第12章Ⅱ:北の大狼
――フェルティ港。
そこはフェルティ国最大の港で、様々な国から海路で渡ってきた多数の貿易船が集い、数多の貿易品が取り引きされる場所。
小肥りの商人達が帳面を手に品々の交渉をしたり、上半身裸になって様々な色の肌を晒した船乗り達が荷を取り扱う中、ひとりの若い男が忌々しげな表情で辺りを見回していた。
男は歳の頃は二十代だろうか、背丈が有って鍛えられた逞しい身体つきをしており、陽に焼けたような艶やかな茶の肌、蒼の混じった長い黒髪はざっくばらんにひとつに纏められ、髪と同じ色の瞳はぎらぎらとした光を放っている。
そして何より男の格好が周りの船乗りとは全く異なっており、獣の毛皮を織り込んだ服を纏い、腰には大きさの異なる二振りの鉈がぶら下がっていた。
「(ちいっ、何なんだよこの暑さはっ!糞ったれっ!)」
男は異国の言葉で口汚く罵ると、上着を脱いだ。
「(ったく…あの馬鹿、何処に行きやがったんだ!)」
脱いだ上着を肩に掛け、辺りを見回し誰かを探していたが、そんな男にひとりの、やはり男と同じような服装、だが少しは軽装の、をしたやや中年の男が近づいてきた。
「(フェンリル様)」
「(ギアランか、あれは見つかったか?)」
「(いえ…未だ見つかりません)」
男、ギアランの報告に若い男は益々表情を歪ませた。
「(見つからないだと!ったく…一体何処に行きやがったんだっ!)」
男は怒りの余りに傍にあった荷のひとつを蹴りあげた。
「(落ち着いて下さいませフェンリル様。この暑さで御座います。シャネリア様もそうそう遠くへは行けない筈です…)」
「(だが未だ見つからないのだろうが!あいつありったけの宝石を身につけていたからな、それ目当ての強盗に襲われたかもしれん)」
男、フェンリルの言葉にギアランはぎょっとしたように表情を強張らせた。
「(ま、まさかそのような事は!?)」
「(有り得ん話ではないだろう。あの馬鹿、御忍びだから派手するなと言ってたのに…。
くそっ!もし賊がシャネリアを襲ったならば、俺が賊を独り残らずぶった斬る!)」
二人が物騒な会話を続けていると、もうひとりの男が、やはり二人と同じような様相の男が二人に近付いてきた。
「(フェンリル様!シャネリア様が見付かりました!)」
「(何っ!?)」
男の報告に、フェンリルとギアランが驚きの声をあげるが、
「(何処だ!何処に居るんだ!何故ここに連れて来ない!)」
従者のみで、男達の探し人の姿が無いのに、フェンリルは不満を露にする。
「(お待ち下さいフェンリル様。シャネリア様は街中でお倒れになられて、自衛団という者達の集う館に連れていかれたとの事です)」
「(自衛団?!何だそれは?)」
「(まさか賊の集団とかではあるまいな!)」
二人の言葉に男は首を横に振った。
「(それは違います。何でも自衛団とはこの国を護る兵士集団のようなものだという事です。恐らくシャネリア様は拐かされたのではなく保護されたの…)」
「(何処だ?その自衛団という連中の居る館は!)」
男の話を遮り、フェンリルが突然尋ねてきた。
「(そ、それは…街の者の話ではこちらのほうと…)」
「(行くぞ!お前らもついて来い!)」
男がある方向を示すと、フェンリルは脱兎の如く駆け出していった。
「「(お、お待ち下さいっっ!!)」」
先を行く己の主人を、従者の二人は遅れながら慌てて追い掛けていくのであった。
*
――その頃、自衛団の庁舎では、団員が見守る?中、熱中症だった筈の少女、シャネリアからジーフェスが熱烈な口付けを受けていた
「ん…んんーっ!!」
やっとのことで我に帰り、慌てて自分に抱きついてきた彼女を引き剥がした。
「ち、ち、ちょっと待ったっ!!」
息を乱し、焦ったように上擦った声をあげジーフェスがシャネリアを見ると、彼女は彼の行動が意外とでも言うように瞳を大きく見開いた顔で見返した。
「ジーフェス…」
「あ、あのね…君が今やってる事はね…」
「ジーフェス…シャネリア、ミッカリア、ナナリィ、アイユリサス!」
