おまけ6:禁断の味
ジーフェスとサーシャがアクリウム国に訪問していた時の出来事です。
「宰相様、時間になりました」
「ん」
――時はきっかり十五時、自身の執務室で書類を見ていたアルザスは秘書ラルゴの声に顔をあげた。
「で、今日は何かな?」
「は、本日はかの高級喫茶『ファミール』のチーズケーキと紅茶で御座います」
ラルゴは先程専用の侍女が届けてくれたワゴンを押して部屋へと持っていった。
そして近くのローテーブルに先程告げたお茶と菓子を置いていくのだった。
「ご苦労」
それだけ告げるとアルザスは席を立ち、ローテーブルのあるソファーへと腰掛けた。
そして徐に傍にあったナプキンで手を浄め、紅茶を一口含めた。
それから無言でフォークを手にし、ケーキを切り分け口にした。
「……」
辺りに緊張した空気が走り、ラルゴはじっと己の上司の行動を見守る。
だがケーキを口にした途端、アルザスは表情を微かに歪め、フォークを置いて紅茶に手を伸ばした。
それからゆっくりと茶のみを嗜んだ後、ケーキを残したまま無言で仕事用の机へと戻るのであった。
「宰相様、まだ菓子のほうが…」
「要らぬ、下げろ」
冷たい一言に、ラルゴは驚きを隠せない。
“あの御方が目の前に出された甘いものを召し上がらないなんて…これは天変地異の前触れ!?”
ラルゴは不安げに上司の顔を横目で見るが、本人は澄ました顔で再び仕事を始めてしまった。
“な、何という事だ!他国の会合が何があろうともカドゥース殿下との話があろうとも、毎日必ず、
か・な・ら・ず!
午後のお茶は行って甘いものを召し上がっておられた宰相様が、最近になっていまいち食が進まなくなったばかりか、とうとう本日は残されてしまったではないか!!”
「あの、宰相様…もしや何処かお身体の具合でも優れぬ、とか…」
上司であるアルザスの思いがけない行動が余りにも気になってしまい、ラルゴはつい口にしてしまった。
が、当の本人はぎろりと横目で黙ってろと言わんばかりに彼を睨み付けるだけだった。
「ひ…」
ラルゴが表情をひきつらせそれ以上何も言わないと、アルザスは視線を反らして再び仕事を始めるのであった。
“い、いかん。非常にお怒りの御様子。
しかし味で定評のあるあの『ファミール』のチーズケーキを召し上がらないなんて、一体宰相様に何があったのだ?”
――ラルゴが非常に、非常ーに心配する中、アルザスは至極不満な中仕事を進めていくのであった。
“違う。これでは無い”
確かに少し前の彼ならば、あのチーズケーキも美味しく食べれていたのだ。
だが、
“何て事だ!あの日にあの女が持ってきた『あれ』を食べて以来、他の菓子が美味しく感じなくなってしまったではないか!”
何の事は無い。アルザスは先日、メリンダが見舞いにと持ってきたホワイエの味が忘れられずにいたのだ。
だがその余りに羽ペンを進めながらも、アルザスは苛々した気持ちで一杯になるのだった。
“先日まで美味しく食べられたあのファミールのチーズケーキでさえも美味しく感じられないとは…”
苛つく余りに、遂には羽ペンの先で書類を痛める始末。
“いかん、落ち着かねば。だが何か甘いものが欲しい、だけどあの菓子以外は受け付け難い…”
だが落ち着けば落ち着こうとする程、苛々は募るばかり。
“ああ、極上なるホワイエ。
スポンジは卵たっぶりでキメが細かくふわふわしっとりとしていて、スポンジを包むクリームはコクがあってしっかりとした味わいなのにくどく無く後味が爽やかで、そして間に挟まれたベリージャムの酸味とも実に相性が良い…。
あれこそ正に究極の菓子だ!
何処だ?何処の菓子屋にあのケーキはあるのだ!ああ、今一度あのホワイエが食べたい!”
