立夏
「チャコ、お手」
私はそう言って目の前の茶色い犬に右手をつきだした。
ふわふわの毛に覆われた垂れ耳の小型犬は、組んだ前足の上に顔をのせ、私のほうを見ようともしない。かちんときた私の心にいたずら心がわきあがる。
「…ばかいぬめ。」
私はチャコに見えるように、ジーンズのポケットから何かを取り出す仕草をした。
そして、何も掴んでいない右手をひらひらとチャコの目の前で振る。この時、あまりチャコの近くまで手を近づけないことがポイント。近づけすぎると、匂いで何も掴んでないことがばれてしまう。
「ほーら、あんたの大好きなビーフジャーキーだよー」
すると思惑通り、チャコは目をきらめかせたと思うと急に立ち上がり、まるで賢い犬のように私の目の前で『おすわり』してみせた。
「ふっ残念でした!何も持ってないよー!」
そう言ってから、パッと手を広げ、チャコに見せつける。
呆然としたチャコの顔を見て満足した私は夕飯を食べに家へ入った。
「おやすみなさい。」
電気を消し、布団にもぐる。すぐに睡魔が訪れた。意識が遠くなり―――…
目が覚めた。
開けっ放しの窓から月明かりがこぼれ、今がまだ朝ではないことを示している。
その月明かりで、何かが私の目に映る。
その、何か、が口をきいた。
「オィ、おれのビーフジャーキーはどこでぃ」
「………チャコ!?」
茶色の毛むくじゃらが私の部屋の真ん中で、威風堂々と立っていた。
「…えっ?なに?ビーフジャーキー?こんな夜中に?なんで私の部屋にいるの?汚い、足拭いてから入ってよね…てかあれ今喋ってなかったァァァァ!!??」
紆余曲折の末にやっと正常な思考までたどり着いた私は、勢い良くベットの上で仁王立ちになって叫んだ。
「うるさい。夕方言ってたやつだよ、早くくれ」
なんと生意気なことに、チャコは前足で耳をふさぐマネまでしてみせた。
「違う違う違う!なんで喋ってんの!なんで立ってんの!?」
「二本足で立てるのが人間だけだなんて、驕ってんじゃねぇよ、まったく。今どき誰だって出来るぜそんなこと、カマキリだって」
「はぁ?何言ってんの?てか何故言えるの?」
「ま、それは俺が特別、だからだな」
トクベツ、ともう一度チャコは確認するように言った
「……」
「なんだよ、なんで何も聞かないんだよ?『なにがとくべつなのぉ?』とかきいてくれないと俺も説明できないじゃねぇか」
「もう、だめ。眠い。きっと疲れすぎでわけわかんない夢見てるんだ、私。早く起きなきゃ」
頬をつねりながら私は言った。つねった頬はひりひりと痛んだ。
もぞもぞと布団にもぐり始めた私を見てチャコが慌てる。
「なぁっ!?ちょ、寝んなよ、せっかくの初顔合わせだぜ!?オイ!」
だがその声はすでに私の耳には届いていなかった。
窓から差し込んできた柔らかな光で私は自然と目を覚ました
しばし、ベットの上でぼうっとする。まだ寝てたい、でも起きなきゃ。
ちらりと壁掛け時計を見る。あぁ、9時か。
9時か?
「ヤバイィイィィィ!遅刻!遅刻じゃん!!!」
バタバタと階段を駆け下りる。
「おかぁさん、なんで起こしてくれなかったの!?バカっ!!」
「何言ってるのよ?今日は土曜日じゃない。」
あ。
「そうだったー」
一気に脱力して、どさっとソファにもたれこむ。
我ながら、ありがちな『土曜日の朝の光景』を演じてしまった。はずかしいっ!
