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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

凡才肌

 もし仮に、そこそこのお金を用意されて、男と女どちらに抱かれてもいいかと聞かれたら、わたしは少し迷ってから男と選ぶだろう。

 女の体の汚さはよく知っている。わたし自身が女であればこそすれ、だが。

 他人の女と口づけをするだとか、デリケートなゾーンを触るだとか、舐めるだとか。

 考えただけで、全身という全身に鳥肌が立ち、虫唾が走り、反吐が出る。

 女性に抱かれるくらいなら、全身がイボイボの脂ぎったおじさんに抱かれるほうがましというもの。

 同性愛。そのような世界があるのは知っていた。

 でも、やはり対岸の火事、ではないけどどこか遠い出来事、別の世界の出来事、わたしには関係のないこと、そう思っていた。知り合いの知り合いの女子校の娘などは、同級生と付き合ってるなんてことは聞いたことがあったが、思春期にありがちな、一時期の麻疹のようなもので、数年後にはただの苦い思い出となって消えるだろうと、わたしは聞き流していた。

 だから。

 だから、展覧会のわたしの絵を見に来てくれた、三十代くらいの綺麗なおばさんに誘われ、喫茶店で奢って貰って、しばらく話した後『何か欲しいものはないかしら?あなたの財布では買えないようなもの。よかったら買ってあげる』と言われても、意味を理解するのには時間がかかった。

 お茶を奢って貰うことに疑問を抱かなかったのは、『多分覚えてないけど、親戚のおばさんかな?』とか思っていて、必死に思い出そうとしてたからだ。我ながら警戒心が緩いという自覚はあるものの、男性ならともかく、女性だったので、特に危ないことはしないだろうという確信があったこそなのだが。

 なんともまあ大雑把な確信だこと。

 綺麗な女性だからだったというのもある。

 わたしは同性愛者じゃなくて、女性に抱かれるのは、ベルトコンベアに乗って流れてきたカマドウマを一日中握り潰し続ける仕事よりいやだけど、それでも一緒にいると、心臓が高鳴る、そんな女性だった。

 彼女に何か買ってくれると言ってから一拍、そして二拍置いて、そして目の前の夫人の表情を見、ようやく彼女とは初対面であることを思い出し、そして彼女の言わんとする意味を理解した。

 

「いえいえ、わたしの財布で買えないような高価な物なんて貰えませんよ」


 相手はお金持ちのようなので、できるだけやんわりと、出来るだけ柔らかに答えた。


「そうかしら、あなたの家早くにお父さんを亡くして大変でしょうに。買えないものも多いでしょうに」

 

 その女性の声はとても穏やかだった。

 化粧の上手い人を見ると、そのやり方を出来るだけ真似出来ないかと考えてしまう。

 ここはこういう方法があったのか、とか。

 あの部分は安いので代用できそうだ、とか。

 あそこはああしないほうがいいな、とか。

 普通は様々なことが思い浮かぶのだが、目の前の女性はどういった化粧をしているのかが、わからなかった。厚化粧というわけではない。高そうなものを使っているんだろうな、というのはわかったけれど、効果的に、そして薄く、自身の引き立て方を完璧に理解している化粧の仕方だった。

 どうやっているのか聞いてみたい、と一瞬だけ思ったけど、すぐに打ち消した。

 

 最初にああ言ったけど、男性だからいいとかいうのはない。どちらかと問われたら男性を選ぶだけだ。それに自分自身を安く売りたくはない。自分自身の価値の安さはある程度は自覚しているけど。


