14
駅から歩く間も雪は降りやむことなく、僕の肩を濡らした。落ちては溶ける雪が、アスファルトの匂いを漂わせた。昔、これが雨の匂いだと思っていたことがあった。いつだろう。雨や雪には匂いがないと気付いたのは。そんな話も、あおいとした。
帰りたくないと思っても、他に行く場所はない。仕方なく家に帰り、玄関を開けた途端、いつもの日常が意識に割り込んできた。テレビの音、母親が弟に話しかける声、父親が新聞をめくる音。
リビングのドアが開いて、その隙間から弟の大進が顔を出した。
「櫂ちゃん、おかえり。」
「うん。ただいま。」
弟は、いつまでも僕のことを『櫂ちゃん』と呼ぶ。母親が、幼いころから僕をそう呼んでいたからだ。一度も『お兄ちゃん』と呼ばれた記憶がない。
それ以上何も言わず、階段をのぼる足を止めることもなく、僕は自分の部屋に入った。ヒーターのスイッチを入れ、脱いだダウンジャケットをハンガーに掛けると、ベッドにダイブした。
考えることが多すぎて、脳みそが疲れた。僕は、重い足をひきずって、机の上にあったノートを一枚破り、『起こすな』と殴り書きしてドアの外に貼り付けた。誰にも邪魔されないで、目が覚めるまで眠ろうと思った。いや、もう目覚めなくてもいいと思った。でもそんなことはないだろうから、せめてこの後ろ向きの気持ちが、何とか改善されていることを願って、僕は目を閉じた。
目が覚めたのは翌日の夕方だった。自分でも驚いた。十六時間も眠っていたことになる。ベッドから降りると、体がバキバキ音を立てそうだった。
「あ、櫂ちゃん。やっと起きた。父さんと母さん、温泉に行ったよ。」
飲み物を取りにキッチンに降りると、弟が料理をしていた。僕と違って、何でも器用にこなす弟は、普段からそういうことをしている。お好み焼き、食べる?と聞かれた途端、空腹に気付き無言でうなずいた。
「温泉って、泊まり?」
冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぎながら聞くと、そう、気持ち悪いよなと返ってきた。
「そういうこと、思うんだ。おまえ。」
「思うよ。なんで?」
「いや、だって大進はちゃんとあいつらの相手してんじゃん。偉いよ。」
「櫂ちゃんがしないから、してるだけ。マヨネーズかける?」
出来上がったお好み焼きに、ぐるぐるとマヨネーズをかけ、はい、と僕の前に皿を置いた。
書道教室が忙しかった母親は、僕らが小学生のころ、土曜日の昼食によくお好み焼きを用意してくれていた。関西出身の母は、お好み焼きとは焼きたてを食べるものと言い、テーブルの上にはホットプレートが用意されていた。自分が食べたい大きさのお好み焼きを自分で焼くのだ。それは年齢とともに大きくなり、兄弟で競い合った。ふたりで食べたお好み焼きは、子ども時代の懐かしい味だった。
「うん。うまい。」
「まだ残ってるよ。焼く?」
「焼く。」
久しぶりに、弟と食事をした。いつの間にか、身長は僕と同じくらいになり、髪型に気を遣うようになっていた。勉強ばかりしていると思っていたが、この間、留守に辞書を借りようと部屋に入ると、鞄の中に『そういう』DVDが数本入っているのが見えた。意外だったけれど、兄としては普通に育っているのがうれしかった。
残りのお好み焼きをホットプレートに落とし、丸く形を整えながら弟は、櫂ちゃん彼女できたの?と聞いた。答えを濁していると、最近何か考え事してるっぽいから、と言った。
「色々あるんだよ。」
「うわ、なんか上から!」
「上だからな。」
それでも弟は笑いながら、お好み焼きをひっくり返して、満足そうだった。
「食べたらさ、ゲームしようぜ。敦史のゲーム、またレベル上げしなきゃなんない。」
「やるやる!」
お好み焼きを頬張る弟は、子どもの頃から何も変わっていなかった。勉強も、スポーツも、何でも僕の真似をしたがって、いつの間にか僕よりうまくこなしていった。だけど、背中を押してくれる誰かの存在がなければ、弟はいつもそこから動けずにいた。それはいつも、僕の役目だった。単純に、かわいかった。守るべき存在は、ずっと弟だけだった。
…あおいに、出会うまでは。
あおいに出会って、僕は恋をした。あっという間に、溺れた。ただ向かいあって話すだけで、小さな冷たい手を握るだけで、僕はあおいのことしか考えられなくなっていった。ずっと頭のどこかにあおいのことがあって、ふとした瞬間にあおいの匂いが鼻腔によみがえる。好きという気持ちよりも、感覚で、嗅覚で、あおいにのめり込んでいった。
守ってあげたい。
でも、この気持ちが半分も伝わっていなかったことを知るのは、もっとずっと後のことだ。