第11章Ⅷ:師の教え
「どういう事よ!サーシャとジーフェスがアクリウム国を追放だなんて!ジーフェスはともかく、同じ血筋の妹を追放するなんて、女王陛下は一体何を考えておられるの!」
メリンダは二人の追放の件を聞くと今日の仕事を全て断り、急いでサーシャの居る部屋にやって来るなり、怒り心頭叫びだした。
「メリンダ姉様、そんな大声で叫んだら、誰かが聞いてたら大変な事になりますわ」
サーシャは慌てて、しれっと酷い事を言いながらも怒り狂う姉を窘める。
「そうですよメリンダ様、あんまりですよね!サーシャ様やジーフェス様がそんな、女王陛下に仇成す事をする訳がないのに!」
だが反対側では侍女のナルナルが、こちらも怒りに叫びながら二人にお茶を運んできた。
「ナルナル、貴女までお止めなさい。誰かが聞いてたら女王陛下の反逆者として捕らえられてしまうわよ」
「構うものですかっ!…あんまりです、今までの仕打ちも酷いものでしたが…追放だなんて…」
最後のほうは沈みがちな声色になり、ナルナルは思わず泣き出していた。
「ナルナル、私は大丈夫よ。確かに私はアクリウム国を追放されるけど…戻る国があるわ、私を受け入れてくれる人々が居るわ」
「サーシャ様…」
二人が怒りや悲しみにくれる中、当の本人のサーシャの表情は故郷を追われた哀しみや怒りは全くなく、むしろいつもより温かな優しい微笑みに満ちていた。
「私はもうジーフェス様の妻なの。フェルティ国が私の、もうひとつの故郷なの。フェルティ国には私を待ってくれる人が沢山居るわ」
「サーシャ」
「サーシャ様…」
「だから心配しないで、私は大丈夫」
サーシャの凛とした自信に満ちた態度に、メリンダもナルナルもはっきりと理解するのだった。
「サーシャ様、本当に良かったです。サーシャ様が善き御方と出逢えた事に…フェルティ国に、ジーフェス様に感謝します」
「ナルナル…」
「そうね、ちょっと頼りなさげな処もあるけど、彼は本当にサーシャを大切にしてくれてるみたいだしね…」
「姉様」
「最初はサーシャがフェルティ国に嫁ぐなんて、『神託』の内容に不満もあったけど…
結果的に良かったわサーシャ、お互いに認めあい信じあえる相手に出逢えて」
「ええ」
にっこりと穢れの無い微笑みを浮かべる妹に、メリンダは安堵するのと共に少し羨ましさも感じるのであった。
“サーシャとジーフェス、きっかけは政略結婚だったけど、今はお互い強い絆で結ばれているのね。
でも私には…本当の私を見てくれて認めてくれる人は、私の周りには居ない…”
『貴女はその年齢にしては相当な努力をし、その努力に見合った実力を持っておられる。
そこいらに転がっている親の七光りのぼんくら官僚や私欲剥き出しの強欲大臣よりは遥かに優れていると私は思うがな』
ふとメリンダの脳裏に浮かんだのは、かつて言われた自分への評価の言葉と、その評価を下した人物の姿。
「!?」
“ち、違う。あの人は違うわ!
そ、そんな事…有り得る筈が無いわ!”
