大暑
6月。
じめじめした梅雨模様の空が続く中で、私たち三年生にとって最後の大会が行われた。
私たちは、200メートルリレーで、地区大会で優勝した。でも県大会では、惜しくも4位で、全国行きを逃した。
個人では私が100メートル走で県ベスト8、千鶴は400メートル走で県ベスト16に入った。でも、全国に行けるのは上位4人だけ。ここでも、全国行きはならなかった。
みんな泣いた。悔しかったし、引退だし、いろんな感情がごちゃ混ぜになって先輩も後輩も泣いた。まだ入ったばっかりの一年生も、なんとなく悲しそうな顔をしてくれた。本当にいい部活だったな、と思う。
そうそう、藤代は、あれから吹っ切れたように部活に励んで、リレーでは本当にいい活躍をしてくれた。あんなことがあったけど、最後まで、本当にいい後輩だった。
藤代は、千鶴を引き継いで、次世代の部長に任命された。
涙涙の6月が終わると、すっかり夏模様の7月が訪れた。
からっと晴れた空。
しかし、真夏の太陽は私たち3年生の心までは晴らしてくれない。
受験という二文字が大きくなって、何をしていても頭の隅っこに陣取るようになっていた。
そんな7月は、模試と期末テストに追われているうちに、あっという間に過ぎて、そして今。
「夏休みだー!!!」
千鶴が長い手足を大きく広げて、喜びを発散させている。
「夏は受験の天王山」
ぼそりと百子がつぶやいた。途端に、千鶴がうげっと顔をしかめた。
「水を差すなよな。今日ぐらいはそのことを忘れても、罰は当たらないって」
そう。今日は終業式だった。つまり今日は一学期最終日であると同時に、夏休み初日なのだ。
私たちいつもの4人は、帰る前にアイスでも食べよう、ということで、駅に向かっていた。
「どうしたの、ちかこ。浮かない顔してるじゃん。今日は夏休み初日だよ?」
千鶴がばしんと私の背中を叩いた。
そんな千鶴の肩に手を置いて、やれやれといった様子で百子が言う。
「聞いてやるなって。ヒント、成績表」
あっと、千鶴が口を押さえた。
「そっか、なんかごめんな…」
くそう。馬鹿にされるよりもよっぽど堪えるんですけど、それ。
「ちかこちゃんは、いつも本番になれば強いから、大丈夫だよ」
さよちゃんが慰めてくれるが、こればっかりはなぁ。
「まぁまぁ、とにかく、夏休みだよ!中学最後の夏だよ!青春しなきゃ損だって」
「青春って…くさいねぇ」
「なにさ、百子。あんたは少しおっさん化しすぎてるのよ。何かないの?好きな人、とか」
好きな人、か。私は疲れた脳で、ぼんやりと阿久津君の顔を思い浮かべた。
そうか。もし高校が離れちゃったら、阿久津君とかかわる機会もなくなっちゃうのか。
「ないよ。そういう話はちかこに振ってちょうだい」
「へ!?」
いきなり、百子がこちらに話を振ったので、私は思わずすっとんきょんな声を出してしまった。
「なんで私!?なんにもないよ」
阿久津君好きなのは、どうせからかわれるだけなのでみんなには隠している。
千鶴が「いいおもちゃを見つけた」といったようなにんまり顔で私を見た。
「あ、そうだった。あの噂、の真実を聞かないとね」
「噂??」
「そう、ちかこと結城が付き合ってるって噂!」
な、なんだそれ!!!!
なにがどうなったらそんなことになるんだ!?
「あ、その話、私も聞いたことある……実際はどうなの?ちかこちゃん」
あろうことか、さよちゃんまで、興味津々といった様子で聞いてきた。
「いやいや、ないないない!」
「その慌てぶりが、逆に怪しいんだよなぁ」
「いや、ほんとほんと。っていうか、私、結城くんとクラスでも全然しゃべってないし、どちらかというと、彼は私のことを嫌っているというか、なんというか…」
「そう、そこだよ!あんたら、あからさまにお互い意識してるじゃない!なんだか付き合ってることを周りに隠そうとするばかりに不自然に避けまくるカップルって感じがするんだよねー」
うぅ、言葉に詰まる。
確かに千鶴の言う通り、私は藤代の一件以来結城くんを意識しまくるようになっていた。
でも仲良くなろうプロジェクトは今のところ、全くうまくいっていない。うまくいく見込みもない。
「誤解だよ…」
「どうだか。でも、付き合ってないにしても、結城のほうは完全にちかこのこと好きだよね」
「はぁ?」
百子の言葉に、思わず心からのはぁ?が出てしまった。いやだって、寝耳に水だ。そんなこと、天地がひっくり返ってもあってたまるか。
「だって、結城、いっつもちかこのこと見てない?」
「あ、私もそれ思ってた」
百子とさよちゃんが顔を見合わせて、だよねー、とデュエットした。
「もー、やめよ、この話!」
「夏の恋は燃え上がるからねえ…何か進展あったら教えなさいよ」
千鶴が目を細めた。
みんなして、人をからかって楽しんでやがる。ちくしょ、覚えてろよ!