私は台所に行って、とりあえずパンをトースターに投げ込んだ。
我々古河家は父、母、長男、次男、私の5人家族だけど、今食卓にはお母さんしかいなかった。
お父さんは何の仕事をしているのかよく分からないけど超多忙でほとんど家にいることはない。今もどこかで単身赴任しているのではないだろうか。よく知らない。
長兄・政親は大学2年生。東京で一人暮らしをしている。
次男・佳親は高校二年生で休日の朝は決まってお寝坊さんだ。がり勉かつゲーマーという一見相いれない属性を持つ彼のことだ、どうせ昨日も夜遅くまで勉強かゲームをしていたに違いない。
「ごはんの前に着替えなさい」
はいはい。
毎日言われている言葉を今日も言われて、いつもどおりの朝が始まった。
違かった。
「汚い!!」
私の部屋は、泥だらけになっていた。床にはしっかりと肉球型のスタンプが押されている。
あぁ、やっぱり昨日の変な夢は夢じゃなかった…。
ならば。
「だから足拭いてから入れっていったじゃん!」
庭にいるはずのチャコに向かって、私は思わずそう叫んだ。
「ご近所迷惑でしょ、何叫んでたの?さっき」
床をぞうきんで拭いてから下に降りていくと、食卓で先に朝食を食べていたお母さんが怪訝そうに聞いてきた。
「あぁ、あのね、信じないだろうけどね、聞いて驚け。あのね…」
わけの分からないことを口走りながら私も席につく。
「チャコが、しゃべったの。」
「俺が、なんだって?」
そう斜め前の犬がしゃべったので、私は飲みかけた紅茶を盛大に吹き出してしまった。
「きったねぇな!なにしやがる!!」
「なっ…なんかいるぅ!お母さん何これ?なんで家にいるのぉぉ!?」
「あらあら、チャコは家族の一員よ、家にいて当然じゃない。」
台布巾でテーブルを拭きながら冷静にお母さんが答える。
「へ?あ、そうか…いやいやいや!犬だよ?新聞片手にコーヒー飲んでるけど犬だよ?別に家にいてもいいけどさ、犬なのにしゃべってるよーーーーー!!?」
「それは、おれがトクベツだからだ」
「それ昨日も聞いた」
「ちがーう!そんな言葉を聞きたいんじゃない!俺が聞きたいのは…」
チャコは毛に埋もれかけたつぶらな瞳でキッと私をにらみつけた。
「…チッ。『なにがとくべつなのぉ?』」
しぶしぶ私はその台詞をはきだした。
「舌打ちは不要だがまぁよしとしよう。何が特別かだって?フフン。何を隠そう俺は狛犬だ!」
「はひ?」
いけないいけない。思わず歴史的かなづかいになってしまった。
「だぁ~かぁ~ら!こまいぬ!神様の使い魔、霊獣、お犬様だよう」
「チャコが?」
「そうだ!俺は第226代目神事部葬送課狛犬、チャコ!おぬしら頭がたかぁ~い!」
チャコは椅子の上で仁王立ちするけど、座っていたときとあんまり高さは変わらない。きっと足が短いんだ。
「シンジブソウソウカコマイヌって何?」
「いい質問だ。簡単に言うとだな、狛犬ってのは神が住まう彼の世と人間の住む我の世をつなぐ仲介役だ。…彼我は互いに影響しあって存在している。だから、問題なく運営していくためには、それぞれが連携しなくてはならないことが多いんだ。」
頭にはてなマークを浮かべていると、二階から佳親兄ちゃんが降りてきた。
2つ年上のよし兄は低血圧で、朝は決まって機嫌が悪いのに、今日はチャコを見た瞬間、「あっ」と言って、ずり落ちそうになっていた眼鏡を指で正した。
「チャコ…が狛犬だったのか。ってことはやっぱりちかこが葬者か」
「よし兄、チャコのこと知ってたの!?」
「あぁ。古河家は遥か昔より彼の世と我の世のバランスを保つ役割を担っている。その任は古河本家の血筋を引く者に代々受け継がれていくんだが…彼の世から遣わされて、古河の新任後継者をサポートするのが狛犬だ」
うんうん、とチャコがうなずいた。
「今の当主は父さんだけど、チャコがお前に喋りかけたってことは、跡継ぎはちかこってことだな」
「まっ、そういうことだ。よろしくな、相棒。」
チャコはテーブルを飛び越えて私の目の前に着地すると、前足でぽん、と私の頭を叩いた。
「はぁーーーー!?」