慌てて妄想を振り払おうとぶんぶんと頭を振るメリンダ。
「どうしたの姉様?」
突然の行動にサーシャが心配そうにメリンダに尋ねてきた。
いつの間にか席を外したらしく、ナルナルの姿が無い。
「べ、別にあの人の事を思い出していた訳じゃ無いわよ」
「?」
畑違いの話に訳が解らず首を傾げるサーシャの姿に、メリンダははっと我に帰った。
「い、いえ…何でもないわ。
ところでジーフェスの姿が見えないけど、何処に行ったの?」
慌てて話題を変えようと別の話をふると、サーシャはああという表情で答えるのだった。
「ジーフェス様なら朝からマルガレータ様の診察と、あとは医師団に治療の引き継ぎをしに行ってるわ。もしかしたら昼過ぎまでかかるかもしれないって…」
*
「ここはどうですか?痛いですか?」
ジーフェスの問い掛けにベッドで横になったままのマルガレータは無言で首を横に振った。
「そうですか」
――ジーフェスは朝一番からマルガレータのもとに来て彼女の診察を行っている。
ずっと彼女に付き添っていた父親のヤルドは外せない業務があるとかで席を外している。
傍らにはアクリウム医師団が数名居て、彼の診察の様子をじっと見守り、中には手帳に書き込みをする者まで居る。
「熱は昨夜よりは上がってますが傷口も炎症が有りませんし他の部位の麻痺や痛みも無いので大丈夫でしょう。
熱は一過性のものとは思いますが念のため定期的にこの薬を服用させて下さい。
あと傷口は一日三回はガザ等取り替えて、抗菌薬を一日一回服用させて下さい」
「了解致しました」
若い医師団の返事にジーフェスはほっと安堵の息をもらした。
国外追放を受けたジーフェスに皆が複雑な視線を向けるのに対し、当の本人は至って平然とした様子で診察・引き継ぎを行っていく。
「あと傷の件ですが、適切な処置を行っても恐らく首頸部を中心に瘢痕になって跡が残るでしょう。
若い女性で且つ美人だった御方なので、見た目の変化が気になるかと思いますので、その辺りの心の支えもお願い致します」
「それは私にお任せ下さい。私は心理学による治療も行っております」
医師団の中でも唯一の女性がそう告げてきた。
「それは心強い。是非ともお願い致します」
女性に頭を下げお願いすると、ジーフェスは安心したように顔をあげて一団を見回した。
「ジーフェス殿、その…」
「大丈夫、患者に何か異変があっても、皆さんの実力でしたら解決出来る筈です」
「……」
「ざっとで申し訳ありませんが、後は宜しくお願い致します」
そう告げて頭を下げると、ジーフェスは何か言いたげな医師団の皆にそれ以上声をかけず、無言のままの部屋を出ていったのだった。
*
――サーシャの待つ部屋に向かう途中、窓からの明るい陽射しにジーフェスは目を細めた。
“陽射しが強いな。今日は暑くなりそうだな”
そんな考えをしていた彼の前に、突然ある人物が現れた。
「ジーフェス殿」
「貴方は」
それはアクリウム医師団の長である男であった。
「貴殿と二人きりで話をしたいのだが、宜しいかな?」
「……」
*
「すまぬな、散らかっていて」
「いえ、大丈夫です」
――医師団の長の男に連れられ、ジーフェスは病院の奥にある男の私室兼書斎に来ていた。
周りに山積みになった医学書を倒さないよう避けながら、二人は部屋の中にある小さなソファーに腰掛けた。
「こんなものしか無いが、すまぬな」
男は隅に置かれた棚の中からコップと茶色の液体が入った水差しを取り出し、中身をコップに注いで手渡した。
「頂きます」
ジーフェスが口をつけたそれは生温いお茶らしく、だがフェルティ国で飲まれる紅茶とは少し違って渋みと苦味が濃いものだった。
「そういえば自己紹介が未だでしたな。儂はアクリウム医師団の長をしているガーランドと申す。昨日は知らなかったとはいえ貴殿に無礼な発言等、誠にすまなかった」
そう言って頭を下げるガーランドにジーフェスは慌てた。
「いえ…俺…わたしのほうこそ、生意気な事を言ってしまって…」
「いや、ジーフェス殿が手術しなければマルガレータ様は助からなかった。我がアクリウム医師団にも出来なかった高度な手術を、貴殿は見事にやり遂げた。実に素晴らしい手術でした」