「私はね、あなたの才能にに投資をしたいと思っているの。あなたの絵はとても素晴らしいと思ってる。それのついでに仲良くできたらねって」

「はあ」


 曖昧な返事をわたしは返したけど、内心は鼻で笑うことを堪えていて。

 このひとはあまり絵を見る目がないんだなと判断したりして。

 いくら口に出さないとはいえ、そんなことを思うは失礼すぎるとは自覚していたものの、失礼なのはお互い様だ。

 だからわたしは断る口実もかねて、意表返しのつもりのようなことをしようとした。

 わたしは嫌だということを遠回りに言うために。

 その綺麗な顔が、少しでも怒りに歪む所を見たくて。

 援助交際の相場というのはよく知らないが、おそらく三万や四万ほどだろう。女性同士だからといってその倍以上になることはあるまい。

 だからわたしはふっかけた。

 その相場の五倍ほどの値段を。

 わたしは、宝石店で売っている、ネックレスが欲しいと言った。値段はちょうど二十万円。

 はっきり言っていらなかったが、わたしはそれが欲しいと彼女に言った。

 強欲な娘だと呆れるだろうか。馬鹿にするなと怒りに打ち震えるだろうか。

 だが目の前の女性はこともなしげに言った。


「いいわよ」



 あっけらかんと言った彼女に驚いてしまい、

 更に二十万あれば色々楽になっると考えてしまい、もしかしたらわたしの思い違いで本当に親戚なのかもととか、頭の中を色々な物が回っていたら。混乱して、流されて、いつの間にかホテルの前。インター近くのデフォルメされたお城。

 それからなし崩しにわたしは彼女に抱かれた。

 自身の手に爪の後が残るくらい拳握り閉めながら、わたしはことが終わるのを待った。天井の染みを数えるなんて、本当にするのだなって。

 やってみれば、意外といいものかもしれない、そういう希望もあったけどそんなことはなかった。

 嫌で嫌で、いやで厭で嫌でいやでいやだった。

 そして帰り際に彼女は一言。


「これからもよろしくね」



 ◇ ◇ ◇



 彼女は団子坂だんござかあやめと名乗った。

 あからさまな偽名。おそらく江戸川乱歩のD坂殺人事件のもじりだろうけど。D坂は団子坂のことだというさりげない薀蓄が少し鼻につかないでもない。

 

「じゃあわたしは二重心ふたえこころで」とわたしは夢野久作の小説の捩りでなんとなく返す。

「それいいわね。本名と交じってるし、今度からあなたのことそう呼びましょう」


 思いのほか気に入られた。

 あれからわたしは嫌だったけど何度もあやめと肌を重ねた。ネックレスは即売ったけど。

 お金のためだ。

 自分の女の価値が二十万円というと安いと感じるかもしれないけど、実際こんなものなのかもしれない。弟達のためだなんて、言い訳はしたくなかった。自分のため、自分自身のためだ。

 嫌だけど耐えることは可能だった。

 そして今日、彼女の御屋敷に招待されることとなった。

 今いるのはその門の前。煉瓦作りの塀に囲まれた大きな御屋敷だった。

 鉄格子の門を越えると庭があった。植えられた楡の木が生い茂っており、地面に影を落としていた。そしてその木々の隙間から見える白い洋館と、木造の日本風の離れ。

 中に入り、『本当に赤い絨毯とか敷いてあるんだとか』とか思いながら、暖炉のあるダイニングルームに招かれる。

 そこには一人のメイドが立っていて、そして円形ノテーブルには一人の少女が座っていた。

 メイドは文字通りの家政婦さんだからいいとして、座っている少女は誰なのだろう。

 わたし達が部屋に入ってきても、テーブルに並べられた食事を眺めているだけで、反応をしようとしない。

 凛とした雰囲気で、黒くて長い髪。そして黒いセーラー服を着ている。

 わたしと同じくらい、いや少し下くらいの年頃の娘だろうか。

 たしかアヤメは別居中の夫がいると言っていた。もしかしたらアヤメの娘さん?