トースターの中に入れ忘れたままだったパンは、黒焦げになっていた。
朝食を食べ終わり、着替えも済まし、顔を洗ったところでチャコが待ちわびた様にやってきた。
「ほれ、いくぞ」
「どこに?」
「決まってんだろ、本社だよ」
「ほんしゃ?」
チャコは会社にでも通ってるのだろうか。喋るくらいだからそうかもしれない。
「うん。裏山の神社だよ。まだ部長に挨拶してないだろう?」
「…ぶちょう…」
「うちの管轄してる神様のことな。業界じゃ部長でとおってるから。」
「業界って、アンタ…」
まったくもって意味不明だ。私は状況説明の権利を主張することにした。
「しっかたねーなー。いいか?この世界は二つに分けられる。古の神々が住む彼の世と、人間などが住む我の世だ。彼の世では、神々によってこの二つの世界を統括して管理する組織が作られた。それが<本社>だ。本社にはいろいろな部署があって、それそれ色々な仕事をしている。俺とお前が所属するのはそのうちの一つ、<神事部>だ」
「神事部??」
「神の“存在そのもの”を管理する部署だ。まぁ、詳しいことはおいおい話す。まずはその神事部の部長に挨拶だ。はやくいくぞ」
チャコがカチャカチャと音を立ててフローリングの床を走っていく。仕方なく私も後に続いた。
玄関を出ると、冷たい風が頬にささった。もう5月の始めなのに、珍しく冷え込みが厳しい日だった。頭上で輝く太陽にだまされて少し薄着だった私は上着を着てこなかったことを後悔した。
チャコはというと、私の愛用の自転車のかごにすっぽりと納まって、私が来るのを待っていた。
自転車をこぎだすと、最初はキリキリとした風が生身の手と顔にぶつかって痛かった。でもだんだん運動している体が熱を帯びて暖かくなる。
風が前髪を押し流すけど、冷たい風は寝ぼけた頭を冴えさせてくれる。
「気持ちいいね、チャコ」
「俺は寒い!」
かごに入ったチャコの体は毛でもっさもっさしてて寒そうには見えない。
「我慢してよねそれぐらい。こっちは荷台に茶色の重い物体のっけて坂道登ってんだからね、あ、もうすぐ下りだ」
「…下るときは、もちろんブレーキかけるよな?な?」
「なんで?一気にくだらないとその次の上りがつらいんだから」
坂を上りきって、息を荒げながら言った。前には道が見えない。
私はこぐのをやめた。
でも、自転車は重力に従って、徐々に、徐々に傾いていく。それに伴って速さもあがる。
後輪が、完全に下り坂へとのっかった瞬間、スピードは驚異的なものへと変貌した。
「ぎゃぁぁぁあぁぁぁああああ!俺、降りるぅぅ!!!降ろして!自分で歩くから!」
チャコの悲鳴を流しながら、私たちを乗せた自転車は軽快に坂を下っていった。
「おぼろろろろぉ」
自転車を降りて私たちは神社の前に立った。あ、違う、チャコは地面で倒れている。
「で、どうすればいいの?神様がドロンって出てきてくれるの?」
「ちばう。あそこの鈴鳴らして」
やっと立ち上がったチャコがはぁはぁ、と荒い息をつきながら言った。
「THAT?」
チャコが本社だと言うこの神社は、思ったより小さい。あと古い。四本の柱の上に、屋根が乗っかっている。そんな感じ。
その四本柱に囲まれた、部屋とはいえないような空間に石でできた観音様が無造作に置かれていて、その前に賽銭箱が放置されている。
中をのぞいてみたら、アルミニウムの塊がいくつか見えた。
鈴は、そんな神社の天井からぶら下がっている。周りの小ささの中で、やけに大きい。
「コレ鳴らせばいいの?」
「YES!」
鈴から伸びている太くて赤い縄を握り締めて、すこし揺すってみた。音はしない。
「もっと強く」
「でもこれあんまり強くゆすったら、この神社壊れちゃいそうじゃない?傾いてるよ、屋根」
「あほぅ!部長邸宅がそんなことで壊れるか!」
これが部長邸宅かぁ!というか部長邸宅ってなんだ言うなら社長邸宅だろう!…という叫びは心の中に閉まって、代わりに思いっきり疑いの目で神社をにらんだ。
神様、私はちゃんと確認しました。壊れてもバチはチャコにあててください!