「いや、そんな…」
余りに称賛されてしまい、褒められ慣れないジーフェスは照れ隠しに少し俯きがちになってしまう。
「まだお若いのにその手術の腕前の持ち主…もし宜しければ貴殿にその技術を授けた医師の名を教えて頂けぬだろうか?」
「え?」
いきなりの事でジーフェスは咄嗟にそう答えていた。
「師匠の事を、ですか?」
返事を返すジーフェスにガーランドは黙って頷いた。
「儂は長い事医師をしているが、あれほどの高度な技術を持った医師を見たのは貴殿で二人目なのだよ」
「二人目?」
「ええ、貴殿と…もうひとりは、かつてこのアクリウム医師団の長を務めていた伝説の医師のバラムー様…」
「!?」
その名前を聞いた途端、ジーフェスの身体が微かに震えた。
「やはり…貴殿に医師としての手解きをされたのはバラムー様でしたか」
だがガーランドの言葉にジーフェスは首を横に振った。
「いえ、違います。確かに名前が似ていて少し驚きましたが、俺の師匠の名はバランと言います」
「バラン…」
「ええ、容姿もアクリウムの民と違っていて俺達程では無いですが肌は浅黒く、髪も瞳も黒色でしたよ。まあ髪は俺が医師の修業を始める頃には全部真っ白になってましたけど…」
だがジーフェスの発言に、ガーランドは目を見開き驚きの表情を露にした。
「浅黒の肌に、黒髪の黒い瞳…ですと…!
ジーフェス殿、つかぬ事を御聞きするが、そのバランという御方の左足の指…親指はどのような様子でしたか?」
「左足の親指ですか?潰れて爪が無かったですね。
何でも幼い時に指の上に重い荷物が落ちて骨と爪が砕けてしまい、それ以来爪が生えなくなったと…」
ジーフェスの言葉に、いよいよガーランドの表情が強張り、身体はかたかたと震えだしていた。
「…間違いない、バラムー様だ」
「え?」
「バラムー様です!ジーフェス殿、貴殿の師匠であられるバラン殿はバラムー様と同一人物に間違いありません!」
「ガーランド殿」
「ああ!何という事だ!バラムー様が生きておられた!生きて、フェルティ国に亡命してその素晴らしき医療の技術を若者に引き継いでおられた!
それでジーフェス殿、バラムー様は…バラン殿はフェルティ国の何処におられるのですか?」
笑顔を浮かべ、やや興奮気味に話すガーランドに対し、ジーフェスは俯きがちになって表情を曇らせた。
「師匠は…バラン師匠は三年前に亡くなりました」
「亡くなった…」
その言葉から、先程までの喜びようから一変して、ガーランドは呆然としたままがっくりと肩を落とした。
「そうか…亡くなられたのか…」
――それきりお互い何も語らず、暫し沈黙が続いていたが、
「ガーランド殿、もし宜しければその…師匠の事を、いえ、バラムー様の事を教えて頂けますか?」
突然のジーフェスの問い掛けに一瞬驚いたガーランドだったが、やがて一息つくとぽつりと語りだした。
「バラムー様…貴殿の師でもあられるバラン殿は医学に秀でておられ、かの御方にかかればどんな難病もたちまち治し、困難な手術も失敗する事なく簡単にやり遂げる、正に伝説の医師だった」
「ええ、俺も幼い時に他の医師が手に負えない難病を負い、バラン師匠に治して頂きました。
それに感動して俺は半ば強引に師匠に弟子入りして医学を学びました」
「そうでしたか…いや、儂も似たようなもので、バラムー先生の弟子になって医学を学んだが…如何せん先生の教えは難しく更に厳しく、結局半分も儂の身にはならなかったよ」
「解ります。俺もよく叱られ叩かれ酷い目に遭いました」
お互い顔を見合せ、ははは、と苦笑いを浮かべていたが、ふとガーランドの表情が陰りを見せた。
「…だがある日、先生のもとに女王陛下直属の臣下団が訪れたのだ。
それ以来、何故か先生は人が変われたようになられた」
「人が、変われたように?」
「そうだ、突然仲の良かった奥方と離縁され、今まで率先して仕事をされてたのに徐々に仕事を休みがちになり、弟子への教鞭もしなくなってしまった。