 だとしたら、これほどまでに気まずいことはないだろうし、相手の気持ちになっても母親の愛人と一緒に食事をするなんて嫌すぎる。

 と、そんなことを考えているとあやめは、セーラー服の彼女のことを紹介する。


「紹介するわ心さん。この娘はえっと……貸船十三かしぶねとおみさん。あなたと同じ私の友達よ」


 今考えた偽名なのか、等の十三とおみも少し驚いた顔をするも、すぐに無表情になる。

 小説の捩りの偽名って痛くないかと思ったが、ミステリー好き的には、古典作家と同じ名前で呼ぶくらいはセーフなのだから、これぐらいはいいかと考え直す。

 それよりもあやめはこの娘がわたしと同じ友達と言った。

 わたしと同じ。

 それはつまりそういうことで。

 そしてその後あやめはわたしを紹介する。

 

「始めまして」


 十三の返事はとてもそっけないもので、人を拒絶する壁のようなものを感じさせた。

 そしてその後、乾杯して、食事を始めた。

 何か話すのかと思っていたが、そういうわけでなくあやめは黙って食事をしている。十三も同じような物だった。静けさの中ナイフが擦れる音が、部屋に響いていた。

 沈黙に耐えられず、あやめの方を見たが、それに気が付いた彼女は、少し微笑んでから、また目の前のオムレツにフォークを入れるだけだった。


(不気味だ……)


 ◇ ◇ ◇


 数日後。

 梅雨の終わりを感じさせるような雷が響く。

 小さい傘では防ぎきれない夕立がアスファルトに打ち付けていた。わたしは申し訳程度に仕事をしている折り畳み傘をさしながら、早歩きで地面を踏みしめ、歩く。鞄の中のものが出来るだけ濡れないように角度を調整しながら。

 とりあえずは雨宿りをしようと、目の前の図書館に入ることにした。

 いつもはありがたい館内の冷房も、今は肌寒さを助長させるだけだった。

 思ったより濡れていなかったので、鞄の中からタオルを取り出し、あたりを見回す。

 と、閲覧机の前に座り、本を読んでいる少女に目が止まった。

 黒い髪に黒いセーラー服。あやめの屋敷で会った少女、貸船十三と紹介された娘だった。

 本来であれば、ここは見なかったふりをして、どこか別の所へ行くべきだ。愛人の愛人だなんて、プライベートで会って会話なんてするはずはない。

 でもわたしは何故か


「あの、トオミさんさよね」


 話しかけていた。

 自分でも何を言っているんだという思いが浮かぶ。

 それでも本を読む彼女の美しい横顔、何か感じ入るものがあって。

 陶器みたいな肌って表現は小説で腐るほど読んだけど、こういうのをいうんだなって。

 あとそれと、どこかで会ったことがあるような。

 ゆっくりとした動作で彼女は首をこちらに向けた。そして目を見開き、驚きの表情となる。

 次第にそれは嫌悪の表情となった。

 

「何を考えてるんです?話しかけるなんて」


 静かな声だけどもはりのある声だった。例えるならうぐいすのような。

 

「すみません、以前お会いしたことがあったと思って」

「はあ?」

「いえ、屋敷でなくそれ以前に。もっと前の」

「ないですよ」


 トオミは深く考えずに言った。そして再度本に目を戻す。

 ないなら仕方ないな、と思ったけど、やはり気になったので、わたしはトオミの前に座り文庫本を開いて読み始めた。彼女の本を見ると、カバーをつけておらず、チラリと『七つの仮面』という文字が見えた。

 雨の音が少し静かになると、館内の時計の針の音が聞こえてくる。それも波に覆われるように、すぐに雨が強くなり、打ち消された。

 しばらく経ち、通り雨にしては長いな、と思っていると


「あなたは、何ができるんです?」


 と、トオミは話しかけてきた。

 図書館で沈黙に耐えられなかったなんてことはないだろう。

 ならば、先ほどの問いに心当たりがあるのか。


「何が、とは?」

「あの人――団子坂あやめには趣味があるのですよ。才能のありそうな娘を愛人としてコレクションにするという趣味が。あたしは将棋が得意です。テレビにも出てますし、それを見ていて、あたしにあなたは既視感を抱いたのでしょう」


 トオミは真っ直ぐわたしを見ていて、その表情は硬くて、感情は読めない。

 思っていたよりは饒舌な語り口だ。普段はもっと話すのかもしれない。

 テレビに出ていた?

