10
「え」
「あ。漢字、ね。漢字」
「あ。うん。」。
「海を渡る、の逆だよ。」
「あー。コットンシェルかと思って。」
いや、そこ、『綿の貝』かと思って、でいいだろ。
その女の子はそれだけ聞いて、頬杖をついて壁のメニューに視線を向けた。真横からみた印象は、小動物。頭のてっぺんで髪をくるっとまとめて、すとん、としたシルエットのワンピースを着ている。座っているからわからないけれど、小柄なんだと思う。
「…名前は?」
名前を聞いただけなのに、その子はものすごくびっくりした顔をして僕の方を見た。そして次の瞬間耳を疑った。
「なんでそんな偉そうなしゃべり方なの?」
な…。なんだ?いま、何て言われたんだろう?普通に名前の話の続きで聞いただけなのに。
「あー、そうか。男子校育ちで女子と口きくのに慣れてないんだ。いるいる、うちの大学にもそういうの、いるわ」
え、なになに、あおいちゃん、櫂進のこと気に入ったの?と孝太が隣から首を突っ込んだ。
「違う違う、この人なんかエラソーだったから」
「ごめんねー。頭良くってちょっとイケメンだから、冷たいんだ。いや、基本いい奴なんだけどね」
なんか、無性にムカついてきた。普段は余程のことがない限りキレたりしないが、さすがに今の孝太と、ムーミン谷の仲間みたいなこの女にはムカつく。
「帰るわ。孝太、明日敦史んとこ別々にいこうぜ」
何なんだよ、来いっていうから来たのに。引き返してきて損した。鞄をつかんで立ち上がった僕の背中に、女の子達の視線が集まっているのがわかった。
「いーって、いーって、あいつ、もともと合コン嫌いなのにおれが無理に誘ったから。」
その子たちをなだめるように孝太が言うのが聞こえた。知るか。孝太みたいなやつに彼女なんて一生できねーよ。
下に向かうボタンを連打してエレベーターを待っている間、携帯を開けようと鞄を探って気づいた。さっきのテーブルに忘れてきた。戻るの、ものすごく気まずいな。その時後ろから袖口を引っ張られて振り返ると、ムーミンの友達がいた。
「はい。忘れてたよ」
「ああ…ありがとう。えっと…」
「倉本あおい、です」
その時ちょうどエレベーターが来て、ドアが開いた。ありがとう倉本さん、と言ってエレベーターに乗り込むと、その子は一緒に箱の中に入ってきた。そして素早く『閉』ボタンを押すと、階を示すランプを見あげた。あっという間に一階に着いた。
「倉本さんは、もう帰るの?」
「うん」
「そう。楽しそうだったのに?」
「…作戦、成功した」
ビルの外はさっきより肌寒く、羽織っていたシャツの裾が一瞬風にはためいた。倉本さんは薄いワンピースを着ていて、その下からはインディゴデニムの足がのぞいていた。小柄なのにヒールのない靴を履いてリュックを背負って、まるで中学生だ。
「ちょっと怒らせて、外に連れ出そうとしたの。だから、作戦成功」
なんだ、まだ文句があるのか。外に連れ出してまで言いたい文句があるほど、僕は彼女の気を悪くした覚えはないし、そこまでされるほど出会ってから時間は経っていない。さすがの僕も本格的に腹が立ってきて、無視して駅に向かおうとした。
「ひとめぼれ、したの!」
背中に向かって叫ばれたその声を、まだ聞きなれたとは言えないその少しハスキーな声を、僕はちゃんと、僕に向かって発せられた声だとすぐに認識した。振り返る間もなく、「渡海櫂進くんに、ひとめぼれしました!」と聞こえた。
「な、ちょっと、恥ずかしいからやめろよ」
その場にいた人たちが、こちらを見ている。倉本さんは大きく息を吸って、まだ何か叫びそうだった。金曜日の夜の駅前でこれ以上注目されるのはごめんだ。僕は脚をもつれさせながら走り寄り『わ』の形に開いた口を手でふさいだ。
「やめよう、そういうことは。ね」
「じゃ。行こうか。飲み直しね」
すっかり倉本さんのペースにはまった僕は、半ばやけくそで、その小さな背中を追いかけた。
それから、十年後も忘れない女の子になるとは、その時思いもしなかった。
次の日、バイトも学校もない土曜日の午後、僕は最寄り駅からJRに乗って大学のある駅よりも向こうにある病院に向かった。春に敦史が入院してからほぼ毎週、慎二と孝太の三人で通っている。最近は慎二がバイトで忙しかったり、孝太が家の手伝いで抜けられなかったりで別々に会いに来ることが多くなっていた。今日は慎二がサークルの集まりで、孝太とは昨日居酒屋でのことがあってから連絡がない。
敦史の病室は五階の南側で、窓からは星南市を南北に流れる一級河川を臨むことができる。夏には河川敷で花火大会が行われ、今年はこの病室から四人で花火を観た。
「あっつしー、入るぞー」
途中で買ってきた敦史の好きなマンガ雑誌を片手に、軽い引き戸を開けると、ベッドには敦史がおらず、かわりに孝太がいた。
「んだよ、おんなじ時間に来るなって言っただろ」
「んあ?櫂進か。敦史、いまトイレ」
そう言って、今まさに僕が買ってきたのと同じ雑誌に、再び視線を戻した。この能天気さは、たぶん僕が昨日言ったことを何一つ聞いちゃいない。でも、同時に今のいままで僕も忘れていたことに気づく。
「昨日ふたりで消えて、どうしたんだよ。あおいちゃんと」
相変わらず雑誌から視線をあげずに、孝太が聞いた。
「べつに。消えてなんかないよ。携帯届けてもらって、そんだけ。」
病室に置いてある、僕専用の折り畳み椅子を片手で広げて座ると、んだよ、じゃあ、あおいちゃんあの後一人で帰ったのかよ、と孝太はひとりごとのようにつぶやいた。その時ちょうど敦史が点滴のスタンドをゴロゴロ押しながら、病室に戻ってきた。
「よう、元気か?」
敦史はいつも、自分が病人のくせにそう言う。
「こっちのセリフだよ。なに、この間は面会謝絶の気分だったの?」
「まあな」
シカゴブルズのTシャツを着た敦史は、半年前に比べると目に見えて痩せた。ハーフパンツから出た脚は、棒切れのようだ。
「あ。これ、レベル上げといた」
前回来たときに頼まれていたゲームを渡すと、受けとる手が異常に冷たかった。こんなとき、僕は冷静に敦史は確実に死に向かっているのだな、と感じる。本当は生きていてほしい。ずっと、ずっと僕らは仲間で、一緒に大人になっていくのだと思いたい。でも、できないこともあるのだ、と敦史は言う。
敦史は自分の余命を知っている。医師である父親が知らせた。敦史もそれを望んだ。桜が満開の頃、あと半年だと。
「はー。疲れた」
ベッドに腰かけたかと思うと、そのまま枕に倒れこんだ。もう、話す声すら力ない。でも僕らは話す。覚えていてほしいから。