拾い物
ざり、とかたい何かがほほにこすれた。あえていうなら亀の子だわし。それを少しだけ柔らかくしたような。
この感触、嫌い……覚醒しない頭での、ほとんど反射みたいな反応で、私はそれをぐっと押しのけ、ごろりと寝返り背中を向けるようにして再びの眠りにはいった。
ざりざりざり、とかたい何かが……と考えたところで、ぱちりと目が覚めた。これはたしか二度目。そこまでは頭が回ったものの、どうやらばっちり二日酔い。一応ベッドには寝ているので起き上がる気がしない。
そんなだらだら思考を垂れ流していると、どうやらそのざりざりは移動し始めたようだった。意図不明。それがいるお腹のあたりがほんのりあたたか、く、……く?
頭が痛むのもこらえて起き上がり、その何かを振り落した。なんだこれ。なんだこれ。なんだ、これ!
「くーん」
「……」
「くうーん」
「……」
「ぐるぐるぐー」
「……最後の、どう考えてもお腹からでる音じゃないよね、お前」
「わん!」
私は黙ってそれ……すなわち、真っ黒な毛並みのお犬様を撫でた。正直毛がかたくてやりづらい。撫でることが、というよりは、むしろ扱いというか、今後どうするのかとか、そういう方向で。過去に飼っていた動物はどの子も柔らかい毛並をしていたから、初めて感が強い。
「あーあ、どうしよっかな、こいつ……」
正直、完全にほだされてしまっていた。
「とりあえず……片付けるかなあ? ああもう、ひどいなこりゃ」
原因は私だ……と思う。玄関からベッドまでの道がとにかくすごい。昨夜の酔いつぶれ具合が目に浮かぶようだ。
足元にあったものを拾い上げながら、私は名前もまだない新たな居候に声をかけた。さっきから大人しくしてくれていて、非常に助かる。
「ねえお前、なんて名前がいい? 私ネーミングセンスないからさ、お前何かいい案だしなよ」
何気なく口に出した冗談だったのに、そのときふっと、返事をするような声が、頭の中に響いて。
「…………お前、今返事した?」
「わん!」
それもまた、まるで返事のようだったから、私は何となく、不思議な気分になったものだけど――
「……返事のつもりなら、テレパシー使うときくらい、犬語じゃないので話そうね」
「くぅーん?」
「……気のせいかね」
どう見てもテレパシ―なんか使う高等生物じゃないわこれ、とすぐに思い直した。第一、犬語で話しかけるんだったらテレパシーを使うことに意味がない、ということに気が付かない時点でだめだと思うこのお犬様。
「……とりあえずゴローとかじゃあ、ダメ?」
「わん!」
素直でよろしい、と撫でてやりながら、私はゴロ―の感性が雑だったことに感謝した。
「日坂 香織です。よろしくお願いします、ゴロー君」
ざかざかと散らばったものを脇に寄せるだけ寄せた後、水を一杯飲む。
「ふーっ……」
水道水でも、冷えてはいるので十分おいしい。
「ゴローも飲む―?」
「わん!」
犬は好きだが、食事に同じ皿を使うのは衛生的にどうかと思う。最終的には、洗ってあったイチゴのパックを使うことにした。そのうちそれらしいものを買ってきてやろうとは思う。
「ドッグフードじゃなくてもいけそうな顔はしてるけど、健康を考えるとちゃんとしたのを買ってきた方がいいんだろうなあ」
なにせ酔った衝動で拾ってきてしまったので、何も用意がない。かといって、私のほうもお出かけする心境ではない。まったくもって、失恋に浸るには余計なものを拾ってきてしまったものだ。
「3、4日くらいなら、人間用のご飯でも我慢してくれるでしょ」
ゴローには悪いがご主人様の予定が最優先である。私はさっさと服を脱ぎ、パジャマに着替えた。
割と休みには自由の利く職だ、3日間の有給休暇は取得済み。ここは予定通り休ませてもらおう。というかすっきりして仕事に励むためにも、この休暇中に何とか吹っ切らないと。
「好きだったのになあ」
言葉に出したら、思ったよりも寂しげに響いて驚いた。……これ以上何か考えたら、布団にくるまるのを待たずに涙が出てしまいそうだった。押し戻すために、空元気を振り回す。
「てなわけでゴロー君、拾われてきたとこ悪いけどちょっと私は寝ます! ……と、トイレは用意しないとダメかな」
ただし犬用の装備はこの部屋にはない。私はしばし考えてから、ゴローにこう提案した。
「よし、猫砂はどうだねゴロー君!」
へな、と耳としっぽがかわいそうな感じに垂れたが、文句は言わないところが優しい。ごめんねの気持ちも込めて、よーく褒めてよーく撫でておく。膝の上に抱き上げると、ほのかに暖かいのが心地良かった。
「そんじゃ、お姉さんはちょっと寝るので、どいたどいた。 ……ん、お休み!」
お腹が減ったら起こしてね、とだけ伝えておいた。賢いようなので大丈夫だろう。
私はぐるりと布団にくるまって、思うぞんぶん、泣いて寝た。
好きな人がいて、付き合っていた。告白をしてくれたのも、手をつなぐのも、彼のほうからだったけど、“好き”は私のほうが多かった。
彼は私だけじゃ足りなくて、ほかにも彼を好きになる人はいて、彼はその人と浮気をしていた。彼の“大切”は私のものではなくなった。
それだけの話。
何の変哲もない、ありがちな、ただの失恋の話。
「腹減ったーっ、起きてーっ」
たすたすと顔をはたかれて目が覚めた。眼前にゴローの鼻。部屋は予想以上に暗くて、思っていたよりも長い間、ゴローは私を寝かせておいてくれたらしかった。
ぐいぐい鼻面を押し付けられながら体を起こした。
「ふぁあ……っ、ごめんねゴロー、今ご飯を作るから、ちょっと待ってね」
言いつつゴローを抱き上げて、ぐりぐりとほほを押し付けた。ちくちくはするけど、なんだか本当に可愛い。こっちがどれだけ話しかけてもわんとしか返ってこないのは話のし甲斐がないけど。何も考えてなさそうなところがすごく癒される。
私を起こした時と同じようにたすたすとはたいてきたので何かと思っていたら、今度はじーっと見つめられた。
「……あ、ごはんね」
「ちがう! ……違わないけど、ごはんはいるんだけど!」
「はいはい、そんなにわんわん言わなくたってすぐ作ったげるってば」
どうしよう、うちのわんこほんとに可愛い。
ロールキャベツを作ってあげたら、予想以上に好評だった。
「だからー、俺はホントは狼男なんだけど、成人するまで自由に変身はできないのーっ! だから、今こそこんななりしてるけど、成長したらものすごくかっこいいんだっ!」
「うんうん、私も食べてるからわかるよ、おいしいよね」
「俺を拾ってくれた香織には感謝してるから、別に好みじゃないけどっ! 特別に嫁にしてやるからな!」
「ふふふ、そんなに褒められたことないから照れちゃうなあ、今日の夕飯、これにして大正解」
私は本当においしそうにロールキャベツ(inイチゴパック)を食べるゴローをそっと撫でた。犬に食べさせるのにわざわざ巻く必要はないかとも思ったが、記念すべき第一回目のご飯なので気を使ってみた。
「私はもうお腹いっぱいだけど、どんどん食べていいからね。 ……これからよろしく、ゴロー君」
たまらなくかわいい同居人に、私はそっと微笑んだ。