 知らないなあ。将棋には詳しくないので、覚えがまったくない。


 わたしは答える。「えっと一応絵を描いてるのだけど」

「もしよかったら見せて貰ってもいいですか?」


 わたしはたまたま鞄にあった自己作品集ポートフォリオを取り出して彼女に渡した。

 美大は就職が厳しいので行くつもりはあまりないが、念のためまとめたものだった。

 ぱらぱらとトミオは軽く見て、そして口を開く。


「凡作ばかりですね。作品事態には妥協はないけれど、自身の成長に妥協の後が見られます。努力をしていないわけでもないけど、あともう少し頑張ればかなり伸ばせるのにそれをしない。ただ、嫌いじゃないですよ。製作者の性格の悪さが滲み出たような絵」


 知ってる。

 と返すのは言い訳じみているだろうか。

 それでも彼女の評価は、わたしの自己評価と同等のものだった。

 でもやはり、自己の欠点を知っているのであれば、直す努力をするべきだろうし、それをしないわたしは言い返すことはできない。

 だから不機嫌に


「ありがとう。絵について詳しいの?」


 と皮肉を押し殺すように言うことしかできない。


「こういうのはわかるものですよ。ただ、それがわからなかった団子坂あやめは見る目がなかったようですね。わたしを見つけたのも有名だったからなようです」


 彼女は目をつむって言った。癖なのか、頭の後ろを上から下へ撫でながら。


「自分に自身があるのね」

「当然です。自己評価を高めることは自己の向上につながりますので」

「将棋には駒の動かし方くらいしか知らないいけど、トオミさんの将棋を見てみたいな」

「ネットで公式の動画配信をしているので、それを見るといいですよ」


 愛人の愛人という歪な関係だけど、割と会話は続けることができた。

 あまり言い雰囲気とは言い難いけど。

 ただ、彼女のこと、やっぱり思い出すことはできなかったので、帰り際駄目もとで聞いてみる。


「あの、もしよかったらでいいんだけど、メールアドレス交換しない?」


 多分断られると思っていた。話したとはいえ、彼女はわたしに良い印象を抱いてないということは理解できた。会話するのも億劫そうだったし。


「あなた友達いないんです?」

「へ?」


 何故そこで友達の話が出てくる?

 わたしが友達だと思っている人物はそこそこいるけど。

 と言おうとしたが、それもそうか。愛人の愛人にメールアドレスを強請ねだるなんて、友達によほど飢えてないとないか。ここは友達がいないと言ったほうが、同情してアドレスを教えてもらえるだろうか。

 いや、待った。

 わたし達は女性の愛人だ。

 それはつまりトオミはわたしを同性愛者と見ているかもしれない。彼女がアヤメと肌を重ねているのが、好きでやってるか、嫌々やっているかは、今の会話ではわからない。しかし彼女がわたしを同棲愛者として見ているのならば、アドレスを教えてほしいという願いは、告白も同然のように思えるだろう。

 だからここは友達は多いと答え、『別にあなたのこと性的に気になるわけではないですよ』というアピールをするべきか。

 時計の秒針が半分ほど動く程度は悩み、わたしは


「そうです、友達が少なくて」


 嘘をついた。


「そう、なら仕方ないですね。特別に教えてあげましょう。光栄なことですよ、あたしのアドレスを知ることは」


 そういうトオミの声はどこか心なしか嬉しそうだった。

 