だがシャネリアはジーフェスの話を全く聞かずに、ひたすらそう叫ぶとがしっ、とジーフェスに抱き着き離れようとしない。
「ち、ちょっとちょっと…は、離してくれない、かな…」
ジーフェスの言葉は当然シャネリアには全く伝わらず、ひしっと彼に抱き着いたまま動こうともしない。
ジーフェスは困ったように周りを見回し団員に助けを求めるが、皆呆然としてるか溜め息をつくだけであった。
「懐かれましたねぇ団長」
「見知らぬ土地ではぐれて独りで寂しかったのかもねぇ…」
「まあ、害を与える訳でもないから、取り敢えずそのままでも良いんじゃないですか?」
「ちょっと待て!お前らどうにかしてくれっ!」
他人事のように呟く団員にジーフェスは若干キレ気味。
いよいよ困って叫びだすジーフェスに、サンドルも苦虫を噛んだような表情をするだけである。
「敵意剥き出しよりはましですけどねぇ、取り敢えずそのまま団長も彼女を抱っこして一緒にライザ先生の所に行きましょうか?」
「そ、そうだな…」
サンドルの言葉に頷き、腰に抱き着いたシャネリアを抱きかかえ、庁舎を出ていこうとしたその時、
庁舎の外からドタドタという荒い足音が聞こえてきた。
「…?」
物音に気付いた団員達が何事かと考える間も無く、突然激しい物音と共に扉が乱暴に開かれた。
「「!?」」
開かれた扉のほうを見ると、そこには上半身下着姿で体格の良い、だが肌はフェルティ国の民と異なり茶色く焼けた肌をした男の姿があった。
突然の、異国の男の登場に、ジーフェスをはじめ団員が皆暫し男に視線を向けたまま固まっていた。
一方の男のほうはぎらぎらした瞳で団員達を睨み付けるように見回し、そしてひとりの人物に視線を向けたかと思うとくわっと瞳を広げ、顔を歪ませた。
「シャネリアっ!!」
大声で叫びながらずんずんとこちらに、シャネリアのほうに向かってくる男。
そしてシャネリアのほうも男の姿を見るなり、
「ビースティ!!」
そう叫びだすとジーフェスから手を離して下に降りようとした。
「わ、わわわっ!!」
先程まで凄い力で身体にしがみついていたのがいきなり離れたので、流石のジーフェスも慌ててつい落とさないようにと彼女の身体を抱き抱え直してしまった。
が、その様子を見た男が益々表情を歪ませ、凄い勢いでジーフェスとシャネリアの傍まで近寄ってきた。
「サペル、ディアモールアメア、シャネリア!!」
「…は?」
男は早口でシャネリアと同じような言語を話し、ジーフェスとシャネリアを睨み付けた。
「ビースティ!ナメン!ララムメーテ、ジーフェス、シャネリア、マワルシワ!」
今度はシャネリアが目の前の男に何やら叫びだした。
「「サー、フェンリル!」」
今度は二人の男が、先に現れた若い男と似たような格好をした、が現れ、二人を見るなり突然叫びだした。
「「フィメ!シャネリア!!」」
男達はシャネリアの姿を見るなり喜びと安堵の顔付きになり、二人に近付いていった。
「な、何なんだ一体?」
更なる人物の登場に、ジーフェスも団員達も混乱するばかり。
「ララムメーテ?ヤルヴァ、シャネリアララムメーテ?」
「アーン、ジーフェス、シャネリアララムメーテ、マナムヘルマータ」
「マリアア?サーフェンリル、フィメシャネリア、ナッテルハムカム」
言葉は全く解らないが、場の様子から見て、何やら怒っている男をシャネリアが宥め説得しているらしく、みるみるうちに男の表情が怒りのものから落ち着いたものへと変わっていった。
そして男はちらりとジーフェスに視線を移した。
「アナスィ、シャネリアララムメーテ?ナメナ、ジーフェス?」
「…は?」
相変わらず男の言語が解らないジーフェスはただただ首を傾げるだけである。
その様子を見ていた男がああ、というような感じで首を何度か縦に頷かせると、
「…お前がジーフェスという奴か?シャネリアを助けてくれたのか?」
突然アーリア言語を話し出したのだった。
「おい!アーリア言語話したぞ!」
「何者だこいつ!」
周りの団員が驚く中、ジーフェスはじっと自分を睨み付ける男に対して答えるのであった。
「あ、ああ。確かに俺がジーフェスだが…貴殿はアーリア言語が理解出来るのか?」