苛々しながらもアルザスは以前食したケーキのことを思い出し、その余韻に浸りはじめた。が、直ぐにはっとなった。
“いかん!ここまで呆けてしまうとは…私もいよいよ末期だな”
はあ、と彼らしからぬ深いため息をつく。
“例のケーキの出所を聞けば手っ取り早いのだろうが、それだけの為にあの女に頭を下げる真似はしたくないしな”
アルザスの脳裏には勝ち誇った笑みを浮かべるメリンダの姿がよぎり、思わず頭を振った。
“誰が、あの女などに頭を下げるものか!”
他の者ならばここまでは思わないのだが、それだけ彼女との確執が凄まじい故である。
遂には怒りの余り、手にしていた羽ペンを握り折ってしまった。
「!?」
そこまで来て流石に我に帰り、アルザスは折れた羽ペンを処理し、書類を仕舞うと席を立った。
「さ、宰相様…」
「ラルゴ、今日の予定はどうなっている?」
酷く怯える秘書に向かいそう尋ねると、恐怖に震えつつも手帳を取り出し広げ中身を確認した後、
「ほ、本日はこの後の予定は特に入っておりませぬが…」
「ならば私は屋敷に戻る。後の処理を頼んだぞ」
「ぎ、御意…」
弱々しくそう呟くとラルゴの返事を待たずしてアルザスは執務室を出ていってしまった。
「……」
独り残されたラルゴは暫し無言で固まったままであったが、主が戻らないのを確認すると深い安堵の息をつき、思わずその場にへたりこんでしまった。
「…ひ、久しぶりに心臓が止まるかと思った」
思わず呟き、ちらりと先程残したケーキに視線を向けた。
“今日は何とかやり過ごしたが、主の機嫌を収める為にも何とかせねばなるまい”
ラルゴは覚悟を決めて立ち上がり、近くにいた侍女を呼び止め何やら話をするのであった。
*
――一方のアルザスは帰宅の馬車の中でも少し落ち着かない様子であった。
“王都内の有名処の菓子店は全て網羅した筈だが、どの店にもあのホワイエは無かった。
あとは…庶民向けの菓子屋だか…あの女がそんな場所に立ち寄るものか?”
悶々とする中、自身の屋敷に着いて馬車から降りると、目の前には青空の下、自慢の庭の花々が咲き乱れる様が目に入った。
「……」
“最近良い天気が続いたからな、花も綺麗に咲いてる”
美しい庭の様子に先程までの荒れていた心が少し落ち着き、穏やかな様子で屋敷に入ろうとしてふと足を止めた。
視線の先、庭の向こう側に見慣れないひとりの若い男が手に何かを持ってきょろきょろしながら怪しい行動をしてるのを見掛けたからだ。
“あれは何者だ?庭専用の使用人にあのような男は居なかったぞ”
その男…かなりの巨体で屈強な強面をしており、普通の人物なら一目見ただけで恐怖におののき逃げ出し、子供なんかは泣き出しても不思議でない、正に最悪凶悪な姿をしていた。
だがアルザスはその姿に全く臆する事無く、大男に近付いていった。
大男は近付いていく彼に全く気付いてないらしく、相変わらず困ったような表情で辺りを見回していた。
“かなりの強面の男だな。見た感じ娼婦街の守人にも見えるが…”
「おい」
背後から男に声を掛けると、大男は酷く驚いたように飛び上がり(本当に幾らか飛び上がっていた)、後ろを振り向き、アルザスと目を合わせた。
「……」
「……」
お互い暫し黙ったまま互いを見合って、アルザスのほうは相手を睨み付け、そして大男のほうは凶悪顔をひきつらせていたが、
「………うさぎ」
少し怯えた表情のまま、ぽつりと大男が低い声で呟いた。
「は?!」
訳が解らず変な返事をしてしまうアルザス。
「いや、赤い目に白い髪だから…うさぎ……」
………ぷちっ。
普段のアルザスならば、このような戯言など華麗にスルーし、冷ややかな視線を向けるのであった。
だがこの時の彼は至って機嫌が悪かった。先程花々を見て多少は落ち着いてはいたものの、普段に比べれば非常に荒れた状態であった。
それ故に男の放った一言をスルー出来ずに自身の中で何かがぶち切れてしまった。