 ◇ ◇ ◇



 絵を描くことは嫌いじゃない。むしろ好きだ。

 でもそれが一番ではない。それより好きなものは沢山ある。

 映画を見ることとか、友達と話したり、遊んだりすることとか。本を読むこととか。

 そしてそれより好きなもの。わたしが最も好きなことは一番になることだった。

 わたしにとってそれを得るために最も簡単な手段が絵を描くことだった。

 簡単といっても、何もせずに絵を描けば褒めてもらえるほど、わたしに才能があるわけではない。絵のために、一番になるために遊ぶ時間を削り、努力し、絵を描いて来た。

 それでも一流になるには程遠かった。努力はしたつもりだが、『努力を怠らなかったか?』と問われると、答えられない。

 だからわたしは妥協に妥協を重ね、出来るだけわたしが一番になれるような、小さな大会を選んで出品をしている。日本で一番とか、世界で一番とかは望んだことはない。出来ないことは望まない。嫉妬などという感情は程々にしかなかった。

 もちろん一番に慣れない時もあった。その時は悔しいし、次は頑張ろうと普通のことを決意もする。

 わたしが欲しいのは一番というレッテルだけ。

 これからも、ずっとそうやって生きていくのだと、わたしは思う。

 

 父は早くに亡くなり、母は働きに出ていて夜は遅い。

 だから大抵夕食を作るのはわたしの場合が多い。たまに、中学生の弟も作ってくれる。

 生活は苦しいが、最近は臨時収入があるため、大部楽だ。

 美味しそうにオムライスを食べている弟達を見ていると


「お姉ちゃんが体売って得たお金で作ったオムライス美味しい?」


 なんて聞きたくなる。

 無論そんなことは口にしないけど、嫌な思いをして得たお金なので、想像くらいは好きにさせてほしい。なんて誰に言い訳しているのかわからないことを思っていると、携帯電話が鳴り響いた。

 画面を見ると、『貸船十三』とあった。そういえばついでに番号も交換したのだった。

 別の部屋に行き、通話ボタンを押す。


「もしもし」

「も、もしもし」


 スピーカーから聞こえてきたのはか細い声だった。

 あれ、こんな声だっけ。

 何かに怯えているような、震えているような。


「トオミさん?大丈夫?」

「こ、ココロさん……突然で申し訳ないんですが、今日一晩泊めてほしいんですが……」


 泊めてほしい。

 それはつまりわたしの家に来て泊めて欲しいということで。


「そこまでわたし達親しかったっけ?」

「失礼なのは承知してます……。ただ今日寝る場所がなくて……友達もいないので……」

「……ホテルとかは?」

「お金、家に置いてきてしまって」


 家はあるのに、泊まる場所がない。つまり無計画な家出だろうか。

 わたし達の住んでいる家は狭いが、自分専用の部屋はある(弟二人は兼用だが)。母には友達だと言えば、泊めることは容易だろう。別に家に入れるのが危険という人物でもない。


「アヤメさんに頼めば泊めてくれるんじゃないの?」


 わたしの言葉に彼女は一瞬口を詰まらせた。


「い、嫌です!あんな人の所!これ以上借りを作りたくないです!」


 嫌なのか。

 じゃあ愛人をやっているのは、お金とかその他が理由か。

 なら仕方がない。

 もしかしたら似た者同士かもしれないし、全く違うかもしれない。


「じゃあいいですよ」


 わたしは住所を話した。


 