*
燃え上がる恋なら、阿久津君としたいです。
夕方6時半。まだお日様はしぶとく残っていて、うちの庭を薄く照らしている。
お母さんの意向で雑草だらけのうちの庭は、この時期ヒルガオが見事に咲くけれど、もう夕方だから、薄ピンクの花は全てつぼみに戻ってしまっている。
私は縁側に寝そべって、手を伸ばしたところに生えているまだ緑色のねこじゃらしを手折ると、その穂をぶつぶつちぎって遊んだ。
「なにたそがれてんだぃ。寝転んでばっかりいると、牛になっちまうぞ」
「しつれいだなぁ…チャコにはわからないだろうけど、乙女にはいろいろ悩みがあるんだよ」
「どうせ、食べ物のこと考えたんだろー」
やれやれ、恋煩いの女の子がそんなこと、考えるものですか。
「なんかぁ、アタシ今日食欲ないな・・」
言った途端、お腹がぐぅぅ、と鳴った。くそ、かっこつかないな。
「今日の夕飯は枝豆とトウモロコシとなすが出てくるはずだ。さっきママさんの買ってきた袋を確認した」
「お、やったぁ。茄子のバター醤油炒め、おいしいんだよなぁ」
夕暮れに照らされている庭と違って、電気をつけていない家の中はすでに暗かった。
お母さんの立つ台所だけ明かりがついていて、白熱灯のオレンジ色が居間に漏れ出ている。
枝豆を茎から外すお手伝いでもしてこようかな。
私はのっそり立ち上がると、まとわりついてきた蚊を手で払いながら網戸を空けた。
そのとき、ブルゥウウウウウウンとすごい音がして我が家の目の前に派手なバイクが止まった。
私が網戸を空ける手を止めてそちらを見ると、背の高い人がバイクから降りてヘルメットをとるところだった。
金髪があふれ出る。
あらわになったその顔に私はたいそう見おぼえがあって、うれしくて気づいた時には叫んでいた。
「政親兄ちゃん!!!」
その人も、私に気づいたのか、こちらを向いて、大きく手を振った。
「ちかこかー。ただいまー。しばらくこっちとまるぜー」
長兄の突然の帰省で、我が家は突然にぎやかになった。
お母さんは「帰るなら事前に連絡入れなさいよ」とぶつくさ言ってたが、それでも嬉しそうに、突然ウナギを買いにスーパーに行ってしまった。
我が家には、なにかいいことがあるとウナギを食べる習性がある。
長兄の帰省も、お母さんにとっては「いいこと」なのだろう。
結局、夕飯を食べ始めたのは8時近くなってからだった。
私は待ちきれなかったので、皿にこんもり枝豆の殻を積み上げていた。
「いただきます」
私と佳親兄ちゃんと政親兄ちゃんとお母さん。この4人がそろうのは、お正月ぶりだろうか。
政親兄ちゃんが東京の大学に行ってしまってからは、政親兄ちゃんはすっかりレアキャラになってしまって、私は少し寂しかった。
「兄貴、今回はどのくらいこっちにいるんだ?」「うーん決めてねぇ。とりあえず、この夏休みは友達とアジアを回ろうって言ってんだけど、その友達が今アフリカで足止め食らってて」「あなたは、また、そんな危なそうなことを」「アジアのどこら辺にいくんだ?」「台湾から始めて、タイベトナムカンボジア…あとはインドあたりまでかな。ま、その時のノリで決める」「っていうか、あなた大学は?大学の夏休みは8月からのはずでしょう?」「俺のとってる授業、全部最後にレポート提出すればいいだけのやつだから」「そんなこといって、また単位落とすんでしょ。去年、進級ぎりぎりだったって聞いたよ」「なんでちかこがそのことを知ってるんだよ」「お母さんから」「兄を反面教師にしてほしくてね」「…そういうちかこは最近どうなんだ?そういえば今年高校受験だろ?」「聞かないで」
食卓の上を弾丸のように言葉が飛び交った。
やっぱり政親兄ちゃんがいると雰囲気が華やぐなぁ。
佳親兄ちゃんはもともと口数少ないし、最近食卓でやかましいのはチャコぐらいだったから。…あれ、そういえばチャコは?
見ると、チャコは幼児用のいすの上でもぐもぐと静かにウナギを食べていた。
「チャコ今日はおとなしいね」
「俺は、この男とは初対面なはずなんだが」
「おう、そうだな。おまえがチャコかー。よろしくなー」
「なんで!もっと濃ゆい反応を期待してたのに!てか、今の今まで俺のことスルーとか、なかなか太い神経してんな。犬が食卓について、ウナギ食べてたら、もっと言うことあるだろぅ!」
あ、自分で言っちゃった。むりむり、だって、政親兄ちゃんあんんまりそういうの気にしないから。
昔から幽霊を怖がったりとか雷に驚いたりとか、あんまりしない。
ものに動じないって言えばきこえはいいけど、要は周りの変化に鈍い。
「チャコはほしがりやさんだな」
「なにおう」
はいはい、ケンカしない!立ち上がりかけたチャコの頭を左手で抑えると、抗議するように、チャコは肉球で机をぺしぺし叩いた。
「ははは、おもしれーな、お前。でも、仲良くやろうぜ?俺、友達がアフリカから脱出できるまでは日本で待機だから。それまでお邪魔するぜー」