始めのうち儂らは王宮の者が先生に無理難題を押し付けたのだと考えた。先生でも出来ぬ難病の治療を行えと命じたのだと考えた」
「でも、それなら該当する患者の診察をする筈では…」
「そうだ。でも先生は患者を診るどころか、遂に部屋から一歩も出なくなってしまわれた。
儂らも何とか先生から理由を聞いて手助けしたいと思い話をしたのだが、何かに怯えたようになって一言も話してくれず、結局儂らの一方通行にしかならなかった」
「……」
「そしてある日の夜、この建物の裏庭で、先生は…焼身自殺されたのだ」
「!?」
衝撃の告白に、ジーフェスは息を詰まらせた。
「儂らが気付いた時は既に先生は激しい炎に包まれたままその場に倒れていた。
急いで火を消したが、先生はほぼ全身真っ黒焦げで最早人の形すら留めて無かった…。
辛うじて残ってた足の指の怪我の痕と部屋に遺された遺書から、儂はそれが先生だと判断したのだ」
「何故、焼身自殺など?」
「…後から知ったのだが、先生は女王陛下からある組織への加入を命じられ、悩んでいた様なのだ」
…どきん。
ガーランドの一言に、ジーフェスの胸が嫌な響きをたてた。
“ある組織の加入…”
「その組織とは…一体?」
何故か冷や汗が止まらず、口内は緊張で渇き、唇を舐めながら低い声で尋ねると、ガーランドは暫く黙ったままであったが、やがて辺りを見回してぽつりと語りだした。
「…王家直属の暗殺部隊『黒水』だよ」
「!?」
“暗殺部隊、『黒水』!?”
ジーフェスの脳裏に、かつての闇の歴史が思い浮かんできた。
『お前の知識のお陰で暗殺の効率が上がった』
『正にジーフェス様々だな』
“やめろ、止めてくれ!俺は人を殺す為にこの知識を得た訳では無い!”
「暗殺、部隊…」
「そうだ。医学と薬学に通じた先生の知識を殺人に利用しようと考えたのだろう。
だが正義感と責任感の強い先生だからこそ、この勧誘に大いに悩まれたのだ。
組織に入れば先生の持つ医療技術で大勢の人々の生命が奪われる。
もし断れば家族や大切な人々を人質に取られる、もしくは先生の医療技術を受け継いだ者、つまり儂ら弟子が部隊に誘われる。
だから先生は奥方と離縁され、儂ら弟子に教えをするのを止められたのだよ」
ガーランドの言葉は、ほとんどジーフェスの耳には届いて無かった。
“師匠も、俺と同じように暗殺部隊に勧誘され、人を生かす為の技術で人を殺すように言われた!”
「儂ら弟子は大いに悲しんだ。先生がこの様に深く悩んでいたとも知る事が出来ずに悔やんだ。
もっと早くに気付いていれば先生を助けられたかもしれないと…。
だが、先生は生きておられた、生きてフェルティ国へと亡命されて、貴殿に先生の技術が受け継がれていた…ジーフェス殿?」
ガーランドは呆然としているジーフェスの姿を見て、不思議そうに声をかけた。
「あ…は、はい」
「先生の素晴らしい医療技術は喪われなかった。貴殿に受け継がれて、また他の者へと受け継がれていく…」
興奮したようにガーランドは話を続けるが、ジーフェスはほとんど聞かずに、かつてバランから言われた言葉を思い出していた。
『ジーフェスや、儂はお前に儂の持てる全ての知識と技術を教え、お前はそれを全て受け継いだ。
良いなジーフェス、その技術、人々の幸せの為に使うのだぞ。決して私利私欲や人々の不幸の為に使うでないぞ』
“師匠は俺と違って暗殺部隊への誘いを断った。己の地位や名誉、細君や故郷を、全てを捨ててまで拒否した。
そして、己の信念を、医師としての信念を貫かれた…”
『何故だ、何故医療の技術を使って人を殺したのだ!この馬鹿者!医療の技術は人を生かす為のものであって人を殺すものではない!』
あの時、憎い男を殺した直後の師匠の顔。
それは怒りではなく、深い哀しみと激しい後悔の表情。
『破門だ!ジーフェス、医師としての禁忌を犯したお前は破門だ!二度と儂の前に姿を見せるな!』
そして黒い瞳からは一粒の涙…。
“俺は、俺は師匠が全てを捨ててまで守ってきたものを、師匠の思いを裏切ってしまった。医師としての誇りを粉々に打ち砕いてしまった…
俺は…俺には医師の名を語る資格は無い!この技術を使う資格など、無いんだ!”