「「サーフェンリル!ナタタメケナム《フェンリル様!何て無礼な奴》!!」」
二人の男、恐らくは若い男の従者だろうとおぼしき男達が、いきなりジーフェスに怒鳴りつけた。
「サラマス《黙れ》!…失礼、仕事柄ウィルス大陸以外の三大陸全ての言語は話せる」
ジーフェスの問いに男はあっさりとそう答えるのであった。
「そうか、いや我々全員彼女の言葉が理解出来なくて困っていたんだ。
彼女は、シャネリア殿は街で倒れていたのを我々が保護したが、身体が弱っているので診療所に連れていく所だったんだ」
そう告げると、男は少し考え、やがて納得したように頷いた。
「そうか…シャネリアを、我が妹を助けてくれて感謝する」
男はそう告げるとジーフェスの前で深々と礼をした。
「いえ、妹君でしたか…」
「俺の名はフェンリル、こいつは妹のシャネリア、で、これは俺の従者のギアランとラファイルだ。
ギアラン、ラファイル、カッパメル、ジーフェス。シャネリア、ララムメーテ《彼がジーフェス。シャネリアの恩人だ》。」
男、フェンリルの一言に二人の男、ギアランとラファイルはジーフェスに向かって深々と礼をした。
連られてジーフェスもお辞儀返してしまった。
「後はこちらで対処致します故、妹を…シャネリアを連れていっても構わぬかな?」
フェンリルの問い掛けに、ジーフェスも納得したように頷いた。
「勿論です。さあシャネリア殿…」
そう告げて彼女から手を離そとすると、何故か彼女は再びぎゅっとジーフェスに抱き付いたのだった。
「お、おい…」
「シャネリア、ママラス、ゴバエス《我等と一緒に行くぞ》!」
妹の態度に、フェンリルが厳しい表情を浮かべるが、シャネリアは兄に対してきっと睨み付けるだけであった。
「シャネリア、ナナメン!ジーフェス、シャネリア、ミッカリア、ナナリィ、アイユリサス!」
「「ナ…!?」」
シャネリアの叫びを聞いたフェンリルと二人の従者はこれでもかという程目を見開き、ジーフェスとシャネリアを見比べた。
「シャネリア!ライライキメン!ナテリアリアリ!!」
「ナメン!シャネリア、ナメンライライキメン!ジーフェス、シャネリア、ミッカリア、ナナリィ、アイユリサス!」
「「ラクメス!シャネリア!!」」
それからシャネリアとフェンリル、そして二人の従者が辺境言語で何やら喚きたてるのを、団員達はただ呆然と見つめるだけであった。
「な、何でしょう?」
「さ、さあ…」
「仲間割れ?」
団員の目の前で、暫くの間四人は激しく口論していたたが、やがて徐々に落ち着いてくると、フェンリルがぎっ、とジーフェスを睨み付けてきた。
何故かその瞳はかなり怒りに満ちていて、睨み付けられたジーフェスはびびってしまった。
「ジーフェス、シャネリアナナリィ、アイユリサス?」
「?」
相変わらず辺境言語が解らずに首を傾げるジーフェスに、フェンリルはちっと舌打ちしつつも翻訳してくれた。
「ジーフェス、お前シャネリアと夫婦の契りを交わしたのか?」
「……は!?」
彼の思わぬ言葉にジーフェスはつい間抜けな声で答えてしまった。
「だから、お前はシャネリアと夫婦の契りを交わしたのかと聞いてる!」
「んな…そんなのやってないぞ!そもそも俺は既に結婚してるんだ、何をどうしたらそうなるのか?」
ジーフェスの答えに、フェンリルは表情を歪めながらシャネリアに何か告げていく。
するとシャネリアも兄に向かって何か叫んだ。
「シャネリアの話ではお前のほうからシャネリアに夫婦の契りを交わしたと言っているぞ!」
フェンリルの声はかなり怒りに満ちている。
「は?!待ってくれ!俺は別に彼女に、貴殿の妹にその…結婚するとか夫婦になるとか一言も言ってないし、何もそんな素振りをしていないぞ!」
「だがシャネリアが言うには、お前はシャネリアと口付けを交わしたと言ってるぞ!
我が国では求婚する際に、その相手に口付けを交わす慣わしがあるんだ!」
「そんな事…!?」
そこまで言って、ふとジーフェスは少し前の出来事を思い出していた。
“まさか、まさかあの事か、あれを口付けと勘違いしたのか!”