「貴様…言うに事欠いて私をうさぎだと!?」
アルザスは普段の冷静さを喪い、声を荒げ怒りの表情も露にぎろりと大男を睨み付け、ずんずんと迫っていく。
「い、いや、その…あ、そうだ肉食、肉食のうさぎっ!」
「何が肉食うさぎだっ!貴様、勝手に私の屋敷に入り込んで何をしている!」
身長差は殆ど無いが(若干アルザスのほうが男より高め)、強面で屈強な身体つきをした大男が、横幅は自身の半分にも満たないほど細身の、一捻りでやっつけれそうなアルザスに気押されしてしまい、泣き出しそうな表情でじりじりと後退りしている。
「す、すんませんっ!いや…その…」
「謝るくらいならとっとと出ていけ。出ていかぬというのならば、こちらにも覚悟があるぞ」
更に睨みをきかせ、アルザスが『闇陽』を呼び寄せようとしたその時、
「お前さん、ここに居たのか!」
突然庭からひとりの小柄な老人が現れ、二人の…正確には大男の傍へと近寄ろうとした。
「お、おっ師匠さあ〜ん!探していたんですよ〜!」
老人の姿を見るなり大男は涙声で老人に話し掛け、脱兎の如くその場から逃げ出し老人の傍へと駆け寄った。
「何でこんな所へ…!」
だが近くに居たアルザスの姿を見るなり、驚きの表情を浮かべ言葉を止めた。
「旦那様!いつお戻りに…」
老人の言葉に大男はへっ、と言いたげな間抜けな表情を浮かべアルザスと老人とを見比べる。
「フェラクか、この大男お前の知り合いか?」
アルザスは二人に近寄りながら静かに、だが厳しい目付きで睨み付け問いただしていく。
「は、はい。先日の雨で崩れた花壇を直す為にわたくしが呼んだ者で御座います。ジーフェス様の御屋敷で庭の整備を行っておる者のひとりで、決して怪しい者では御座いません」
アルザスの様相から機嫌の悪さを察したらしく、老人フェラクは主人たる彼の前で言い訳し平伏しつつ、隣に来た大男に小声で話し掛けた。
「おい、この御方はこの御屋敷の主人にあられる御方、お前さんもちゃんと御挨拶せんか!」
フェラクの言葉に、大男も慌てて手にしていた荷物を横において平伏した。
「だ、旦那様とは知らなくてその…変な事を言ってしまい…す、すみませんでしたっ!」
大男の言葉に老人はぎょっとした表情をし、
「変な事って…お前さんまさか無礼な事を言ったのかっ!」
「いや…その…見た目が真っ白だからつい…」
「黙れっ!それ以上話せば二人共屋敷から追い出すぞ!」
まさか己自身がうさぎ呼ばわりされたと知られるなど、己の矜持が赦さず、つい言葉を荒げてしまった。
「「し、失礼致しましたっ!」」
恐怖の余りにひたすら平伏し謝罪し続ける二人の様子に、流石のアルザスも冷静さを取り戻し、やり過ぎたと感じるのであった。
「もう良い。さっさと仕事に戻れ」
そう命じ、ふと二人に視線を向け、そこで大男の横に置いてあった荷物に初めて気付いた。
「おい、お前。そこの大男」
「は、はい?」
顔をあげた大男がアルザスに視線を合わせると、彼はついと横に視線を反らした。
「あれは何だ?」
それは先程から大男が持っていた箱で、それをまじまじと見ていたアルザスの視線が鋭く光った。
“あの箱の様子からあれはおそらく菓子箱…”
「こ、これっすか。これはうちで作った菓子で…」
「寄越せ」
「…は?!」
「その箱を寄越せと言ってる!」
呆ける大男の姿に少し苛立ちを感じ、アルザスは声を荒く命じた。
「は、はいっ!」
大男が慌てて箱を掴み手渡すと、彼は迷う事なく箱の蓋を開けた。
箱の中には予想通り白クリームケーキやチョコクリームケーキ、果実のタルトといった美味しそうな菓子等が数個入っていた。
「あ、あの…それは」
何か言おうとした大男の言葉を無視し、アルザスは中にあった白クリームのケーキをひとつ掴むとそのまま口に頬張った。
「あ……」
「だ、旦那様…」
彼のいきなりの行動にただ唖然とする大男とフェラクの二人。
「……」