 ◇ ◇ ◇


 玄関のチャイムが鳴りわたしは、彼女が来たかな、と思い扉を開いた。

 そこには少し陰気っぽい娘がいたので、別人だと思ったがそうではなく、正真正銘の貸船十三だった。

 初めて会った時の冷たいながらも凛とした表情はどこにもなく、どこか自身がなさそうに佇む彼女がいた。いつものように黒いセーラー服を着ていた。


「ありございます……夕食は食べたので、そのあたりはお構いなく……」


 わたしはトオミを、何か言ってくる弟達を適当にあしらいながら、部屋に案内する。

 すでに母にメールで友達を泊めていいか、と了解は得てある。

 寒そうだったので熱いお茶を沸かし、トオミに渡す。


「温かい……ココロさんって実は優しいんですね……」

「チョロい!」


 そんなに簡単に『優しいんですね』なんて言われたら戸惑うしかない。こっちが恥ずかしくなって来る。


「いや、でも対して親しくないのに泊めてくれる人なんてそうそういませんよ」

「そうかもしれないけど……」


 何だか悪い人に騙されそうな危うさがある。いや、もうされてるのかもしれない。

 我が家のパソコンは兼用なので、この部屋で暇を潰せるものなんて文庫本とファッション雑誌ぐらいしかない。客が来ているのに、一人で絵を描くのも失礼だろう。

 勉強は……まあ、今日はいいか

 だから適当に駄弁って夜は更ける。

 ベッドなんて気の利いたものはなく、布団を二つくっつけて敷く。

 流石にセーラー服で寝かせるわけにはいかないので、寝間着と風呂を貸したりした。

 電気代が勿体ないので、我が家の消灯時間は早い。

 

 

 と、眠りが浅かったからか、玄関の扉が開く音で目が覚める。おそらく母が帰って来たのだろう。

 ふと右手に何か握っている感触があった。布団とかではなく、どこか湿っぽい。これは……

 人の手だった。


「わっ」


 別に嫌だったわけではない。手を繋ぐくらいならどうということはない。でもやはり驚いてしまい、振り払う。

 向こうも振り払われたのに驚いたのか、声を発する。


「す、すみませんすみません……家はではいつも抱き枕を抱いてないと眠れなくって……それで何か掴んでないと落ち着かなくて……それでつい……」


 手を握っていたのはトオミのようだった。

 暗闇で目を凝らすと怯えた様子で座り込む彼女がいた。


「まあ、別に手を繋ぐくらいならいいけど。ごめんね、振り払ったりして。驚いただけだから」

「ありがとうございます……」


 こうして、わたし達は布団の中で手を繋いだ。

 ふと、わたしは何か思い出しそうになる。遠い過去の幼きころの記憶。確か昔こうやって手を繋いで眠ったような。


「昔もこうやって手を繋いで眠ってくれる友達がいました。一個上のお姉さんなんですが」


 トオミの言葉にさらに何か心を刺激された。

 映像が瞼の裏に写る。

 田舎の夏。川のせせらぎ。遠くに見える入道雲。蝉の鳴き声。かき氷。風鈴。

 そして泣いている女の子。

 彼女は思い出話を続ける。

 

「あたしは気が弱くて虐められてたのですが、いつもそのお姉さんが助けてくれて」


 ああ、そうだ、彼女はいつも泣いていて、わたしに甘えてくれて。


「そのひとの名前は」


 枕の擦れる音。トオミがこちらに首を動かしたのがわかった。


「ココロおねえちゃん」


 わたしは目を開き、彼女の方向を見る。その深い瞳には涙が溜まっていて。

 ああそうだ。彼女は


「もしかして小さいころ遊んだトオミちゃん?」


 彼女の瞳から涙があふれ出た。



 ◇ ◇ ◇



「遅い!遅いですよ!あたしは屋敷で会った時から気が付いていたのに……あたしはココロお姉ちゃんのこと忘れたことなかったのに……だからちょっと意地悪してやろうと思って……気づかないふりをして……下の名前は本名なのに……」


