじゃん。授業はやっぱり難しい?」
「いや、別に。講師陣は教えるのうまいし…そうだ、あの坂東とか言う講師とお前、どういう関係なんだよ。なんでお前が坂東の下の名前知ってたんだ?」
う、まだそれ気にするか。というか、マサニイってのは下の名前じゃなくて、“まさ兄”なんだけどな。
でも兄だって明かすわけにはいかない。単なる大学生のバイトが塾講師をやっているとばれたら、塾のイメージダウンだし、果ては本物の坂東さんが責任を取らされ塾を首にされる。
「…坂東さん、ご近所さんなの」
「本当にそれだけか?」
なにを疑ってんだこいつは。
私はめんどくさくなって、冗談交じりに「実は恋人なんだ…」と言ってみた。
「あはは、なんちゃってー!」
あれ、反応がない。もしかして、あまりにもつまらない冗談に怒ったか?
おそるおそる結城くんの顔を覗き込むと、―――なんと、あろうことかぽろぽろ涙をこぼしていた。
「えっちょ、」
うそでしょう!!??あの冷酷無比な結城くんが、しくしく泣いてるとか!!!?
その時、バスがゆっくりとまって私の降りるべきバス停の名前がアナウンスされた。
「ごめん、私、降りなきゃ!」
私は逃げるようにバスを飛び降りた。
家の中は、母も出掛けているのかがらんとしていた。でもチャコがちゃっちゃっと爪を鳴らして出迎えてくれた。
「おかえり。どうだった?」
「……」
私は無言で階段を上がり「なんだよう、つれないな」というチャコの声を背中に受けながら自分の部屋に閉じ籠った。
なんだったんだ、さっきの結城くん。理性的に考えようにも頭が混乱してしまって思考がまとまらない。
………なんか、疲れたな。よし、考えるのはやめだ。寝てしまおう。
私はベッドに崩れ落ちるように飛び込むと、そのまま意識を手放した。
一瞬後のことのように思えた。
まさ兄か下から呼ぶ声が聞こえて、私は目を覚ました。
「ちかこ、夕飯食わないのかー?」
「たべるー」
下へ降りていくと、食卓に肘ついて一人まさ兄がテレビを見ていた。お母さんも、義親兄もいない。
「あれ、みんなは?」
「これ、母さんからの書き置き」
まさ兄が見せてくれた紙には、“友達とコンサートに行ってきます。夕飯は冷蔵庫に入ってるから、レンチンして食べてね。母より”と書いてあった。
「義親はまだどっかで勉強中だろう。先食べてようぜ」
食卓には大皿にはいった肉味噌野菜炒めがどん、と置いてあった。箸は用意していてくれたが、取り皿は見当たらなかった。
「いただきます!」
まさ兄は自分の箸で直接皿から料理をつまむと、口に放り込んだ。
もー、はしたないなぁ。
私は仕方なく台所に向かい、食器棚から取り皿を出した。ついでに炊飯器を覗くと、朝の残りの冷飯があったので、二人分お茶碗についで、チンして持っていってあげた。
「お、さんきゅ」
「まさ兄そんなんで一人暮らしできてるの?」
「コンビニ弁当は美味しいぞ」
「…」
なんとなく、まさ兄の不健康な生活が見えた。ご飯を作ってくれる彼女でもつくればいいのに。
「そういえばさ、Aクラスに結城ってのいるだろ?」
「ぶふぉ」
「なんだよ汚いな。…でさ、もしかしてその結城ってのは、“あの”結城家の子か?」
「…その結城家の結城だよ」
私はバスの中での変な結城くんを思い出して、何とも言えない気分になった。
「そうか、じゃああれがお前の守護職だな。ふーん」
「なにさ」
「いや、結城みさとに弟がいたとはなぁ、と思って。あ、でも、なんか思い出したぞ…俺が結城道場通ってたとき、ちかこの他にもちっこいのが竹刀振り回してたな」
「みさとさんのこと知ってるの?」
「知ってるもなにも、同じ高校だったしな。あいつのがひとつ年下だけど。確か、今浪人中だったかな」
「みさとさん、頭いいんだ…」
まさ兄が通っていたのは、県下一の進学校である。私には到底手の届かない偏差値を誇る学校だ。
「というか、無駄に負けず嫌いだから、負けないためにあいつものすごい努力するんだよ。特に俺に対抗意識を持っていて、何か一つでも負けてるのが嫌らしい。大学も、俺と同じところ目指してるんじゃないか?女だてらに、高校剣道じゃぁ男子部員含め敵なしだったんだから、それで満足しろよと俺は思うが」
まさ兄も高校までは剣道部だったはず。じゃぁ、みさとさんはまさ兄よりも強かったってことか…。
「ねえ、それよりその結城弟、授業中、俺のことめちゃくちゃ睨んでくるんだけど、俺なんかしたかなぁ」
そういえばバスの中でも結城くん、“坂東先生”について気にしてたな。うーんなんでだろう。
「25歳の塾講師っていう設定がやっぱり無理あるんじゃない?」
「え、俺ってそんなに若々しく見える?」
見当違いな喜びに浸るまさ兄を私は白い目で見つめた。
「なーんか楽しそうだなぁ」
網戸の外では夏の虫が鳴いている。その音にまじって、チャコの声が聞こえてきた。
先に一匹で夕飯を済ましてしまっていたチャコは、縁側に寝そべって、どことなくふてくされたオーラを漂わせている。
チャコは寄りついてきた蚊を払うため、億劫そうにぱたんと尻尾を振った。
「塾っての、俺も明日から行くもんね」
「塾なんて、来ても楽しくないよ」
「いくったら行く!」
はいはい。こうなったらもう何を言っても聞かないだろう。しかたないちょっと鞄が重くなるのが嫌だけど明日はチャコも塾に連れて行ってあげよう。