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「トイレ行ったくらいで疲れるとか、おまえ情けねーな。そんなんじゃ大学戻れねーよ」
孝太が笑えない冗談を言う。でも冗談じゃなく、僕らの切実な願いだとわかるから敦史は笑う。それからくだらない話をいくつかして、昨日の合コンに話題が及んだ。僕は自分が、空気も読まず早々に帰ったことが、少し引っ掛かっていた。僕は二人から離れて窓辺に立った。
川面に太陽の光が反射している。とっくに夏は終わったけれど、日差しはまだ弱くない。いま、敦史を連れて外に行けたら、それだけで寿命くらい延びそうな気がする。それくらい、いい季節なんだってこと、敦史は知ってるのかな。
その時、枕元のスピーカから食事の用意を知らせるアナウンスが聞こえた。
「んじゃ、帰るわ。」
「おれも。また来るわ。」
敦史は軽く手をあげて、じゃあな、と言った。
あれから、倉本あおいは、ことあるごとにメールをよこした。あれから、というのは僕らが初めて出会った合コンの日で、あの日から何となく絶妙の間隔で連絡を取り合っている。
飲み直し、と言われてついていった先は彼女の一人暮らしのマンションだった。もちろん、女の子の部屋に行くのは初めてだったし、僕の乏しい想像力を総動員しても、初対面の男を一人暮らしの自宅に誘う、彼女の意図するところはわからなかった。
玄関をあけると微かに柑橘系の香りがして、そのとき僕は直感した。この子が僕の彼女になるのだと。
二人が立つと身動きの取れない玄関から部屋にあがると、ここで料理ができるのか疑問に思うほどのキッチンと、その奥に八畳ほどの部屋があった。ベッドと小さなテーブルの他に本棚とノートパソコン、洋服をかけるラックがあった。まあ平均的な学生の一人暮らしなのだろう。色味はあまりなく、洋服のセンスとはまた違うんだな、と思った。
近くの教育大に通う彼女は、あの時来ていた女の子たちとは小学校の同級生で、僕と同じように来られなくなったメンバーの穴埋めだということがわかった。どおりで場の雰囲気にそぐわなかったわけだ。あおい以外はこの辺りではちょっと名の通った女子大の学生で、あおいは国立の教育大生。将来は華やかなステージを望むのか、教師として公務員を目指すのか、その違いだ。
「慎二、今日も来てないの?」
火曜日朝イチ、経済学入門という必修科目の授業が始まる十分前。慎二はまだ教室に姿を見せていない。僕は今年買ったブルーのライトシェルパーカを脱いで、椅子の背にかけた。
「あいつ、後期に入ってからまともに学校きてなくね?」
ノートを持たない孝太は、教科書にすごい量の書き込みがある。その教科書を広げて、授業が始まる直前に予習をする。中学時代からずっとそうだ。勉強をしなくても成績のいい、典型的な天才型だ。人の三倍努力してこの成績の僕とは、脳の仕組みが違うのだ。
「来ないつもりかな」
たぶん、あの人のところだ。孝太には言っていないが、慎二には付き合っている人がいる。彼女と言っていいかどうかわからない。そんなに明るく言えるような雰囲気ではなかった。少なくとも、平日の昼間にラブホテルでしか会えないような関係は、僕や孝太には言いたくないのだろう。
携帯電話をマナーモードに切り替えようとポケットから出すと、メール着信のランプが点いていた。オレンジ色の発光は、あおいだ。
『今日何も予定がなかったら、お茶しよう』
ふ、と笑いがこみあげた。なになに、と孝太が隣からのぞき込む。
「けどびっくりだよ。おれより先に、櫂進に彼女ができるとか」
孝太は決して嫌味ではなく、うらやましそうでもなく、さみしそうだった。慎二は(おそらく人妻との情事に)忙しそうだし、敦史は入院している。僕は最近できた彼女と(顔には出さないけれど)、楽しそうだ。
「なあ、いつもあおいちゃんと何してんの?櫂進が女の子と笑ってるところなんて、想像できないんだけど」
「いや、普通に大学のこと話したり、買い物したりカラオケいったり。あと、お茶したり。そんなんだよ」
「お茶ぁ?!なんだよ、お茶って!かわいいことしてんじゃねえよ」
勢いあまって声が裏返ったところで、先生が入ってきた。
(いつものところで、待ってて。今日はバイトないから。)
そっと机の中で返信すると、ぱたん、と携帯を閉じた。隣の孝太をちらっと見ると、もう真剣に授業に聞き入っている表情だった。
いつものところ、とはお互いが通う大学のちょうど真ん中の駅だ。そこは市立図書館や大型書店もあるし、もしどちらかが約束に遅れても時間を持て余したりしないように、と僕が提案した。週に一回か二回、そうやって待ち合わせをして、僕らはたいていカフェでとりとめのない話をした。好きな音楽の話。好きな本の話。家族の話。