「ジーフェス殿、貴殿はアクリウム国を追放されるが、いつか我が医師団を貴殿に派遣しても宜しいかな?貴殿のその素晴らしい技術を、他の者にも伝えて欲しいのだ」
「…すみません、それは出来ません」
溢れだす感情の嵐を必死で抑え、ジーフェスはただ一言告げて断った。
「何故です?何故教えられぬと…」
今の彼には困惑するガーランドの顔さえ、まともに見れる余裕もない。
「すみません…支度があるのでこれで失礼致します」
「ジーフェス殿!?」
ガーランドの制止を振り切り、ジーフェスは逃げるようにして部屋から出ていった。
背後から何か言われたが、その言葉を無視し、サーシャの待つ部屋へと向かう。
小走りで駆けるジーフェスに、炎(=夏)を思わせるような暑い陽射しが照りつける。
“俺は、誤解していた、舞い上がっていた!
大手術を成功させたからといっても俺の罪は消えないんだ!
俺は、俺は師匠の教えを無視し禁忌に手を染めた罪人。それは、決して消える事の無い事実!”
汗なのか何なのか、彼の身体を頬を、生暖かい水が流れ落ちている。
やがて目的の部屋に着いたジーフェスはノックもせずにいきなり扉を開けた。
「ジーフェス様!?」
部屋で独り荷造りをしていたサーシャは突然の物音に驚き、そしてジーフェスの様子を見て更に驚いた。
その姿は、身体じゅうに汗をかいて息を弾ませ、翠の瞳からは止めどなく涙が溢れていた。
「何があったのですかジーフェ…!?」
そう尋ねようとしたサーシャの身体を、ジーフェスが抱き締めた。
そしてそのまま、何も言わずにただ嗚咽を洩らしながらジーフェスはサーシャの肩に涙を溢す。
「ジーフェス様…一体何があったのですか?」
だがサーシャの問い掛けにもジーフェスは無言でただ涙を溢すだけ。
「まさか…マルガレータ様の容態が芳しくないとか!?」
その言葉に彼は微かに身体を震わせたが、無言で首を横に振った。
「では…どうして?」
再度のサーシャの問い掛けにも、ジーフェスはただ微かな嗚咽を洩らすだけである。
「……」
理由は解らないが、だけど彼の様子から強い哀しみを感じたサーシャはそれ以上何も言わず、何も聞かず、ただ泣いているジーフェスをそっと抱き締め返すのであった。
*
「御世話になりました」
――翌日、朝食を済ませたジーフェスとサーシャはフェルティ国に戻る為に用意された馬車に乗り込んでいた。
「サーシャ様、ジーフェス様…」
見送りに来てくれたナルナルの表情がみるみるうちに崩れ、泣き顔に変わっていく。
「泣かないでナルナル…」
「でも…寂しいです。もうサーシャ様達に逢えないなんて…」
「……」
多忙を極める王宮務めのナルナルには、フェルティ国に行くだけの長期休暇はなかなか取れないのだ。
「その替わり私がサーシャ達に逢いに行くわ」
ナルナルの隣に居たメリンダが二人に声をかけた。
この二人以外に見送る者は誰も居ない。
「ナルナル、姉様。お見送りありがとう」
「ありがとうございます」
昨夜かなり泣いたせいなのか、ジーフェスの眼は少し腫れぼったくなっていて、恥ずかしげに俯きながら二人に礼を告げる。
「お、お待ちください!」
突然遠くから叫び声がしたかと思うと、ひとりの初老の男性が四人の傍まで駆け寄ってきた。
「貴方は確かヤルド大臣の…」