暫く咀嚼して味を確認し、やがて嚥下すると、突然かっと目を見開き驚きにも似た表情を浮かべた。
「…見つけた、これだ」
「へ?」
「おいお前、この菓子、何処の店の菓子だ?」
いきなりの問い掛けに大男は訳が解らず呆然としたままである。
「何を呆けとる、これは何処の店の菓子かと聞いてる。さっさと答えろ!」
余りに答えない為、苛立ち気味に再度問い掛けると、流石に我に帰って慌てて返事をはじめた。
「そ、その菓子は……」
*
――翌日。
「ラルゴ様、御依頼のありましたもの、全て揃えました」
「ありがとう」
ラルゴが一礼する侍女に礼を言うと、彼女は安心した表情を浮かべた。
“これだけ揃えればどれかひとつはお気に召すものもあるだろう…”
三時のお茶の時間の前、席を外したラルゴは控え室で侍女が準備してくれた、有名菓子店自慢の数十種類もある菓子を見ていた。
「では早速持っていってくれ」
「畏まりました」
ラルゴが執務室に向かうと、後を追うように侍女が菓子とお茶をのせたワゴンを運んでいった。
「宰相様、お茶の時間で御座います」
…何時ものように己の席で書類の管理の仕事をしていたアルザスに声をかける。
「ん」
ラルゴの呼び掛けに、アルザスが手にしていた羽ペンを下ろすと、侍女がワゴンからお茶と沢山の菓子をテーブルに並べる様子が目に入った。
「菓子は要らぬ、全て下げろ」
「ですが…」
主人の思いがけない言葉に戸惑う侍女にラルゴ、
‘コンコン’
その直後、執務室の扉を叩く音がした。
「何者か?」
「あ…その…ここって、さいしょう様の、お部屋っすか?」
ラルゴの問い掛けに聞こえてきた返事は、凄みのある低い声、だが口調はかなりおどおどした様子のものだった。
「何者かと聞いてる…」
「入れ」
ラルゴの声を遮り、アルザスが突然入室の承諾の返事をしたものだからラルゴは驚き主人のほうを見つめた。
「宰相様、この者、宰相様のお知り合いか何かで御座いますか?」
ラルゴの問い掛けにアルザスの答える間も無く扉が開き、そこから大柄で屈強な体つきをし、最凶強面の男…昨日アルザスの屋敷に居たあの大男が箱を持って姿を現した。
「!?」
「ひ…っ!?」
男の余りの様相にラルゴは恐怖に言葉を無くし、侍女に至っては軽く悲鳴をあげたかと思うとその場に腰を抜かしてしまった。
だがアルザスは平然とした様子で椅子から立ち上がり大男に近付いていった。
「あ、さいしょう様…、頼まれたお菓子、持ってきました」
「ご苦労」
そして大男から箱を受け取ると蓋を開け、中身を確認すると満足げに頷いた。
「確かに。明日もまたこの時間に同じものを持ってきてくれ。
あと支払いは月末に纏めて持ってくるが良いな」
「へい、ありがとうございます」
大男は地の底から響くような声で礼を言うと一礼して、少しおどおどした様子で部屋から出ていった。
「「………」」
突然の出来事に呆けたままのラルゴと侍女を完全に無視し、アルザスは大男の持ってきた箱を手にソファーに腰掛け、準備されていた高級菓子の山を邪魔といわんばかりに脇に避け、箱を開けると中身を…真っ白なクリームに覆われたカットケーキを、あのホワイエを取り出した。
そして皿にのせるや否や、フォークで綺麗に切り取ると己の口に含んだ。
ゆっくり咀嚼しながら、その表情はうっとりとなっていく。
「これだ、此れこそが私の求めていた味…」
“ああ、このコクがあるのに口当たりの優しいクリームにきめ細かくしっとり柔らかなスポンジ、そして二つの味を引き立てるベリージャム。
これだ、此れこそが私の求めていた味そのもの…!”
満足したような恍惚とした表情を浮かべながら、アルザスは茶も飲まずに一気にホワイエを完食するのであった。
「…………」
“い、一体何が…?”
二つ目のケーキを取りだし満足げに食し始めた主人の様子を、秘書のラルゴと若い侍女はただただ呆然と見ているだけであった。