いつか行ってみたい国、いつかしてみたいこと、いつかなりたい、大人の理想像。あおいの話はいつもふわふわしていた。甘いケーキを食べながら話す彼女の表情は、これでもかというほどの可愛らしい笑顔で、僕がほぼ初めての恋に落ちるまで、一瞬だった。最初の出会いが嘘のように、僕はあの時、半ギレして店を飛び出してよかったと思った。そしてあの時、携帯電話を忘れていなければ、と思うと運命という言葉を信じずにはいられないのだった。
出会った頃はシャツを羽織っていたのに、いつのまにかそれがパーカになり、ダウンジャケットになるころ、僕らは手をつないで歩くようになっていた。ちいさなあおいの手は、握りしめると折れそうだった。もちろんそんなわけはなくて、ただ僕の経験値の低さがそう思わせているだけだった。
「ねえ、寒い」
「うん、もう十二月だもんな」
水色のダッフルコートを着て、寒色系のボーダーのマフラーを口元まで引っ張り上げて、あおいは僕の数歩後ろを歩いていた。なぜか今日は最初から並んで歩いていないし、手もつないでいない。
「じゃなくて、」
「え?ごめん、何かな」
お互いのことは、もう全部知り尽くすくらいに話した。そのことで、たぶんあおいは、僕らは言わなくてもわかるみたいな感覚を持ち始めていたのだろう。でも僕はそうなれなくて、最近ではかみ合わない会話が多くなっていた。あおいは、きっと僕が初めての彼氏じゃないんだろうな。そういう話はしたことがないけれど、そう思う。だからといって、知りたいわけでもない。逆に僕にとってあおいが初めての彼女じゃなかったら、今みたいな状況で、僕は自分がすべき行動を間違いなく遂行できたのだろうか。 その日はふたりともあまりお金がなくて、公園をぶらぶらしていた。真ん中に大きな池があって、周りを散歩道が囲っている公園だ。池のコイもカメも寒すぎて姿をみせていない。
「じゃなくて!」
あおいは少し強い口調で言った。イライラしてるのかな、と、それくらいにしか思っていなかった。
「じゃあどうしたいの、あおいは」
僕は少し冷静になるかと思い、ちょうどそこにあったベンチを勧めた。でもあおいは座る気配がないので、僕一人が座った。冷たい。
「なんでそうなの、カイは」
あおいは僕のことを『カイ』と呼んでいた。誰も呼んでいない呼び方で呼びたいと言われ、それに落ち着いたのだ。
「なんで…って、どういうこと」
そう聞き返したときには、あおいのまん丸の瞳には、もう涙が今にもあふれ出しそうだった。あおいが泣くのは初めてだ。僕はベンチに座ったまま、そう変わらない視線の高さであおいを見つめていた。
「帰る」
「え、なんで?何も言わないんじゃ、おれだってわかんないよ。説明してよ。何か気に障ることをしたんなら謝るし、何か言いたいことがあるんならはっきり言ってよ」
自分が言ったことは正論だし、この状況を打破するには最適な語句の選択だと思っていた。疑わなかった。
「だから、なんでそんななの、カイは」
もう一度そう言うと、あおいは今来た道を引き返して、どんどん僕から遠ざかっていった。小さいあおいが、本当に小さくなっていく。
「めんどくせー…」
思わず呟いたのは、本音だった。僕はベンチに座ったまま頭を抱えた。…面倒くさい。普通に話しているだけなら楽しいし、一緒に歩いていると気持ちよかった。そこそこ頭の良いあおいは、僕がどんな話題をふっても、全くわからないということはなかった。中高の友達と、感覚的にはあまり変わらなかった。男子校の気楽さに、異性と過ごすドキドキ感が混じったような、悪く言えばお得感満載の女の子なのだ。それが今日一変して、僕の最も不得意とする分野の問題を突き付けてきた。『気持ちを察する』など、僕の日常にはなかった問題だ。
考えてもわからない。本人に聞いても答えてくれるわけがない。途方に暮れる時間すらもったいない。そのうち何とかなるだろう、で十二月も半ばを過ぎていこうとしていた。師走とはよく言ったものだ、と妙に納得していた。
大学は冬休みに入り、僕はバイトを増やした。年明けから教習所にでも通おうかと思い、その資金稼ぎのためだ。
うちの家庭は、裕福なほうだと思う。父親は言えば誰もが知る企業に勤めていて、週末は好きな釣りやゴルフに出掛けた。母親は趣味が高じて自宅の一室で書道教室を開いている。弟は僕が通う学校よりも偏差値の高い中学に合格し、今はその高校の二年生だ。僕が生まれた年に建てたという一戸建ては、小さいけれど庭もガレージもあり、そこには国産車だけれどまあ安くはない車が停められている。子ども時代は毎年家族旅行をし、欲しいおもちゃの全部とまではいかなくとも大体は買ってもらえた。