メリンダにサーシャはその初老の男性に見覚えがあった。
「は、はい、わたくしはヤルド様に御仕えしております者、旦那様からジーフェス様にこちらをお渡しするようにと頼まれました次第です」
そう言って従者はジーフェスに白い封筒を手渡した。
「ではわたくしはこれで…」
周りの目を気にしてか、従者は封筒を手渡すとそそくさと立ち去ってしまった。
「何かしら?手紙のようですね…」
ジーフェスの手にある封筒を見ながらサーシャがそう呟く。
「そうだな…」
ジーフェスが封を開けると、中には一通の手紙が入っていた。
不思議に思いながらも中身を開くと、家紋入りの便箋に短く一言だけ書かれていた。
『ジーフェス様
時間が無く紙面での言葉となる事、失礼する。
我が娘の生命を助けて頂き、誠に感謝致す。
同時に夜会の席での非礼、御詫び申す次第である。
今後の貴殿に幸あれ。
ヤルド=マラケシュ』
「……」
ほんの短い文章であったが、今まで卑下され蔑まれた己を認めてくれた内容に、ジーフェスの胸が微かに熱くなってきた。
“俺は…!”
「良かったですねジーフェス様」
サーシャはそれだけ言って、手紙を握るジーフェスの手にそっと自分の手を添えた。
「…ああ」
たった一言、感謝の一言が、ジーフェスの昨日からの陰鬱な気持ちを少し晴らしたのであった。
“俺は…俺の進むべき道は、でもまだ俺は…”
「さて出発しますよ!」
突然馭者からそう告げられ、ジーフェスは慌てて便箋を封筒にしまうとサーシャと一緒に外に居るナルナルとメリンダのほうを振り向いた。
「サーシャ様御元気で!」
「サーシャ、またそちらに行くからね!」
「ナルナル、姉様!」
馬車がゆっくりと動きだし、二人の姿が次第に遠ざかるのを見送りながら、サーシャは姿が見えなくなるまで手を振り続けたのだった。
「サーシャ…」
ジーフェスが声をかけると、サーシャはくるりと振り向いてにっこりと笑顔を見せた。
碧い瞳に微かに涙を滲ませて。
気丈に振る舞おうとする彼女の姿に、ジーフェスは胸を痛めた。
「大丈夫です。メリンダ姉様にはまたいつか逢えます。それに…」
「それに?」
「私にはもうひとつ故郷が出来ました。フェルティ国のジーフェス様という故郷が…」
「サーシャ…」
彼女の言わんとする処を理解したジーフェスはただ嬉しくて、愛しくて思わず彼女を抱き寄せた。
「ああそうだ、フェルティ国がサーシャのもうひとつの故郷だ」
「ええ」
「帰ろう、二人で一緒に、俺達の故郷へ」
ぎゅっとお互い手を握り締め、身体を寄り添いながら二人を乗せた馬車はアクリウム国を後にするのであった。
――ジーフェスとサーシャを乗せた馬車がアクリウム国の国境を超える時分、
アクリウム王宮の奥深くに存在する部屋…大巫女が‘神託’を受ける占星の間では、大巫女とジェスタ女王の二人が居た。
「…サーシャは、ジーフェスと共にこの国を去っていった…」
「大巫女様」
「見える…見える!…次にサーシャがこの国に戻る時、我等が神がお戻りになられる。
力の弱った我が国に絶大なる力をもたらす我等が神が!」
「……」
「その時は遠くない。
サーシャが真の力を、真の正体を取り戻したその時、我が国は再び世界の頂点に立つのだ!」
「…御意」
大巫女の‘神託’にジェスタ女王は跪き、頭を下げるのであった。