 トオミは枕に顔を押し付け、涙を見せまいとしている。


「いや、ごめん……でもさすがに」


 さすがに幼稚園児のころの友達の顔と名前を覚えているのは厳しい。

 だから話を逸らせないかと、別のことを聞くことにした。


「あの、今日はどうして家に帰れないの?」


 トオミの言葉が止まる。

 遠くで野犬が吠えているような気がした。

 しばらく沈黙が続き、数分ほどたって、再び彼女はいう。


「お父様とケンカしたんです。ここの所負けがこんでいて」

「ああ」


 そういえばネットでそんなことが書かれてたかもしれない。


「団子坂あやめに抱かれてるのは、コネのためです。実力があっても、この歳でのし上がるためにはコネが必要で……一番、一番にならなくてはいけないんです」


 握っている手が、軋む音を上げる。

 わたしはその言葉に何も言えない。もし一番じゃなくていいじゃない、などと言おうものなら、あなたみたいな妥協して生きて居る人にはわからない、と言われるだろう。

 だからこうやって、彼女の望むまま手を繋ぐことしか出来ない。


「団子坂あやめ。あの人は魔女です。邪悪にして滑稽なる魔女。あの人の趣味は才能のある人をコレクションするだけじゃない。あの人は才能のある人を壊すのが趣味なんです。若い子にお金を与えて、調子に乗せて、そして壊して、捨てる。あたしが彼女のもとに来た時はさらに二人ほど愛人がいました。一人は自殺して、一人は引きこもって。どちらも才能のある娘でした。もしかしたらココロお姉ちゃんも本当はもっと才能あるのかも」

「やめてよ」


 本当はSだけどめんどくさいからBだとかいう奴は大抵一生本気出さずにBで終わる者だ。後に残るのはBとして功績だけ。本気を出せば凄かったなんてただの言い訳だ。

 それっきりトオミは黙り込む。

 眠ったのかな、と思ったが、偶に握った手が動くのでそうではないらしい。何か迷っているような。

 そして意を決したのか彼女はいう。


「あ、あのよくAV嬢なんかは、女性相手とするより、スカトロとかのほうがましだって言うじゃないですか」

「知らないけど」


 どこから得たんだその情報。


「あの、だから、ココロお姉ちゃんは、団子坂あやめに抱かれてますけど……行為事態はそこまで苦手じゃないというか、そちらの気はあるのかなって……」

「……」


 これは。

 これは不味い流れなのでは?


「あ、あたしココロお姉ちゃんのこと大好きです。今も昔も」

「絵を見て性格悪いって言ったのに?」

「あれは本当のことですし……」


 まあそうなんだけど。

 震える声で彼女は続ける。


「だからもしよかったらなんですけど……」

「ちょっと失礼」

「え?」


 そう言いながら、戸惑うトオミをよそに、握った手を持ち上げて、手首を見る。

 そこには包帯が巻かれていた。


「これは」

「ち、違うんです。これは中二病的なファッションです。リストカット後なんかじゃないです」


 そういう彼女の顔は、今にも壊れそうだった。わたしが彼女の誘いを断れば本当に壊れてしまいそうで。手も凄く冷たい。

 ドラマなどで『お前を殺して私も死ぬ』なんてセリフを聞くと一人で死ねよ、とか思ってしまうけど、実際にそのシチュエーションに会ったらやっぱりそんなことは言わないんだろうな。