「やはり何か思い当たる節があるんだな!」
「待て!た、確かにその…彼女が、シャネリア殿が熱中症で意識を失っていた時に、砂塩水を飲ませるのにその…口移しで飲ませた…」
「やはり貴様、シャネリアに手を出したのだなっ!!」
怒りの余り、フェンリルは腰にあった鉈の一本に手をかけた。
「ち、違う違うっ!あの時はシャネリア殿は意識を失っていて水も飲めない状態で、生命の危険もあったから緊急の手段で使ったんだ!あれは人助け、人助けなんだっ!」
「人助け?」
「そうだ、その、俺のやったのは夫婦の契りとしての口付けでなく、水分を補給させる為の口移しだったんだ!」
「水分を、補給?」
「そう、そうなんだ。人助け以上の事は無いし、そもそも俺達はその慣わしすら知らなかったんだ。
もし知ってさえいたら決して彼女にそんな事はしなかった。本当だ、信じてくれ!」
流石にそれは無かっただろうが、そこまで言わないと鉈で真っ二つにされそうな勢いだったため、つい出任せを言ってしまった。
「……」
ジーフェスの真面目で必死の説得?に、フェンリルも怒りを納め、暫く考えた後に徐々に冷静な顔付きになっていった。
「ジーフェス、お前の言うこと、神に誓って嘘偽り無いか?」
「無い、全く無い!」
フェンリルの真面目で静かな問い掛けに、ジーフェスも真摯な気持ちを込めて答えた。
「解った。お前の言うことを信用しよう」
フェンリルのその言葉にジーフェスはほっと安堵の息を洩らした。
「理解してくれて感謝する」
「ああ、こちらこそ変に誤解してすまなかった」
お互い会釈をしあい、顔をあげたフェンリルがシャネリアに何やら話し掛けた。
「シャネリア、ジーフェス、シャネリアナンメナナリィ、アイユリサス」
「!!」
するとシャネリアの表情が驚きに歪み、一瞬辺りに沈黙が漂ったかと思うと、次の瞬間、彼女の叫び声が辺りに響いた。
「ナーンメ!ナンナル!ナンメナンメ!!」
その声は庁舎内だけでなく、付近の建物にまで響き渡る位だった。
「ひいいっっ!!」
「な、なんだなんだっ!」
団員達は余りの煩さに耳を塞ぎ、フェンリルと従者達はシャネリアを何とか宥めようとするが、全く治まる様子は無い。
「シャネリア!マムルヒアロ!ガッチャス!!」
「ビースティ!アホロス!フリオス!!」
「シャネリアッ!!」
遂にはフェンリルも怒りだしてしまい、激しい兄妹喧嘩にまで発展してしまった。
――そんなやり取りが延々と続いて、やがて日没が近付いてきた頃、
フェンリルと二人の従者はすっかり満身創痍の状態でその場に座り込み、シャネリアのほうはというと、尚もしっかりとジーフェスに抱き付いたままであった。
「す、凄い…」
「いや、これ程激しい兄妹喧嘩は初めて見たよ」
「てか彼女、さっきまで熱中症でぶっ倒れてたんじゃ無かったのか…」
傍らで見ていた団員達も余りの喧嘩の気迫に帰るに帰れずにいた。
「…ジーフェス…」
「は、はい?」
そんな中、疲れきった様子でフェンリルがジーフェスに声をかけてきた。
「悪い…少し水をくれんか?」
「ああ、これは失礼」
その頼みに、傍に居たサンドルが慌てて調理場に向かった。
程無くして彼が砂塩水の入った幾つかのグラスと少しの焼菓子を運んでくると、その場にいた皆…ジーフェスとシャネリア以外、は我先にとグラスを手にし、一気に中身を飲み干した。
「フハー、ナマ、マルシ《あー、実にうまい》!」
「うまいっ!」
フェンリルも従者も団員も、砂塩水を飲んだ皆が満足げに息をつくのであった。
ジーフェスも喉が渇いていて砂塩水を飲みたかったのだが、シャネリアに抱きつかれていて思うように動けなかった。
よく見ればシャネリアのほうも砂塩水や焼菓子ののった盆をじっと見ている。
「あ、あの…君も砂塩水を飲んできたら?」
伝わらないと解りつつ、ジーフェスがついそう呟くと、シャネリアはきょとん、とした表情をし、こくりと頷くと、さっさとジーフェスから手を離し、砂塩水のグラスを取り、中身を一気に飲み干し、焼菓子を食し始めた。
「マー…マルシー《美味しいっ》!」
あれほど、死んでも離さないっ!と言わんばかりの勢いでジーフェスに拘り張り付いていた彼女が、今は完全に彼を無視してにこにこしながら砂塩水を飲み、焼菓子を頬張っているではないか。
その姿は大好きなデザートを食している時のサーシャにそっくりであった。
「…シャネリア、ラリアル《お前って奴は》…」
「…何なんだ一体」
フェンリルにジーフェスがシャネリアの様子に脱力し、がっくし肩を落としている中、彼女は全く気にする事も無く、ただただ目の前の菓子と砂塩水に夢中になるのであった。