私はギュッと目とつむって力いっぱい鈴を揺さぶった。
ガラァングゥワァン
大きな音がした。
目を開けると、上も下も右も左も白い空間に私とチャコは立っていた。
前には座り心地のよさそうな、革張りのゆったりとした椅子が背を向けて置いてある。
不意に、その椅子が半回転して私たちの方を向いた。
「やぁ」
椅子が、喋った。間違えた、椅子に座っていた人物が、口を利いた。
「ごぶさたっす!部長!」
チャコが気を付けして吠えた。部長ってことは…この人が神様?この、人が?
「まぁ、楽にしたまえ。君、私に会うのは初めてだね?」
ウサギが、私を見た。いや、ウサギがこっちを見ているかは分からない。ただ、ウサギのきぐるみを着た人が、私に向かって喋りかけてきたことはなんとなく分かった。
「あぁ、はい」
呆然として、頷く。
神様らしきウサギのきぐるみは満足げに足を組んだ。
「じゃぁ君が次の『葬者』なんだね。まぁまだ君のお父さんがやってくれるけど、ゆくゆくは頼んだよ」
「へい…」
ぎこちなく頭を下げた。どうも神様には思えない。
「これからよろしくねーン」
きぐるみが、さようならという風に手を振ったので、慌てて私は尋ねた。
「ひとつ、質問いいですか?」
「いいよ」
「なんで、ウサギのきぐるみを着ているんですか?」
「趣味かな」
「…趣味、ですか?」
「うん。趣味だね」
うん、この常人離れした趣味、この人は確かに神だ!
「これからよろしくお願いしまっす!」
私はびしっと敬礼してさけんだ。
気がつくと、私たちはまたあの神社の前に立っていた。
「部長は昔っからかわんねぇなぁ」
チャコが嬉しそうにつぶやいた。
「昔からきぐるみきてたの?」
「ウサギだけじゃないぞ、あの人はリスとかパンダとか、ゴジラのきぐるみだって持ってる」
「ふーん、そうなんだ」
それを聞いて、私はますます神様への尊敬の念を膨らませた。やっぱり只者じゃないぜ、アイツ!
「ちょっとこれみろよ」
チャコが神社の裏手に回って、私を呼んだ。
「何?」
行ってみて、驚いた。何十体もの石像が雑然と地面に置かれている。全て、犬の像だ。
「すごっ…」
古いのも、比較的新しいものも在る。草が生えて、絡まって、自然の一部になりつつあるのもある。
春に近づいているこの世で、草木の息吹に圧倒されながらも、しっかりと地面に留まり威厳を無くさない歴史のある像たちだ。
「歴代の、連絡狛犬たちだよ。俺の大先輩達だ。役目を終えたあともこうして神社の傍にいて、見守っているんだ」
忠犬だろ?とチャコが誇らしげに胸を張った。
「俺もいつかここに並ぶからな。それまで一緒に頑張ろうな、相棒っ!」
ばんっと背中を叩かれて、なんだか一人前だと認められた気がして嬉しくて、照れた。
「チャコの像だけお笑いになりそうだけどね」
「てめっ!どういう意味だそれ!」
私は照れ隠しにあははっと笑った。