 アヤメのせいで大部なれたけど、女性に抱かれるのは今も嫌だ。

 それでもわたしが断ることで、この娘が壊れてしまうのなら。

 毎日の寝覚めが悪くなるくらいなら。


「まあ、いいよ。トオミちゃんのこと好きだし」


 こういうしかない。



 ◇ ◇ ◇


 彼女は荒々しかった。

 この頃の鬱憤をすべて吐きだすように。すべて忘れてしまおうかとするように。今までの八年を取り戻すように。

 弟や母に気づかれないように、何度も静かにするように諌めた。

 幸いにも、外の豪雨が音を掻き消してくれた。

 彼女とならいけるかなと思ったが、やっぱりわたしは嫌だった。

 嫌なのをトオミに気取られないように努力するのも嫌で、でもしなくちゃならなくて、何もかもが嫌になりそうだった。

 いつのまにかわたし達は疲れ果てて、裸のまま眠っていた。

 明日の授業中に居眠りしそうだな、とか夢の中で思ったりもした。


 目覚まし時計の音で、いまだに取れない疲労を感じながら、無理やり意識を覚醒させられる。

 未だに手、繋いでいて、

 目を開けるとトオミの顔がそこにあった。その顔はとても幸せそうで。

 だから、まあ、嫌だったけど、やらないよりはよかったのかな。

 そう自分を納得させることにした。


 トオミは朝食を遠慮したけど、母が強く薦めるものだから、結局食べることになった。

 どうやら昨日のことは気づかれなかったようだ。

 そして、制服に着替えて、学校に向かう。

 玄関先を越え、路地の角でいつものセーラー服に着替え、アヤメは振り返る。


「あたし決めました。将棋辞めます!」

「え?」


 何の迷いもなくそう言う彼女の笑顔は眩しすぎて。

 言ってる意味がよくわからない。


「昨日いろいろ考えたんです。一番とか、団子坂あやめだとか、お父様だとか。もう色んなものに惑わされるのは嫌なんです」

「いやでも、本当にいいの?」

「確かに昨日までは、あたしには将棋しかありませんでした。でも今は」


 そう言ってトオミは手を絡めてくる。 

 住宅街の真ん中で人目もはばからずに。


「ココロお姉さんがいますから!」

「いやいやいや」


 いやいやいやいや

 その理屈はない。

 当人が満足ならそれでいいなどという問題ではない。

 今まで散々努力しただろうに、女が出来たくらいでそんな。

 それが彼女のお父様とやらに知られたら、殴られるのはわたしなのではないだろうか。

 ここは丁寧に説得して……


 と、そこで、ポケットの携帯電話が震える。

 メールが届いたようだ。

 文面は


『今日の十七時に会えるかしら? 団子坂あやめ』

 

 とだけあった。

 トオミが画面をのぞき込む。


「行くんですか?」

「うん」


 握った手が強く軋む。


「あたし以外の女と肌を重ねないでください」

「いやでも、トオミちゃんもあの人に……」


 さらに手を握る力が強くなり、骨が悲鳴を上げ始める。


「ココロお姉ちゃんがそういうなら、あたしもあの人と会うのは辞めます」


『一回寝ただけで女房面』という小説でよく出てくるフレーズが思い浮かぶ。

 無論思い浮かんだだけで、本当にそう思ったわけではない。断じて。


「そんなに団子坂あやめのことで困ってるなら」


 彼女は私の耳元に口を持っていく。

 キスをするのかというほど近くで。

 猫なで声で、姦しく、囁く。

 例えるなら鶯のように。


「団子坂あやめを殺してあげます」


 そう、これが始まりだった。

 始まりの鐘だ。

 戦いを知らせる。

 地の底から聞こえてくる鐘の音だ。

 安堵を覚えるものもいる。

 悲しみを覚える者もいる。

 そのような鐘の音。

 長いようで短い。

 短いようで長い。

 団子坂あやめとの戦いの始まりの。

 特異点であり分岐点である。

 開始地点であり、交差地点である。

――黄金色の

 知らせ――


「いやいや、お金貰ってるんだから殺されちゃ困るんだって」

 

 濡れたアスファルトを朝の日が照らし、湿度を持った熱気を肌で感じた。

fin?

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― 新着の感想 ―
[良い点] 心理描写が丁寧で、個人的にノーマル女子と百合娘の組み合わせが好きな私には最高の作品でした。 個人的にあやめのような女性は好きです。 お金持ちの女性が若い少女を抱くのって背徳的でこれはこれで…
[良い点] ・意外と凄惨な末路とか殺伐とした終わり方にならなかったのはほっとした。 ・主人公が自分の事を客観視できている事、ある程度状況を割り切れているあたりは大人びていて好感がもてる。 ・それでいて…
[一言] 良いですね、トオミちゃん可愛い。こういう重いキャラ大好き。 でも団子坂あやめもかなり好き。BBAは趣味じゃないけど文で読むとかなりアリかも。 囲って才能を潰して自分に依存させて自分しか見えな…
2015/07/05 22:19 退会済み
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